内村光良の生い立ちと若い頃|人吉の映画少年が南原清隆と芸人になるまで

人物プロフィール

本名
内村光良
生年月日
1964年7月22日
身長
169cm
血液型
AB型
出身地
熊本県 人吉市
コンビ・グループ名
ウッチャンナンチャン
相方・メンバー
南原清隆
結成年
1985年
所属事務所
マセキ芸能社
芸人活動開始年
1985年
師匠
内海好江

『世界の果てまでイッテQ!』などで司会を務める一方、NHK『LIFE!~人生に捧げるコント~』では今も自らコントの中に立ち続けている内村光良さん。

長くテレビの第一線にいるため、最初からお笑い一筋だったようにも見えますが、若いころに目指していたのは芸人ではなく映画監督でした。

熊本で過ごした高校時代には、実家の酒屋で働いて機材をそろえ、自分で8ミリ映画を撮って友人たちの前で上映しています。

その映画少年が上京して映画学校へ入り、授業でたまたま南原清隆さんと漫才をしたことから、お笑い芸人への道が開きました。

内村さんがどんな環境で育ち、なぜ映画を撮り始め、南原さんとどうやってウッチャンナンチャンを結成したのか、若手時代からブレイクまでを順番にたどります。

内村光良の生い立ちと家族|熊本で映画に夢中になった少年時代

内村光良さんは1964年7月22日生まれで、所属するマセキ芸能社の公式プロフィールでは熊本県人吉市出身と紹介されています。

子ども時代から現在まで何度も話に登場するのが、故郷の人吉と映画、そして家族です。

酒屋を営む家族のもとで育った

内村さんの実家は酒屋を営んでおり、高校生になってからは本人も店の仕事を手伝っていました。

この「酒屋の息子」という環境は、後に若手芸人として上京したときにも残っています。

2022年のインタビューでは、東京で暮らしていたころ、実家から毎月ビールのミニ缶1ケースやおつまみが送られてきたと明かしています。

「私は酒屋の息子だったので、当時ビールのミニ缶をひとケース毎月送ってくれた」

ORICON NEWS

芸人を目指すと決めたときも、両親から強く止められたわけではありませんでした。

本人によれば、家族の反応は「やりたいようにやりなさい」という距離感だったそうです。

成人してからの仕送りまで含めると、進路を無理に変えさせるのではなく、東京へ出た息子を熊本から支えていた様子が見えてきます。

中学生のころ『ロッキー』やチャップリンに衝撃を受ける

内村さんがお笑いより先に強く惹かれていたのは映画でした。

本人は後年、中学1年生のころにチャップリン作品や映画『ロッキー』などを見て大きな衝撃を受けたと話しています。

映画を見る側だけではなく、「自分でも撮りたい」と考え始め、やがて映画監督を目指すようになりました。

「当時はまさか自分がお笑い芸人になるなんてまったく思っていませんでした(笑)」

ORICON NEWS

一方で、家ではテレビもよく見ており、欽ちゃんやドリフターズのお笑いも好きだったと本人は語っています。

この段階では「芸人になる」のではなく、映画とテレビのお笑いをそれぞれ楽しんでいる少年でした。

人吉高校時代|酒屋で働いたお金で8ミリ映画を4本制作

映画への興味が具体的な行動に変わったのが、熊本県立人吉高校に通っていた時期です。

現在の内村さんにつながるエピソードの中でも、高校時代は本人がかなり詳しく振り返っています。

実家の酒屋でアルバイトし、撮影機材をそろえた

2023年、人吉高校の創立100周年記念式典に出席した内村さんは、高校生だったころの映画制作について在校生の前で話しました。

映画を撮りたいと思っても、カメラだけで作品を完成させられるわけではありません。

内村さんは実家の酒屋でアルバイトをし、そこでためたお金でカメラだけでなく、映写機や編集機まで購入しました。

高校時代に制作した8ミリ映画は、合計4本にのぼります。

「高校時代に合計4本の8ミリ映画を撮りました」

FNNプライムオンライン/テレビ熊本

映画が好きだったというだけではなく、自分で働いて必要な道具を手に入れ、撮影から編集、上映まで実際に動いていた高校生でした。

友人たちの前で上映し、笑っている様子を見るのが好きだった

完成した映画は、自分だけで見て終わりではありませんでした。

友人たちの前で上映し、内村さん自身は映写機の近くから、観客が作品を見て笑っている様子を眺めていたといいます。

自分で作ったものを人前に出し、反応を直接見る。

この経験は、お笑い芸人になる前からすでに高校時代にありました。

ただし、このころ本人が目指していた職業はあくまで映画監督で、卒業後もその方向へ進みます。

映画監督を目指し、高校卒業後は東京の映画学校へ

高校を卒業すると熊本を離れ、映画を学ぶために上京しました。

進学先は横浜放送映画専門学院の演劇科で、マセキ芸能社の公式プロフィールには1985年卒業と記載されています。

映画監督になろうとして熊本から出てきた内村さんにとって、この学校で出会った人たちが、その後の人生を大きく変えることになります。

横浜放送映画専門学院時代|映画監督志望から芸人への転機

1983年、内村さんは横浜放送映画専門学院で、後に相方となる南原清隆さん、長い友人関係となる出川哲朗さんらと出会いました。

しかし、入学した時点で南原さんと漫才コンビを組もうと考えていたわけではありません。

出川哲朗とは入学直後から映画の話で距離が縮まる

出川さんと内村さんは、学校へ入ったばかりのころから交流が始まっています。

出川さんが後年振り返ったところでは、内村さんは自己紹介の段階から映画『ロッキー』が好きなことが伝わる学生だったそうです。

二人は帰宅途中に将来の話をするようになり、出川さんが劇団を作りたいと話した際には、内村さんも同じ方向に興味を示しました。

この時点では、お笑いコンビよりも映画や芝居を作る仲間としての関係が先にできています。

2年生の漫才授業で南原清隆とペアを組む

内村さんの進路が大きく動いたのは、学校2年生になった初夏でした。

授業の一環として漫才をすることになり、そこで南原清隆さんとペアを組みます。

南原さんは後年、母校の日本映画大学公式ブログで、この時期について自ら振り返っています。

「僕と同じくあまり目立っていなかった内村光良という男と、コンビを組むことになりました」

日本映画大学 公式ブログ

現在の二人から考えると意外ですが、当時は学校内で特に目立つ二人だったわけではなく、最初からいつも一緒にいる親友同士でもありませんでした。

その二人が授業のために組んだことが、ウッチャンナンチャンの始まりになります。

内村が台本を書き、南原のアドリブで笑いが起きた

最初の漫才では内村さんが台本を書き、本番になると南原さんがアドリブを加えたと伝えられています。

予定していた台本から外れた南原さんの動きも会場の笑いにつながり、二人の発表は好評でした。

この漫才を見た特別講師の内海好江さんらから、卒業後も漫才を続けることを勧められます。

さらに卒業前の進路指導でも、芝居より漫才へ進むよう背中を押され、『お笑いスター誕生!!』のオーディションを受ける話が具体化しました。

映画監督になるために入った学校で受けた漫才の授業が、芸人になる直接の入口になったのです。

本人も後年、もともとテレビっ子で欽ちゃんやドリフが好きだったことや、さまざまな出会いの中でお笑いの世界に入っていったと話しています。

ウッチャンナンチャン結成|『お笑いスター誕生!!』へ

学校の授業から始まった二人は、そのままプロの世界へ進むことになります。

ただし、最初から現在の「ウッチャンナンチャン」という名前だったわけでも、デビュー直後から仕事が途切れなかったわけでもありません。

「おあずけブラザーズ」からウッチャンナンチャンへ

学生時代、二人は「おあずけブラザーズ」という名前を使っていた時期がありました。

1985年、卒業を控えて『お笑いスター誕生!!』のオーディションを受け、このころからウッチャンナンチャンを名乗るようになります。

そのため芸歴を整理すると、2年生だった1984年ごろに学校の授業でコンビの原型ができ、1985年の卒業前後からプロとしての活動が本格化したと見ると時系列が分かりやすくなります。

1985年の初挑戦で準優勝し、テレビの仕事が始まる

『お笑いスター誕生!!』へ初めて挑戦したウッチャンナンチャンは、1985年のオープントーナメントで準優勝。

この結果をきっかけに、『オールナイトフジ』『夕やけニャンニャン』などテレビの仕事が入るようになりました。

ところが、舞台で作ったネタを披露することと、テレビ番組でその場の流れに応じて話すことは別でした。

ネタでは結果を出せてもテレビでうまく立ち回れず、増え始めたレギュラーは次第に減っていきます。

一度テレビへ出るところまで進みながら、そのまま売れ続けたわけではありませんでした。

「優勝できなければ辞めよう」と臨んだ1986年

『お笑いスター誕生!!』への次の挑戦では上位に残ったものの優勝には届かず、二人はもう一度大会へ向かいます。

内村さんは2021年、デビュー2年目だったこの時期に、南原さんと一度だけ解散について話したことがあると明かしました。

1986年の大会で「優勝しなかったら辞めようか」と二人で話していたというのです。

結果は第7回オープントーナメントサバイバルシリーズで優勝。

学生時代の授業で偶然に近い形で組んだ二人が、ここで芸人を続ける結果を手にしました。

若手時代|SHA・LA・LAで脚本・演出も担当

『お笑いスター誕生!!』への挑戦と並行しながら、内村さんはテレビだけではない場所でも作品を作っていました。

そこで再び深く関わるのが、映画学校で知り合った出川哲朗さんたちです。

出川哲朗らと劇団を結成し、公演の脚本・演出を担う

卒業後、出川さんを中心とする仲間たちと劇団SHA・LA・LAを結成します。

出川さんは座長を務め、内村さんは公演ごとに脚本・演出を担当しました。

高校時代には映画を撮り、専門学校では演劇と漫才を経験し、若手芸人になった後は劇団で自分の作品を作る側にも回っていました。

芸人としてテレビへ出始めた時期にも、映画監督を目指していたころの「自分で作る」という活動は消えていません。

東京でネタを磨いたラ・ママ新人コント大会

1986年に渡辺正行さんが始めたラ・ママ新人コント大会にも、ウッチャンナンチャンは若手時代から出演しました。

当時の東京では、若手芸人が観客の前で継続的にネタを試せる場所は現在ほど多くありませんでした。

渡辺さんは後年、テレビに出始めていたウンナンも若い客の前でネタを披露できる場を求めていたコンビの一組だったと振り返っています。

テレビ出演が一度減った時期にも、舞台とコントの現場ではネタを作り続けていました。

1987年『冗談画報』から1988年『夢で逢えたら』へ

1987年にはフジテレビの深夜番組『冗談画報』へ出演し、ウッチャンナンチャンと周囲の若手たちが少しずつテレビで知られるようになります。

そして1988年、フジテレビで『夢で逢えたら』が始まりました。

出演したのはウッチャンナンチャンだけではなく、ダウンタウン、清水ミチコさん、野沢直子さんら。

若手が一緒にコントやトークへ取り組む番組で、ウッチャンナンチャンの知名度も大きく上がっていきます。

『お笑いスター誕生!!』優勝だけをブレイク地点とするより、その後のライブや深夜番組を経て『夢で逢えたら』へ進んだ流れを見る方が、若手時代の変化は分かりやすいでしょう。

ゴールデン進出|ウッチャンナンチャンがテレビの中心へ

『夢で逢えたら』でコントを重ねたあと、ウッチャンナンチャンの仕事はさらに大きな時間帯へ移っていきます。

ここからは出演番組をすべて並べるのではなく、内村さんの仕事の形が変わった節目を見ていきます。

1990年『誰かがやらねば!』から『やるならやらねば!』へ

1990年にはフジテレビで『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』が放送され、その後『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』へ続きます。

フジテレビの公式資料では、『やるならやらねば!』は1990年から1993年まで土曜20時台で放送されたコント・お笑いバラエティーとして記録されています。

映画やドラマを思わせる大掛かりなパロディーやキャラクターコントも作られ、学生時代から続けてきた「演じる」「作る」という要素が、ゴールデンタイムの番組へ広がっていきました。

漫才授業から始まった二人でしたが、テレビで大きな武器になったのはコントでした。

『ウリナリ!!』『笑う犬』へ進み、内村個人のコント色も強まる

その後もウッチャンナンチャンとしてさまざまな番組へ出演しながら、内村さんはコントを軸にした仕事を続けます。

1990年代後半には『笑う犬の生活』が始まり、2000年代へかけて内村さん自身のキャラクターコントも数多く生まれました。

フジテレビも後年、内村さんを『夢で逢えたら』『やるならやらねば!』『笑う犬』などで多くのキャラクターを生み出してきた「コント職人」として紹介しています。

若手時代にSHA・LA・LAで脚本と演出をしていた時間と、テレビでコントを作り続ける仕事は、ここで途切れずにつながっていきました。

映画少年だった原点は監督業とコントへ続いている

テレビで人気を得たあとも、内村さんは高校時代から抱いていた映画への興味を手放していませんでした。

芸人として長く活動した後、かつて目指していた映画監督の仕事にも進みます。

2006年『ピーナッツ』で実家の酒屋の記憶を映画へ

2006年公開の『ピーナッツ』で、内村さんは長編映画監督としてデビューしました。

作品にはさまぁ~ず、TIM、ふかわりょうさんなど、それまで仕事をともにしてきた芸人仲間が出演しています。

映画の中には酒屋が登場しますが、この店の描写には熊本の実家で過ごした記憶が使われました。

「ほこりの付き具合とか、手書きで『焼酎フェア』って書いて貼るところとか、実家と同じですね(笑)」

シネマトゥデイ

熊本の酒屋で育った記憶が、約20年の芸人生活を経て、自分が監督する映画のセットや描写に戻ってきました。

その後も『ボクたちの交換日記』『金メダル男』などで監督を務め、映画を作る活動を続けています。

2020年豪雨を経て、故郷・人吉を『夏空ダンス』に残す

2020年7月の豪雨では、人吉・球磨地域が大きな被害を受け、内村さんの両親が暮らす実家も床上浸水しました。

その後、内村さんの中で、復興の途中にある故郷の景色を映像として残したいという思いが強くなっていきます。

監督・脚本を務めた短編映画『夏空ダンス』は、人吉・球磨で全編ロケを行い、2023年に公開されました。

高校生のころ8ミリ映画を撮っていた故郷で、今度はプロの映画監督としてカメラを回すことになりました。

映画のために初めて人吉へ戻ったわけではありませんが、自分の作品の舞台として故郷そのものを撮るという形で、10代のころの映画制作と2020年代の監督業が重なりました。

『LIFE!』と「内村文化祭」で現在もコントを作り続ける

映画だけでなく、内村さんが長く続けているのがスタジオコントです。

2012年に『LIFE!~人生に捧げるコント~』について取材を受けた際には、自分のお笑いの中でもスタジオコントへの思いをはっきり語っていました。

「たぶん一番の得意分野だと思っている」

ORICON NEWS

さらに2017年からは、自ら作・演出を手がける「内村文化祭」を毎年開催しています。

マセキ芸能社によると2026年は10回目となる『内村文化祭’26旅姿』が予定され、内容はコント、歌、ダンス、芝居など、内村さんがその時にやりたいことを形にするライブです。

テレビで司会をする仕事が増えた後も、「自分で作って、自分で演じる」という活動を続けています。

人吉で映画を撮っていた高校生は、映画監督になるために熊本を離れ、映画学校の漫才授業で南原清隆さんと組んだことから芸人になりました。

その後はウッチャンナンチャンとしてコントを作りながらテレビへ進み、やがて高校時代から望んでいた映画監督の仕事も実現しています。

現在もコント、舞台、映画を作る活動が続いており、10代のころに人吉で始めた「自分で作ったものを人に見てもらう」という時間は、形を変えながら残っています。

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