人物プロフィール
女性役を演じるコントや美容への深い知識、そして相方・ジャンボたかおさんとのレインボーで知られる池田直人さん。
2025年には結成10年目でキングオブコント初決勝へ進み、3位に入るまでになりました。
現在の姿だけを見ると、芸人になってから独自のキャラクターを築いていったようにも見えますが、池田さんが人前に立ち始めたのはずっと前で、5歳から高校2年生まで子役を続け、小学生のころには自分で「お笑い部」を作っていました。
さらに中学3年生ですでにNSCを受験し、高校では友人と漫才コンビを組んで大会へ出場するなど、芸人への道は十代のころから具体的に動き始めています。
その後は日本映画大学とNSCを掛け持ちし、おばたのお兄さんとのコンビ「ひので」を経験してからジャンボたかおさんに声をかけ、現在のレインボーへたどり着きました。
池田直人の生い立ちと家族|大阪・吹田でお笑いが身近だった幼少期
池田直人さんは大阪府吹田市で育ちました。
幼いころから家庭のすぐそばにお笑いがあり、客席で芸人を見ることと、自分が人前に立つことの両方を経験しながら成長していきます。
お笑い好きの母に連れられ、梅田花月やなんばグランド花月へ
池田さんがお笑いへ親しむようになった背景には、お笑い好きだった母親の存在がありました。
幼いころから母親に連れられ、梅田花月やなんばグランド花月へ足を運んでいたと本人が明かしています。
なかでも小学2年生のころ、吉本新喜劇で藤井隆さんを見たことは強く記憶に残りました。
歌い、踊り、芝居もする藤井さんの姿を見た池田さんは、自分もこうなりたいと思うようになります。
「小さな頃からずっと自分はお笑い芸人になるものだと思ってました。」
ESSEonline
後年には自らを「ひとりっ子&お母さん子」と話しており、大人になってからも母親との距離は近く、誕生月に旅行をすることもあるほどでした。
5歳から高校2年まで続けた子役|得意だったのはバラエティ
池田さんは5歳から高校2年生まで子役として芸能活動もしていました。
ただし、子役時代について本人はドラマ中心だったとは話しておらず、出演は主にバラエティだったと振り返っています。
ドラマのオーディションではなかなか選ばれず、一方でバラエティでは、幼い池田さんが一言しゃべるだけで笑いが起こるような役回りを経験していました。
小学6年生のころには、夏休みの宿題で石を集めて亀を作った話から「石博士」というキャラクターを与えられたこともあります。
ところが池田さんは「博士だから寡黙な方がいい」と自分なりに役作りをし、あまりにしゃべらなかったため、ほどなくひな壇から姿を消すことになりました。
子どものころから「どう見せればキャラクターになるか」を自分で考えていたことが分かる、池田さんらしいエピソードです。
父・母・祖母との関係|一人っ子として育った家庭
池田さんは一人っ子として育ち、母親だけでなく父親や祖母との思い出も、後の進路に関わっていきます。
父・恵治さんは自動車部品の製造に携わる仕事をしており、池田さんは子どものころ、風呂の中で父から仕事の話を聞くことがありました。
祖母からは後に「家系に大学を卒業した人がいない」と聞くことになり、この言葉が高校卒業後に大学進学を考える一つの理由になります。
小中学生時代|「お笑い部」を作り、中3ですでにNSCを受験
テレビや劇場でお笑いを見るだけだった池田さんは、小学校に入ると自分が笑わせる側へ回り始めます。
その動きがはっきり表れたのが、小学2年生のころでした。
小学2年の入院中に『ごっつええ感じ』を見て、お笑い部を作る
小学2年生のとき、池田さんは扁桃腺とアデノイドの手術を受けるため入院しました。
その入院中、母親が借りてきてくれたのが『ダウンタウンのごっつええ感じ』でした。
手術を控えた池田さんは番組を見ながら、退院したら学校で「お笑い部」を作ろうと考え、それを楽しみに手術を乗り切ったと振り返っています。
退院後は本当に友人たちを集め、学校の中で人を笑わせる活動を始めました。
「小学校でお笑い部をつくってみんなを笑かせてたってところからスタートしていると思います。」
日本映画大学 FULLSIZE
休み時間にはギャグや落語|学校で人を笑わせていた日々
お笑い部を作っただけではなく、池田さんは休み時間になると別のクラスまで回り、自分のギャグを披露していました。
一発ギャグだけでなく、落語を一本覚えて人前で披露したこともあり、応援団長を務めた経験もあります。
高校生になってからは、クラスメートが元素周期表を覚えられないのを見て、元素を順番に覚えるための歌と踊りまで自作しました。
友人たちは笑いながら歌を覚え、テストの点数も上がり、先生からも感謝されたといいます。
「笑わせること」と「人に何かを伝えること」が、学校生活の中ですでに一緒になっていました。
中学で変わった周囲の反応と、中3で挑んだNSC
小学校では「面白いやつ」として知られていた池田さんですが、中学校へ進むと環境が変わります。
二つの小学校区から生徒が集まる中学校だったため、池田さんを以前から知る生徒は周囲へ「こいつ面白い」と紹介してくれましたが、初めて会う生徒には同じテンションが通じませんでした。
授業中の振る舞いを注意されることもあり、本人は中学1、2年ごろについて「生き方が難しかった」という趣旨で振り返っています。
それでも芸人への気持ちは変わらず、中学3年生になると、年上の受験者に交じってNSCを受験しました。
結果は不合格で、当時は「中学生とコンビを組む人はいない」という趣旨のことを言われたそうです。
そこで進学をやめるのではなく、池田さんは高校生活を経験してから、卒業後に改めてNSCへ入る道を選びました。
高校時代|STAND BOXでハイスクールマンザイ近畿地区優勝
高校へ進んだ池田さんは、子役を続けながら、本格的に漫才の舞台にも立つようになります。
芸人になる前の高校生という立場で、すでに大会の緊張感や大きな舞台を経験していました。
友人に誘われて高校生漫才へ|2010年に近畿地区優勝・全国6位
高校1年生のころ、友人から誘われて組んだコンビがSTAND BOXでした。
二人は高校生漫才日本一を決めるハイスクールマンザイへ挑戦し、2010年には近畿地区を勝ち抜いて全国大会へ進みます。
吉本興業の公式プロフィールには、同年の近畿地区優勝と全国6位という成績が記録されています。
池田さん自身は、長く子役をしていたことで舞台上での度胸はあったと話しており、人前に出ること自体はすでに日常の延長にありました。
「芸人になりたい」と考えていただけではなく、高校生の時点で実際に漫才を作り、観客の前で勝負していたことになります。
子役を続けながら、芸人が作る映画に夢中になった高校時代
高校時代には、お笑いと並んで映画への興味も強くなっていました。
特に惹かれたのは、北野武さん、松本人志さん、内村光良さん、劇団ひとりさん、品川ヒロシさんら、芸人が手がける映画でした。
ハイスクールマンザイ全国大会で東京へ行ったときには、北野さんにゆかりのある場所を回り、浅草寺を訪ねたこともあったそうです。
芸人だけでなく「いつか映画を撮りたい」という思いが生まれていたことが、卒業後の進学先を決める際に効いてきます。
高校2年で父を亡くす|後年につながる父との記憶
高校2年生のころ、父・恵治さんが福岡へ単身赴任中に脳梗塞で亡くなりました。
父は47歳で、池田さんは高校生のうちに父親との別れを経験しています。
池田さんの記憶に残っていたのが、父が自動車部品の仕事について話していたことでした。
この記憶はすぐに芸人人生へ結びつくものではありませんでしたが、ずっと後の2021年、父が作った部品の使われた車を探すことになります。
卒業後はNSCへ|芸人になる進路はすでに固まっていた
高校卒業が近づいても、池田さんに「芸人になるか、別の仕事へ進むか」という大きな迷いはありませんでした。
本人が後年語った言葉は短く、はっきりしています。
「本当に芸人以外は考えたことがなかった」
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一方で、高校卒業後すぐNSCだけへ進んだわけではなく、映画への興味と祖母への思いを重ね、大学にも通う道を選びます。
高校卒業後に上京|日本映画大学とNSC東京18期を同時に始める
高校を卒業した池田さんは大阪を離れ、東京で芸人への一歩を踏み出します。
選んだのは、日本映画大学とNSC東京校を同時にスタートさせるダブルスクールでした。
すし店のアルバイトで40万円を貯めて東京へ
上京を前に、池田さんはすし店でアルバイトをして資金を準備しました。
そこで貯めた金額は40万円で、そのお金を手に東京へ向かっています。
中学3年で一度不合格になったNSCにも改めて入り、今度は東京NSC18期生として本格的にお笑いを学び始めました。
祖母の言葉と映画への夢から日本映画大学へ進学
同時に進学したのが日本映画大学です。
進学を考えた背景には、映画を撮りたいという夢だけでなく、祖母が「家系に大学を卒業した人がいない」と話していたこともありました。
池田さんは東京へ行くこと、芸人の道に役立つこと、映画を学べることを重ね合わせ、日本で映画を専門的に学べる大学を選びました。
芸人になるためNSCへ通いながら、もう一方では映画の脚本や演出を学ぶ生活がここから始まります。
NSCの東西合宿でジャンボたかおのネタに驚いた
現在の相方・ジャンボたかおさんも東京NSC18期で、二人は同期でした。
池田さんがジャンボさんを強く意識したのは、東京と大阪のNSC生およそ800人が集まる合宿だったと、2026年の対談で明かしています。
当時ジャンボさんは「感動ピスト」というコンビで活動しており、選ばれた組だけが大勢の前でネタを見せる場で、太ももを強くたたくパワフルなネタを披露しました。
池田さんは、技術だけでは説明できない力で会場が大きく沸く様子を見て、「こんな笑わせ方をする人がいるのか」と驚いたと振り返っています。
一方のジャンボさんは、その合宿時点では池田さんをはっきり認識していませんでした。
後にクラス分けの中で池田さんを見た際には、19歳だった池田さんについて、素朴な雰囲気の中にも「華がある」と感じたそうです。
この時点では、二人とも別々の相方と活動しており、将来コンビを組むとは考えていませんでした。
映画大学でコメディと脚本の書き方を学ぶ
大学では周囲の学生がそれぞれ特定の映画ジャンルに詳しく、池田さんも自分なら何を強みにできるかを考えるようになります。
そこで選んだのがコメディ映画で、モンティ・パイソンなどの作品をまとめて見るようになりました。
実習でコメディ要素が必要になると、周囲から相談されることも増えていきます。
大学2年生では脚本コースへ進み、いきなり文章を書き始めるのではなく、最初に物語の設計図となるプロットを作ってから書く方法を学びました。
それまで途中で手が止まっていた脚本も、プロットを作ると書き進められるようになり、池田さんは学校で自分の知らなかった能力を見つけてもらったように感じたと話しています。
おばたのお兄さんと「ひので」結成|大学と若手芸人生活を両立
NSCを卒業すると、池田さんの生活は大学生と若手芸人の二本立てになります。
最初にプロのコンビとして活動した相手が、後にピン芸人として知られるおばたのお兄さんでした。
NSC卒業後に「ひので」を結成し、若手劇場の上位へ
二人は「ひので」を結成し、2013年にデビューしました。
スタートはかなり順調で、池田さんによると卒業から約1年でヨシモト∞ホールのランキング最上位まで上がり、同期の中でも早い時期に単独ライブを開催しました。
20歳ごろには出待ちの列ができるほどファンも増え、池田さん自身も当初は「このまま売れる」と感じていました。
ネタ作りは池田さんが担当していました。
大学、ライブ、深夜バイトを行き来した生活
劇場で順位を上げていく一方、池田さんは大学にも通い続けていました。
大学2、3、4年生と、芸人としての1、2、3年目が重なり、ライブがない日にもネタ合わせが入ります。
さらに生活費を稼ぐため、居酒屋、漫画喫茶、カラオケなど深夜に働けるアルバイトもしていました。
新百合ヶ丘で暮らし、大学へ行ったあと夕方5時半ごろからライブに出演し、夜9時ごろに舞台を終えるとそのままアルバイトへ向かい、朝5時の始発で帰宅して少し眠り、再び大学へ行く日もありました。
大学、ネタ合わせ、ライブ、深夜バイトを一日の中でつなぐ生活を続けていた時期です。
人気があっても感じ始めた違和感|賞レースで結果が出ない日々
劇場で上位に入り、ファンも増えていた「ひので」でしたが、池田さんの中では次第に違う感覚が強くなっていきました。
賞レースでは結果が出ず、客席前方の自分たちを好きなファンには受けても、舞台袖の芸人たちが笑っていないように感じたといいます。
2年目には「この人気だけで終わるのではないか」と考え始め、3年目になるころには、営業はできても大きく売れる形にはならないのではないかという不安が強くなっていました。
同時にコンビ仲も悪化し、お互いがより良くするために動く状態ではなくなっていきました。
関係が悪化し、2016年1月に「ひので」解散へ
2016年1月7日、「ひので」は同月31日をもって解散することを発表しました。
当時の発表では二人とも芸人を続けることが伝えられ、池田さんは池田直人、おばたさんは当時「おばたかずき」としてピン活動へ進みます。
池田さんは後年、ネタへの手応えの弱さだけでなく、コンビ仲が悪くなっていたことも本人の言葉で明かしています。
大学でも卒業制作の単位が残っており、コンビ解散後には半年ほどお笑いを休み、卒業制作へ集中しました。
大学卒業までには結果的に4年半を要しています。
ジャンボたかおへ声をかけ、2016年2月にレインボー結成
「ひので」が終わったあと、池田さんが次の相方として考えたのがNSC時代から知っていたジャンボたかおさんでした。
吉本興業の公式プロフィールでは、レインボーの結成年月は2016年2月とされています。
NSC時代から知っていたジャンボを新しい相方に選ぶ
ジャンボさんも当時まで別コンビ「感動ピスト」で活動しており、二人はそれぞれ別のコンビを経験してから一緒になりました。
池田さんは「次がダメなら芸人を辞めよう」と考えるほどの状況にあり、その中で自分からジャンボさんへ声をかけました。
NSCの合宿で感じたパワーや、同期として過ごす中で見てきたものが、ここで現在の相方とのコンビ形成へつながります。
結成直後に交わした「どうなりたい?」という会話
レインボーを結成したころ、池田さんはジャンボさんに「どうなりたい?」と尋ねたと、二人が後年の対談で振り返っています。
性格も芸人としての動き方も違い、当時の池田さんは自分から前へ出ていく一方、ジャンボさんはライブのエンディングなどでも遠慮するところがありました。
それでも二人でネタを作り始めると、深夜のファミリーレストランへ集まり、楽しみながら案を出していきます。
最初に作ったのは駅員と夢破れた女性が登場するドラマ仕立てのコントで、二人には手応えがありましたが、舞台ではほとんど受けませんでした。
ドラマ性のあるコントへ|女性役も生まれていく
レインボーは結成当初から、短いボケを連続させるより登場人物の関係や物語を見せるドラマチックなコントを志向していました。
ところが若手劇場のランキングでは一番下まで落ち、持ち時間が2分しかない時期も経験します。
長めの物語を2分で伝えることに苦しみ、池田さんは約10万円分の小道具を自腹で用意して、ジャンボさんが着ぐるみを着る「ゆるキャラ」路線を試したことまでありました。
その着ぐるみは事務所で保管中に処分されてしまい、二人は再び自分たちのドラマ型コントへ戻っていきます。
女性キャラクターもその流れの中で初期から登場しており、どちらかが台本を持ってきて、そこから二人で直す形でネタを作っていました。
現在よく知られる池田さんの女性役も、美容を見せるために始めたものではなく、ドラマ型コントに必要な登場人物として生まれています。
2017年の苦しい時期|元相方のブレイクと『おはスタ』
レインボーを結成して新しく進み始めた池田さんに、2017年、大きな揺れが訪れます。
かつて「ひので」で一緒だったおばたのお兄さんが、一気にテレビへ出るようになった時期でした。
おばたのお兄さんが売れ、自分の選択まで間違いに感じた
元相方のブレイクを見た池田さんは、自分が書いていたネタが合っていなかったから「ひので」は売れなかったのではないかと考え、自分の選択そのものを疑うようになりました。
周囲の芸人がおばたのお兄さんの話をしているだけでもつらくなり、当時出演していたヨシモト∞ホールでは、楽屋にいる芸人まで全員が敵に見えるほど追い込まれていたと話しています。
大学の友人たちは社会人になり、自分には十分なお金がなく、その一方で元相方はテレビで活躍しているという状況でした。
池田さんは本気で芸人を辞めることまで考え始めます。
芸人を辞めようと考えるなか、『おはスタ』が支えになる
その時期に池田さんが持っていた大きな仕事が、テレビ東京系『おはスタ』の木曜レギュラーでした。
子どものころから見ていた番組へ、自分が出演者として通うことになります。
「毎週木曜日、バイトもしていてつらいけれど、この日はテレビに出れてるぞ」
ENCOUNT
一方、『おはスタ』で玩具を紹介する際、現場で生き生きと働く玩具会社の社員を見て「こういう仕事をしたい」と思ったこともあり、芸人を続ける気持ちは決して安定していませんでした。
それでも池田さんには、自分から誘ったジャンボさんがいました。
「ジャンボは僕から誘っている。辞めるわけにはいかないんですよ。」
ENCOUNT
2018年『おもしろ荘』優勝でアルバイト生活に一区切り
池田さんが次の目標として強く意識したのが、日本テレビ系『ぐるナイ おもしろ荘』でした。
当時の二人はM-1やキングオブコントで一気に勝ち上がるより、まだ知られていない芸人を発掘する『おもしろ荘』の方が自分たちに合うと考えていました。
オーディション1次審査で披露したのが、池田さんが女性に扮し、ジャンボさんとの芝居を展開する「キレイです」でした。
自信のあるネタでしたが4分あり、2次審査では別のネタを求められます。
それでも池田さんは諦めず、別ネタに加えて「キレイです」を3分に縮めた版を予備として用意しました。
2次審査で演出側から「3分なら」という話が出たとき、二人はその場で準備してきた短縮版を披露することができ、出演を勝ち取ります。
2018年元日の『おもしろ荘』でレインボーは優勝し、池田さんはようやくアルバイトを辞めることができました。
YouTube毎日コントがレインボーの新しい転機に
『おもしろ荘』優勝で知られるようになったレインボーでしたが、それだけで仕事が安定したわけではありませんでした。
テレビのコントで注目される場面がありながらも、二人には再びコンビそのものが揺れる時期が訪れます。
コンビ解散危機で池田が提案した「毎日コント」
池田さんが個人のSNSや仕事を広げていた時期、ジャンボさんは「池田は一人で売れようとしているのではないか」と疑うようになりました。
ジャンボさんはついに池田さんへ解散を切り出します。
池田さんには一人で売れるつもりはなく、そこで持ちかけたのがYouTubeで二人のコントを発信することでした。
チャンネル自体は2018年ごろから動き始め、2019年にはコント動画を公開し、2020年1月1日から毎日投稿へ切り替えていきます。
「レインボーの分岐点は結局全部池田が作ってるんですよね。」
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これはジャンボさんが2026年の対談で、池田さんからYouTubeを提案された当時を振り返って語った言葉です。
解散話が出たコンビが、二人で毎日コントを作る方向へ動き始めました。
すぐには伸びなくても投稿を続け、コントの蓄積が増えていく
毎日投稿を始めても、最初の数か月ですぐ数字が伸びたわけではありませんでした。
レンタルスペースを借りて撮影すると外の音が入るなど、撮影環境にも苦労しながら二人で動画を作ります。
周囲の芸人から「このコントが面白かった」と連絡をもらうことが続ける力になり、一本ずつ動画を積み重ねました。
ネタは池田さんとジャンボさんのどちらかが案を出し、二人で修正して完成させる形が多く、毎日作るため「どちらかに見えているものがあれば、まずやる」という速度感も生まれました。
YouTubeは宣伝場所というより、二人が何度でもコントへ戻れる場所になっていきます。
「ひやまとみゆき」などで注目|女性役と美容活動も広がる
大量のコントを作り続ける中で、池田さんが演じる女性キャラクターの種類も増えていきました。
2021年にはフジテレビ系『千鳥のクセがスゴいネタGP』のシリーズ「ひやまとみゆき」が注目を集めます。
女性役を始めたころの池田さんは美容に詳しかったわけではなく、20代前半には化粧水さえほとんど使っていなかったと話しています。
劇場ではヘアメイク担当者がいないため自分でメイクをする必要があり、きれいな女性や相手が恋をする女性を演じるなら、見た目にも説得力を持たせたいと考えるようになりました。
メイクを研究し、肌の状態まで気にするようになり、そこからスキンケアや美容家電などへ興味が広がっていきます。
2019年には個人YouTube「レインボー池田直人の美しちゃんねる」を開設し、2023年にはビューティーブランド「makeumor」を立ち上げました。
現在の美容活動は、お笑いとは別に突然始まったものではなく、女性役のコントを自分で作り込んでいく過程から広がった仕事でした。
この時期の2021年には、『探偵!ナイトスクープ』で、かつて父が製造に携わった部品が使われている車を探す依頼も実現しています。
高校時代から残っていた父との記憶を手がかりに対象となる車を探し、該当する車を見つけて自ら購入しました。
コントを続け、2025年キングオブコント初決勝で3位へ
YouTubeやテレビで多くの人に知られるようになっても、レインボーには長く届いていない舞台がありました。
コント日本一を決めるキングオブコント決勝です。
「自分たちはファイナリストになれないのか」と感じていた年月
レインボーは2023年にキングオブコント準決勝へ初進出しましたが、決勝には届きませんでした。
2024年は準々決勝までとなり、劇場では先輩や同期たちが次々と決勝の舞台へ進んでいく姿を見続けます。
ジャンボさんは後に、自分たちは「ファイナリストになれない芸人なのではないか」と考えた時期があったと語っています。
池田さんにとっても、同期のそいつどいつが先に決勝へ進んだ際、仲が良いからこそ素直に喜べないほど悔しかったといいます。
一方で2025年にレインボーの決勝進出が決まったとき、その同期たちは自分のことのように喜んでくれました。
結成10年目で初の決勝進出、2025年大会3位
2025年、レインボーはキングオブコント準決勝を突破し、結成10年目で初めて決勝進出を決めました。
発表の瞬間、池田さんは格好よくガッツポーズをしようと考えていたものの、実際には何をしたのか覚えていないほど喜び、ジャンボさんの背中を何度もたたいていたようだと話しています。
その年はキングオブコントだけに生活を集中させたわけではなく、準決勝初日にも本番前にグルメロケが入り、それがかえって自然体で舞台へ向かう助けになったそうです。
「あとはもう今までやってきたコントをお見せするだけです。」
TBSテレビ「キングオブコント」
決勝ではファイナルステージまで残り、レインボーは2025年大会3位という結果を残しました。
小学生でお笑い部を作った池田さんが、長い劇場時代と大量のコント制作を経て、初めてキングオブコント決勝の舞台へ立った年でした。
YouTube、美容、俳優の仕事が増えてもコントが二人の「家」
キングオブコント後、すぐにすべてが変わったわけではありませんでしたが、ジャンボさんは2026年、大会の効果を感じる形で徐々に仕事が増えたと話しています。
池田さん個人も美容、YouTube、俳優など活動の幅を広げていますが、レインボーでは現在もコント制作とライブを続けています。
二人は2026年の対談で、それぞれに個人の仕事があっても、コントを「帰ってこられる家」のような場所として語りました。
2026年のキングオブコントにも前年3位のファイナリストとして再びエントリーし、準々決勝から参戦しましたが、8月17日に発表された準決勝進出35組には入りませんでした。
5歳から続けた子役と、小学生のころに自分で作ったお笑い部が、池田直人さんが人前で笑いを作り始めた出発点でした。
中学でNSCを受け、高校生漫才、日本映画大学とNSC、「ひので」の解散を経てジャンボたかおさんへ声をかけたことで、現在のレインボーが始まりました。
その後も舞台、テレビ、YouTubeと場所を変えながら作り続けてきたコントが、2025年のキングオブコント初決勝、そして現在の二人の活動まで続いています。












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