人物プロフィール
独特の岡山弁でボケを重ね、相方のノブさんと数多くの番組でMCを務める千鳥・大悟さん。
現在は漫才やバラエティーだけでなく俳優としても活動し、2026年公開の是枝裕和監督作品『箱の中の羊』では綾瀬はるかさんとダブル主演を務めるなど、仕事の幅を広げています。
そんな大悟さんですが、芸人人生の始まりをたどると、信号もコンビニもない岡山県笠岡市の北木島で見た、年に一度の夏祭りへ行き着きます。
小学6年生のころにはすでに吉本興業を目指し、高校を卒業すると一人で大阪へ出ましたが、最初の関門だったNSCのオーディションには不合格でした。
それでも小劇場でピン芸人として舞台に立ち続け、やがて高校時代から一緒に大喜利をしていたノブさんを大阪へ呼び寄せ、2000年に千鳥を結成します。
北木島でどんな家族に囲まれて育ち、ノブさんとはどのように出会い、NSCに落ちたあとどうやって芸人を続けたのか、幼少期から現在までを順番にたどります。
大悟の生い立ちと家族|北木島で育った子ども時代
大悟さんが生まれ育ったのは、瀬戸内海に浮かぶ岡山県笠岡市の北木島です。
人口の多い街で育った子どもとは、日常の風景そのものがかなり違っていました。
近所の家で朝食、魚を獲って夕食にする北木島の暮らし
大悟さんが国土交通省のインタビューで振り返った北木島には、当時バスもタクシーも信号機もなく、コンビニもありませんでした。
小学校では本土へ出たときのために信号の渡り方を教わり、島に自動販売機が置かれたときには人が並んだほどだったといいます。
食卓に並ぶ魚も店で買うとは限らず、子どもの大悟さん自身が海へ入り、魚介類を獲って晩ごはんにすることがありました。
小学5~6年生ごろの誕生日には、当時の子どもたちに人気だったゲーム機ではなく、海へ入るための胸まであるウェーダーをプレゼントされています。
夏休みには近くの無人島へ朝から出かけ、魚を獲ったあと岩場で昼寝をするという一日を繰り返していました。
その無人島にはヤギが1匹おり、最初は大悟さんを警戒していたものの、夏休みの終わりごろには昼寝をする大悟さんの横で一緒に眠るようになったそうです。
修学旅行ではホテルのエレベーターを初めて見て、珍しさのあまり観光へ出ずに乗り続けていたという話も残っています。
近所との距離も近く、幼稚園のころには自宅ではなく隣のおばさんの家で朝食を食べ、学校の通知表まで両親より先にその女性へ見せていました。
本人にとっては特別な出来事ではなく、近所の大人たちが何人もの父親や母親のように関わる生活が普通でした。
父・清志と母・節子、2人の姉と暮らした大悟一家
大悟さんは父・山本清志さん、母・節子さん、2人の姉がいる5人家族で育ちました。
両親は子どもたちに勉強を強く求める家庭ではなく、習わせたのは島のそろばん教室だったと父・清志さんが山陽新聞の取材で明かしています。
「3人の子どもに『勉強しろ』と言ったことは一回もありません」
山陽新聞 LaLa Okayama
姉2人はそれなりに勉強していた一方、大悟さんについて父親は、親の「勉強しなくていい」という考えを最も忠実に守った子だったと笑いを交えて話しています。
そろばん教室では女の子がおならをしてしまった際、大悟さんが自分のせいにして周囲の注意を引きつけたことがあり、穴の開いた靴下を見つけられたときには「春だから芽が出ている」という趣旨の言葉で返していたそうです。
学校の成績とは別のところで、その場にいる人の視線を自分へ向けて笑いに変える場面が子どものころからありました。
一家にとって本土へ出ることは現在ほど日常的ではなく、大悟さんが小学4年生のころに家族で初めてマクドナルドへ行った際には、父親が数日前からその予定を家族へ発表し、当日はスーツ姿で店を訪れています。
注文を席で待っていたところ、そこで初めてカウンターへ自分で注文しに行く店だと気づいたという、大悟一家らしいエピソードも後年語られました。
小学6年生で文集に「吉本」|夏祭りの芸人を見て将来を決める
北木島には娯楽施設がほとんどありませんでしたが、子どもの大悟さんが毎年楽しみにしていた日がありました。
島の神社で開かれる年に一度の夏祭りです。
その日になると出店が並び、トラックの荷台などを使った舞台に本物の吉本芸人がやって来ました。
いつもは静かな島で、その芸人を見るために大勢の島民が同じ場所へ集まっていきます。
「小学6年の時に文集で『吉本』と書きました」
国土交通省 Grasp
舞台上の芸人だけではなく、その芸人を見るために人がわざわざ集まっている光景が大悟少年には強く残りました。
小学6年生の時点で将来の進路として「吉本」を意識していたことが、本人の言葉から確認できます。
大悟さんが芸人を目指した直接のきっかけは、北木島の夏祭りへ来た吉本芸人でした。
中学卒業で島を離れ、笠岡商業高校でノブと出会う
中学校まで北木島で過ごした大悟さんは、高校進学を機に生活環境を大きく変えます。
進学先は岡山県立笠岡商業高等学校でした。
船の本数の関係で島から毎日通うことが難しく、中学卒業と同時に北木島を離れて下宿生活を始めています。
「島から鬼が来る」入学前からノブに警戒されていた大悟
同じ笠岡商業高校へ入学したのが、後に相方となるノブさんです。
ただし、最初から仲が良かったわけではありません。
ノブさんの周囲には入学前から、「島から山本大悟という怖い人物が来る」という噂が流れていました。
ノブさんはトラブルになるのではないかと警戒していましたが、入学式が始まっても大悟さんは体育館へ現れませんでした。
しばらくすると体育館後方の扉が開き、角刈り姿の大悟さんが遅刻して入ってきました。
本人によると、入学式当日の朝に学校近くの理髪店へ行き、角刈りにしてもらっている途中で開始時刻を思い出し、シャンプーもせず切った髪が顔についたまま学校へ向かったそうです。
ノブさんにとっての大悟さんの第一印象は、仲間というより「できれば近づきたくない相手」でした。
大悟さんは野球部へ進み、ノブさんはサッカー部へ入り、高校1年の間はほとんど話していません。
「ドミニカ出身か!」のツッコミから2人の距離が縮まる
2人の距離が変わったのは高校2年生の体育の時間でした。
大悟さんのクラスとノブさんのクラスがソフトボールで対戦し、大悟さんが打席で変わった構えを見せます。
それをレフトから見ていたノブさんが、遠くから大悟さんへツッコミを入れました。
「ドミニカ出身か!」
TOKYO FM『木村拓哉 Flow』
大悟さんはレフトにいるノブさんを見て「面白いやつがいる」と感じ、共通の友人を介して3人で話すようになりました。
話してみると、2人ともダウンタウンや『ダウンタウンのごっつええ感じ』が好きだったことが分かります。
休み時間のチャイムが鳴るたびにベンチへ集まり、ダウンタウンやテレビのお笑いについて話す関係になりました。
漫才コンビになるより先に、「同じお笑いを面白いと思う高校生同士」として2人の関係が始まっています。
ダウンタウン談義と授業中の大喜利、文化祭で人前へ
高校3年生になると大悟さんとノブさんは同じクラスになり、休み時間だけではなく授業中にもお笑いのやり取りをするようになりました。
当時、松本人志さんの『一人ごっつ』などを見ていたノブさんが大喜利のお題を紙に書き、クラスメート経由で大悟さんの席まで回します。
大悟さんが答えを書いた紙は再びクラスメートの手を渡ってノブさんへ戻り、その途中で答えを読んだ生徒たちが笑っていたと、2026年に母校を訪れた際にも振り返っています。
笠岡商業高校の文化祭では、2人で総合司会も経験しました。
2026年の母校凱旋企画では、この文化祭が2人にとって人前で笑いをやった最初期の舞台として紹介されています。
高校野球部でも大悟さんの存在感は強く、父・清志さんが一度試合を見に行った際、大悟さんが打席に立つと同級生たちがフェンスへ集まり「大悟コール」を送っていたそうです。
高校3年になるころには、大悟さんは周囲へ将来は芸人になると話していました。
一番仲の良かったノブさんも自分と一緒に大阪へ出るのではないかと、本人はどこかで考えていたといいます。
しかし卒業直前、ノブさんの就職が決まったという知らせを友人たちと一緒に聞き、大悟さんはそこで初めて「一人で大阪へ行く」ことになります。
「芸人はめちゃくちゃやりたかったんですけど、絶対無理やと思ってた」
TOKYO FM『木村拓哉 Flow』
高校卒業後に大阪へ|NSC不合格からピン芸人として小劇場へ
高校を卒業した18歳の大悟さんは、子どものころから考えていた芸人の道へ進みます。
ただし、最初から吉本興業の劇場へ順調に入れたわけではありませんでした。
芸人になる前日、父と恩師の墓を訪れて島を出る
大阪へ出ることを決めた大悟さんが父親へ連絡すると、父・清志さんは強く反対するのではなく、出発前日に一日だけ時間をくれるよう頼みました。
「大阪出て芸人になるわ」
ABEMA TIMES『チャンスの時間』
普段はあまり島を出たがらなかった父親がその日だけ本土へ渡り、大悟さんを軽トラックへ乗せて向かったのは、小学2年生のころに担任をしていた先生の墓でした。
その先生は大悟さんをかわいがっていましたが、小学2年生の夏休みに亡くなっています。
墓参りを済ませた帰り道、父親は芸人として成功するかどうかよりも、世話になった人や故郷への道を忘れる人間になるなという趣旨の言葉を息子へ伝えました。
翌日、大悟さんは芸人になるため大阪へ向かいました。
NSCの面接に落ちても岡山へ戻らずインディーズライブへ
大阪へ出た大悟さんは、吉本興業の芸人養成所NSC大阪校を受験しました。
ところが、面接で何か強烈なアピールをしなければならないと思い込み、面接官へ「自分より面白いのか」という趣旨の言葉をぶつけてしまいます。
結果は不合格でした。
そのため、大悟さんは「NSC21期生」ではありません。
吉本興業の現在の公式プロフィールにも、出身・入社・入門欄には「NSC大阪校21期と同期」と記載されています。
養成所には入れませんでしたが、大悟さんはここで芸人を諦めませんでした。
岡山へ戻らず、吉本以外の小劇場やインディーズのお笑いイベントへ出るようになります。
この時期はまだコンビではなく、大悟さん一人でピン芸人として活動していました。
笑い飯と出会い、たこ焼き店で働きながら舞台に立つ
インディーズのお笑いイベントでは、後に笑い飯を組む西田幸治さん、哲夫さんとも出会いました。
当時は西田さんと哲夫さんも別々のコンビで活動しており、大悟さんを含め、それぞれ独特なネタをしていたことから次第に親しくなっていきます。
芸人だけで生活できる状態ではなく、大悟さんが大阪へ出てすぐ始めた仕事がたこ焼き店のアルバイトでした。
本人によると約5年間働き、後半の約3年間は一人で仕込みから焼きまで店を任されていました。
店にはノブさんや笑い飯の2人も頻繁に顔を出していたといいます。
現在の吉本興業公式プロフィールにも「たこ焼きを美味しく焼く」が特技として記載されています。
昼間から芸人だけをしていたわけではなく、アルバイトで生活をつなぎながら、空いた時間に舞台へ立つ生活が続きました。
会社員のノブを大阪へ呼び、2000年に千鳥を結成
大悟さんが一人で大阪へ出たころ、ノブさんは高校卒業後に会社員として働いていました。
高校時代には一緒に大喜利をしていた2人ですが、この時点では人生の進路が完全に分かれています。
「大阪で売れた」と誘われたノブが会社を辞めて上阪
ノブさん自身にも芸人への興味は残っていましたが、地元・岡山からプロのお笑い芸人になることを現実的な選択肢とは考えられず、そのまま就職していました。
そこへ大悟さんから連絡が入ります。
大悟さんはノブさんへ、自分は大阪でピン芸人としてかなり売れているという趣旨の話をし、「一緒に漫才をすれば売れる」と誘いました。
ノブさんはその言葉を信じ、会社へ辞表を出し、家族を説得して大阪へ向かいます。
ところが大阪へ着いてみると、大悟さんは週の大半をアルバイトに使っており、芸人として売れている状態ではありませんでした。
2026年に大悟さんが『人生最高レストラン』で振り返った際にも、ノブさんへ「めちゃくちゃ売れた」と伝えたことが千鳥結成につながったと話しています。
大悟さんのかなり大胆な誘いによって、会社員だったノブさんは芸人へ進路を変えました。
高校時代の2人が漫才コンビになり、2000年7月に千鳥結成
大阪へ出てきたノブさんと大悟さんは、すぐに現在の千鳥のような活動ができたわけではありません。
大悟さん、西田さん、哲夫さんらが出ていたインディーズイベントへノブさんも加わり、舞台に立ちながら漫才を作っていきます。
そして2000年7月、千鳥を結成しました。
吉本のオーディションにも挑戦しますが、読売テレビ『黄金列伝』では、インディーズでは手応えがあっても吉本のオーディションでは何度も落とされた時期があったと紹介されています。
仕事がほとんどなかったころには、大悟さんが暮らしていた六畳一間の部屋に笑い飯の2人も集まり、4人で生活していた時期もありました。
ノブさんは会社員生活を辞めて大阪へ来た直後のこの暮らしを、後年「人生を失敗したと思った」という趣旨で振り返っています。
憧れの「千鳥」をコンビ名にし、大阪弁から岡山の言葉へ
「千鳥」というコンビ名は、2人の地元・笠岡と深く関係しています。
2026年に母校へ凱旋した際、ノブさんは笠岡商業高校の近くにある岡山県立笠岡高校が地元で「千鳥」と呼ばれていたことを明かしました。
笠岡高校は勉強もスポーツもできる学校として2人にとって憧れの存在で、その呼び名をコンビ名にしたと説明しています。
漫才の話し方についても試行錯誤がありました。
岡山出身の2人は最初から地元の言葉で漫才をしていましたが、大阪では「言葉が変わっている」と受け取られることがあり、一時期は大阪弁を使ったこともありました。
ただ、自分たち自身がしっくりこず、客席の反応も良くなかったため、再び岡山の言葉へ戻していきます。
大悟さんの島の話や岡山弁を隠すのではなく、漫才の中へ入れるようになってから、千鳥独自の形が少しずつ見え始めました。
若手時代の千鳥|劇場とアルバイトを続け、M-1決勝へ
千鳥を結成しても、すぐ芸人の収入だけで暮らせたわけではありません。
大悟さんはたこ焼き店、ノブさんは居酒屋やパチンコ店などで働きながら、ネタと舞台を続けました。
笑い飯と共同生活するほど近かった大阪の若手時代
若手時代の千鳥を語るうえで外せないのが笑い飯との関係です。
大悟さんがピンで活動していたころからの付き合いで、千鳥と笑い飯は同じインディーズイベントへ出演し、互いのネタを見ながら過ごしていました。
お金がなく、4人が大悟さんの六畳一間へ集まって暮らす時期までありました。
舞台の外では一緒に生活し、舞台ではそれぞれ違う漫才を作る日々が続きます。
ただ、先に注目を集めたのは笑い飯でした。
大悟さんは後年、レギュラーや同期の芸人たちが売れていき、インディーズ時代から一緒だった笑い飯が先にM-1で知られるようになったことについて、仲間としてうれしい気持ちと同時に焦りもあったと話しています。
自分たちの笑いを続けながら劇場とライブへ出演
若手時代の千鳥は、売れるための細かな戦略を話し合うより、ネタを作って舞台に立つことを繰り返していました。
「自分たちは自分たちのお笑いをするしかない」
タウンワークマガジン
大悟さんによると、パチンコへ行きながらネタを作り、週1回ほどライブをする生活も楽しかったといいます。
大阪弁に変えてみた時期を経て岡山弁へ戻したことも、同じ時期の試行錯誤の一つでした。
なんばグランド花月のように幅広い年代の観客がいる舞台では、独特なネタをそのまま始めると伝わりにくいこともあり、地元・岡山や大悟さんの島の話を入口として加えるようになっていきます。
現在の千鳥を象徴する岡山の言葉や北木島の話は、若手時代の舞台で客席と向き合う中でも磨かれていきました。
2003年M-1初決勝、翌年にはABC最優秀新人賞へ
千鳥の名前が全国へ大きく出た最初の機会の一つが、2003年のM-1グランプリでした。
M-1公式記録では、千鳥は1906組が参加した2003年大会で初めて決勝へ進出しています。
決勝結果は9位でしたが、その後も2004年、2005年、2007年と決勝へ進みました。
ノブさんは後年、M-1で長年準決勝以上へ進んだことで、多くの人に千鳥の名前とネタを知ってもらえたことが大きかったと話しています。
2004年にはABCお笑い新人グランプリ最優秀新人賞を受賞し、関西での仕事も少しずつ増えていきました。
ただし、2003年のM-1決勝をそのまま「千鳥が現在のようにブレイクした瞬間」とすることはできません。
ここから千鳥は、関西のテレビでリポーターやロケの経験を長く積むことになります。
東京進出後もすぐには売れず、千鳥らしい笑いで全国区へ
M-1で名前を知られるようになったあと、千鳥は大阪でテレビの仕事を増やしていきました。
特にロケ番組では、大悟さんとノブさんが一般の人とやり取りしながら笑いを作るスタイルが評価されるようになります。
大阪で知られていた千鳥が東京でもう一度足場を作る
読売テレビ『黄金列伝』では、関西ローカルで年間200本ほどのロケをこなす時期があり、大悟さんは大阪のおばちゃんたちから親しみを持たれるようになったことで仕事が増えたと振り返っています。
2011年には『THE MANZAI』決勝で3位となり、全国ネットの仕事も増えました。
そして2012年ごろ、千鳥は活動の中心を東京へ移します。
大阪ではすでに多数の番組へ出演していたものの、東京では知名度も番組内での立ち位置も改めて作っていく必要がありました。
関西で売れた状態のまま全国区へ移れたのではなく、東京へ出たあとにも数年をかけて仕事を広げています。
『FNS27時間テレビ』や『キングちゃん』など複数の転機
大悟さん自身が2026年に振り返った東京進出直後の出来事に、『FNS27時間テレビ』での加藤浩次さんとのやり取りがあります。
若手芸人たちが入り乱れる場面で、加藤さんから突然「どう思う?大悟」と話を振られ、大悟さんがその場で強い印象を残したことで、その後の仕事が広がったと本人は話しています。
「今現在がこうして仕事あるのは加藤さんのひと言というか」
日刊スポーツ
加藤さんも、当時から千鳥が好きで、大悟さんへ振れば何かしてくれると思っていたと明かしています。
2016年にはテレビ東京『NEO決戦バラエティ キングちゃん』で、千鳥にとって在京キー局初のMCを担当しました。
また、漫才で大悟さんが独特な歌い方をした際にノブさんが放った「クセがすごい」というツッコミが『アメトーーク!』などを通して広がり、2人のキャラクターも全国的に浸透していきます。
M-1、関西で積み重ねたロケ、東京進出後の番組出演、MC、2人の掛け合いが少しずつ重なり、千鳥の仕事量は増えていきました。
2018年に『GQ JAPAN』が千鳥を「Men of the Year」に選んだころには、テレビやCMで2人を見る機会が急増していました。
「今年売れたという感じはあんまりないんですよね」
GQ JAPAN
大悟さん本人の感覚でも、一つの大会や番組を境に急に現在の立場になったわけではありませんでした。
漫才からMC、俳優へ活動が広がった現在
全国区になってからは千鳥としてのMCが増えましたが、大悟さんの活動の出発点は現在もノブさんとの漫才です。
高校時代に紙を回して大喜利をしていた2人が、インディーズライブとアルバイトを経て漫才コンビとなり、その掛け合いのままテレビでも仕事を広げてきました。
大悟さん個人では俳優として作品へ出演する機会も増え、2026年公開の是枝裕和監督『箱の中の羊』では綾瀬はるかさんとダブル主演を務めています。
北木島で魚を獲って過ごしていた少年が、年に一度の夏祭りで芸人を見て、小学6年生の文集に「吉本」と書きました。
高校ではノブさんと出会い、卒業後は一人で大阪へ出てNSCに落ちながらも舞台を続け、会社員だった親友を大阪へ呼んだことで千鳥が生まれました。
その後も劇場、アルバイト、M-1、関西でのロケ、東京進出と順番に仕事を積み重ね、現在は漫才からMC、俳優まで活動の幅を広げています。












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