人物プロフィール
サンドウィッチマンの伊達みきおさんといえば、富澤たけしさんのボケに鋭く返すツッコミや、テレビやラジオで見せる親しみやすい姿で知られています。
現在も2人でネタを続けていますが、伊達さんは高校を卒業してすぐに芸人になったわけではありません。
高校時代にはすでに富澤さんと出会っていたものの、卒業後は介護用品・福祉機器を扱う会社へ就職し、約5年間会社員として勤務していました。
その間、先にお笑いの道へ動いていた富澤さんから何度も誘われながら、伊達さんは会社員として働き続けています。
やがて祖父の死を経験し、「好きなことをやってみたい」と会社を辞め、24歳で富澤さんと上京しました。
ところが、そこからテレビで知られるまでにはさらに長い時間がかかり、父親に約束した「3年間」を大きく越えて、アルバイトとライブを続ける生活が待っていました。
伊達みきおの生い立ちと家族|銀行員の家庭で育った少年時代
伊達みきおさんは1974年9月5日、宮城県仙台市に生まれました。
現在の公式プロフィールでも出身地は宮城県仙台市とされていますが、子どものころは父親の仕事の都合で、一つの場所だけで育ったわけではありません。
父の転勤で3つの小学校へ|転校初日から友達をつくった
父親は銀行員で転勤があり、伊達さんは小学校を3校経験しています。
本人の公式ブログでは、幼稚園から小学2年生ごろまでは石巻市で暮らしていたことも明かしています。
何度も学校が変われば新しい環境へ入るだけでも大変そうですが、伊達さん自身は転校を特別つらい経験として振り返っていません。
むしろ新しい学校へ行っても人見知りせず、その日のうちに友達をつくって遊びに行っていたといいます。
「転校初日に新しい友だちと遊びにいったり」
日刊スポーツ
小学生のころから、初めての場所へ入って人との距離を縮めることにそれほど苦労しなかったという幼少期の姿が本人の言葉から見えてきます。
NHK中心だった堅い家庭と両親・弟
家庭は伊達さん自身が「堅い家庭」と表現する環境で、父親は家でNHKを中心に見る人だったといいます。
テレビゲームも簡単には買ってもらえず、後にテレビの世界へ進む伊達さんですが、幼少期からバラエティー番組漬けだったという家庭ではありませんでした。
一方で、父親は登山が好きで、家族で山へ出かけたり九州を一周したりした思い出もあり、伊達さんは後年「愛情を持って育ててもらった」と話しています。
家族には弟がおり、2024年には声優・俳優として活動する伊達さゆりさんが、その弟の娘であることもラジオで初めて公表されました。
芸人になることについては、この堅い家庭の父親が最初から歓迎していたわけではなく、会社を辞めてお笑いへ進む段階で大きな壁になります。
伊達政宗の「直系」ではない|伊達家のルーツ
「伊達」という名字から、戦国武将の伊達政宗との関係もたびたび話題になります。
福島県伊達市の資料では、伊達さんの家系は室町時代の伊達氏9代当主・政宗の弟である宗行が分家し、大條氏を名乗った系統の末裔と紹介されています。
つまり、仙台藩初代藩主として知られる17代伊達政宗その人の「男系直系の子孫」という単純な関係ではありません。
伊達氏の一族から分かれた大條家をルーツに持ち、明治期に再び伊達姓となった家系と整理すると分かりやすいでしょう。
仙台商業高校で富澤たけしと出会う
伊達さんの人生で、その後30年以上にわたって隣に立つことになる人物と出会ったのが仙台商業高校でした。
富澤たけしさんとは、お笑いの養成所でもオーディション会場でもなく、高校の運動部で知り合っています。
ラグビー部で同じプロップになった2人
伊達さんと富澤さんが所属したのはラグビー部で、2人はともにスクラム最前列の「プロップ」というポジションを経験しました。
当時を知るラグビー部の先輩・芳賀さんは、入ってきた2人について背格好が似ていたことを覚えていると文春オンラインの取材で語っています。
高校生の時点で将来コンビを組むことを決めていたわけではありませんでしたが、部活動を通じて一緒に過ごす時間が増えていきました。
現在のサンドウィッチマンの2人が最初に同じ場所へ並んだのは、舞台ではなくラグビーのスクラムでした。
先輩を笑わせるまで帰れなかった「芸出し」
ラグビー部には練習とは別に、後の2人を思わせる独特の時間がありました。
およそ2カ月に1度、後輩が先輩たちの前で面白いことをする「芸出し」が行われ、先輩を笑わせなければ終われなかったといいます。
狭い部室へ一人ずつ入り、十数人の先輩を前に何かを披露するというもので、伊達さんと富澤さんもその中にいました。
普段の会話でも、面白い先輩を笑わせようと2人で話をしていたそうです。
「その人を笑わせたい一心で、富澤と僕が頑張っていました」
文春オンライン
芸人になる前から、富澤さんと一緒に「どうしたら目の前の人が笑うか」を考える時間が高校生活の中にありました。
担任の梶川先生と、部活帰りに通った定進堂
高校時代には、富澤さんやラグビー部の仲間だけでなく、1年生と3年生のときの担任だった梶川先生との出会いもありました。
後に仙台商業の校長となり、伊達さんの結婚式では乾杯も担当した人物で、伊達さんは先生から何かあるたび「自分だけ気持ちよくなっちゃだめなんだよ」と言われたと振り返っています。
ラグビー部の練習が終わると、仲間と学校近くのパン店「定進堂」へ行くのも日常でした。
パンやカップラーメンを食べながら1時間ほど話し、遅くまで練習していた野球部員がやって来ると、さらに話し込むこともあったそうです。
「定進堂のパンを食べて育ちました。」
伊達みきおオフィシャルブログ
富澤さんと知り合い、先輩を笑わせ、部活仲間とパンを食べながら話していた高校3年間が終わると、2人はいったん別々の道へ進みます。
高校卒業後は福祉用具の会社員として5年間勤務
卒業後、富澤さんはお笑いの世界へ近づこうと動き始めましたが、伊達さんが選んだのは就職でした。
ここから約5年間、現在の芸人としての姿からは少し離れた社会人生活を送ります。
介護用品・福祉機器を扱う会社へ就職
伊達さんが入ったのは、介護用品や福祉機器を扱う会社でした。
父親の紹介で入った会社でもあり、本人によれば父からは少なくとも5年は働くよう言われていました。
勤務先では福祉関係の用具を扱い、利用者や施設と接する仕事を経験しています。
現在のグレープカンパニー公式プロフィールにも、伊達さんの資格として「福祉用具専門相談員」が記載されています。
会社では「思いやりを大切に」という考え方が日常的に共有されており、高校時代の梶川先生から聞いていた言葉と重なる部分があったと本人は後年語っています。
郡山で初めての一人暮らし
会社員時代には福島県郡山市でも勤務し、伊達さんにとって初めての一人暮らしを経験しました。
後年、郡山時代に世話になった先輩や事務職の女性について公式ブログへ書いており、職場の人たちとの関係が卒業後も続いていたことが分かります。
2025年にはラジオで、会社員時代に母校・仙台商業の高校野球の決勝をどうしても見たくなり、上司へ休みを相談した思い出も明かしました。
芸人になるまでの5年間は空白期間ではなく、仙台を離れて働き、一人で暮らし、社会人として人と接していた時期でもありました。
富澤の舞台を客席で見ながら、お笑いへの誘いを受け続ける
伊達さんが働いている間、富澤さんは中学時代の友人とコンビを組み、仙台にあった吉本系の劇場でアマチュアとして舞台に立っていました。
伊達さんも客席からその舞台を見に行き、「面白いな」と感じていたといいます。
富澤さんは伊達さんへ「一緒にやろう」と繰り返し声をかけました。
それでも、父親の紹介で入った会社を簡単に辞めるわけにはいかず、伊達さんはすぐには誘いに乗りませんでした。
高校で出会った2人が卒業と同時にコンビを組んだのではなく、片方が芸人を目指し、もう片方が5年間会社員をする期間を挟んでいたのです。
祖父の死をきっかけに会社を辞めて芸人へ
会社員生活が5年ほどになったころ、伊達さんの進路を変える出来事が起こりました。
入院していた祖父を見舞う中で、その死を経験します。
「好きなことをやろう」と考え、5年勤めた会社を退職
病院で祖父の姿を見ていた伊達さんは、人の人生がいつ終わるか分からないことを強く意識するようになりました。
そこで、それまで何度も誘われながら踏み出していなかったお笑いへ向かう決断をします。
祖父の死を経験したことが、会社員から芸人へ進む直接的な転機の一つになりました。
好きだったお笑いを「見る側」で終わらせず、富澤さんと一緒に自分たちが舞台へ立つことを選びます。
厳しい父へ「3年間だけ」と伝えて上京
問題は、会社へ入るきっかけにもなった父親でした。
伊達さんは父へ、ずっと芸人を続けると言ったのではありません。
「3年間だけ好きなことをやりたい」
めざましmedia
「東京で3年やって駄目なら帰る」という期限をつけ、伊達さんは24歳で富澤さんと上京しました。
両親は当初、お笑いへ進むことに反対していましたが、売れない時期には伊達さんが頼んでいないのに手紙と一緒に1万円を送ってくれることもあったといいます。
1998年、富澤と舞台に立ち東京での活動を始める
本格的に東京へ行く前には、仙台で2人の初舞台も用意されました。
仙台の芸人・ワッキー貝山さんが「仙台で初舞台を踏まないの?」と声をかけ、ガレッジセール、DonDokoDon、ペナルティらが出演するライブの前座へ立つことになります。
富澤さんは後年、その舞台で勢いをつけて東京へ行くつもりだったものの、実際には滑ったと振り返っています。
それでも1998年に2人は上京し、高校のラグビー部で知り合ってから約7年を経て、同じお笑いの道を歩き始めました。
「親不孝」からサンドウィッチマンへ|トリオ時代も経験
現在の「サンドウィッチマン」という名前は、伊達さんと富澤さんが最初から使っていたコンビ名ではありません。
上京直後から数年間だけでも、所属先や人数、コンビ名が何度か変わっています。
「親不孝」「銭と拳」とコンビ名を変えた若手初期
富澤さんが2008年に自身の公式ブログへ記した経歴によると、1998年に上京した2人は、ある芸能事務所のネタ見せに合格し、「親不孝」という名前で活動しました。
ところが、その事務所をほどなく離れてフリーになると、今度は「銭と拳(かねとこぶし)」へ改名しています。
伊達さんが「銭」、富澤さんが「拳」担当だったそうで、富澤さん自身も後から「拳担当」の意味が分からないとブログで振り返っていました。
まだ現在の名前も形も固まっていないまま、小さなライブへ出演する日々が始まりました。
濱田勉を加えたトリオで「サンドウィッチマン」に
1999年には濱田勉さんを加えて3人組になり、ここで現在まで残る「サンドウィッチマン」という名前が登場します。
富澤さんの公式ブログによると、3人になったため「サン」が付く名前を考え、「サンドウィッチマン」「三途の川」「三角関係」という候補から消去法で決まりました。
トリオ時代は長くは続かず、伊達さんによれば1年と少しほどで濱田さんが抜けています。
2024年には伊達さんが濱田さんとの久しぶりの3ショットを公式ブログで公開し、当時3人でネタ合わせをしたり、食事をしたり、けんかしたことまで覚えていると書いています。
サンドウィッチマンという名前は、現在の2人組になる前の「トリオ時代」に生まれた名前でした。
再び富澤との2人組へ|ネタ作りは富澤が担当
2000年には再び伊達さんと富澤さんの2人組へ戻りましたが、「サンドウィッチマン」という名前はそのまま残しました。
ネタ作りは基本的に富澤さんが担い、伊達さんがツッコミとして受ける形が固まっていきます。
伊達さん自身も、後年の対談でお笑いへ誘ったのもネタを作るのも富澤さんだと話しています。
高校時代に伊達さんを面白いと感じていた富澤さんが誘い、会社員を辞めた伊達さんと組み、その富澤さんがネタを書くという関係がここから長く続きます。
同居とアルバイトを続けた長い下積み
コンビ名が決まっても、すぐテレビの仕事が増えたわけではありません。
2001年から2004年ごろはアルバイトをしながら、ライブや営業、Vシネマへの出演などを続けていました。
富澤とは約10年間同居しながらライブへ
上京した2人は同居生活を始め、その期間は約10年に及びました。
1DKの部屋で暮らし、アルバイトで生活費を稼ぎながら舞台へ出る生活です。
ライブの客席が10人ほどしかいないこともあり、舞台へ出てもすぐ仕事につながる状況ではありませんでした。
それでも2人は小さなライブへ出続け、伊達さんは後年「早く誰かに見つけてほしい」と思っていたと話しています。
売れる前から出演回数の多かった「はったりLIVE」について、伊達さんは後年「このライブでのきっかけが現在の全てに繋がっている」と公式ブログに記しています。
父との「3年間」の約束を越え、一度だけ解散を考える
父親に告げた3年間は、何も大きな結果が出ないまま過ぎていきました。
伊達さんは帰ってくるよう言われないため、父親への連絡を減らしながら東京で活動を続けたと明かしています。
2人は普段けんかをほとんどしなかったといいますが、上京から6年ほどが過ぎたころには一度だけ解散を考える場面もありました。
ネタを書いていた富澤さんが「もう、やめとくか」と切り出したのに対し、伊達さんはまだ早いと答えます。
そこで2人は「30歳まで」を新しい区切りにし、最後の1年をお笑いへ集中することにしました。
2005年『エンタの神様』出演で仙台へ帰る寸前から踏みとどまる
2005年、2人はアルバイトを減らし、出られるライブにはできるだけ出演する生活へ切り替えます。
その年、とあるライブに日本テレビ系『エンタの神様』のカメラが入り、そこから出演のオファーが届きました。
披露したのは「ピザの宅配」のコントで、伊達さんにとって初めて全国ネットのゴールデンタイムでネタを見せる機会になりました。
「お笑いをやめずに済んだんです」
日刊スポーツ
同じ2005年にはM-1グランプリで初めて準決勝へ進み、翌2006年にも準決勝まで進出しました。
サンドウィッチマンにとって最初の大きな転機はM-1優勝より前にあり、30歳で出演した『エンタの神様』が芸人を続ける理由になりました。
2007年、地元ラジオからM-1敗者復活優勝へ
『エンタの神様』への出演で芸人を続ける道が残った後も、サンドウィッチマンが一気に全国的な人気コンビになったわけではありません。
2007年には地元・仙台から新しい仕事が始まり、その数カ月後にM-1グランプリを迎えます。
M-1優勝前に仙台で初の冠ラジオが始まる
2007年7月、2人の出身地である仙台市泉区のコミュニティFM「fmいずみ」で、『サンドウィッチマンのラジオやらせろ!』が始まりました。
グレープカンパニー公式YouTubeに残る当時の音源は、M-1優勝前、まだ全国で広く知られる前の2人の会話をそのまま聞ける資料になっています。
番組が始まった時点では、年末に日本一になることはまだ決まっていません。
小さなライブを重ねてきた2人が地元で冠番組を持ち、その年の冬に大きな舞台へ向かいます。
M-1決勝メンバーに入れず、敗者復活戦へ
2007年のM-1グランプリには、公式記録で4,239組が参加しました。
サンドウィッチマンは準決勝まで進みましたが、最初に発表された決勝8組には入っていません。
そのため12月23日の決勝当日は、まず大井競馬場で行われた敗者復活戦からスタートしました。
そこで勝ち上がり、9組目として決勝の舞台へ向かいます。
長い下積みを経た2人にとって、決勝進出が発表された状態で本番を待つのではなく、その日の敗者復活戦を勝ってから、ようやく全国ネットのM-1決勝で漫才をする権利を得たという順番でした。
4,239組の頂点へ|史上初の敗者復活からM-1優勝
決勝ファーストラウンドでサンドウィッチマンは651点を獲得し、キングコング、トータルテンボスとともに最終決戦へ進出しました。
最終決戦を制し、2007年のM-1グランプリ王者になります。
敗者復活戦からそのまま優勝したコンビはM-1史上初で、サンドウィッチマンは4,239組の頂点に立ちました。
24歳で会社を辞めて上京してから約9年、父へ約束した3年間からも大きく時間が過ぎていました。
また、M-1の直前までまったく仕事がなかったわけでもなく、2005年の『エンタの神様』、2007年の地元ラジオと少しずつ仕事が増えた先に優勝があります。
そのため、伊達さんの芸人人生をたどると、『エンタの神様』で続ける道ができ、M-1で全国的な知名度が大きく変わったという二つの転機が見えてきます。
現在も伊達さんはM-1で披露した漫才を特別なものとして振り返る一方、舞台でネタをする活動そのものを続けています。
「やっぱ、ネタやってる時が1番楽しい。」
伊達みきおオフィシャルブログ
M-1後に変わった仕事と、東北との関わり
M-1優勝後はテレビやラジオの出演が増え、サンドウィッチマンを取り巻く環境は大きく変わりました。
ただ、2人はテレビだけへ活動を移したのではなく、現在まで単独ライブや漫才の舞台を続けています。
M-1優勝後もネタとライブを続ける
優勝直後には、それまでとは比較にならないほどテレビの仕事が増えました。
その一方で、ライブ活動をやめず、中川家やナイツと行う「漫才サミット」、毎年の単独ライブツアーなど、客前でネタを披露する場所を持ち続けています。
グレープカンパニー公式サイトでも「サンドウィッチマンライブツアー2026」の開催が案内されており、M-1から長い年月が過ぎた現在も舞台は活動の一つです。
高校のラグビー部で一緒に先輩を笑わせていた2人は、現在も同じコンビで客前に立っています。
2011年に気仙沼で被災し「東北魂義援金」を設立
芸人人生が大きく変わったM-1優勝から約3年後、2人にもう一つ大きな出来事が起こります。
2011年3月11日、サンドウィッチマンは宮城県気仙沼市でテレビ番組のロケをしている最中に東日本大震災に遭いました。
避難して無事だった2人は東京へ戻った後、3月16日に「東北魂義援金」を設立し、被災地への支援を始めます。
その後も気仙沼など東北各地を訪れ続け、義援金やチャリティー活動だけでなく、自分たちの番組でも被災地の様子を伝えてきました。
「我々だけでも絶対に覚えていよう」
QJWeb
仙台で生まれ、高校で富澤さんと出会い、東京へ出た2人にとって、売れた後も東北は仕事や活動から離れない場所になっています。
テレビ・ラジオ・ライブを続ける現在へ
現在の伊達さんは、テレビのMCやロケ、ラジオなど幅広い仕事をしながら、富澤さんとのサンドウィッチマンとして活動を続けています。
グレープカンパニーの公式プロフィールには今もラグビーが2人共通の部活動として掲載され、伊達さんには会社員時代とつながる福祉用具専門相談員の資格も残っています。
高校のラグビー部、5年間の会社員生活、24歳での上京、トリオ時代、長い同居生活、『エンタの神様』、M-1と進んできたため、現在の姿だけを見ると見えにくい時間がその前にあります。
伊達さんが芸人になったのは高校卒業時ではなく、一度社会人として働いた後、祖父の死をきっかけに富澤さんからの誘いを受けた24歳のころでした。
転校を繰り返した少年時代を経て、仙台商業高校のラグビー部で富澤さんと出会い、卒業後はいったん会社員として別の道を歩きました。
そこから会社を辞めて上京し、父と決めた3年を越えても舞台へ立ち続け、30歳の『エンタの神様』と33歳のM-1を経て仕事の景色が変わっていきました。
そして2026年現在も、伊達みきおさんの隣には、高校時代のラグビー部で出会った富澤たけしさんが立っています。












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