板尾創路の生い立ちと家族|ヤンキーだった若い頃、紳助への弟子入り志願から130R結成まで

人物プロフィール

生年月日
1963年7月18日
身長
177cm
血液型
A型
出身地
大阪府 大阪市
コンビ・グループ名
130R
相方・メンバー
ほんこん
結成年
1986年
所属事務所
吉本興業
芸人活動開始年
1985年
養成所・スクール
NSC大阪校 4期

板尾創路さんは、俳優として映画やドラマで見かける機会も多く、自ら映画監督も務めてきました。

一方で、お笑い芸人としての出発点をたどると、相方のほんこんさんと組んだ130R、大阪の心斎橋筋2丁目劇場、そして『ダウンタウンのごっつええ感じ』へと続く時間があります。

さらにその前には、父親の川柳に触れて育った少年時代、バイクや映画に夢中になった中高生時代、高校卒業後に就職しては辞め、進む方向を決められずにいた時期がありました。

芸人への入口になったのは、好きだった島田紳助さんの自宅へ突然「弟子にしてほしい」と訪ねたことでした。

最初から漫才師になる計画を立てていたわけでも、ほんこんさんと最初からコンビを組んでいたわけでもありません。

板尾創路の生い立ちと家族|大阪で生まれ、富田林で育った少年時代

吉本興業の公式プロフィールでは板尾さんの出身地は大阪府大阪市とされていますが、幼少期に大阪府富田林市へ移り、高校卒業ごろまでを富田林で過ごしました。

現在の独特な言葉選びを知ってから子ども時代をたどると、家庭の中にすでに「言葉」と接する機会がありました。

「創路」を「いちろう」だと思っていた幼少期と2歳上の姉

板尾さんには2歳上の姉がいて、父親は姉を「真実」と名付けました。

父親が「真実一路」という言葉を好んでいたため、本来は弟にも「一路」と名付ける構想があったそうですが、最終的には「物事を始める」という意味も持つ「創」の字を使って創路となりました。

ところが家族や親戚は幼い板尾さんを「いちろう」と呼んでいました。

そのため本人も自分を「板尾いちろう」だと思い込み、小学校低学年になってから本当は「いつじ」と読むことを知らされたといいます。

「僕は自分の名前の読み方を『いたお・いちろう』だと思っていたんです」

双葉社 THE CHANGE

芸能界に入って「板尾創路」という名前そのものが知られるようになってからは、芸名を新しく付けることもなく、本名で活動を続けています。

川柳をたしなむ父に連れられ、言葉遊びに触れた子ども時代

名前だけでなく、父親から受けたもう一つの影響が川柳でした。

父親は川柳をたしなんでおり、子どもの板尾さんも、大人たちが川柳を詠む場へ連れて行かれることがありました。

そこで目にしたのは、5・7・5という限られた文字数の中で情景やおかしさを表現する世界でした。

「僕の言葉に対する感性は、川柳を嗜んでいる父の影響が大きいと思います」

双葉社 THE CHANGE

板尾さん自身、余分なものを削ったシンプルな言葉で笑いを取ることを好むと話しており、その感覚に父親の川柳が関係している可能性にも触れています。

映画への興味も早くからあり、子どものころには怪獣映画を見ていました。

のちに板尾さんは、母親とリバイバル上映を見に行った『小さな恋のメロディ』を、映画を見て初めて強く感動した作品として挙げています。

明るい人気者ではなく「一言で笑わせる」のが好きだった小学生

現在の経歴だけを見ると、子どものころからクラスの中心で笑いを取っていたようにも想像できますが、本人の記憶は少し違います。

小学生時代の板尾さんは、いつも明るく騒いでいるタイプではありませんでした。

その代わり、会話の中でズバッと短い一言を入れて周囲が笑う瞬間に面白さを感じていたそうです。

同級生へあだ名を付けることも多く、長くしゃべって場を盛り上げるより、言葉を一つ置いて空気を変えるような笑いを好んでいました。

テレビでは漫才番組を見ており、子どものころに特に好きだったのがチャンバラトリオでした。

本格的な殺陣の技術を持つ大人たちが、あえて幼稚なことを真剣に演じる姿がおかしかったと、後年振り返っています。

中学・高校時代|バイクと映画、漫才ブームに惹かれた若い頃

中学生、高校生になると、板尾さんの生活にはバイクや漫画、映画が入ってきます。

この時点でも、将来お笑い芸人になるという具体的な目標はありませんでした。

「ファッションのヤンキー」として数人の友人とバイクに乗った中高時代

板尾さんは当時の自分を「ファッションのヤンキー」だったと表現しています。

育った地域には田んぼが多く、都会で流行していたファッションよりも、改造した制服やバイクといったヤンキー文化のほうが身近にありました。

ただし、大きな暴走族のような集団へ入ったわけではありません。

上下関係の中で人から命令されることを好まず、バイクで走るときも数人の同級生と一緒でした。

『嗚呼!!花の応援団』や『男組』などの漫画を読み、喫茶店へ行き、映画館にも足を運びました。

学校を抜けて、当時500円ほどだった二番館で『男はつらいよ』の3本立てを見たこともあったといいます。

周囲の先輩たちが高校卒業後に進んでいく姿を見る一方で、自分がその先に何をするのかは決まっていませんでした。

チャンバラトリオから紳助・竜介へ、お笑いへの興味が強くなる

高校時代には漫才ブームが起こります。

ツービートやB&Bなど多くの人気コンビがテレビに出演する中で、板尾さんが特に惹かれたのは島田紳助・松本竜介でした。

自分たちと近いヤンキーファッションの若者が、漫才をして客を笑わせ、テレビの人気者になっている姿が目に入ります。

「ヤンキーの先に、こんな未来もあるんや」

双葉社 THE CHANGE

それでも、この段階では自分が漫才師になるとは考えていませんでした。

友人と漫才の真似をすることはあっても、ネタを完成させて舞台に立つような発想には進んでいません。

なんばグランド花月で見た若きダウンタウンに受けた衝撃

芸人を目指す前の板尾さんは、なんばグランド花月で、まだ全国的な人気を得る前のダウンタウンの漫才も見ています。

昼間の客が少ない公演で最初に登場したダウンタウンが、一言ずつしゃべるたびに面白く、それまで見ていた漫才とは明らかに違ったと感じたそうです。

このときの板尾さんは、まだダウンタウンと同じ舞台に立つ立場ではありません。

数年後、そのコンビが中心となる2丁目劇場で過ごし、さらに全国放送のコント番組で共演することになります。

高校卒業後、食品会社と紳士服会社を短期間で辞める

高校では途中で学校を辞める同級生も少なくありませんでしたが、板尾さんは親に学費を出してもらっていることも考え、卒業しました。

しかし、その先の進路は決まっていません。

卒業のために就職先を決める必要もあり、まず食品会社への就職を決めましたが、本人によれば1日も出社しないまま辞めています。

その様子を見た父親が今度は紳士服会社へ入れる手助けをしました。

こちらも約半年で退職します。

芸人を目指して会社を辞めたわけではなく、辞めた時点では次の目標もありませんでした。

就職が続かない一方で、お笑いや映画への興味だけは生活の中に残っていました。

板尾創路が芸人になったきっかけ|島田紳助への弟子入り志願からNSCへ

仕事を辞めた板尾さんが、最初に選んだのは養成所の資料を取り寄せることではありませんでした。

高校時代から好きだった島田紳助さん本人へ会いに行こうとします。

『ヤングタウン』を聴き、ケーキを持って島田紳助宅へ

紳助・竜介の漫才に加え、板尾さんはMBSラジオ『ヤングタウン』で島田紳助さんの話を聴くうちに親近感を持つようになりました。

やがて「弟子になりたい」と思うようになります。

放送局や劇場で出待ちするより、本人の家へ行ったほうが早いと考え、ラジオの放送が終わるころを見計らって自宅へ向かいました。

手にはケーキを持っていました。

インターホンを押し、弟子にしてほしいと伝えると、紳助さんは突然やってきた板尾さんを家へ招き入れ、話を聞いたそうです。

人生の方向が変わったのは、このアポなしの訪問でした。

弟子入りは叶わず、そこで初めてNSCという道を知る

紳助さんにはすでに弟子がいたため、新たに弟子を取ることはできませんでした。

代わりに教えられたのが、吉本興業の養成所NSCでした。

その場で断られて終わったわけではなく、板尾さんはその後も紳助さんの家を訪れ、食事をしながら芸能界について話を聞く機会があったといいます。

紳助さんは夢だけを語るのではなく、芸人を続ける期限や、結果が出なかった場合の生活についても現実的な話をしました。

「才能のあるなしはやってみないとわからないので、NSCに通ってみようと決めたんです」

双葉社 THE CHANGE

弟子入りを断られたことが、結果として養成所から芸人になるという別の入口を作りました。

1985年にNSC大阪校4期へ入り、殺陣やネタ見せを経験

板尾さんは1985年、NSC大阪校4期へ入ります。

当時の授業にはジャズダンス、声楽、殺陣、エチュードなどがあり、ネタ見せやエキストラの招集を通じて吉本興業の社員と接点を持つ機会もありました。

最初は真面目に通っていたものの、次第に出席する日数は減っていったと本人は話しています。

その中でも好きだったのが殺陣の授業でした。

子どものころ好きだったチャンバラトリオの山根伸介さんが教えており、初心者でも楽しめる内容だったそうです。

NSCには、のちに相方となるほんこんさんや今田耕司さんもいました。

ただし、この時点で板尾さんとほんこんさんが130Rとして活動を始めたわけではありません。

NSC卒業後と130R結成|板尾創路からほんこんを誘った

NSCで知り合った板尾さんとほんこんさんは、最初からコンビになることを前提に付き合っていたわけではありません。

卒業後もしばらく別々の道を歩いたあと、2人の活動が重なっていきます。

NSC寄席では相方を替え、「ホンコン・マカオ」でも舞台へ

NSCでは定期的に生徒による寄席があり、板尾さんもクラスの生徒とコンビを組んで舞台へ出ていました。

ただ、特定の一人と固定して活動していたわけではなく、寄席ごとに相手を替えるような時期がありました。

その中では「ホンコン・マカオ」という名前で組んだこともあります。

後年、ほんこんさんが別の相方と同じコンビ名を使いたいと板尾さんへ相談したという、少し変わった経緯も残っています。

卒業後は2丁目劇場の芝居へ、ほんこんは別のコンビを経験

NSCを出た板尾さんは、すぐに固定コンビを作ったわけではありませんでした。

心斎橋筋2丁目劇場の開場に向けて大﨑洋さんがNSC卒業生を集めて行ったオーディションを受け、こけら落とし公演の『心斎橋二丁目物語』へ出演することになります。

一方、ほんこんさんは今田耕司さんとダブルホルモンズを結成しましたが、そのコンビは解散。

その後も別の相方とのコンビや石田靖さんとの活動を模索するなど、ほんこんさんも相方が定まらない時期を過ごしました。

板尾さんは芝居へ出る機会があり、ほんこんさんはネタをする。

NSCの同期として近くにいながら、まだ別々に活動していました。

行き詰まりを感じた板尾からほんこんに声をかける

芝居への出演を続けていた板尾さんは、数カ月に一度の舞台だけでは活動が前に進まないと考え始めます。

そのころ、ほんこんさんは再び相方がいない状態でした。

そこで声をかけたのは板尾さんのほうです。

「試しに組んでみぃひん?」

双葉社 THE CHANGE

板尾さんは、そのときのほんこんさんのうれしそうな顔を後年まで覚えていると話しています。

NSC入学時ではなく、別々の活動を経験したあとに板尾さんから誘ったことが130R結成への直接のきっかけでした。

コントで手応えをつかみ、2人のバイク好きから「130R」へ

2人で舞台に立ってコントをすると手応えがあり、次第に2丁目劇場へ定着していきました。

吉本興業の公式プロフィールでは、130Rの結成は1986年6月とされています。

当初は「蔵野・板尾」と表記される時期もあり、コンビ名がすぐに決まったわけではありません。

番組でコンビ名を募集する話まで出ましたが、最終的には自分たちで決めることにしました。

選んだのが「130R」です。

島田紳助さんの個人事務所に使われていた名前で、2人ともバイクが好きだったこともあり、紳助さんから許可を得て使用しました。

紳助さんは芸人になる入口でNSCを教え、数年後にはコンビ名にも関わる存在となりました。

心斎橋筋2丁目劇場での若手時代|130Rがテレビへ進むまで

130Rを組んだ板尾さんとほんこんさんは、心斎橋筋2丁目劇場を中心にコントを続けます。

板尾さんにとって大阪時代は、後年「苦しかった」と振り返る下積み生活とは少し違っていました。

「アンチ吉本・アンチ花月」の2丁目劇場を自分たちの舞台と感じた

当時、吉本興業の中心的な舞台といえば、なんば花月やうめだ花月など、師匠世代も出演する劇場でした。

それに対して大﨑洋さんらが立ち上げた2丁目劇場では、「アンチ吉本」「アンチ花月」という方向性が打ち出されます。

師匠を持たずNSCから入った若手たちにとっては、自分たちで舞台を作っていく場所でした。

「自分たちの世代の舞台という誇りを持っていました」

双葉社 THE CHANGE

ダウンタウンとは『心斎橋筋2丁目物語』への出演を通して距離が近くなりました。

ほんこんさん、今田耕司さん、木村祐一さん、東野幸治さんらとも集まり、ネタの分析やアドバイス、映画や漫画の話をする時間が増えていきます。

板尾さんは当時について、意識しないまま一日中お笑いのことを考える生活になっていたと振り返っています。

『素敵!KEI-SHU5』から『4時ですよ~だ』へ合流

1987年4月、毎日放送でダウンタウンがMCを務める『4時ですよ~だ』が始まりました。

2丁目劇場から生放送され、若者の人気を集めていきます。

今田さんと東野さんは初期から出演しましたが、結成時期が遅かった130Rは当初レギュラーに入れませんでした。

130Rは関西テレビの帯番組『素敵!KEI-SHU5』へ出演しながら活動を続け、やがて『4時ですよ~だ』にも合流します。

同じ2丁目の芸人たちが活躍する番組を横で見ながら、別の番組で自分たちの仕事を続ける時間が先にありました。

生放送の大喜利で覚えた「一人ではなく全員で作る笑い」

板尾さんが『4時ですよ~だ』の中で特に覚えているのが、生放送で行われていた大喜利です。

一人ずつが自分の回答だけで勝負するのではなく、その場にいる出演者全員で流れを作っていくものとして捉えていました。

浜田雅功さんが回答者を見ながら、誰を最初に出し、場が温まったところで誰へ振るのかを調整していたことも印象に残っているそうです。

個人の一発の面白さだけでなく、出演者同士の順番や流れで笑いを大きくする現場を経験しました。

1989年に新人賞を受賞しても、まだ全国区への転機ではなかった

130Rは1989年、第10回ABCお笑い新人グランプリの諸芸部門で優秀新人賞を受賞しています。

ただ、板尾さんの歩みでは、この受賞だけを境に全国的な仕事が一気に増えたわけではありません。

大阪では2丁目劇場とテレビで人気が出ていましたが、やがてダウンタウンが東京での仕事を増やし、周囲の環境が変わり始めます。

板尾さんは大阪時代について、住む場所や食事に困るような生活ではなく、「つらい」よりも楽しい時間だったと話しています。

『ごっつええ感じ』で東京へ|板尾創路が全国に知られる転機

大阪で人気番組に出演していても、その状態がそのまま続いたわけではありません。

ダウンタウンの東京進出を境に、板尾さんたちにも次の選択が迫られました。

ダウンタウンが東京へ進み、130Rは一度大阪に残った

『4時ですよ~だ』が大阪で社会現象と呼ばれるほどの人気を得たあと、ダウンタウンは東京での活動を本格化していきます。

板尾さんは、自分たちも一緒に東京へ呼ばれるのではないかという期待をわずかに持っていましたが、130Rは大阪に残りました。

中心だったダウンタウンがいなくなると2丁目劇場の客足にも変化が出ます。

会社から吉本新喜劇への出演を求められ、新しい場所で活動しながらも、板尾さんの中では東京へ出たいという気持ちが強くなっていきました。

レギュラー版『ごっつええ感じ』への参加を機に東京へ

そんな時期にフジテレビで『ダウンタウンのごっつええ感じ』の特番が企画されます。

特番の段階では今田さんと東野さんの名前がありましたが、板尾さんとほんこんさんは呼ばれていませんでした。

その後、番組がレギュラー化されることになり、130Rにも出演の声がかかります。

「このチャンスを活かそう」

双葉社 THE CHANGE

板尾さんは『ごっつええ感じ』を「蜘蛛の糸」のような機会だったと表現しています。

130Rにとって、東京で全国放送の仕事へ本格的に踏み出す大きな転機になりました。

台本通りではなく「設定の中で面白くする」コント作り

『ごっつええ感じ』のコントは、完成した台本を出演者がそのまま演じる作り方ではありませんでした。

構成作家が書いた案の中から松本人志さんが選び、収録後には出演芸人と作家が話し合って内容を練り、収録当日にも衣装や小道具を変えることがありました。

流れは決めても、本番ではその場で面白いと思ったことを試していきます。

収録が深夜まで続くことも珍しくなく、出演者は現場にいるスタッフをまず笑わせることを考えていたと板尾さんは話しています。

板尾さんにとって、この「設定を渡され、その中で自分が何をするかを考える」方法が、その後のコント作りの基準になりました。

浜田さんが全体の流れを整え、松本さん、今田さん、木村さん、東野さんらと同じコントの中で、それぞれが相手より面白いことを出そうとする現場でした。

130Rとしてより個々の仕事が増えても、現在まで解散していない

『ごっつええ感じ』では、板尾さんとほんこんさんが「130Rの2人」として常にセットで動くわけではありませんでした。

それぞれ一人の芸人としてコントや企画へ参加し、やがて別々の分野での仕事が増えていきます。

現在も130Rでネタを披露する機会は多くありませんが、吉本興業の公式プロフィールには結成年月1986年6月の現役コンビとして掲載されています。

2023年には、ほんこんさんから芸歴16年以上の漫才師を対象とした『THE SECOND』への出場を提案されたこともありました。

板尾さんは、130Rは漫才を長年磨いてきたコンビではなく、もともとコントを中心にテレビで活動してきたと説明しています。

そのうえで、コンビについては「解散する理由もない」という考えを語っており、別々の仕事が中心になっても130Rという関係は残っています。

芸人から俳優・映画監督へ|板尾創路の現在につながる仕事

東京へ出て『ごっつええ感じ』でコントを続けた板尾さんは、その後、芸人以外の仕事でも名前を見かけるようになります。

ただ、俳優になるために芸人を離れたわけではありません。

思いがけない映画への誘いから俳優の仕事が増えていく

板尾さんが俳優の仕事が増えるきっかけとして語っているのは、國村隼さんの所属事務所の関係者から映画に興味がないかと声をかけられたことでした。

そこで青山真治監督の映画『月の砂漠』に出演。

その仕事をきっかけに豊田利晃監督やSABU監督などから声がかかり、映画出演が続くようになったと説明しています。

自分で「俳優になる」と進路を切り替えたというより、目の前に来た仕事を続けるうちに活動範囲が広がっていきました。

若い世代から「俳優だと思っていた」「ほんこんと現役のコンビなのか」と驚かれることもあると本人が話すほど、後年は役者としての印象も強くなっています。

『板尾創路の脱獄王』『月光ノ仮面』『火花』で監督・脚本へ

出演する側だけでなく、板尾さんは映画を作る側にも進みました。

2010年に公開された『板尾創路の脱獄王』で長編映画監督を務め、自ら主演も担当します。

続く『月光ノ仮面』では監督・脚本・主演を担当し、古典落語『粗忽長屋』をモチーフに独自の作品を作りました。

『月光ノ仮面』は第35回モントリオール世界映画祭のフォーカス・オン・ワールドシネマ長編部門にも出品されています。

2017年には又吉直樹さんの小説を原作とする映画『火花』の監督を務めました。

子どものころから映画館へ通い、母親と見た一本の映画に心を動かされ、高校時代にも授業を抜けて映画を見ていた少年が、のちには自分で映画を撮る立場にもなっています。

俳優として知られる現在も、原点は130Rとコントにある

俳優や監督の仕事が増えたあとも、板尾さんがお笑いから離れ切ったわけではありません。

2021年にはLINE NEWS VISIONの『板尾イズム』で、約11年ぶりとなる冠コント企画に出演しました。

インタビューでは、『ごっつええ感じ』以前から吉本新喜劇や130Rで数多くのコントを経験してきたことにも触れています。

父親の川柳、小学生のころから好んだ短い一言、2丁目劇場で経験した大喜利、130Rのコント、『ごっつええ感じ』の現場。

仕事の肩書きが増えても、その前に長く積み重ねてきたのは人を笑わせる現場でした。

2026年に新たな喜劇公演が発表、2027年も舞台へ

2026年8月には、大阪国際文化プロジェクトの一環として『伝説の喜劇作家・板尾いつぞう~逆襲の王立劇場』の開催が発表されました。

後藤ひろひとさんが作・演出を務め、板尾さんの曽祖父が残した喜劇脚本を発見した、という設定から始まるモキュメンタリー形式の短編オムニバス公演です。

もちろん公式サイトには、その曽祖父の物語について「全部がうそ」だと明記されています。

公演は2027年2月5日から14日まで大阪・ABCホールで開催予定で、板尾さんも出演者に名を連ねています。

俳優や映画監督として活動が広がったあとも、板尾創路さんの仕事にはコントや喜劇へ戻ってくる流れが残っています。

川柳を楽しむ父のそばで言葉に触れ、一言で友人を笑わせていた少年は、進路が決まらない時期に島田紳助さんの家を訪ねたことからNSCへ入りました。

そこで出会っていたほんこんさんと後から130Rを組み、2丁目劇場から『ごっつええ感じ』へ進んだあと、俳優、映画監督へと仕事の幅を広げています。

現在も130Rは解散しておらず、板尾さんは複数の肩書きを持ちながら、喜劇やコントの仕事にも立ち続けています。

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