人物プロフィール
豪快キャプテンのべーやんは、金髪の爽やかなルックスと広島弁を交えた飄々とした話し方で、山下ギャンブルゴリラさんの勢いあるツッコミを受ける漫才師です。
2025年には豪快キャプテンとしてM-1グランプリで初めて決勝へ進み、その後はテレビやラジオ、冠番組へと仕事の幅も広がりました。
ただ、べーやんは学生時代から舞台で笑いを取り続けていたわけではなく、高校3年生でハイスクールマンザイへ出ようとしたときには、一緒に出てくれる友人すら見つかりませんでした。
工業高校を卒業して就職する同級生が多い中、父親へ芸人になることを伝え、広島を離れて大阪へ向かったのは18歳のころです。
小学5〜6年生のころから口にしていた「芸人になりたい」という気持ちを、高校卒業まで持ち続けてNSCへ進みました。
べーやんの生い立ちと家族|広島で志村けんに憧れた少年時代
べーやんは1994年10月2日、広島県広島市出身で、現在も吉本興業の公式プロフィールでは広島市出身と紹介されています。
子どものころから漫才番組ばかりを見ていたわけではなく、最初に強く惹かれたお笑いは、テレビで見ていた志村けんさんでした。
広島市で育ち、「バカ殿様」がお笑いの入口に
関西出身の山下さんが幼いころから昼間の漫才番組を見て育ったのに対し、べーやんは広島で「志村けんのバカ殿様」などを見ていました。
2024年のインタビューでは、本人が「バカ殿様」を自分のお笑いの入口として挙げています。
2026年のインタビューでも、志村けんさんが大好きで、子どものころには漠然と志村さんのようになりたいと思っていた記憶があると明かしました。
小学5〜6年ですでに「芸人になりたい」と話していた
テレビを楽しむだけだった時期から、芸人という職業を自分の将来として意識するようになったのはかなり早く、小学5〜6年生のころには周囲へ芸人になりたいと話していました。
「僕は小学5、6年の時には芸人になりたいって言ってました。」
ch FILES
中学校を卒業するときにはNSCへ行くことも考えましたが、その場ですぐ大阪へ向かうのではなく、高校へ進み、それでも芸人になりたかったらNSCへ行くことにしました。
電気工事士の父を見て「手に職」を考え、工業高校へ
芸人への思いを持ちながら選んだ進学先は、普通科高校ではなく工業高校でした。
父親が電気工事士として働いていたことから、べーやん自身も手に職を付けることを考え、工業高校への進学を選んでいます。
この時点では、芸人だけに進路を絞り切っていたわけではなく、仕事につながる技術を学ぶ道も残していました。
広島市立広島工業高校時代|工業男児の3年間と芸人への進路
進学したのは広島市立広島工業高等学校で、本人は「市工」と呼んでいました。
べーやん自身がよしもと漫才劇場の公式コラムで高校生活を詳しく書いており、芸人になる以前の日常がかなり具体的に残っています。
第一志望の電気科に落ち、第二希望の環境設備科へ
受験時に希望していたのは、友人と一緒に入ろうとしていた電気科でした。
ところが合格発表では自分の番号が電気科に見つからず、友人と高校生活を送るつもりだったべーやんは、その場で声を上げるほど驚きました。
直後、友人から別の場所に番号があることを知らされ、確認すると第二希望の環境設備科に合格していました。
環境設備科では、水道管やガス溶接、製図、電気など幅広い内容に触れ、資格試験にも挑戦しましたが、本人によれば資格取得には至りませんでした。
女子2人のクラスでバスケに打ち込んだ高校生活
環境設備科では3年間同じクラスで過ごし、クラスの女子生徒は2人だったと本人は書いています。
文化祭では1年生のときに教室で輪投げを行い、その後には豚汁を出したこともありました。
体育館は各学科が制作した作品を展示する場所になっていたため、本人が思い描いていたような舞台での出し物とは縁がありませんでした。
「漫才とか、音楽とか、劇とかそんなんしたかった!!!」
よしもと漫才劇場公式note
一方で、学校生活ではバスケットボールに打ち込みました。
本人は上達しなかったと自虐的に書いていますが、現在も吉本興業のプロフィールでバスケットボールは特技の一つに挙げられています。
他校の女子とデートする機会を作りながら、緊張して当日に断ってしまったこともあり、高校時代の本人は現在の舞台上とは違う一面も見せていました。
高3でハイスクールマンザイを目指すも相方が見つからない
高校生活も終盤に入ったころ、芸人への気持ちはまだ消えていませんでした。
高校3年生ではハイスクールマンザイへの出場を考え、友人へ一緒に出ようと声をかけています。
ところが、誘った友人の中に一緒に出てくれる相手はおらず、学生漫才の舞台には立てませんでした。
それでも、中学卒業時に自分で決めていた「高校を卒業するときにも芸人になりたければNSCへ行く」という条件は変わりませんでした。
進路相談で一人だけ「芸人になりたい」|父へ伝えてNSCへ
卒業が近づくと、工業高校の同級生たちは就職を中心にそれぞれの進路を決めていきました。
そんな中、べーやんは進路相談で担任へ芸人になりたいと伝えます。
ところが、この時点ではまだ父親へ芸人志望を伝えておらず、担任から先に父親へ話すよう促されました。
父親に話すと最初は驚かれ、「何を言うとんだ」という反応もありましたが、べーやんは芸人になりたいと伝え続けました。
最終的に父親も進路を認め、高校卒業後は就職せず広島から大阪へ移り、NSC大阪36期へ入りました。
NSC大阪36期とセントビンセント|最初の芸人人生
広島を離れた時点で、べーやんはまだ10代でした。
子どものころから考えていた芸人という職業へ、ここから実際に足を踏み入れます。
広島から大阪へ移り、半年後にホームシックになる
大阪へ向かった直後は不安より楽しみの方が大きく、本人はようやく自分がなりたかったものになれるという気持ちでNSC生活を始めました。
ところが入学から半年ほどすると、突然広島へ帰りたいという気持ちが強くなります。
NSCには年齢も経歴も違う人たちが集まっており、地元を離れたばかりのべーやんには、まだ気心の知れた相手が十分にいませんでした。
本人自身も、自分がそこまで広島へ帰りたくなっていることに驚いたと話しています。
気心の知れた同期ができ「もう少し頑張ろう」と踏みとどまる
ホームシックが和らいだのは、NSC内に少しずつ気心の知れた同期ができ始めてからでした。
広島へ帰ることを考えていた時期を越え、「もう少し頑張ってみよう」と大阪で芸人を続ける方へ気持ちが落ち着いていきました。
NSC大阪36期には、のちにそれぞれ芸人として活動を続ける同世代もおり、べーやんにとって初めて本格的にお笑いの世界で人間関係を作っていく時期になりました。
U-20お笑いコンテストをきっかけにセントビンセントを結成
現在の豪快キャプテンより前に、べーやんはセントビンセントというコンビで活動していました。
「ワラチャン!U-20お笑い日本一決定戦」の予選会場で知り合った相手とコンビを組み、最初の芸人人生をスタートさせています。
2014年には関西テレビの番組企画「Vine-1グランプリ」で優勝し、芸歴の早い段階で結果を残したこともありました。
芸歴1年目で結果を残すも、劇場では苦戦した約5年間
テレビ企画で優勝した一方、劇場では思うように結果が出ず、セントビンセントは小規模なライブを中心に活動する時期が続きました。
活動期間は約5年に及びましたが、その後コンビは解散します。
小学生のころから目指した芸人にはなれたものの、そこから舞台で安定して笑いを取れるようになるまでは別の時間が必要でした。
セントビンセント解散から豪快キャプテン結成へ
前のコンビを終えたころ、現在の相方である山下ギャンブルゴリラさんも別のコンビを解散した時期でした。
山下さんはNSC大阪35期、べーやんは36期で、芸歴では1期違いですが年齢は約6歳離れています。
旧コンビ解散後、ほとんど話したことのなかった山下と接点が生まれる
同じ吉本興業で活動していた2人ですが、以前から仲の良い先輩後輩だったわけではありません。
山下さん自身、セントビンセントが解散したと同期から聞くまで、べーやんとはほとんど話したことがなかったと明かしています。
山下さん側も以前のコンビを解散しており、お互いが新しい相方を探せるタイミングが近くなったことで、試しに一緒に活動することになりました。
山下のツッコミに惹かれ、お試しユニットから正式コンビへ
べーやんは、一緒に組む以前から山下さんのツッコミを見ており、面白い人だという印象を強く持っていました。
実際にユニットとして合わせてみると、その印象は変わらず、べーやんの方から正式なコンビ結成を持ちかけます。
「『逃すまい』と思ってボクからコンビ結成を言い出しました。」
マイナビニュース
現在の豪快キャプテンは、べーやん自身が山下さんへ「コンビを組んでください」と申し出たところから始まっています。
2019年5月27日結成|組んで初めて「ウケる」感触を知る
豪快キャプテンの正式な結成日は2019年5月27日です。
当時、山下さんは劇場メンバーでしたが、べーやんはまだ劇場メンバーではなく、山下さんから見ても2人の立場には大きな差がありました。
べーやん自身も当時の自分をかなり低い位置にいたと振り返っています。
それでも山下さんと組んだ舞台では、それまでとは違う反応があり、豪快キャプテンになって初めて「ウケるとはこういうことか」という感触を得たと本人は話しています。
豪快キャプテンの若手時代|家族ができても芸人を続ける選択
現在はしゃべくり漫才の印象が強い豪快キャプテンですが、結成時から今と同じ形だったわけではありません。
コンビを組めばすぐ結果が出たわけでもなく、結成後にも芸風と生活の両方で大きな変化がありました。
結成当初は漫才コントで思うような結果が出なかった
結成初期に2人が取り組んでいたのは漫才コントでした。
しかし思うような結果にはつながらず、現在のように、べーやんが話し始めた内容へ山下さんが強く反応して会話を広げていく漫才は、まだ完成していませんでした。
ネタ作りも喫茶店でノートを広げて考える時期があり、何も思い付かないまま時間だけが過ぎる日もあったと山下さんは話しています。
コロナ禍に子どもができ、「芸人を辞めたくない」と相方へ伝える
豪快キャプテン結成から数年後、仕事が大きく減ったコロナ禍に、べーやんは当時交際していた女性との間に子どもができたことを山下さんへ伝えました。
当時の2人はまだ劇場メンバーではなく、山下さん自身もエアコン清掃のアルバイトで、芸人の仕事以上に収入を得ていた時期でした。
山下さんは、子どもが生まれるならべーやんは芸人を辞めて別の仕事をするものだと考え、自分自身もコンビが終われば芸人を辞める覚悟をしていました。
ところが、べーやんが選んだのは芸人を続ける方でした。
生活環境が大きく変わろうとしていた時期にも、べーやんは山下さんへ「続けたい」という意思を伝えました。
交際相手の両親からも、芸人を辞めるよう求められるのではなく、仕事と家庭をどう両立するのかという話をされたことで、続けられると感じたと本人は明かしています。
2022年に結婚し第1子誕生|家庭と芸人活動を並行
べーやんは2022年に一般女性と結婚し、同じ年に第1子が誕生しました。
結婚を公表したのは後の2024年2月で、その際には第2子が誕生したことも併せて明かしています。
結婚や子どもの誕生だけを切り取ると私生活の出来事ですが、芸人人生の時間軸では、仕事が少ない時期にそれでも漫才を続けると決めた直後の出来事でした。
新ネタライブ直前の「タバコ」が現在の漫才スタイルを作る
芸風が大きく変わるきっかけは、綿密に用意した一本の台本ではありませんでした。
ある新ネタライブの日、出番が近づいても新しいネタが完成せず、残り2組ほどというところまで追い込まれます。
そこで、2人ともタバコを吸うことから、タバコを題材に普段のように話して舞台へ出ることにしました。
すると、その会話が予想以上に大きく受けました。
舞台直前に始めた「タバコ」の会話は、その後の豪快キャプテンのしゃべくり漫才を形作り、M-1で初めて準決勝へ進んだネタにもなりました。
現在のネタ作りも、まずテーマを決めて2人で話し、それを録音して聞きながら形を整えていく方法が中心です。
山下さんが大まかな流れを考えることはありますが、完成した台本を最初から最後まで読み合わせる形とは違い、2人が普段話している空気を残すことが重視されています。
2023年から賞レースで前進|劇場から全国ツアーへ
現在につながる明確な変化が見え始めたのは2023年です。
ここから豪快キャプテンは、大阪の劇場だけでなく賞レースでも名前を残すようになりました。
ytv漫才新人賞3位、初単独、M-1初準決勝へ
2023年3月には第12回ytv漫才新人賞決定戦で3位となり、同年7月にはよしもと漫才劇場で初単独ライブ「頑張れ!豪快キャプテン~ほんまに頑張れ編~」を開催しました。
そして同年のM-1グランプリでは、結成後初めて準決勝へ進みます。
このとき準決勝進出まで使ったのが、ライブ直前の会話から始まった「タバコ」のネタでした。
2024年初めのインタビューで、べーやんはM-1について、身近で人の人生が変わっていく場所だと表現しています。
2024年もM-1準決勝へ進み、2年連続であと一歩まで迫る
2024年も豪快キャプテンはM-1準決勝へ進出し、2年連続の準決勝となりました。
一度だけの結果ではなく、同じ舞台まで繰り返し進めるようになった時期です。
舞台外でも仕事は少しずつ広がり、MBSラジオ「ヤングタウンNEXT」など、2人の会話そのものを見せる仕事も増えていきました。
2025年の初全国ツアーは地元・広島からスタート
2025年には、豪快キャプテンとして初めての全国ツアー「頑張れ!豪快キャプテン」を開催します。
最初の会場に選ばれたのは、べーやんの地元である広島でした。
「初全国ツアーです! ツアーが出来るなんて夢のようです!」
FANY Magazine
広島公演ではゲームや企画で時間を埋めるのではなく、漫才6本を披露するネタ中心の公演になりました。
ツアーは広島から愛知、東京、大阪へ続き、各地の会場が完売する公演となりました。
父が広島公演の舞台に登場し、上方漫才大賞新人賞も受賞
広島公演の最後には、べーやんの父親がステージへ登場しました。
18歳のべーやんから芸人になると聞かされて驚いていた父親は、その後は単独ライブにも足を運ぶようになり、広島から名古屋まで舞台を見に来たこともあります。
芸人への進路に驚いた父親が、十数年後には息子の全国ツアー初日の舞台へ立っていました。
全国ツアー開始から約1か月後の2025年4月には、第60回上方漫才大賞の新人賞を受賞しました。
M-1グランプリ2025初決勝で6位|仕事が変わった現在
2023年、2024年と2年続けて準決勝まで進んだ豪快キャプテンは、2025年にもう一段階先へ進みました。
結成6年目にして、初めてM-1グランプリの決勝進出を決めます。
839点で6位|初めて立ったM-1決勝
M-1グランプリ2025は11,521組がエントリーし、豪快キャプテンは決勝のファーストラウンドで839点を獲得しました。
順位は6位で、最終決戦には届かなかったものの、初めて立ったM-1決勝で全国へ漫才を届けることになりました。
本番は9番目の出番で、2人は約2時間半、緊張しながら待機しました。
山下さんが食事も取れないほど緊張する中、べーやんは楽屋に置かれていたどら焼きを楽しんでいたという、2人の違いが分かる場面も残っています。
小学生のころから芸人になると言っていたべーやんが、2025年12月にM-1決勝の舞台へ立ちました。
父の応援旗と、決勝を見ながら涙した祖母
決勝進出を喜んだのは本人だけではありませんでした。
父親は決勝へ向かう息子を応援するために、のぼりや旗を作り、飲食店などに飾ってもらっていたといいます。
友人も横断幕を用意し、広島にいたころから知る人たちが決勝進出を祝いました。
「おばあちゃんが決勝観ながら泣いた」
ch FILES
これは母親から聞いた話で、べーやん自身も決勝後にもらった知らせの中で特にうれしかったものとして挙げています。
大阪のレギュラーや東京の仕事が増え始める
M-1決勝進出後は、実際に仕事の内容も変わりました。
山下さんは2026年のインタビューで、決勝へ進んだことで大阪でレギュラー番組ができ、東京のテレビにも呼ばれるようになったと話しています。
2026年4月からは、MBSラジオで「豪快キャプテンのMBSヤングタウン」が毎週月曜日に放送され、「MBSヤングタウンNEXT」から本家ヤングタウンの担当へ移りました。
同年7月にはGAORA SPORTSで初の冠レギュラー番組「豪快キャプテンの よそはよそ、うちはうち。」も始まり、漫才だけでなくMCやトーク、企画を担う機会も増えています。
M-1決勝は「優勝した瞬間に突然売れた」という出来事ではなく、それまで少しずつ増えていた仕事をさらに広げる転機になりました。
「格好良い漫才師」を目指して漫才を続ける現在
テレビやラジオの仕事が増えても、2人が続けたいものとして挙げているのは漫才です。
山下さんは年齢を重ねても劇場で漫才を続けたいと話し、べーやんも現在の目標を短い言葉で表しています。
「格好良い漫才師になりたい」
マイナビニュース
志村けんさんを見ていた広島の小学生は、工業高校から大阪へ出て、最初のコンビで約5年間活動し、その解散後に山下さんと出会いました。
仕事が少ない時期に家族ができても芸人を続け、舞台直前の会話から見つけた漫才で賞レースを進み、豪快キャプテンとしてM-1決勝へたどり着きました。
現在も2人は、劇場で漫才を続けながら、その会話をテレビやラジオへ広げています。












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