人物プロフィール
バイきんぐのボケとしてコントの舞台に立つ一方、現在はキャンプ好きとしても広く知られている西村瑞樹さん。
現在の姿からさかのぼると、少年時代は広島県安芸郡府中町の自然の中で遊び、高校では文化祭の漫才をきっかけにお笑いの道を意識するようになりました。
さらに高校3年生の夏、大分県の自動車教習所へ免許合宿に行ったことで、まだ話したこともない小峠英二さんと偶然同じ場所に居合わせています。
文化祭で漫才がウケた高校時代から、免許合宿、NSCでの再会、1996年のコンビ結成へと、現在のバイきんぐにつながる出来事は10代後半に次々と起きていました。
ここからは、西村さんがどんな少年時代を送り、なぜ芸人を目指し、小峠さんとバイきんぐを結成して長い下積みを抜けていったのかを、時間の流れに沿ってたどります。
西村瑞樹の生い立ちと家族|広島・府中町で過ごした少年時代
西村さんは1977年4月23日生まれで、幼少期には広島県安芸郡府中町で暮らしていました。
2026年に府中町が掲載した本人インタビューには、現在のキャンプ好きにもどこか重なるような、外で遊んでいた子ども時代の記憶が残されています。
府中北小学校に通い、水分峡を「庭」のように遊び回った
府中町では城ヶ丘に住み、府中北小学校へ通っていました。
特によく遊んでいた場所が、府中町にある水分峡です。
決まった道だけを通うのではなく、いろいろなルートを知り、その日の気分で道を変えながら遊びに行くほど身近な場所だったといいます。
西村さん自身が後年、水分峡を「庭のようなもの」と表現するほどでした。
近所の城ヶ丘公園でもよく遊び、大人になって自分の子どもを連れて訪れた際には、自分が滑った滑り台で子どもが遊んでいる光景を見ています。
テレビで見せるキャンプ姿よりずっと前から、山や公園が身近にある環境で子ども時代を過ごしていました。
ソフトボールに熱中し、活躍が町の広報紙に載るのを楽しみにしていた
小学生のころはソフトボールにも取り組んでいました。
当時の府中町では小学校ごとに複数のチームがあり、学校同士で大会が開かれていたそうです。
西村さんにとって楽しみだったのが、試合でホームランを打つなど活躍したあとでした。
大会で目立った選手は町の広報紙に掲載されることがあり、自分の名前が載るのを楽しみにしていたと振り返っています。
後に大勢の観客を前に舞台へ立つことになりますが、このころはスポーツの大会という別の形で、人前で結果が残る経験を重ねていました。
家では『夢で逢えたら』を早く寝ろと言われながら見ていた
外で遊ぶ一方、家ではテレビのお笑い番組が好きな少年でもありました。
ザ・ドリフターズや『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』を見ており、なかでも影響を受けた番組として本人が挙げているのが『夢で逢えたら』です。
放送時間が遅かったため、家族から早く寝るように言われながらも見ていたという記憶が残っています。
この時点で将来の職業として芸人を決めていたわけではありませんが、お笑い番組を見ることは日常の楽しみの一つになっていました。
中学進学後に兵庫県へ移り、学生生活が変わる
府中町で小学校時代を過ごしたあと、西村さんは中学1年生から兵庫県で暮らすようになりました。
そのため、お笑いの本場である関西の言葉や空気にまったく触れずに高校卒業まで過ごしたわけではありません。
後に大阪でNSCへ入った際も、西村さん自身は関西で生活していた期間があったことから、言葉の面で特別なやりにくさは感じなかったと話しています。
一方の小峠さんは福岡から大阪へ出てきたため、漫才では関西弁を使おうとしても博多弁のイントネーションが混ざることがあり、西村さんから見るとかなり独特だったそうです。
高校2年の文化祭で漫才がウケ、芸人を目指す
テレビのお笑いを楽しんでいた西村さんが、自分で人前に立つ側へ動いたのは高校時代でした。
進学や就職を考える時期が近づくなかで経験した文化祭が、その後の進路を変えます。
文化祭で披露した漫才の手応えから「またやりたい」と思う
高校2年生の文化祭で、西村さんは漫才を披露しました。
それまでテレビの向こう側にあったお笑いを、自分が舞台に立って実際にやってみる機会でした。
漫才は観客にウケ、西村さんの中にもう一度やってみたいという感覚が残ります。
この高校文化祭で笑いを取った経験が、西村さんがお笑いを進路として考える直接的なきっかけになりました。
子どものころから『夢で逢えたら』などを見ていた時間と、実際に自分が舞台でウケた経験がここでつながります。
卒業後の進路としてお笑いを選び、アルバイトでNSC入学資金を貯める
文化祭を終えても、その場限りの思い出にはしませんでした。
芸人になる入口として選んだのが、吉本興業のお笑い養成所NSC大阪校です。
入学するには費用が必要だったため、西村さんはアルバイトをして入学資金を貯めました。
文化祭で「芸人になりたい」と思ったあと、実際に働いて養成所へ進むためのお金を準備しています。
本人は当時、25歳までに天下を取るくらいの気持ちでお笑い人生を始めたと語っています。
高校3年の免許合宿で小峠英二と初めて出会う
NSCへ入るより少し前、高校3年生の夏休みに西村さんは自動車免許を取るため大分県の免許合宿へ向かいました。
そこに参加していた一人が、福岡から来ていた小峠英二さんです。
ただし、この時点では二人が親しくなったわけではありません。
合宿中に会話をしたわけでもなく、互いに「同じ場所にいた人」として顔が印象に残った程度でした。
別々の土地へ帰った二人が、このあと大阪で再び顔を合わせます。
NSC面接で小峠英二と再会|バイきんぐ結成へ
西村さんと小峠さんの関係は、「NSCで知り合った同期」という一言では収まりません。
大分の免許合宿から半年ほどたったころ、大阪で思いがけない再会が起きました。
大勢の受験者の中で、免許合宿にいた小峠と偶然再会
二人が再会した場所は、NSC大阪校の入学面接でした。
広島・兵庫で暮らしていた西村さんと福岡出身の小峠さんが、大分県の免許合宿に続いて大阪の同じ面接会場にいたことになります。
西村さんは後年、互いにそこで再会したことでテンションが上がり、どちらか一方が明確に誘ったというより、自然に一緒にやる流れになったと説明しています。
ほとんど話していなかった二人が、免許合宿の半年後にNSCの面接で再会したことがバイきんぐ結成への入口になりました。
「4月1日午後7時に戎橋」で約束するも西村は現れなかった
面接を終えた二人は、合否がどうなっても大阪で会う約束をしました。
場所は大阪・戎橋、日時は4月1日の午後7時です。
ところが当日、NSCに合格していた小峠さんが戎橋へ向かったのに、西村さんは現れませんでした。
しかも二人は電話番号を交換していなかったため、その場ですぐ連絡を取る方法もありませんでした。
再会をきっかけにコンビを組もうとしていたはずの二人は、ここで一度すれ違っています。
NSC不合格から父の縁で入学し、合同授業で三度目の対面
西村さんが戎橋へ行かなかった背景には、NSCの面接に不合格だったという事情がありました。
ただ、そのままお笑いの道を諦めることにはなりませんでした。
父親の行きつけの店の人物が吉本所属の演歌歌手とつながりがあり、その縁を通じてNSCへ入れる可能性が出てきます。
西村さんは父親から話を聞いて頼ることを決め、結果としてNSCへ入学しました。
その後の合同授業で小峠さんと顔を合わせ、戎橋に来なかった西村さんを見た小峠さんにとっては思いがけない再会になりました。
免許合宿、NSC面接、そして入学後の教室と、二人は短期間に何度も偶然顔を合わせています。
1996年5月にバイきんぐを結成し、最初は小峠がボケだった
二人は1996年5月にバイきんぐを結成しました。
現在は西村さんが主にボケ、小峠さんがツッコミを担当していますが、結成当初は逆でした。
小峠さんがボケ、西村さんがツッコミ側という形で芸人生活を始めています。
もっとも、西村さん自身の説明では、強い言葉で相手をさばくようなツッコミというより、小峠さんのボケに驚いてリアクションする役回りでした。
ネタも最初から現在のように小峠さん一人で完成させていたわけではなく、若手時代には二人でファミリーレストランへ行って考えていた時期があります。
ところが小峠さんが考えている横で、西村さんが何時間もほとんど案を出さないことがあり、次第に小峠さんが一人でネタを書く形になっていきました。
大阪の若手時代|漫才からコントへ、劇場で上へ進めない日々
コンビを組んだからといって、すぐに劇場の中心へ上がれたわけではありません。
NSCを出た若手たちがひしめく大阪で、出演機会そのものをつかむところから始まりました。
劇場出演の枠をつかもうと活動するもランクを上げられなかった
大阪時代、西村さんたちは心斎橋筋2丁目劇場など若手が立つ場所で活動していました。
ライブへ出演するには、主催側から手売り用のチケットを受け取るために前夜から芸人が並ぶこともありました。
西村さんと小峠さんも交代で列に並び、ようやく舞台へ出ても、そこにはさらに芸人同士のランクがありました。
上のランクへ進まなければ定期的な出演枠を得にくく、バイきんぐはその壁を越えられない状態が続きます。
大阪で過ごした期間について、西村さんは後年「3年しかいなかった」と振り返っています。
漫才中心からコントへ移り、二人のスタイルを探す
芸人生活の最初から、コントだけをやるコンビだったわけでもありません。
吉本へ入った当初は漫才をしていました。
その後、2丁目劇場で若手がコントに取り組む流れがあり、バイきんぐもコントを始めます。
東京へ出たあと、フリー時代に漫才へ少し戻ったこともありましたが、次第にコントが活動の中心になっていきました。
現在のバイきんぐを知っていると完成されたコントコンビに見えますが、若手時代には漫才も含めて舞台上で試行錯誤していました。
大阪を離れることを小峠が提案し、東京へ向かう
劇場でなかなか上へ進めないなか、小峠さんから東京へ行こうという話が出ます。
大阪で売れてから東京へ進出するのではなく、早い段階で活動拠点そのものを移す選択でした。
大阪で結果を出せないまま、バイきんぐは結成から数年で東京へ活動の場を移しました。
しかし、東京へ行けば状況が一気に変わるわけではありませんでした。
上京後は事務所を転々|フリー時代には解散話も
東京での生活は、長い下積みの中心になる時期です。
仕事が少ないなかで事務所を移り、アルバイトを続けながらコンビを残していきました。
ワタナベ、東京吉本を経てフリーになる
東京へ出たバイきんぐは、大阪時代の同期とのつながりをきっかけにワタナベエンターテインメントへ所属しました。
最初のころにはテレビ朝日系『虎の門』へ出演する機会もありましたが、そのまま仕事が増え続けたわけではありません。
ワタナベを離れたあと東京の吉本へ移り、さらにそこも離れ、約3年間のフリー期間へ入ります。
西村さんによると、SMAへ入って『あらびき団』に出演するまで、テレビから約8年間離れていた時期もありました。
月1回ほどのライブとアルバイト中心の生活になる
フリー時代には、ライブへ出る回数そのものが減っていきました。
後年、小峠さんは当時について、コンビ結成後でも特に状態が悪く、月に1回ライブへ出るかどうかという程度だったと話しています。
西村さんは上京後、23歳から8年間にわたり一人暮らしの古いアパートで生活していました。
上京した日に、当時交際していた女性の母親からカーテン代として渡された餞別を、その夜の遊びで使ってしまい、カーテンもない状態から東京生活が始まったという本人らしいエピソードも残っています。
芸人だけでは生活できず、西村さんが長く続けた仕事が深夜のコールセンターでした。
およそ8年続けるうちに、一般のオペレーターからクレーム対応を引き継ぐスーパーバイザーへ上がり、さらにその上のチーフスーパーバイザーまで任されるようになります。
2012年にキングオブコントで優勝する時点でも、西村さんはまだコールセンターのアルバイトを続けていました。
コンビで会う機会も減り、何度も解散の話が出る
仕事が少なくなると、舞台だけでなく二人が会う機会まで減っていきました。
フリーだった約3年間には、解散の話が5回ほど出たと西村さんは後年明かしています。
どちらか一方だけが毎回辞めたがっていたわけでもなく、二人のどちらからも解散の話を出したことがありました。
ただ、片方が辞めようとしたときにはもう片方にやる気が残っているなど、二人の気持ちが同時に完全には折れなかったため、解散には至りませんでした。
バイきんぐが最も解散に近づいたのは、ブレイク直前ではなく、事務所にも所属せず舞台の数まで減っていたフリー時代でした。
SMAのお笑い部門へ入り、再びライブを重ねる
フリー時代を経て、バイきんぐはソニー・ミュージックアーティスツ(SMA)へ所属します。
SMAのお笑い部門では、ハリウッドザコシショウさんをはじめ、テレビで売れる前から舞台を続けていた芸人たちと同じ環境で活動することになります。
西村さんは、ほかに大きな仕事があるわけでもなくライブそのものが好きだったため、芸人を続けました。
本人は30歳を超えたころからさすがに焦り始めたとも語っていますが、その時点でもまだキングオブコント優勝までは数年残っていました。
ボケとツッコミを入れ替え、現在のバイきんぐの形へ
SMAへ入ったあとも、長く続けてきた形をそのまま守ったわけではありません。
結成から10年以上たってから、現在のバイきんぐを決定づける大きな変更が起きました。
結成当初は小峠がボケ、西村がツッコミだった
前述したように、もともとの担当は小峠さんがボケ、西村さんがツッコミでした。
この形は数年だけではなく、かなり長い期間続いています。
西村さんは自分の当時のツッコミについて、相手へ鋭く言葉をぶつけるというより、驚くようなリアクションが中心だったと説明しています。
テレビで知られる現在の役割から見ると、かなり違うコンビでした。
新ネタライブで試した役割交換がウケ、現在の形に定着
転機になったのが、キングオブコント優勝のおよそ4年前から始めた2か月に1回、新ネタを6本作るライブです。
一度に6本を用意するには、毎回同じ形だけでは足りません。
小峠さんがボケる従来型だけでなく、両方がボケる形や、思い切って担当を逆転させる形などを試しました。
すると、西村さんがボケ、小峠さんがツッコミをするネタの反応がよかったのです。
長年続けた担当を入れ替えたことで客席の反応が変わり、そのまま現在の「西村ボケ・小峠ツッコミ」が定着しました。
結成直後ではなく、長い下積みの途中で現在のスタイルを見つけたことになります。
小峠がネタ作りを担う形も固まっていく
ネタ作りについても、若手時代に二人でファミリーレストランへ集まっていたころから変化しました。
次第に小峠さんがネタ作りを担当するようになり、西村さんは渡された設定の人物を演じる形になっていきます。
小峠さんが重視しているのは、ラーメン店や葬式、コンビニなど身近にある場所を使いながら、まだほかの人が切り取っていない状況を作ることでした。
西村さんの予測しにくい雰囲気と、小峠さんの強いツッコミが組み合わさる現在の形は、10年以上売れない時期を過ごしたあとにできたものでした。
キングオブコント2012優勝|結成16年目で仕事が一変
役割変更と新ネタライブを続けるなかで、バイきんぐは少しずつ賞レースでも結果を残し始めます。
そして2012年、結成から16年目で初めてキングオブコントの決勝へ進みました。
初の決勝で2本とも当時の歴代最高得点を更新
キングオブコント2012の決勝で、バイきんぐは1stステージのコントで967点を獲得しました。
これは当時の大会歴代最高得点で、8組の中から首位で2ndステージへ進みます。
続く2本目では、久しぶりに帰省した息子と父親を描いたコントを披露し、今度は974点を記録しました。
1本目で作った歴代最高得点を、同じ日の2本目で自分たち自身がさらに更新しました。
長い芸歴の末に初めて立った決勝で、一気に大会の中心へ躍り出ています。
1941点で完全優勝し、長いアルバイト生活が終わる
2本の合計は1941点となり、バイきんぐは5代目キングオブコントに輝きました。
TBSもこの大会を、初決勝のバイきんぐによる「完全優勝」と紹介しています。
決勝のほんの少し前まで、西村さんはコールセンターで勤務していました。
8年ほど続けた結果、チーフスーパーバイザーまで任されていましたが、優勝後は芸人の仕事が急増し、アルバイトへ行けなくなります。
1996年のコンビ結成から16年、アルバイトと舞台を並行していた生活はキングオブコント優勝を境に終わりました。
テレビの仕事が一気に増え、それまでの生活が変わる
優勝の効果はすぐに表れました。
大会前はテレビ出演が月に1回あるかどうかという状況でしたが、優勝後には仕事量が急増しています。
優勝から約2か月後には、まとまった休みがほとんどない状態になっていました。
ただし、コンビの二人にまったく同じ仕事が来たわけではありません。
小峠さんは強烈なツッコミや「なんて日だ!」というフレーズでも注目を集め、単独でテレビへ呼ばれる機会が増えていきます。
西村さんは後年、優勝後でも自分には月に2、3回しか仕事がない時期があったと話しています。
ブレイク後にキャンプへ|趣味が「西村キャンプ場」につながる
キングオブコント優勝で芸人人生は大きく動きましたが、西村さん自身の現在の仕事につながるもう一つの変化は少しあとに訪れます。
きっかけになったのは、意外にも優勝後に生まれた空き時間でした。
仕事の空き時間にキャンプを始め、一気にのめり込む
小峠さんのピンのテレビ仕事が増えていく一方、西村さんには時間が余る時期がありました。
そのころに出会ったのが、キャンプ好きとして知られるヒロシさんです。
西村さんはヒロシさんの影響を受けてキャンプを始め、道具をそろえて実際に外へ出るようになります。
特に好きになったのが焚き火で、季節を問わず回数を重ね、やがてキャンプ関連の企画へ呼ばれる機会が増えていきました。
キングオブコント優勝後に「暇だった」時期が、のちに西村さん単独の大きな仕事へ発展するキャンプとの出会いにつながりました。
キャンプの趣味が番組や仕事へ広がっていく
ただ好きで出かけていたキャンプは、次第に芸能活動の一部になっていきます。
2019年にはYouTubeで『CAMP西村チャンネル』を開始しました。
さらにテレビ新広島では、西村さんが各地を巡って食材を集め、キャンプ飯を作る『西村キャンプ場』が始まります。
最初は単発企画でしたが、シーズン放送を経て2019年10月からレギュラー化されました。
好きだったキャンプに自分の名前が付いた番組は、西村さんにとって初めての冠番組になりました。
故郷の広島を拠点とする番組で、県内各地を回るうちに「西村キャンプ場」と声をかけられることも増えていったといいます。
故郷・広島で冠番組を持ち、バイきんぐのコントも続ける
2026年現在も『西村キャンプ場』はテレビ新広島で放送が続き、広島県外でも放送されています。
番組では、子どものころ遊んでいた水分峡へ西村さんが戻り、キャンプをしたこともありました。
一方で、キャンプの仕事が増えたからといって、バイきんぐとしてコントをしなくなったわけではありません。
2008年に初の単独ライブを行って以降、新作コントを中心とした公演を重ね、2026年にもバイきんぐ単独ライブ「暴音」の全国公演を開催しています。
西村さん自身も、観客の反応を直接感じられる単独ライブについて「体力が続く限り続けていきたい」と語っています。
小学生のころは府中町の水分峡や公園で遊び、高校では文化祭の漫才をきっかけに芸人を目指した西村瑞樹さん。
免許合宿で小峠英二さんと出会い、NSCで再会して結成したバイきんぐは、フリー時代やアルバイト生活、役割変更を経て16年目にキングオブコントを制しました。
その後に始めたキャンプは故郷・広島での冠番組へ広がり、現在もキャンプの仕事と並行しながら、小峠さんと新しいコントを舞台へ届け続けています。












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