人物プロフィール
鋭いツッコミと独特の間で、バラエティー番組やMCでもおなじみとなったバイきんぐ・小峠英二さん。
2012年にはバイきんぐとしてキングオブコントで優勝しましたが、その時点ですでにコンビ結成から16年がたっていました。
その16年をさかのぼると、高校時代にパンクバンドを組み、夏休みに東京へ行き、高校を休んで一人で大阪へ向かった10代の小峠さんがいます。
芸人を目指して最初に大阪へ行ったものの養成所の面接に落ち、高校へ戻ってもう一度2年生をやり直しています。
その後、大分県の自動車教習所でほとんど話さなかった西村瑞樹さんと、大阪のNSC面接会場で思いがけず再会しました。
田川で過ごした少年時代から、二人がバイきんぐを結成し、長いアルバイト生活を経て2012年に仕事が一変するまでを順番にたどります。
小峠英二の生い立ちと家族|福岡・田川で育ち、小学生で芸人を志す
小峠英二さんは1976年6月6日生まれで、福岡県出身です。
本人が故郷としてたびたび語ってきたのが、筑豊地方にある福岡県田川市でした。
田んぼと川のある田川で育ち、20歳で芸人の道へ
小峠さんは少年時代の田川を、田んぼの近くを川が流れる田舎町だったと振り返っています。
炭鉱で栄えた歴史を持つ地域で、当時は駅前に若者が集まり、週末にはにぎやかな光景も見られたといいます。
現在のテレビで見せる小峠さんからは、東京で長く暮らしてきた印象もありますが、人生の最初の約20年を田川を拠点に過ごしたことになります。
両親と3人きょうだいの5人家族で育った
小峠さんは、両親と3人きょうだいの5人家族で育っています。
芸人を目指して家を出る前までは、この家族と田川で生活していました。
両親との関係が大きく動くのは高校2年の夏で、東京から戻った小峠さんが突然「学校を辞める」と切り出したときでした。
家族については後年さまざまな番組でも語られており、2024年にフジテレビの企画で田川へ帰った際には、実家で母親や兄と過ごす様子も放送されています。
小学2年ごろから「お笑いをやる」と話していた
小峠さんの場合、芸人という進路が突然高校卒業前に現れたわけではありません。
小学2年生くらいのころには、すでにお笑いを仕事にすることを口にしていたと本人が明かしています。
「小学校2年生くらいからお笑いをやると言ってたんです」
Pict-Up「芸人、かく語りき」
当時は『オレたちひょうきん族』や『ダウンタウンのごっつええ感じ』なども見ていましたが、特定の番組だけに憧れて芸人を決めたというより、普段から人を笑わせることそのものが好きだったそうです。
小学生のころには、すでに将来の選択肢がお笑いに向いていました。
中学生になるとパンクやロックにのめり込んだ
中学生になると、お笑いとは別に小峠さんを強く引きつけたものがパンクとロックでした。
2025年のインタビューでは、中学ごろにパンクを聴き始め、そのエネルギーや張り詰めた雰囲気、リズム、歌詞、ファッションまで含めて一気にのめり込んだと話しています。
中学・高校では実際にコピーバンドも経験しましたが、音楽の道へ進むことを考えたわけではなく、芸人になりたいという気持ちは変わりませんでした。
バイク、革ジャン、ブーツなど後年の小峠さんを形作る趣味も、本人によれば大元をたどると音楽へつながっているそうです。
小峠英二の高校時代|パンクバンドと停学、芸人への気持ちが強くなる
高校時代の小峠さんには、テレビで見る現在の姿につながる要素がいくつも現れています。
バンド、友人との遊び、何度もの停学、そして初めて自分の力で東京へ出た経験が、ほぼ同じ数年間に重なりました。
田川東高校へ進学し、在学中に東鷹高校へ校名変更
小峠さんが進学したのは福岡県立田川東高等学校です。
学校は1994年3月に田川東高校として閉校し、同年4月から福岡県立東鷹高等学校へ校名が変わりました。
そのため、小峠さんの母校は現在「東鷹高校」と紹介されることが多い一方、入学時は田川東高校だったという時期に当たります。
2024年には母校を訪れるテレビ企画も放送され、高校時代の同級生たちとの再会が実現しました。
高校1年で城を見に行って停学、約5回の無期停学を経験
高校生活では、入学直後からかなり自由に動いていました。
最初の停学は高校1年の5月で、授業を抜け出して城を見に行ったことが理由だったと本人が明かしています。
その後も、禁止されていたバイク通学やアルバイトなどが重なり、無期停学は本人の記憶で5回ほどに達しました。
最後には先生から退学届へ名前を書かされ、「次に何かあれば判子を押す」というところまで進んだそうです。
ただし、小峠さん自身は当時の自分をヤンキーだったとは捉えておらず、活発な同級生がヤンキー側とバンド側に分かれる中で、自分はバンド側だったと話しています。
同級生とパンクバンドを組み、仲間4人で過ごした高校生活
高校時代には同級生とパンクバンドを組み、小峠さんはボーカルとしてステージにも立っていました。
2024年のフジテレビの地元企画では、当時のバンド仲間が集まり、約30年ぶりにバンドを再結成しています。
その一人である同級生の「トマホーク池内」さんは、番組側から小峠さんが芸人になるきっかけに関わった親友として紹介されました。
バンド以外でも仲の良い同級生4人で毎日のように遊び、「しりとりバドミントン」のような独自の遊びまで作っていたといいます。
この仲間たちとは芸人になった後も関係が続き、小峠さんが田川へ帰ると集まる間柄になっています。
高校2年の夏、初めての東京で『笑っていいとも!』に出演
芸人になる気持ちが一気に強まったのは、高校2年の夏休みでした。
小峠さんは友人と初めて東京へ行き、約2か月、アルバイトをしながら生活しています。
その東京滞在中に、フジテレビ『笑っていいとも!』の素人参加コーナーへ友人と出演し、初めてテレビで一発芸を披露しました。
テレビで笑いを取る経験をしたことで、「すぐにでもお笑いをやりたい」という気持ちが強くなります。
夏休みが終わって田川へ戻ると、それまで通っていた高校を続けることより、芸人になるために動くことを選ぼうとしました。
高校を休んで大阪へ|最初の養成所受験は不合格だった
高校卒業後にNSCへ進んだという経歴だけを見ると一直線ですが、その前に一度、大きな遠回りをしています。
高校2年の小峠さんは、卒業を待たずに大阪へ向かいました。
東京から戻ると両親へ「高校を辞める」と伝えた
東京でテレビ出演を経験した小峠さんは、田川へ戻った直後、両親へ高校を辞めたいと伝えました。
当然、両親は反対しました。
話し合いの末に出たのが、学校そのものを辞めるのではなく、戻れる状態を残したまま大阪へ行くという形でした。
高校2年の途中で学校を離れ、一人で大阪へ向かいます。
退学ではなく休学し、一人で大阪へ向かう
大阪へ出た小峠さんは、そこでおよそ半年生活しました。
目的は吉本の養成所へ入ることでしたが、この時点ではまだ正式なNSC生ではありません。
半年ほど大阪で過ごした後、満を持して養成所の面接へ向かいました。
ところが、最初の挑戦は不合格でした。
養成所に落ち、田川へ戻って高校2年をやり直す
大阪へ行く際、小峠さんは面接に落ちたら田川へ戻ることを家族と約束していました。
その約束どおり福岡へ戻り、もう一度高校2年生から学校生活を再開します。
本人によると、本来は簡単に休学できる状況ではなかったものの、担任の先生が学校側へ働きかけてくれたことで戻ることができました。
一度は芸人になるため学校を離れ、養成所に落ちた後で高校へ戻ったことになります。
ここで芸人を諦めることはなく、高校を卒業したあと改めて大阪へ向かうことになります。
大分の自動車学校で西村瑞樹と出会い、半年後のNSC面接で再会
高校生活へ戻った小峠さんは、卒業が近づいたころ、後に30年以上一緒に活動することになる人物と出会います。
場所は芸能界でも大阪でもなく、大分県の自動車教習所でした。
高校3年の免許合宿では3週間ほとんど話さなかった
高校3年のころ、小峠さんは大分県の自動車教習所へ合宿免許を取りに行きました。
同じ合宿に参加していたのが、広島方面から来ていた西村瑞樹さんです。
二人は約3週間同じ場所にいましたが、この時点では親しくなりませんでした。
小峠さんの記憶では、ほとんど言葉を交わさないまま合宿が終わっています。
約600人が受けたNSC面接で同じ10人のグループになる
それから約半年後、高校を卒業した小峠さんは再び大阪へ向かい、吉本の養成所の面接を受けました。
応募者は本人の記憶で約600人。
面接は細かくグループ分けされ、10人ずつ約10分の集団面接が行われていました。
その10人の中に、自動車教習所で一緒だった西村さんがいました。
数百人が受ける面接の中で再び同じ組になったことに驚き、面接後に初めて二人の距離が縮まります。
「4月1日午後7時に戎橋」で約束するも西村は現れなかった
二人はその場で電話番号を交換するのではなく、養成所の合否にかかわらず4月1日の午後7時に大阪・戎橋で会うことを決めました。
そこで会ってコンビを組もうという約束です。
ところが約束の日、小峠さんが戎橋へ行っても西村さんは現れませんでした。
「で、あいつ来なかったんですよ」
SUUMOタウン 小峠英二インタビュー
それでもNSCの授業が始まると、教室には普通に西村さんがいました。
西村さんは面接では合格していなかったものの、別の縁を通じてNSCへ入ることになり、待ち合わせの日にはその関係者へのあいさつが入っていたと説明したそうです。
NSC17期で再会し、1996年5月にバイきんぐを結成
NSCで改めて顔を合わせた時点で、西村さんにはまだ相方がいませんでした。
自動車教習所で一度会い、数百人規模の面接で偶然再会し、さらにNSCでも同じ場所にいることになった二人はコンビを組みます。
バイきんぐが正式に結成されたのは1996年5月です。
SMAの公式プロフィールでも、大分県の自動車教習所で初めて出会い、大阪NSCの面接で再会したことが結成のきっかけとして紹介されています。
結成当初は漫才で、小峠がボケ・西村がツッコミだった
現在のバイきんぐといえば、西村さんの奇妙な言動へ小峠さんが強くツッコむコントが知られています。
ところが結成直後は、現在とは形が違いました。
最初の約1年間は漫才を中心に活動し、小峠さんがボケ、西村さんがツッコミを担当していました。
大阪の若手が出演していた劇場でコントをする機会が増え、二人も次第にコントへ移っていきます。
その後も小峠ボケ・西村ツッコミ、二人ともボケ、西村ボケ・小峠ツッコミとさまざまな形を試し、客席の反応がよかった現在の形が残りました。
大阪吉本から東京へ|ライブ月1回の若手時代
コンビを組んだからといって、すぐに舞台へ次々と出られたわけではありませんでした。
バイきんぐは大阪で数年間活動したあと、仕事を増やすために東京へ向かいます。
大阪で約4年活動し、月1回の舞台を待つ日々
NSCを出た後、二人は大阪でおよそ4年間活動しました。
しかし小峠さんによれば、吉本のライブへ出られるのは月に1回あるかどうかという状況でした。
大阪には芸人の数も多く、若手が舞台へ出るだけでも競争があります。
「お笑いができれば場所や事務所にはこだわらない」と考えていた小峠さんは、この環境に残り続けるより東京へ出る方を選びました。
小峠から東京行きを提案し、活動拠点を移す
高校2年のときに東京で『笑っていいとも!』へ出演した経験も、小峠さんの中には残っていました。
当時、テレビへ出たあと街で声をかけられたことで、東京のテレビが持つ影響力を実感したと後年話しています。
大阪で舞台を待ち続けるより東京へ行こうと提案したのは小峠さんでした。
こうしてバイきんぐは活動拠点を大阪から東京へ移します。
ワタナベ、東京吉本を経て約3年間のフリー生活へ
東京へ移ってからは、すぐ現在のSMAへ所属したわけではありません。
大阪時代の同期・ゴリけんさんがいたワタナベエンターテインメントへ入り、その後は東京吉本へ移っています。
東京吉本でも劇場へ出るための競争があり、状況を変えられないと感じた二人はそこを離れました。
その後に待っていたのが、約3年間、どのプロダクションにも所属しないフリーの時期です。
ライブ月1回ほどの時期に何度も解散話が持ち上がる
フリー時代は、コンビ結成後でも特に仕事が少ない時期でした。
小峠さんはパソコンの配達などで生活費を稼ぎながら、月1回ほどのライブへ出演していました。
西村さんによると、バイきんぐで解散の話が出たのは合計5回ほどで、それがすべてこの約3年間に集中しています。
「その5回は全部、フリーだった3年間のあいだに出たもの」
Pict-Up「芸人、かく語りき」
解散を切り出す側も毎回同じではなく、小峠さんからのときも西村さんからのときもありました。
ただ、片方が辞めたいときにはもう片方に続ける気持ちが残っていたため、二人が同時に「もう終わり」となることはありませんでした。
SMA加入後も続いた下積み|アルバイトとネタ作りの毎日
フリーだった二人に新しい所属先ができたのは、ソニー・ミュージックアーティスツがお笑い部門を立ち上げた時期でした。
事務所に入ったあとも、テレビの仕事だけで生活できる状態までは長い時間がかかります。
新設されたSMAお笑い部門へ入り、もう一度活動を続ける
SMAのお笑い部門NEET Projectが立ち上がったのは2004年12月です。
芸人の間で「ソニーがお笑いを始める」という話が広がり、バイきんぐもそこへ参加しました。
同じ時期には、ハリウッドザコシショウさんなど、他事務所やフリーで活動してきた芸人たちも集まっています。
所属事務所は決まりましたが、ここから2012年のキングオブコントまでさらに数年間があります。
調布で8年、オーディション落選とライブでの不発が続く
東京へ出た小峠さんが長く暮らした街の一つが調布でした。
緑が多く、多摩川も近い生活しやすい場所で、小峠さんは約8年間住んでいます。
一方で芸人の仕事は増えず、オーディションへ行っては落ち、ライブへ出ても思うような反応を得られない時期が続きました。
同じころ、大阪時代から住んでいた部屋については、家賃2万円で唯一の窓のすぐ先に隣家の壁が迫り、ほとんど日が入らなかったという話も残っています。
ザブングル加藤の20万円で三軒茶屋へ引っ越す
調布で暮らしていた小峠さんへ引っ越しを勧めたのが、当時親しくしていたザブングル加藤歩さんでした。
都心から離れていると先輩から急に誘われたときにも参加しにくく、それでは仕事につながる人間関係も広がりづらいと考えた加藤さんは、三軒茶屋への転居を勧めます。
さらに、三軒茶屋へ来るなら費用を出すと言い、引っ越し代として20万円を小峠さんへ渡しました。
小峠さんはその20万円で三軒茶屋へ移り、5年後のキングオブコント優勝時に返しています。
昼はアルバイト、夕方はデニーズ、夜は下北沢の公園でネタ合わせ
三軒茶屋へ移ったからといって、すぐ芸人の仕事だけで生活できるようになったわけではありません。
仕事のない日は朝から夕方までアルバイトをし、その後は三宿のデニーズへ向かって小峠さんがネタを書きました。
ネタができれば、西村さんと下北沢の公園で待ち合わせて練習します。
アルバイト、ファミリーレストランでのネタ作り、公園でのネタ合わせが一日の中に並んでいました。
当時は同期の芸人とトークライブを始めるなど、テレビ以外でも舞台へ立つ機会を増やしています。
小峠さん自身、このころから状況がごくゆっくり良くなっていく感覚があったと振り返っており、デニーズで書いたネタの中から後のキングオブコントにつながるものも生まれました。
試行錯誤の中で小峠ツッコミ・西村ボケの形が定着する
現在のバイきんぐの形も、結成した瞬間から決まっていたものではありません。
二人は2か月に一度、複数の新ネタを作るライブなどを続ける中で、役割を何度も入れ替えて試しました。
小峠さんがボケる形、二人ともボケる形、西村さんがボケて小峠さんがツッコむ形を客前で試し、その中で反応がよかったのが現在につながる組み合わせでした。
小峠さんの強いツッコミは、長いライブ活動の中で客席の反応を確かめながら残った形です。
ネタ作りは現在も小峠さんが中心となり、西村さんがその設定の中の人物を演じるスタイルが続いています。
2012年キングオブコント優勝|16年の生活が一変する
バイきんぐの仕事が大きく変わるまでには、1996年の結成から16年かかりました。
その途中ではキングオブコントでも結果が出たり出なかったりを繰り返しています。
優勝前から少しずつネタへの手応えが出始める
キングオブコントが始まった2008年、バイきんぐは初挑戦で準決勝まで進みました。
ところが翌2009年は思うような結果にならず、2010年も決勝には届いていません。
それでも2010年には客席の反応がよくなり、西村さんは後年「光が見えてきた感じ」があったと振り返っています。
2011年には再び準決勝へ進出しました。
毎年一直線に成績が上がったわけではなく、受ける日と受けない日を行き来しながらネタの形を探していた時期でした。
決勝当日の朝まで害虫・害獣駆除のアルバイトをしていた
2012年にキングオブコント決勝進出が決まっても、小峠さんの生活はまだアルバイト中心でした。
芸人になってから経験したアルバイトは本人によると16種類ほどあり、酒屋の配達、ホテル清掃、パソコン配達など、さまざまな仕事をしています。
キングオブコント決勝直前に続けていたのが、ネズミやゴキブリなどの害獣・害虫駆除でした。
決勝が行われた2012年9月22日の朝まで、その駆除のアルバイトに入っていました。
西村さんも当時コールセンターで長く働いており、二人とも決勝進出の時点ではまだアルバイトを続けています。
初の決勝で完全優勝、「なんて日だ!」も広く知られる
キングオブコント2012で、バイきんぐは初めて決勝へ進みました。
1本目のコントで当時の歴代最高得点を記録し、2本目ではさらにその得点を更新しています。
TBSはこの大会について、バイきんぐが2本とも歴代最高得点を更新した「完全優勝」と紹介しています。
16年間続けてきたバイきんぐが、初めて進んだ決勝で5代目キングになりました。
2本目のコントから生まれた小峠さんの「なんて日だ!」というフレーズも、この大会後に広く知られるようになります。
小峠さんは後にキングオブコントについて、自分の人生を変えた大会として語り、2021年からは今度は審査する側にも回っています。
優勝後2か月で休み1日、アルバイト生活から仕事中心の毎日へ
優勝後の変化は、時間をかけて少しずつ起きたものではありませんでした。
2012年12月のインタビューでは、優勝から約2か月の間に休みが1日しかなかったと明かしています。
決勝当日の朝まで害虫駆除をしていた生活から、テレビや舞台の仕事で予定が埋まる生活へ一気に変わりました。
コンビ結成16年目で、二人は初めてお笑いの仕事だけで生活できる状況へ入ります。
田川を出てから長い間、母親は売れない時代の小峠さんを心配していました。
同じ田川出身のバカリズムさんは、KOC優勝前、小峠さんの母親が自身の母親を通じて「東京で息子がお笑いをしているが売れておらず、最近連絡も取れない」と心配していたという話を後年明かしています。
売れた後もコントを続け、バイきんぐは2026年に結成30周年
キングオブコント優勝後、小峠さんの仕事はバラエティー番組やMC、ナレーションなどへ大きく広がりました。
それでもバイきんぐとして舞台へ立つ活動は途切れていません。
テレビ出演やMCが増えても、毎年の新作コントを続ける
バイきんぐはブレイク後も単独ライブを続け、小峠さんは新しいコントを書き続けています。
2025年の単独ライブ『音焼け』は、2008年の初単独ライブ『鬼火』から数えて15回目となり、全編新作コントを中心に6都市8公演が組まれました。
2026年にも単独ライブ『暴音』のツアーが行われ、テレビでそれぞれ別の仕事が増えた現在も、コンビの活動としてコントの舞台が残っています。
MCやロケの仕事が増えた後も、小峠さんがネタを書き、西村さんと舞台でコントをする形は続いています。
少年時代から続く音楽好きは現在の活動にも残っている
中学生でパンクにのめり込み、高校時代にバンドを組んだ経験も、昔だけの話では終わっていません。
2015年にはサンプラザ中野くんとのユニット「坊坊主」を結成し、アルバム『励ます』を発表しました。
中学生のころに爆風スランプを聴いていた小峠さんは、サンプラザ中野くんから話が来た際、最初はドッキリではないかと疑ったほどだったそうです。
2024年には田川で高校時代のバンド仲間と約30年ぶりに演奏し、2025年のインタビューでもパンクやロックを聴き続けていることを語っています。
「最初に聴いたのは中学ぐらいのときですね」
CINRA 小峠英二インタビュー
芸人になる夢とは別に始まった音楽が、バンド、服、バイクなど小峠さんの長く続く趣味へ広がっていきました。
西村と「面白い」の感覚を共有したまま結成30周年へ
1996年5月に始まったバイきんぐは、2026年に結成30周年を迎えました。
大分の自動車教習所ではほとんど話さなかった二人が、NSC面接で偶然再会し、フリー時代には何度も解散話をしながら30年間コンビを続けています。
2026年のインタビューで、小峠さんは二人が長く続いてきた理由について、性格は違っていても笑いに対する感覚に共通点があることを挙げました。
「面白いと思う感覚が一緒。それがずれていたら、きつい」
聖教新聞 2026年バイきんぐインタビュー
最初から完成されたコンビだったのではなく、漫才からコントへ移り、役割を入れ替え、売れない時期にもネタを作り続けた30年でした。
小学生のころに田川で「お笑いをやる」と口にしていた小峠さんは、高校を一度離れて大阪へ行き、養成所に落ちても再び同じ道を選びました。
その途中で自動車教習所にいた西村さんと再会し、バイきんぐを結成してからは、アルバイトをしながら舞台とネタ作りを続けました。
2012年に生活が一変した後もコントを作る時間は残り、2026年、二人は結成30周年を迎えています。












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