人物プロフィール
東京03のコントで、相手の言葉を受け止めながら鋭いツッコミを返す飯塚悟志さん。
現在は東京03の単独公演を続ける一方、テレビ番組やドラマなど個人で姿を見る機会も増えています。
そんな飯塚さんは、千葉県四街道市で育ち、子どものころからテレビのコントやラジオが身近にある生活を送っていました。
お笑いが好きでスクールJCAへ入ったものの、最初の1年間では相方さえ決まらず、翌年の後輩たちの教室に残って相方を探しています。
そこで出会ったのが豊本明長さんであり、のちに角田晃広さんを迎えて東京03を結成することになります。
順調に現在の3人へたどり着いたわけではなく、アルファルファ時代には自分たちの面白さを見失い、東京03になってからも飯塚さん自身が芸人を辞めようと考えた時期がありました。
飯塚悟志の生い立ちと家族|20歳直前まで四街道で育った
飯塚悟志さんは1973年5月27日に生まれ、千葉県四街道市で少年時代を過ごしました。
四街道市の公式プロフィールでは、20歳になる直前まで四街道で生まれ育ったことを飯塚さん自身が明かしており、現在でも地元とのつながりがあります。
四街道で生まれ、中央公園の市民プールへ通った少年時代
子どものころの飯塚さんにとって、四街道は単にプロフィール上の「出身地」ではなく、日常の記憶が残っている場所です。
小学生時代には四街道中央公園の市民プールへ何度も通い、移転前のイトーヨーカドーも思い出の場所として挙げています。
「20歳の直前までずっと四街道市で生まれ育って」
四街道市
東京で長く芸人として活動するようになってからも、飯塚さんは四街道市のPR大使を務めています。
一人っ子の部屋でテレビとラジオを流していた
飯塚さんは一人っ子として育ち、子ども部屋で一人になると静かすぎることを寂しく感じていたそうです。
そのため部屋ではテレビやラジオを流していることが多く、小学生のころには文化放送の『吉田照美のてるてるワイド』なども聴いていました。
さらに幼稚園のころから『8時だョ!全員集合』が好きで、当時は家庭用ビデオがまだ身近ではなかったため、テレビの前へラジカセを置いてコントの音を録音したこともあったと話しています。
録音中に父親へ静かにしてほしいと頼んでも、父親がわざと声を入れてくることがあり、飯塚少年が泣きながら怒ったという家庭での出来事も残っています。
テレビを一度見て終わるのではなく、録音して繰り返し聞こうとするほど、幼いころからコントに夢中になっていました。
少年野球をしながらも「プロにはなれない」と考えていた
子どものころには少年野球もしていました。
ただし、プロ野球選手になる夢を本気で追っていたわけではありません。
飯塚さんは後年、少年野球をしていた当時から「自分がプロ野球選手になれるわけがない」と考えていたと振り返っています。
サンタクロースについても「トナカイが空を飛ぶわけがない」と考えていたといい、本人が自分を「夢のない子どもだった」と表現するほど現実的なところがありました。
一方で、そのころからずっと離れなかったのがお笑いを見ることでした。
飯塚悟志の学生時代|南小・千代田中から高校へ
四街道で育った飯塚さんは、学校生活を送りながらテレビのコントを見続けました。
現在の飯塚さんを形作ったお笑いとの接点は、芸人になってから突然生まれたものではありません。
南小学校・千代田中学校で過ごした四街道の日々
四街道市の公式プロフィールで確認できる出身校は、四街道市立南小学校と四街道市立千代田中学校です。
小学生時代には中央公園の市民プールへ通うなど、20歳直前まで生活の拠点は四街道にありました。
一方、高校については千葉県立若松高校とする情報が広く見られますが、四街道市やプロダクション人力舎の公式プロフィールでは高校名までは公表されていません。
確実にたどれる学歴としては南小学校、千代田中学校までとなり、高校名だけを根拠の弱い情報から断定するのは避けたほうが実際の経歴に忠実です。
ドリフから『夢で逢えたら』までコント番組を見続けた
飯塚さんが見ていたお笑い番組は、成長するにつれて次々と増えていきました。
幼いころのザ・ドリフターズから始まり、『オレたちひょうきん族』『とんねるずのみなさんのおかげです』『ダウンタウンのごっつええ感じ』など、その時代のコント番組を見てきたと本人が語っています。
なかでも大きかったのが、ウッチャンナンチャンやダウンタウンらが出演していた『夢で逢えたら』でした。
それまでテレビのお笑いを楽しむ側だった飯塚さんに、「自分もこういうことをやってみたい」という感覚が具体的に生まれた番組だったといいます。
飯塚さんが惹かれていたのは、芸能人としてテレビに出ること以上に、自分たちでネタを作って演じることでした。
高校時代は深夜ラジオも聴き、お笑いへの興味が強まった
テレビだけではなく、ラジオも学生時代の生活に入り込んでいました。
高校生になると、ウッチャンナンチャンや電気グルーヴの『オールナイトニッポン』などを聴くようになります。
学校へ通いながらテレビでコントを見て、夜になるとラジオを聴くという時間が続きました。
友人たちがプロスポーツ選手など将来の夢を口にする一方、飯塚さん自身は会社員になるのだろうと漠然と考えていましたが、お笑いへの関心だけは消えませんでした。
飯塚悟志が芸人になったきっかけ|「好きなこと」として選んだお笑い
飯塚さんは子どものころから「将来は絶対に芸人になる」と一直線に考えていたわけではありません。
職業としての夢より先に、ただお笑いが好きで、ネタをやってみたいという気持ちが長く続いていました。
職業としての夢はなかった一方、コントだけはずっと好きだった
少年野球をしていてもプロを目指すわけではなく、現実的に自分の将来を考えていた飯塚さんが、それでも選んだのがお笑いでした。
2024年のインタビューでも、なぜお笑いへ進んだのかという話の中で、子どものころから好きだったことを理由に挙げています。
テレビの世界そのものへの憧れというより、長い間見続けてきたコントを自分でも作り、演じてみたいという方向へ気持ちが向いていきました。
『夢で逢えたら』などを見て「自分もネタをやりたい」と考える
飯塚さんはウッチャンナンチャンのライブを実際に見に行ったこともあり、テレビの外で芸人がネタを演じる姿にも触れています。
その後の芸人人生を振り返ったインタビューでは、当時からバラエティ番組へ出たいという気持ちより、ネタそのものへの関心が強かったことを明かしました。
「『ネタがやりたい』とずっと思っていて。」
お笑いナタリー
テレビで売れることより先に「ネタをやる」こと自体が目的になっていた点は、その後の東京03の歩みを見るうえでも重要です。
好きなことを仕事にするためスクールJCAへ
飯塚さんが選んだ入口は、プロダクション人力舎が運営する養成所スクールJCAでした。
飯塚さんはJCA2期生として、お笑いの世界へ足を踏み入れます。
ただ、養成所へ入ればすぐに現在へつながる相方が見つかったわけではありません。
飯塚さんには入学時から「相方を見つけたい」という目的がありましたが、その相手探しに1年以上かかることになります。
スクールJCA2期時代|相方を探すため翌年の教室にも通った
JCAへ入った飯塚さんの最初の大きな課題は、ネタの技術より先に、一緒に舞台へ立つ相手を見つけることでした。
現在の東京03からは想像しにくいものの、最初の1年間ではその相手が決まりませんでした。
相方を探してJCAへ入ったものの、1年間では決まらなかった
飯塚さん自身がJCA時代を振り返ったインタビューでは、入学した目的をはっきり「相方探し」と語っています。
「僕は相方を探すためにJCAに入ったんですけど、1年の間に相方が決まらなかった」
お笑いナタリー
そこで飯塚さんは、そのまま区切りをつけるのではなく、翌年に入ってきたJCA3期生の教室へ通わせてもらえないか頼みました。
同期の中で決まらなければ後輩の期へ行くという行動を取り、もう一度相方を探し始めたのです。
3期生の教室へ混ざり、豊本明長のコントを見る
3期生には、のちにアンタッチャブルを組む山崎弘也さんと柴田英嗣さんもいました。
すでに山崎さんと柴田さんのコンビは形になっており、飯塚さんが声をかけるような状況ではありませんでした。
そんな中、夏ごろのJCAライブで目に留まったのが豊本明長さんです。
豊本さんは当時、別の相手とコンビを組み、ツッコミ側に立っていました。
飯塚さんは舞台を見ながら、豊本さんのツッコミにどこかしっくりこないものを感じていました。
ツッコミだった豊本をボケへ回せると考え、飯塚から声をかけた
実際に豊本さんと話してみると、絵が得意で、物事を見る視点にも独特なところがあることを飯塚さんは知ります。
そこで、ツッコミとしてではなくボケ側に立ったほうが面白くなるのではないかと考えました。
現在まで続く飯塚さんと豊本さんの関係は、飯塚さんのほうから豊本さんへ声をかけたところから始まりました。
秋から冬ごろには2人でライブへ出るようになり、人力舎の若手ライブ「バカ爆走!」にも出演していきます。
当時のライブを紹介する新聞記事へ写真が載ったときには、飯塚さんの両親も喜んでいたといいます。
発声やダンスを軽視していた養成所時代を後年後悔
JCAではネタ見せだけではなく、発声やダンスなどの授業も用意されていました。
当時の飯塚さんはダウンタウンに強く影響を受けていた時期でもあり、ネタ以外の基礎的な授業を真面目に受けていなかったそうです。
「今となってはマジメにやっておけば良かったと後悔しています。」
スクールJCA
「バカ爆走!」では同じネタを数日間にわたって演じる機会もあり、初日に滑れば残りの日程で修正しなければなりませんでした。
飯塚さんは、初日にうまくいかなかったネタを3日目、4日目あたりまでに直して客席の反応を変えていく経験を重ねています。
豊本明長とアルファルファを結成|コント中心の若手時代へ
豊本さんという相方が決まり、飯塚さんは2人でコントを作る生活へ入っていきます。
現在の東京03へ直接つながる前身が、飯塚さんと豊本さんによるアルファルファでした。
1995年にアルファルファとして活動を始める
1995年、飯塚さんと豊本さんはアルファルファとして活動を始めます。
ネタは基本的に飯塚さんが書き、豊本さんは飯塚さんが作った台本を演じる形が中心でした。
若手ライブへ立ちながらコントを続けても、すぐに芸人の収入だけで生活できるようになったわけではありません。
飯塚さんは20代を振り返り、ネタをやるという意味ではやりたかったことができていた一方、生活できるほど稼げてはいなかったと語っています。
1999年、26歳ごろには「1999年7月に世界が終わる」というノストラダムスの予言をかなり信じており、地球が終わるなら好きなことをしていようと思っていたそうです。
ところが世界は終わらず、本人は後年、当時まだ芸人として食べられていなかったことも含めて笑い話にしています。
ライブと『爆笑オンエアバトル』で結果を残していく
アルファルファはNHK『爆笑オンエアバトル』へ繰り返し出演し、17勝5敗という戦績を残しました。
まったく評価されていなかったコンビではなく、観客審査の番組で何度もオンエアを勝ち取るところまで来ていたのです。
それでも、飯塚さんの中では別の問題が大きくなっていきました。
観客受けを追ううち「何が面白いのか」が分からなくなった
『爆笑オンエアバトル』は会場の観客が審査する仕組みだったため、アルファルファは次第に「どうすれば観客に選ばれるか」を意識したネタを考えるようになりました。
結果は出ても、自分たちが本当に何を面白いと思っているのかが分からなくなり、飯塚さんはコントを作ること自体が楽しくなくなっていったと明かしています。
アルファルファは番組で勝てるようになった一方で、本人たちはコンビを1年後に終わらせることまで考えていました。
外から見える成績と、2人が舞台の内側で感じていた手応えは一致していませんでした。
アルバイトをしながら、身近な人間関係をコントの材料にした
30歳前後の飯塚さんには、深夜から朝方までファミリーレストランを清掃するアルバイトをしていた時期もあります。
アルファルファやのちの東京03のコントには、会社員同士の会議よりも、アルバイト先や友人関係など身近な人間同士の空気が舞台になる作品が多くあります。
飯塚さん自身、会社員として働いた経験がなく、自分たちに身近だったアルバイト先の休憩室などをコントの設定へ使ったことを明かしています。
ファミレス清掃の職場には芸人を目指してNSCへ行こうとしていた年下の大学生もおり、すでに30歳近くで芸人をしていた飯塚さんは、自分の立場を積極的に明かさないまま働いていたそうです。
角田晃広との出会いから東京03結成へ
アルファルファとして方向を見失いかけていたころ、飯塚さんたちの近くには別のグループで活動していた角田晃広さんがいました。
ここから、2人だったアルファルファのコントに、それまでとは違う人物が加わります。
プラスドライバー解散後、芸人を辞めようとした角田を飯塚が引き止める
角田さんはプラスドライバーというトリオで活動していましたが、2002年にグループが解散しました。
解散後にはお笑いそのものを辞めるつもりだった角田さんを、以前から親しかった飯塚さんが引き止めます。
一度芸人を辞めようとしていた角田さんを飯塚さんが誘ったことが、東京03結成への入口になりました。
飯塚さんは表向きには「気のいい人だったから」と説明しつつ、アルファルファにはない角田さんの言葉や演技のおかしさにも気づいていました。
アルファルファのライブへ角田を招き、3人のコントを試す
いきなり正式なトリオを作ったのではなく、最初はアルファルファのライブへ角田さんをゲストとして呼び、3人でコントを試しました。
飯塚さんと豊本さんはダウンタウンを強く意識した世代で、センスのある笑いや大喜利のような方向でも勝負しようとしていましたが、自分たちはその競争ではうまくいかなかったと飯塚さんは振り返っています。
そこへ角田さんが入ると、2人だけでは出なかった種類の空気が舞台に生まれました。
角田の「開き直り」の演技に客席が沸き、飯塚が手応えを得る
3人で演じたコントの中で、角田さんが追い詰められた末に逆ギレするような、開き直った演技を見せる場面がありました。
そこがその日のライブでも特に大きく受けます。
「これかもしれない」
テレ東プラス
アルファルファで自分たちの面白さが分からなくなっていた飯塚さんにとって、角田さんを加えた3人のコントで客席が沸いたことは大きな手応えになりました。
矢作兼やオークラの存在も重なり、2003年9月30日に東京03を結成
角田さんについては、おぎやはぎの矢作兼さんも以前から面白さを評価していました。
客席だけでなく舞台袖で見ている芸人も笑わせる必要があるという矢作さんの言葉も、飯塚さんが角田さんとの3人体制を考える材料になりました。
一方、放送作家のオークラさんは当初、アルファルファと角田さんでは持っている雰囲気が違いすぎると感じ、3人で組むことに懐疑的だったといいます。
それでも3人でライブを重ねるうちに形が見え始め、オークラさんも本格的にコント作りへ関わるようになりました。
2003年9月30日、飯塚悟志さん、豊本明長さん、角田晃広さんの3人で東京03が結成されました。
飯塚さんと豊本さんのアルファルファは1995年から2003年まで続き、ここで8年間のコンビ活動から3人のコントへ移ります。
東京03を組んでも辞めるつもりだった30代前半
角田さんが加わったことで、飯塚さんは再びコントを作ることを楽しめるようになりました。
ところが、「楽しくなったこと」と「芸人として生活できること」は別でした。
芸人仲間から評価され始めても「ネタだけでは食べられない」と考えていた
東京03になってからは、アルファルファ時代に抱えていた「お客さんには受けても芸人には受けない」という感覚が少しずつ変わっていきました。
舞台袖で見ている芸人たちからも3人のコントを面白いと言われるようになり、飯塚さんが欲しかった反応を得られるようになります。
それでも結成当初の3人には、コントだけで長く生活していく未来が具体的に見えていませんでした。
当時はネタ番組で名前が知られたあと、テレビのひな壇やトーク番組へ進まなければ残れないという空気があり、身近にはおぎやはぎやアンタッチャブルのようにテレビでも力を発揮する芸人がいました。
飯塚さんは、自分たちが同じ道を進む姿を想像できず、いずれ芸人を辞めるのだろうと考えていました。
32~33歳ごろ、飯塚から角田へ「もうやめる?」と切り出す
東京03を組んで2年ほどたったころ、飯塚さんは32~33歳になっていました。
飯塚さんの親からは以前、20代前半で売れなければ芸人を辞めるよう言われていましたが、その年齢を過ぎても活動を続けていました。
東京03のコントは楽しく、芸人仲間からの反応も良くなっていましたが、飯塚さんは「就職するなら今しかない」と現実的な年齢を考えます。
「もうやめる?」
お笑いナタリー
東京03を作った飯塚さん自身が、まだ30代前半の時点で芸人人生を終わらせようとしていました。
今度は角田が飯塚を止め、3人で続けることになった
飯塚さんの言葉を聞いた角田さんは、「今いいじゃん、やろうよ」という方向で続行を主張しました。
もともとプラスドライバー解散後にお笑いを辞めようとしていた角田さんを止めたのは飯塚さんでした。
数年後には立場が逆になり、今度は角田さんが飯塚さんを引き止めることになりました。
飯塚さんは後年、角田さんが止めなければ、そのまま辞めていたと思うと明かしています。
角田中心から3人が均等に立つコントへネタ作りが変化
解散の話を乗り越えたころから、飯塚さんのネタの作り方にも変化が出ました。
東京03の初期には、新しく加わった角田さんの面白さを見せるため、角田さんが目立つネタを意識して書いていました。
その後は飯塚・豊本・角田の3人がそれぞれ見せ場を持つコントへ少しずつ変わっていきます。
ネタ作り自体も、アルファルファ時代に飯塚さん一人で書くことが多かった形から、東京03では当初、角田さんとファミリーレストランで一緒に作る形になりました。
角田さんのアイデアやセリフを生かしながら作る作業を、飯塚さんはアルファルファ時代にはなかった楽しさとして振り返っています。
2009年の苦境|短いテレビネタへ寄せずライブを続けた
東京03は結成後、単独ライブを重ねながらネタ番組にも出演するようになりました。
しかし、2009年には当時のテレビのお笑いブームと東京03が作っていたコントの形が大きくずれ始めます。
1分ネタのテレビブームで仕事が減っていく
当時は『爆笑レッドカーペット』などを中心に、短時間で見せる1分前後のショートネタが人気を集めていました。
東京03が作ってきたのは、登場人物同士の関係が少しずつ崩れていくような、ある程度の時間を使うコントです。
3人は流行に合わせて1分ネタを作るのではなく、その形式の番組には無理に出ないという選択をしました。
その結果、マネージャーから、それまで東京03へ来ていた仕事がゆってぃさんへ流れていると伝えられるほど仕事が減っていきます。
「飯塚さんが死守してくれたから、今があると思う」
テレ東プラス・角田晃広さんの発言
全国ツアーで200席規模の会場を埋められず約200万円の赤字
テレビの仕事が減る中、東京03は2009年春に全国ツアーへ出ました。
ところが、当時は200人ほどの会場でも満席にできない地域があり、ツアー全体では約200万円の赤字になったと3人が明かしています。
キングオブコントで優勝する数カ月前、東京03は全国を回っても小規模な会場を埋めきれず、ライブ活動で大きな赤字を出していました。
結成からすでに約6年が経っていましたが、単独ライブだけで安定して観客を集められる状態にはまだ届いていませんでした。
キングオブコント2009優勝後、単独公演の観客が約5倍に
転機は同じ2009年の秋に訪れます。
東京03はキングオブコント2009の決勝へ進み、第1ステージを2位で通過すると、第2ステージで高得点を記録して逆転優勝しました。
キングオブコント2009優勝を境に、東京03の単独公演を見に来る観客は約5倍へ増えました。
飯塚さん自身も、それ以前はネタ番組へ出演していても東京03の名前が広く知られている感覚は薄く、キングオブコントをきっかけに初めて多くの人に知ってもらったと振り返っています。
短いネタへ作り替えるのではなく、それまで続けていた長さと形のコントで結果を出したことで、単独公演を中心に活動する道が広がりました。
コントを続けた先にできた東京03の現在
キングオブコントの優勝後も、東京03はテレビ出演だけへ活動を移すのではなく、単独公演を続けました。
飯塚さんが子どものころからやりたかった「ネタをやる」という活動が、そのまま仕事の中心として残っています。
「テレビで売れる」以外にライブで生きる道が見えてきた
東京03を組んだ当初、飯塚さんはネタだけで生活していけるとは考えていませんでした。
周囲の芸人がテレビへ進んでいく中、東京03は単独ライブを年に何度も重ね、その規模を少しずつ広げていきます。
結成20周年を迎えた2023年には、飯塚さんが、アルバイトをせずコントで収入を得ながら毎年単独ライブを続けられている現状は、結成時には想像していなかったと語っています。
30代前半で一度は就職を考えていたころとは、生活そのものが変わっていました。
ファミレスで磨いた「日常を見る」ネタ作りは今も続く
東京03のネタ作りでは、かつて飯塚さんと角田さんがデニーズ南平台店へ通い、2人で台本を作っていました。
長時間店内にいても店側が嫌な顔をせず、いつもの席が埋まっていれば空いたあとに案内してもらうほど、店ぐるみで応援してもらっていたと2人は振り返っています。
単独公演用の6本のネタが完成した日には店でビールを飲み、置いてあった瓶ビールをすべて空けたこともありました。
その後、コロナ禍を経て飯塚さんが自宅で一人で書く割合が増え、角田さんと5対5ほどだったネタ作りは、結成20周年時点で飯塚さんによれば9.5対0.5ほどに変化しています。
作業場所や分担は変わっても、飯塚さんが題材として見ているのは今も日常の中で起こる人間同士のやり取りです。
飯塚さんは、日常を切り取るコントなら誰かと会うたびに何かが起きるため、設定は尽きず、日記に近い感覚だと語っています。
年間約4万人規模の単独公演と、俳優・MCなど個人活動へ
四街道市の公式プロフィールでは、現在の東京03単独公演について全国で約4万人を動員する規模と紹介されています。
2009年春には200人規模の会場を埋められない地域があったことを考えると、単独公演を続ける中で観客の規模は大きく変わりました。
飯塚さん個人も、コントで見せてきた演技を生かしてドラマへ出演するほか、バラエティ番組やラジオ、賞レースの審査員など活動の幅を広げています。
それでも東京03として毎年新しいコントを作る仕事は活動の中心に残っています。
2026年も第28回単独公演を開催
2026年には第28回東京03単独公演『満更じゃないから』が開催され、東京公演から地方公演、9月の追加公演まで続きました。
作・演出には東京03とオークラさんが名を連ね、結成から20年以上が過ぎた現在も新作コントによる単独公演が続いています。
JCAで相方が決まらず翌年の教室まで残った飯塚さんは、2026年になっても豊本さん、角田さんと新しいコントを舞台へかけています。
四街道でテレビのコントを録音していた少年は、やがてスクールJCAで豊本明長さんと出会い、自分でコントを作る側へ回りました。
アルファルファで迷い、角田晃広さんを迎えたあとにも一度は芸人を辞めようとしましたが、3人で活動を続けた先にキングオブコント2009の優勝と単独公演の広がりがありました。
現在も飯塚さんが続けているのは、子どものころから好きだった「ネタを見て、ネタを作り、舞台で演じる」という時間です。












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