人物プロフィール
青色1号のメンバーとしてコントを続け、2025年にはキングオブコントで初めて決勝へ進出した仮屋そうめんさん。
カミムラさん、榎本淳さんと並ぶ3人の姿が現在はおなじみですが、仮屋さんは最初から青色1号のメンバーだったわけではありません。
お笑いの舞台に初めて立ったのは高校3年生のころで、そのとき挑戦したのはコントではなく同級生との漫才でした。
高校時代のM-1甲子園から福岡のアマチュアライブ、太田プロの養成所、元コンビでの活動を経て、2017年に青色1号へ加わっています。
現在のコントにたどり着くまでには、福岡でテレビのお笑い番組を見ていた少年時代、大学進学、上京、コンビ解散、短いピン芸人生活がありました。
仮屋そうめんの生い立ちと家族|福岡でお笑い好きになった少年時代
仮屋そうめんさんは1991年7月17日生まれ、福岡県出身で、本名は仮屋想さんです。
後に東京で芸人になる仮屋さんですが、お笑いへの興味は養成所へ入るずっと前から続いていました。
小学生で『オンバト』『M-1』に夢中、中学では野球部と『いいとも!』の日々
小学生のころから見ていたのが、NHKの『爆笑オンエアバトル』や『M-1グランプリ』でした。
中学校では野球部に入り、朝練のある生活を送っていました。
朝から体を動かして疲れて帰ったあと、テレビをつけると放送されていたのが『笑っていいとも!』でした。
タモリさんや明石家さんまさんも好きで、楽しそうに番組へ出演する人たちを見ながら、テレビの中に入ることを意識するようになっていきます。
「いいなぁ、この中に入りたい」
TVガイドWeb
中学時代には、テレビのお笑いを見るだけでなく「自分もあちら側へ行きたい」という気持ちが生まれていました。
学校でもまったくお笑いと無縁だったわけではなく、修学旅行では友人と漫才を披露しています。
父は劇団の役者|母や祖母を含む家族とのエピソード
仮屋さんの家族で特に芸能との接点があったのが父親です。
父親は学校などを回り、子どもたちの前で芝居をする劇団の役者として活動していました。
仮屋さん自身も後年、表現する仕事をしている父親の存在について触れています。
ただし、息子が「お笑いをやる」と伝えたときには、父親はすんなり賛成したわけではありませんでした。
「自分は役者なのに、何言ってんの」
TVガイドWeb
これは父親が芸人への進路に少し反対した際、母親が父親へ返した言葉として仮屋さんが紹介したものです。
一方、祖母は後の進路を決める場面で登場します。
高校卒業が近づいた仮屋さん自身は大学へ進むことに積極的ではありませんでしたが、祖母から大学へ行くよう勧められたことで進学することになります。
父親との関係にも、その後もう一つ印象的な場面がありました。
芸人になった仮屋さんが東京で夜遅くまでライブへ出ていたある日、仕事で東京へ来た父親から食事へ誘う連絡が入りました。
ライブがあるため難しいと伝えていたものの、出演を終えて客席後方を見ると、そこには何も言わず舞台を見に来ていた父親が座っていたそうです。
高校3年でM-1甲子園へ|初舞台から大学時代のお笑い活動まで
中学生のころにはテレビの中への憧れを持っていた仮屋さんは、高校へ進むと実際に人前で漫才をするところまで進みます。
その舞台が、本人の記憶に強く残る最初の成功体験になりました。
修学旅行で友人と漫才、高校3年のM-1甲子園で初舞台
高校時代にも友人と漫才を続け、3年生になると高校生のお笑い大会へ挑戦しました。
現在の「ハイスクールマンザイ」にあたる大会で、当時は「M-1甲子園」という名称でした。
高校3年生で同級生とM-1甲子園へ出場した舞台が、仮屋さんにとって確認できる最初期の本格的なお笑いの舞台です。
しかも、その日の客席の反応は非常によかったようで、プロになった後のインタビューでも強烈な記憶として残っていました。
「あれは一度も超えてない」
logirl
後に同じ太田プロで活動するサルベースの折田智久さんも、高校生のお笑い大会のころから仮屋さんを知っていました。
折田さんは当時、仮屋さんの漫才を見てライバルとして意識し、その後も大学時代まで福岡でお笑いを続ける姿を覚えていたと2025年の対談で明かしています。
祖母に勧められて大学へ進学、福岡で月1回のアマチュアライブ
高校卒業を前に、仮屋さんは大学へ進学することを強く望んでいたわけではありませんでした。
それでも祖母から大学へ行くよう勧められ、福岡で大学生活を始めます。
大学名については太田プロの現在の公式プロフィールにも掲載されていませんが、本人のインタビューから福岡で大学へ進んだことは確認できます。
大学へ入ったあともお笑いをやめたわけではなく、福岡にあったアマチュアのお笑い団体へ参加しました。
高校時代に組んでいた相方と、月に1回ほどアマチュアライブへ出演していたといいます。
高校3年生の初舞台は大きくウケた一方、大学時代のライブでは同じような反応が毎回返ってくるわけではありませんでした。
大学へ通いながら福岡の小さなライブへ出続けた時期を経て、お笑いを仕事にするため東京へ向かうことになります。
同級生と上京して太田プロ養成所へ|フィルダースチョイス時代
大学時代に一緒に漫才をしていた相方と福岡を離れ、仮屋さんは東京でプロへの入口を探し始めました。
選んだのは太田プロエンタテイメント学院でした。
養成所資金を用意して福岡から上京、初回授業には間に合わず
養成所へ入るには、まず入学に必要なお金を用意しなければなりませんでした。
仮屋さんはアルバイトをしながら資金を作り、本人によればパチンコでも入学費用を増やそうとしていました。
2月ごろにはかなり貯まったものの、3月になるとそのお金の多くを失い、十分な額をそろえられないまま福岡から東京へ出ています。
家族へ何も言わず東京へ出て、最後は親からもらったお金で不足分を補ったという上京でした。
それでも支払いは最初の授業に間に合わず、養成所へ電話して事情を伝え、初回授業を欠席しています。
太田プロの公式プロフィールでは、仮屋さんは2015年3月に東京校芸人コース6期を卒業したことが記録されています。
フィルダースチョイスは養成所ライブで高評価、漫才師としてプロ活動へ
養成所で仮屋さんが活動していたコンビが「フィルダースチョイス」です。
M-1グランプリ公式サイトには、仮屋想さんと三好洋平さんのコンビとして登録され、結成年は2015年4月1日と記録されています。
現在の青色1号ではコントの印象が強い仮屋さんですが、この時期の中心は漫才でした。
同じ養成所6期だったカミムラさんの記憶では、フィルダースチョイスは養成所の中でもかなり目立つ存在だったようです。
「養成所時代ずっと1位だったんですよ」
logirl
周囲には舞台経験が少なく、緊張してネタを飛ばす受講生もいた中で、フィルダースチョイスは最初から漫才として形になっていたとカミムラさんは覚えています。
榎本さんも、当時の2人は漫才だけでなくコントもできたと振り返っています。
約2年間で感じた伸び悩みとコンビ解散
養成所では高く評価されていたフィルダースチョイスですが、そのまま順調に仕事が増えていったわけではありませんでした。
プロとして活動を続ける中で、仮屋さん自身もコンビが変化していない感覚を持つようになります。
本人は後年、当時について「伸びないなぁ」と感じていたと話しています。
相方もお笑い好きだったものの、芸人生活を続けることが難しくなり、約2年間活動したフィルダースチョイスは解散しました。
養成所で1位になるほど評価されたコンビを終えたあと、仮屋さんはいったん一人で舞台へ立つことになります。
ピン芸人を経て青色1号へ|カミムラ・榎本とのトリオ結成
フィルダースチョイス解散と、現在の青色1号への加入は同時ではありません。
間には短いながらも、仮屋さんが一人でネタをしていた時期がありました。
約2カ月のピン生活で「一人は無理」と感じる
コンビ解散後、仮屋さんは約2カ月間ピン芸人として活動しました。
高校時代から誰かと漫才をし、大学でもコンビでライブへ出てきた仮屋さんにとって、一人でネタを成立させる時間は長く続きませんでした。
「でもちょっと無理すぎたんで、入れてもらったんです」
logirl
ちょうど同じころ、カミムラさんと榎本さんは2人で「青色1号」としてコントを続けていました。
カミムラからの誘いで加入、知らされていなかった榎本は驚く
カミムラさんと榎本さんの青色1号は、もともと椅子に座った会話劇のような、比較的静かなコントも作っていました。
一方でカミムラさんは、ネタを書いていると3人必要になる形が多く、以前から「いつか3人目を入れる」という話をしていました。
そこで重なったのが、フィルダースチョイスの解散です。
一人になった仮屋さんへカミムラさんが声をかけ、2017年に青色1号の3人目として加入しました。
仮屋さん自身はM-1への憧れから芸人になったこともあり、「お笑い=コンビ」という意識が残っていて、最初はトリオになることへ少し抵抗もあったといいます。
それでも以前からカミムラさんたちとは仲がよく、コンビ解散後にまた誰かと組みたいと考えていた時期でもありました。
仮屋さんは一度きちんと話そうとカミムラさんをお茶へ誘いましたが、話し合いは想像よりあっさり終わります。
「いや、入っていいよ」
logirl
さらに独特だったのが、もう一人のメンバーである榎本さんに事前の相談がほとんどなかったことでした。
ネタ合わせへ行くと突然仮屋さんがいて、榎本さんは自分が外されるのではないかと思ったほどだったと振り返っています。
加入翌週のモータースLIVEで手応え、3人になってランキング1位へ
トリオになってから長い準備期間を置いたわけでもありません。
仮屋さんが加入した翌週には、山崎モータースさんが主催する「モータースLIVE」へ3人で出演しました。
「青色1号」という名前はそのままなのに舞台へ出てくる人数が2人から3人へ増えていたため、以前を知る観客には戸惑いもあったそうです。
それでも最初に披露したコントから客席の反応はよく、ライブのランキングでもすぐに1位を取るようになりました。
上のランクへ移ったあとも1位を獲得し、2人体制のころとは違う反応が返ってきます。
漫才を続けてきた仮屋さんが加わったことで、青色1号は現在につながる3人体制になりました。
青色1号の若手時代|賞レースの失敗を重ねながらコントを磨く
トリオ結成直後のライブでは手応えを得ましたが、大きな賞レースではすぐに決勝まで進めたわけではありません。
キングオブコントでは、うまくいった年と早く敗退する年の両方を経験していきます。
KOC準々決勝から2年連続2回戦敗退へ|舞台上の失敗も経験
青色1号は2018年と2019年にキングオブコント準々決勝へ進みました。
ところが2020年、2021年は2年続けて2回戦で敗退します。
その間には、本番ならではの失敗もありました。
仮屋さんがネタの途中で外すはずだったサングラスを忘れたことがあり、別の年にはネタで使う電飾のコードが抜けて本番で光らなくなったこともあります。
電飾が点灯していないにもかかわらず、榎本さんは台本通り「わー、きれーい」と進めることになりました。
準々決勝まで進んだあとに2年連続で2回戦敗退という時期を経験し、3人はネタを細かく直す作業を続けました。
2022年にABC決勝・KOC準決勝・サガミハラエッジ優勝
結果がまとまって変わり始めたのが2022年です。
第43回ABCお笑いグランプリで決勝へ進出し、キングオブコントでも初めて準決勝まで進みました。
さらに同年には第7回サガミハラエッジ芸人バトルで優勝しています。
キングオブコントへ向けた時期には、同じコントを毎日のようにライブへかけ、セリフや間を少しずつ変更していました。
客席から反応が返ってこない状況でもネタを崩さないようにするため、あえて観客の少ないライブへ出演したこともあります。
実際に客が一人だけという舞台も経験しながら、大きな賞レースで普段とは違う空気になってもネタを続けられるよう準備していました。
劇場とネタ合わせを重ね、コント師として評価を高める
青色1号は賞レースだけでなく、太田プロの「月笑」やさまざまなライブへの出演を重ねていました。
2023年6月には、東京・座・高円寺2で初単独ライブ「ちょっとだけバカ」を開催しています。
仮屋さんの家族もこの単独ライブを見るため、福岡から東京へ来る予定だと当時のインタビューで話していました。
高校時代に福岡で始めた舞台活動は、東京の養成所、元コンビ、トリオでのライブを経て、単独公演を行うところまで続いていました。
2024年にABC準優勝と月笑年間王者|仮屋想から仮屋そうめんへ
2022年に複数の大会で結果を残したあと、2024年には青色1号の名前がさらに決勝の舞台へ出るようになります。
同じ年には、仮屋さん自身の芸名にも変化がありました。
ABCお笑いグランプリで令和ロマンと争い準優勝
2024年の第45回ABCお笑いグランプリで、青色1号は再び決勝へ進出しました。
最終的な結果は準優勝で、優勝したのは令和ロマンでした。
キングオブコント決勝にはまだ届いていなかった時期に、全国規模の若手お笑い賞レースで準優勝まで進みました。
本名の仮屋想から現在の芸名へ改名
ABCお笑いグランプリが行われた2024年7月、仮屋さんはそれまで使用していた「仮屋想」から「仮屋そうめん」へ改名しました。
太田プロが7月9日に公開した「月笑」のライブレポートでも、仮屋さんが「仮屋そうめん」へ改名したことが記載されています。
現在の太田プロ公式プロフィールでは、「仮屋そうめん」を芸名とし、本名欄に「仮屋想」と掲載されています。
前年の敗戦結果を自宅に貼り、4度目の挑戦で月笑年間王者
2024年12月には太田プロの事務所ライブ「月笑」の年間王者を決めるクライマックスシリーズへ進みました。
青色1号はこれまでにもクライマックスシリーズで敗れており、前年の2023年はファイナルステージでセンチネルに331票対99票という大差をつけられています。
仮屋さんはそのときの結果発表用紙を捨てず、自宅のテレビ台へ掲げていました。
2024年はストレッチーズを下してファイナルへ進み、年間ポイント1位だったサルベースと対戦します。
最終投票は215票対187票となり、青色1号が月笑の年間チャンピオンになりました。
「今回はいい結果になって良かったです」
太田プロダクション
何度も届かなかった事務所ライブの年間王者を取った翌年、青色1号はさらに大きな決勝へ進むことになります。
キングオブコント2025初決勝へ|バイト生活から4位まで
2025年9月、キングオブコントのファイナリスト10組が発表され、その中に青色1号の名前が入りました。
2017年に3人となってから続けてきた大会で、これが初めての決勝進出でした。
KOC決勝前日に結婚、決勝当日の朝までホストクラブのウェイター
決勝が行われたのは2025年10月11日でした。
その前日の10月10日、仮屋さんは私生活でも一つの節目を迎え、結婚しています。
結婚を知らせた最初の投稿では日付を「今日」としていましたが、後に本人が10月10日、つまりキングオブコント決勝前日だったと訂正しました。
さらに驚かれたのが、決勝を迎えた日の生活です。
仮屋さんはキングオブコントの生放送で、決勝当日の朝までアルバイトをしていたことを明かしました。
勤務先について聞かれると、本人が答えたのはホストとして働いているという話ではありませんでした。
「ホストクラブのウエイターをやっています」
スポニチアネックス
長くライブとアルバイトを並行してきた仮屋さんは、初のキングオブコント決勝を迎える朝まで普段の仕事をしていました。
初のKOC決勝で4位、長かった賞レース挑戦が大きな転機に
決勝前のTBS公式インタビューでは、カミムラさんが青色1号の特徴として、小道具や音響、照明が少なく、人間関係のやり取りを中心に見せるシンプルなコントを挙げていました。
仮屋さんは初めての決勝を前に、結果を細かく予想するのではなく短い言葉で意気込みを話しています。
「なんでもいいので、何かを残したいですね」
TBSテレビ・キングオブコント
本番で青色1号は458点を獲得しました。
1stステージの順位は、ロングコートダディ、や団、レインボーに次ぐ4位でした。
ファイナルステージへ進めるのは上位3組だったため、3位のレインボーとは6点差で届きませんでした。
2018年・2019年の準々決勝、2020年・2021年の2回戦敗退、2022年の準決勝を経て、2025年に初めて決勝で4位まで進みました。
妻が「中野の劇場サッチー」を開設、仮屋も劇場運営に関わる
キングオブコント決勝から約1カ月後の2025年11月には、仮屋さんの生活にもう一つ芸人活動と直結する場所が加わります。
妻が東京・中野に「中野の劇場サッチー」という約60席の劇場をオープンしました。
お笑いライブだけでなく、演劇、トーク、上映イベントなどにも使える会場として開設され、オープニング公演は完売しました。
2026年になると仮屋さん自身も、劇場の鍵を開け閉めしたり、出演者との連絡を担当したりする管理人のような仕事をしていると話しています。
高校・大学時代に小さなライブへ出演する側だった仮屋さんが、現在は自分たちが立つ舞台とは別に、若手芸人たちが出演する劇場の運営にも関わっています。
KOC決勝後もコントを続ける仮屋そうめんの現在
キングオブコント決勝進出後も、青色1号はコントとライブを中心に活動を続けています。
決勝進出そのものを区切りにせず、その後も事務所ライブや単独公演、次のキングオブコントへ向けて舞台へ立っています。
青色1号としてライブ・テレビで活動を継続
2025年12月には、前年に初優勝した太田プロライブ「月笑」のクライマックスシリーズで2年連続の年間チャンピオンとなりました。
2026年3月には単独ライブ「オトコハツライヨ」を開催し、新作を多く入れたコントを舞台へかけています。
仮屋さんは劇場サッチーの運営にも関わりながら、青色1号としてネタを続ける生活になりました。
2025年のKOC初決勝後も、青色1号の活動の中心にはコントとライブがあります。
2026年もKOCへ挑戦、準々決勝まで進出
青色1号は2026年もキングオブコントへエントリーしました。
8月14日に東京・渋谷区文化総合センター大和田さくらホールで行われた準々決勝の出場者一覧には、青色1号の名前があります。
しかし8月17日に大会公式が発表した準決勝進出35組には入っておらず、2026年大会は準々決勝までとなりました。
福岡で『爆笑オンエアバトル』やM-1を見ていた少年は、高校3年生になると自分で漫才の舞台へ立ちました。
大学時代のアマチュアライブ、養成所、フィルダースチョイスの解散、約2カ月のピン活動を経て青色1号へ加わり、2025年にはキングオブコント決勝の舞台まで進みました。
現在もカミムラさん、榎本さんと3人でコントを続けながら、仮屋そうめんさんは次の舞台へ立っています。












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