人物プロフィール
赤い眼鏡と長い髪が目を引く鈴木ロン毛さんは、現在、ビッグ小原健太さんとのコンビ「ボダリキボバイ」で活動しています。
以前は青木マッチョさん、赤木ぼうずさんとトリオ「かけおち」を組み、ハイトーンのツッコミとネタ作りを担当していました。
芸人を目指したのは幼いころからではなく、高校卒業が迫った時期に、家でお笑いを見続ける中で初めて進路として具体化したものでした。
それまでには学校へ通えなくなった時期があり、母親が見つけてきた学校をきっかけにフィリピンで暮らしたものの、海外でも再び部屋にこもった経験があります。
そして家に戻った高校生活の終盤、南海キャンディーズ・山里亮太さんへの憧れが、東京NSCへ進む大きなきっかけになりました。
2026年には、その山里さんから「山里に憧れて芸人になった後輩」としてテレビ番組に呼ばれるところまで芸人人生が進んでいます。
鈴木ロン毛の生い立ちと家族|八王子で育ち、教室で落ち着けなかった子ども時代
鈴木ロン毛さんは東京都八王子市出身で、2002年11月13日に生まれました。
現在の姿から過去をたどるうえで大きな手がかりになるのが、本人が2026年からnoteで書いている連載「僕は変な学校に通っていた」です。
そこには、教室にいることが苦手だった小学生時代から、進路を大きく変えた母親とのやり取りまで、本人が覚えている場面が具体的に残されています。
席に座り続けることが難しかった小学生時代と母親の心配
鈴木さんが小学校時代の教室を思い返したとき、記憶の中の自分は、ほかの児童と同じように席へ座っていることが少なかったそうです。
授業中に席を立ってしまうことがあり、学校から家庭へ連絡が入ることも多く、本人は電話越しにも頭を下げていた母親の姿を覚えています。
本人は後年のnoteで、子どものころに病院で検査を受け、ADHD・多動症と説明された経験があったことも記しています。
小学校では周囲と同じように過ごすことが難しい場面があった一方、中学校へ進むと学校での感覚が変わりました。
母親が選んだのは、自宅から電車やバスを使って1時間以上かけて通う中学校でした。
そこで出会った先生たちは、落ち着いて座っていられるかだけを見るのではなく、鈴木さんの話すこと、文章を書くこと、人を笑わせることなどを評価してくれたといいます。
中学校は、本人が後に「救いの場所」と振り返るほど、それまでとは違う学校生活を送れた場所になりました。
友人もでき、自分が周囲と違うことを以前ほど否定的に感じなくなり、やがて「こういう環境を作る側になりたい」と考えるようになります。
そのころは芸人ではなく、まずは大学へ進むことを考え、進学に力を入れた高校を選びました。
高校へ通えなくなり、部屋で過ごすようになる
中学校で学校生活を楽しめるようになった鈴木さんでしたが、高校へ進むと、再び教室で長時間過ごすことが難しくなりました。
本人によると、高校1年生のころから学校へ行けなくなり、自宅の部屋で過ごす時間が増えていきました。
中学時代には「いい大学へ行きたい」という目標まで持っていただけに、予定していた高校生活とは大きく違う状態になっていました。
そんな時期に、新しい進路を持ち込んできたのが母親でした。
母が見つけたインフィニティ国際学院へ|フィリピンで過ごした高校時代
鈴木さんの高校生活が大きく変わるきっかけは、進路相談の席や学校の教室ではなく、自宅のトイレで訪れました。
学校へ行かず家にいた鈴木さんに対し、母親がインターネットで見つけた新しい学校について知らせたのです。
トイレ越しに知らされた「海外へ行ける高校」と母との説明会
本人のnoteによると、ある日トイレに入っていると母親がドアをノックし、海外へ行ける高校を見つけたという話を始めました。
そこで紹介されたのが、開校準備中だったインフィニティ国際学院でした。
普通の高校生活を続けることが難しくなっていた鈴木さんは、その話を聞くと強く興味を持ちました。
「俺、その学校行きたい。」
鈴木ロン毛 note「僕は変な学校に通っていた」
その後、久しぶりに制服を着て母親と東京・虎ノ門で開かれた説明会へ向かいました。
説明会に現れた学院長はスーツ姿ではなく、本人の記憶ではパーカーとジーンズという格好で、隣にいた母親は不安そうな表情を浮かべていたそうです。
一方の鈴木さんは、フィリピンで英語を学び、その後も海外へ出ていくという説明を聞き、これまでの学校とは違う生活に気持ちが動いていきました。
母親が偶然見つけた学校の情報が、自宅の部屋から海外へ出る進路につながりました。
校舎を持たない学校の一期生となり、フィリピンへ
鈴木さんはインフィニティ国際学院の一期生となり、2019年から新しい高校生活を始めました。
本人が説明会で聞いた当時の計画では、一般的な校舎へ毎日通う形ではなく、最初の年をフィリピンで過ごし、英語や現地での経験を積む内容になっていました。
一期生は少人数で、鈴木さんを含めた生徒たちが日本を離れて生活を始めます。
それまで高校の教室へ入ること自体が難しくなっていた鈴木さんにとって、生活する国ごと変わる進路でした。
フィリピンで過ごした最初の時期には外へ出て活動することもでき、後に文化放送で本人は、1年間のうち前半のおよそ半年は外へ出ていたと振り返っています。
その途中には、中学校から文化祭へ招かれ、一時帰国して英語のスピーチをしたこともありました。
かつて学校生活で居場所を見つけた中学校へ、今度は海外で暮らしている卒業生として戻る機会にもなっています。
留学後半は空き部屋にこもり、英語より日本語を書き続けた
ただ、海外へ出たことで、それまで抱えていた問題がすべてなくなったわけではありませんでした。
フィリピンで共同生活を続けるうち、英語で会話をしながら前へ進んでいく同級生たちと、自分との差を意識するようになったと本人は綴っています。
自分が必要とされる場所を作ろうと、ほかの人の資料やPowerPointを作ったり、身の回りの作業を引き受けたりしていた時期もありました。
ある集まりでは、周囲が英語で話しながら楽しんでいる横で大量のはしまきを用意し、後片付けで皿を洗っている途中に涙が出たことも、本人の連載に記されています。
そのころから人と顔を合わせることを避け、使われていなかった小さな部屋で過ごす時間が増えていきました。
食事のために外へ出るのもできるだけ減らし、人が寝静まった深夜に電子レンジを使って冷えたご飯を温め、ぬるいお湯をかけてお茶漬けにして食べた日もあったそうです。
英語を学ぶために来たフィリピンの部屋で、鈴木さんが繰り返していたのは日本語の小説やエッセイを読み、自分でも文章を書くことでした。
音楽やインターネットにも触れながら、とにかく文章を書いたというこの時期は、現在本人が自身の過去を文章にしている姿とも重なります。
その後、新型コロナウイルスの感染拡大によって海外での生活を続けることが難しくなり、日本へ戻ることになりました。
コロナ禍で進路が崩れ、高校卒業直前に芸人を選ぶ
日本へ戻った鈴木さんには、まだ「芸人になる」という決まった進路があったわけではありません。
むしろフィリピンへ行った当初は、海外経験や英語をその後の進学へ生かすことも考えていました。
大学進学も考えていた中、予定していた海外留学がなくなる
本人が2024年に文化放送で語ったところでは、当初はフィリピンで英語を身につけ、その経験を使って大学へ進学する計画も持っていました。
海外へ出たことで自宅にこもっていた状態も変わると考えていましたが、フィリピンでも後半は部屋から出られなくなりました。
さらに新型コロナの感染拡大によって、学校で予定されていた次の海外活動も難しくなり、高校卒業後を見据えていた計画が崩れていきました。
高校3年生になった鈴木さんは再び家で過ごす時間が長くなり、卒業後に何をするのか決めないまま、その時期を迎えます。
家でお笑いを見続け、山里亮太への憧れが強くなる
家にいる時間が長くなる中で、鈴木さんがよく見るようになったのがお笑いでした。
特に強く惹かれたのが、南海キャンディーズの山里亮太さんです。
かけおち時代のFANY Magazineのインタビューでは、そのころの気持ちをかなり率直に語っています。
「山里さんになりたい、山里さんに認めてもらいたい」
FANY Magazine
現在の鈴木さんを象徴する赤い眼鏡も、山里さんから影響を受けたものだと本人が明かしています。
子どものころから舞台に立ちたいと考えていたのではなく、学校へ通えなくなり、海外へ出て、再び家へ戻った高校生活の終盤になって、お笑いが現実の進路として浮かび上がりました。
家から出るためにも東京NSCへ願書を出し、両親も進路を受け入れる
芸人を目指す決断は、高校卒業がかなり近づいてからでした。
2024年の文化放送では、卒業間際まで進路を決めていなかった当時について、次のように話しています。
「いまやりたいことといえば、お笑いかな」
文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ!」
お笑いが好きだったことに加え、家から出るきっかけにもしたいと考え、養成所へ願書を出しました。
選んだのは吉本興業の東京NSCで、鈴木さんは27期生として入学します。
高校卒業間際のこの出願が、鈴木ロン毛さんが芸人として歩き始める最初の具体的な行動でした。
両親は芸人になるという進路を大きく否定せず、活動を始めてからはライブを見に来ることもあったと本人が話しています。
母親が見つけた学校で一度は海外へ向かい、その後は本人自身が見つけたお笑いの養成所へ進むことになりました。
東京NSC27期で相方と出会い、トリオ「かけおち」結成へ
東京NSCへ入ると、鈴木さんは早い段階で一緒に活動する相手を探し始めました。
後の「かけおち」につながる出会いは、教室で偶然隣になったことから始まったわけではありません。
自己紹介動画を見た赤木ぼうずが、2Lペットボトルを手に入学式で声をかける
東京NSC27期では、入学前から同期が参加するLINEグループがあり、希望者が自己紹介動画を投稿できるようになっていました。
鈴木さんはそこで「ツッコミをやりたい」と話す動画を投稿します。
その動画を見て相方候補に決めた一人が、後に「赤木ぼうず」として活動する赤木さんでした。
「この人にしよう!」
FANY Magazine
入学式当日、鈴木さんは式の最中から何度も「ぺこっ、ぺこっ」と大きな音がすることに気づいていました。
式が終わると、その音を出していた2Lのペットボトルを持った赤木さんが鈴木さんのところへやって来て、声をかけました。
鈴木さん自身も、南海キャンディーズのしずちゃんさんのような、一目見て気になる人物と組みたいと考えていたため、赤木さんと一緒にやってみることにします。
後の相方との最初の具体的な記憶が、入学式で鳴り続けていた大きなペットボトルの音でした。
青木マッチョも鈴木へ声をかけ、2人が会う前にトリオが決まる
ところが、鈴木さんの自己紹介動画を見ていたのは赤木さんだけではありませんでした。
同じ東京NSC27期の青木マッチョさんも動画を見ており、鈴木さんへ一緒に組みたいと声をかけます。
この時点で鈴木さんはすでに赤木さんと組む話を進めていたため、青木さんに「トリオでもいいですか」という形で提案しました。
青木さんはその申し出を受けましたが、驚くことに、青木さんと赤木さんはまだ互いをほとんど知りませんでした。
FANY Magazineのインタビューでは、2人が初めて顔を合わせるより先に、鈴木さんを介して組むための話が進んでいたことが明かされています。
青木さん自身も当初は、この組み合わせが長く続くとは思っていなかったそうです。
鈴木さんへ別々に声をかけた2人が、鈴木さんを中心に一つのトリオとしてまとまったのが、後の「かけおち」でした。
ほとんどのネタと芸名を鈴木が考え、ハイトーンツッコミの形ができる
3人で活動するようになると、鈴木さんは主にツッコミを担当し、赤木さんと青木さんがボケる形ができていきます。
鈴木さんのツッコミは声の高さが特徴で、外見もキャラクターも違う2人へ高い声で切り込むスタイルになりました。
さらに、ネタのほとんどを考えていたのも鈴木さんでした。
青木マッチョさんと赤木ぼうずさんの芸名についても、青木と赤木という対になる名字を鈴木さんが考えたと3人で明かしています。
NSC在学中から3人で活動を始め、卒業後の2022年4月から「かけおち」としてプロの舞台へ進みました。
相方探しの中心にいただけでなく、結成後はネタ作りまで担う立場になったことは、その後の芸人人生をたどるうえでも重要な部分です。
デビュー直後からテレビへ|3人の距離を縮めながらネタを磨いた若手時代
2022年春にNSCを卒業したかけおちは、若手としてライブへ出ながら活動を始めました。
テレビへの出演機会が訪れるまでには、それほど長い時間がかかりませんでした。
2022年4月にプロ活動を始め、翌月には『ネタパレ』へ
フジテレビの公式記録では、かけおちは2022年5月の『ネタパレ』にネタ披露芸人として出演しています。
プロとして活動を始めた直後からテレビでネタを見せる機会を得ていたことになります。
一方で、テレビへ早く出たことと、芸人としての生活がすぐ安定したことは別でした。
3人はライブやネタ作りを続けながら、自分たちの見せ方そのものを探していきました。
NSC講師の助言を取り入れ、3人のキャラクターの対比をネタへ
初期のかけおちには、見るだけでも分かるほど3人の外見に違いがありました。
その特徴をネタへ生かすきっかけになったのが、NSCの講師から受けた「対比を使えばいいのではないか」という趣旨の助言でした。
そこから、実際の本人像と服装のイメージをあえて逆にするなど、3人の見た目を使ったネタへと調整していきます。
鈴木さんはネタを書いたあとも完成形として固定せず、相方や講師の意見を聞きながら変えていたと話しています。
「3人とも見た目が違う」という特徴を、そのまま舞台上の情報として使える形へ変えていきました。
2023年『さんまのまんま』で村上賞を獲得するも、3人はまだ敬語だった
2023年1月2日には、フジテレビ系の新春特番『さんまのまんま』へ出演しました。
番組では東京ヤクルトスワローズの村上宗隆選手から「村上賞」に選ばれ、結成からまだ日の浅いトリオに新しい注目が集まります。
テレビで3人並んでネタを披露していた一方、当時の本人たちはまだ私生活でそれほど距離が近いわけではありませんでした。
2023年のインタビュー時点で鈴木さんは20歳、赤木さんは23歳、青木さんは27歳と年齢が離れており、3人とも互いに敬語で話していたといいます。
そこで、YouTubeでラジオのように3人で話す機会を作り、ネタ合わせ以外でも会話する時間を増やしていました。
NSC入学前にはほとんど接点がなかった3人が、トリオになった後から少しずつ関係を作っていたことが分かる時期です。
芸歴3年目でも収入は安定せず、ライブを続ける
テレビ出演が増えても、若手芸人としての生活はすぐには変わりませんでした。
2024年7月、文化放送で芸人の仕事だけで生活できるようになったか尋ねられた鈴木さんは、まだまったくだと答えています。
当時は芸歴3年目で、ライブに立ちながらネタを作り、次の仕事につなげている段階でした。
一方では、青木マッチョさんがテレビへ出る機会を増やすなど、3人を取り巻く状況にも変化が生まれていきます。
そして同じ2024年の秋、ネタ作りを担ってきた鈴木さん自身がトリオから離れることになりました。
ネタ作りを担っていた鈴木ロン毛が「かけおち」を脱退
2024年10月まで、かけおちは鈴木ロン毛さん、青木マッチョさん、赤木ぼうずさんの3人体制で活動していました。
その形が変わったのは、2024年10月31日です。
2024年10月31日、自身のXで「芸人は続ける」と発表
鈴木さんは自身のXを更新し、この日をもって「かけおち」を脱退すると発表しました。
青木さんと赤木さんは「かけおち」を続け、鈴木さん自身も芸人を辞めるのではなく、活動を続けることを伝えています。
この発表では具体的な脱退理由を細かく説明せず、相方2人への言葉と、今後も芸人を続ける意思が中心でした。
トリオからは離れても、お笑いそのものから離れる決断ではありませんでした。
ネタ作りを担っていた時期と、後に『ラヴィット!』で語った脱退理由
脱退から約1年後の2025年11月、鈴木さんはTBS系『ラヴィット!』のVTRで当時の経緯を改めて話しました。
番組内容を伝えた複数の媒体では、鈴木さんはかけおちでネタ作りを担っていたものの、次第に思うようにネタを書けなくなり、メンバーと決めていた本数も作れない状態になっていたことが紹介されています。
これは突然ネタを書く立場になった話ではなく、2023年の3人のインタビューですでに、ほとんどのネタを鈴木さんが作っていたことが明かされていました。
長く担ってきた役割の中で行き詰まり、自分がこのままトリオにいることについて考えるようになった末の脱退でした。
検索されることの多い「かけおち脱退理由」は、本人が担っていたネタ作りが思うように進まなくなったことが大きく関係していました。
脱退後の鈴木さんは一人で芸人活動を続けますが、その期間は長くは続かず、同じNSC27期の芸人と再びコンビを組むことになります。
同期・ビッグ小原健太とボダリキボバイ結成|再びコンビで舞台へ
かけおちを離れてから約半年後、鈴木さんの芸人人生に新しいコンビが加わりました。
相方になったのは、東京NSC27期の同期だったビッグ小原健太さんです。
2025年4月16日、東京NSC27期同士でボダリキボバイを結成
吉本興業の公式プロフィールでは、ボダリキボバイの結成日は2025年4月16日と記録されています。
鈴木さんとビッグ小原さんはどちらも東京NSC27期で、養成所時代を同じ期として過ごした2人です。
同年5月にはビッグ小原さんが自身のXで、鈴木ロン毛さんとコンビになったことと「ボダリキボバイ」というコンビ名を発表しました。
かけおち脱退から半年ほどで、鈴木さんは再び「コンビでネタをする」形へ戻りました。
劇場所属へ進み、M-1にも新コンビで挑戦
ボダリキボバイは結成した2025年からライブへ出演し、M-1グランプリ2025にもエントリーしました。
大会公式では3回戦まで進み、11月5日にKANDA SQUARE HALLで披露したネタがM-1グランプリ公式YouTubeにも公開されています。
2026年5月8日には、渋谷よしもと漫才劇場の「Kakeru翔チャレンジバトルEAST」で1位となり、劇場メンバー入りしています。
現在は吉本興業の公式プロフィールでも、鈴木ロン毛さんの所属コンビとしてボダリキボバイが掲載されています。
トリオ脱退後に芸人を続けた先で、新しい相方と劇場メンバーまで進む活動が始まりました。
2025年『ラヴィット!』で青木マッチョ・赤木細マッチョと再会
新コンビで活動していた2025年11月6日、鈴木さんは『ラヴィット!』で元相方の青木マッチョさん、赤木細マッチョさんと再び同じスタジオに立ちました。
番組では鈴木さんがかけおちを離れた経緯を語るVTRが流れ、その後、本人がサプライズでスタジオへ登場しました。
鈴木さんはVTRを見ていた段階から感情が高まり、涙を流した状態で元相方2人の前に現れます。
その様子を見た青木さんは、長く一緒に活動してきた鈴木さんについて、こう話しました。
「泣き顔は初めて見ました」
ORICON NEWS
この日は元トリオ3人でネタの動きを再現する場面もあり、脱退から約1年を経て、テレビの場で再び3人がそろいました。
鈴木さんはすでにボダリキボバイとして活動していましたが、かけおち時代の2人との関係もここで再び表に出ました。
2026年、山里亮太との共演とかけおち最後のトークライブへ
2026年になると、鈴木さんは芸人になる前の自分を自身の言葉で振り返る活動も始めました。
noteで「僕は変な学校に通っていた」の連載を始め、小学校の教室、中学校、高校へ通えなくなった時期、母親とのやり取り、フィリピンでの生活などを書いています。
吉本興業の現在の公式プロフィールでも、趣味には「本を読むこと」「素敵な言葉に触れること」が挙げられています。
フィリピンの小さな部屋で日本語の本を読み、文章を書いていた高校生は、芸人になった後、自分の高校時代そのものを文章にして公開するようになりました。
さらに2026年8月24日放送のテレビ朝日系『くりぃむナンタラ』では、山里亮太さんの企画に鈴木さんが出演しました。
テレビ朝日の公式ページでも鈴木さんは「山里に憧れて芸人になった」という後輩として紹介されており、高校卒業前に抱いた憧れが、本人とのテレビ共演まで進んでいます。
2021年前後に「山里さんのようになりたい」と考えてNSCへ進んだ鈴木さんが、2026年には山里さん本人の企画へ呼ばれる後輩になりました。
そして2026年8月30日には、青木マッチョさんと赤木細マッチョさんによる「かけおち」がコンビとしての活動を終えることになり、最後の公演「かけおちトークTHE FINAL」が開催されました。
その公演にはボダリキボバイ・鈴木ロン毛さんもゲストとして名を連ね、NSC時代に出会った元トリオ3人が、かけおち最後の日にも同じ場に集まりました。
「かけおち」を離れた鈴木さんは芸人を辞めず、現在はボダリキボバイとして再び舞台に立っています。
八王子の教室で席に座り続けることが難しかった子ども時代から、母親が見つけた学校を経てフィリピンまで渡り、高校卒業間際にお笑いという進路を選びました。
東京NSCで偶然のように2人の相方と出会い、かけおちのネタ作りを担った後に一度トリオを離れ、今度は同期のビッグ小原健太さんと新しいコンビを組んでいます。
高校時代に画面越しで憧れていた山里亮太さんとも同じ番組に立つようになり、鈴木ロン毛さんの芸人人生はボダリキボバイとして続いています。












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