人物プロフィール
ビヨンセのダンスパフォーマンスで全国に知られ、その後はニューヨークへ活動の場を広げた渡辺直美さんは、2026年2月には東京ドームで自身の芸歴20年を題材にしたコメディーショーを開催しました。
4万5,000人を超える観客が集まった現在の姿からは想像しにくいものの、子どものころの渡辺さんは、大勢の中心へ進んで出るというより、仲の良い友達の前でものまねや替え歌を披露する少女でした。
台湾で生まれ、茨城県石岡市で育ち、中学生になるころには芸人を将来の仕事として考えるようになります。
高校進学には至らず、それでもすぐ芸能界へ飛び込んだわけではなく、中学卒業後に3年間ファミリーレストランで働き、18歳で東京NSC12期へ進みました。
コンビ結成と解散、ピン転向、ビヨンセで突然増えたテレビ出演、売れた後も続けた深夜のコント稽古を経て、渡辺さんは少しずつ現在の表現へたどり着いています。
渡辺直美の生い立ちと家族|台湾生まれ、茨城県石岡市で育つ
渡辺直美さんは1987年10月23日に台湾で生まれ、幼いころからの生活の中心は茨城県石岡市にありました。
現在の公式プロフィールでも、出生地は台湾、育った場所は茨城県と分けて紹介されています。
日本人の父と台湾人の母、幼いころに両親が離婚
父親は日本人、母親は台湾人で、両親は渡辺さんがまだ幼い時期に離婚しました。
その後は主に母親との生活となり、母が働きながら渡辺さんを育てています。
幼いころには家計が安定しない時期もありましたが、後年の本人の話からは、母親が仕事をしながら生活を支えていた様子が伝わっています。
母親は学校生活にも厳しく、授業参観で手を挙げなかった渡辺さんに、自宅で手の挙げ方を練習させたこともありました。
現在の人前で堂々と話す姿とは違い、当時は自分から積極的に前へ出る子どもではなかったと本人は振り返っています。
母との暮らしと夏休みの台湾、テレビがお笑いとの接点に
石岡で生活しながらも台湾とのつながりは続き、夏休みになると母親の故郷である台湾で過ごすことがありました。
台湾のテレビでは日本のお笑い番組も放送されており、渡辺さんが繰り返し見ていた一人が志村けんさんでした。
ものまね番組ではコロッケさんにも強くひかれ、子どものころからテレビの中の「人を笑わせる表現」を身近に見ています。
「志村さんのコントを見て芸人になりたいっていうのが一番大きかった」
スポニチ
家庭で見ていたテレビと、台湾で繰り返し目にした日本のコントが、芸人という仕事を知る最初の入口になりました。
東小学校では仲の良い友達に替え歌やものまねを披露
石岡市の公式資料では、渡辺さんは石岡市立東小学校を卒業したことが確認できます。
小学生になると、好きだったお笑いをただ見るだけでなく、自分でも友達を笑わせるようになりました。
ただし、クラス全体を仕切って笑いを取るというより、気心の知れた友達の前でものまねや替え歌を披露することが多かったといいます。
台湾から持ち帰った服やお菓子など、日本の友達には見慣れないものに囲まれることもあり、台湾と日本を行き来する時間も子ども時代の日常の一部でした。
石岡中学校で芸人を意識|ものまねから「吉本の舞台」への憧れへ
小学生のころに友達へ見せていたものまねは、中学校へ進んでも続いていきます。
この時期になると、「人を笑わせるのが好き」という段階から、芸人を自分の進路として考えるところまで気持ちが進んでいました。
人前では控えめだった中学生が、教室でものまねを披露
渡辺さんが通ったのは石岡市立石岡中学校です。
本人は大人数の中では思うように自分を出せなかった一方、仲間内では人の特徴をつかんだものまねを披露していました。
中学時代には学校内の人物をまねることもあり、ある後輩のものまねをした際には本人の耳へ届き、呼び出されたという出来事も残っています。
誰にでも同じように明るく振る舞っていたわけではなく、安心できる友人の中でお笑いの部分を出していたのが当時の渡辺さんでした。
コロッケや岡村隆史に憧れ、ルミネtheよしもとを見て進路が具体化
幼いころから見ていたコロッケさんや志村けんさんに加え、成長すると『めちゃ×2イケてるッ!』で活躍する岡村隆史さんらにもひかれていきました。
さらに、CS放送で吉本興業の芸人が出演する劇場の様子を見るようになり、テレビの向こうにいた「芸人」が、実際に自分でも目指せる職業として見え始めます。
特にルミネtheよしもとなど吉本の舞台を知ったことで、芸人になるなら吉本へ行くという進路まで具体的になりました。
中学生の段階で、渡辺さんの中には「将来は芸人になる」という考えがすでにありました。
高校受験は不合格、進学せず芸人になる準備へ
中学校卒業が近づくと高校を受験しましたが、受けた高校には合格できず、高校進学には至りませんでした。
ここで重要なのは、高校へ進まなかったから突然芸人を思いついたのではなく、その前からお笑いの道へ進む意思を持っていたことです。
しかし、芸人養成所へ通うためにはお金が必要だったため、中学を卒業した渡辺さんが最初に向かった先は芸能事務所ではありませんでした。
卒業式の翌日、地元のファミリーレストランへアルバイトの面接を受けに行きました。
中学卒業翌日からファミレスへ|3年間働いてNSCの資金を貯める
芸人になると決めてから東京へ出るまでには、約3年間のアルバイト生活がありました。
渡辺さんはこの期間を、養成所へ進むためのお金を準備しながら、同世代とは違う環境で働く時間として過ごします。
時給約700円で働き、1年後にはアルバイトリーダーに
本人のインタビューによると、ファミリーレストランで働き始めた当時の時給は約700円で、月に約12万円を稼いでいました。
勤務を始めて約1年後にはアルバイトリーダーとなり、自分より年下のスタッフだけでなく、年上のスタッフや主婦にも仕事を伝える立場になります。
相手によって同じ言い方では伝わらないため、どのように声をかければ動いてもらえるのかを考えながら働いていました。
芸人になるまでの3年間は、養成所の資金を貯めるだけではなく、接客の現場でさまざまな年代の人と向き合った時期でもありました。
ホールをランウェイにした職場で、人との接し方も覚える
忙しく働く一方で、ファミレスの仲間たちとは職場ならではの遊びもしていました。
店内が落ち着いている時間には、ホールの通路をランウェイに見立て、スタッフ同士で列になって歩いて遊んだことがあったといいます。
仕事がうまくいっていないスタッフに対しては、注意だけを続けるのではなく、自分が先に動く姿を見せる方法を選んだこともありました。
現在の華やかなファッション活動よりずっと前に、地元のファミレスで仲間と服や歩き方を使って遊んでいた場面があったことになります。
母の反対を押し切り18歳で上京、東京NSC12期へ
3年間働き、18歳になった渡辺さんは、いよいよ芸人になるため東京へ向かいます。
母親は、娘には高校や大学へ進んで安定した仕事に就いてほしいと考えており、芸人になることには強く反対していました。
渡辺さんは母親の許可を待つのではなく、自分でNSCへ応募し、必要な荷物をゴミ袋2つほどに詰め、免許を取ったばかりの友人の車で東京へ向かったと後年明かしています。
18歳で地元を離れ、貯めたお金を使って東京NSCへ進みました。
「母親に黙って東京に出て、NSCに入りました」
ORICON NEWS
NSC東京12期でコンビ活動|「わたもち」から「フレッシュライム」へ
2006年、渡辺さんは東京NSC12期に入ります。
ここから芸人としての生活が始まりますが、現在のようなピン芸人としてスタートしたわけではありません。
NSC入学をゴールにせず、お笑いを仕事として考え始める
NSCへ入った渡辺さんは、周囲が入学そのものを喜んでいる様子を見ても、同じ感覚にはなれなかったといいます。
中学時代から芸人になるつもりで働き、お金を準備してきた渡辺さんにとって、NSCは夢がかなった場所ではなく、ようやく芸人になるための競争へ入った場所でした。
「入学はゴールじゃない。そこから戦場じゃないですか。」
Numero TOKYO
NSC東京12期という入口に立った時点で、渡辺さんはお笑いを「いつかなれたらいい仕事」ではなく、実際に生きていく仕事として見ていました。
最初のコンビ「わたもち」を経てササキりなと出会う
NSCではまず「わたもち」というコンビを経験し、その後、同じ東京NSC12期だったササキりなさんと親しくなります。
二人は最初から仕事上の相方として近づいたわけではなく、まず友人として仲良くなり、その関係から「フレッシュライム」を結成しました。
「最初は仲の良い友達だったのが、相方になり」
ORICON NEWS
コンビを組むと、友人同士だったころとは違ってネタや仕事を一緒に考える関係となり、二人の距離にも変化が生まれていきました。
「フレッシュライム」解散後、2007年にピン芸人へ
フレッシュライムは長くは続かず、2007年に解散します。
渡辺さんはコンビ活動を終えたあと芸人を辞めるのではなく、一人で舞台へ立つ道を選びました。
吉本興業のプロフィールでも2007年デビューとされており、2006年のNSC入学と2007年の芸人デビューは分けて考える必要があります。
コンビ解散によって、渡辺直美というピン芸人の活動が始まりました。
ピン芸人・渡辺直美の転機|ビヨンセから『さんまのまんま』へ
ピンになった渡辺さんが舞台で試していったものの一つが、歌手ビヨンセの楽曲に合わせたダンスパフォーマンスでした。
後に渡辺直美さんの名前を全国へ広げるネタですが、テレビから突然生まれた企画ではなく、若手ライブで披露していた持ちネタから始まっています。
ライブでビヨンセのパフォーマンスを磨く
NSC卒業後、渡辺さんはビヨンセの歌に合わせて口を動かし、全身を使って踊るパフォーマンスを舞台で披露するようになります。
子どものころに好きだったものまねと、体全体を使った表現が一つになったネタでした。
ネタを披露する若手ライブに出ながら活動を続けていると、このパフォーマンスを大きなテレビ番組へつなぐ人物が現れます。
公開オーディションで今田耕司の目に留まる
転機となったのは、吉本興業の劇場ヨシモト∞ホールで行われていた公開オーディションでした。
そこで渡辺さんのビヨンセを見た今田耕司さんの目に留まり、『さんまのまんま』新春特番へ出演する若手の一人として推薦されます。
若手ライブで続けていたビヨンセのパフォーマンスが、全国放送へ出る入口になりました。
テレビ局へ自分から売り込みに行ったのではなく、劇場で見せていたネタを先輩芸人が見つけたことで仕事が動き始めています。
2008年『さんまのまんま』から『笑っていいとも!』へ
2008年の新春に『さんまのまんま』へ出演すると、ビヨンセのパフォーマンスが注目を集め、テレビの仕事が急速に増えていきます。
同年3月31日には、鈴木凛さんとともに『笑っていいとも!』の「いいとも少女隊」としてレギュラー出演を開始しました。
二人は「リン・ナオミ」として番組に出演し、渡辺さんは2010年4月まで約2年間、平日の昼に放送される全国ネットの番組へ継続して登場するようになります。
ピンへ転向した翌年には、劇場の若手芸人から全国放送のレギュラー出演者へと仕事の環境が大きく変わりました。
売れた直後ほど苦しかった若手時代|テレビとコント舞台を往復
テレビ出演が増えれば、そのまま芸人として手応えを得られたわけではありませんでした。
ビヨンセの印象が強くなったことで、番組では同じパフォーマンスを求められる一方、トーク中心のバラエティでは思うように言葉を挟めない場面が続きます。
バラエティで話せず「ビヨンセだけ」を求められた時期
本人によると、ひな壇形式の番組へ呼ばれても、一度も発言できないまま収録を終えることがありました。
出演依頼が増えているのに、現場ではビヨンセ以外に何を見せればいいのか分からないという状態が続きます。
もともと渡辺さんが芸人を目指したときにやりたかったのは、ものまねだけではなくコントでした。
全国的な知名度を得た時期と、自分がやりたいお笑いを形にしようとしていた時期が重なっていました。
テレビ出演後も若手舞台へ戻り、深夜までコントを稽古
テレビの仕事が増えてからも、渡辺さんはそれまで出演していた若手の舞台を降りませんでした。
コントチームの月例ライブにも参加し、テレビ収録を終えてから稽古場へ向かい、深夜から朝方までコントを合わせる生活を続けます。
稽古が終わっても後片付けまで残り、そのまま『笑っていいとも!』の仕事へ向かう日もあったといいます。
テレビで名前が知られ始めたあとも、若手ライブと深夜のコント稽古を並行していました。
20代前半までの本人にとって、テレビへ出ることと、舞台で芸人として力をつけることは別々に続いていたのです。
吉本新喜劇や先輩芸人との舞台でコント経験を積む
そのころには大阪の吉本新喜劇にも約1年間レギュラーで参加し、小籔千豊さんらと舞台に立ちました。
さらに、平成ノブシコブシやピースらと舞台を作り、又吉直樹さんが脚本を書いた作品へ出演するなど、テレビとは別の場所でコントの経験を積んでいきます。
ビヨンセで注目された芸人という印象が広がっていた時期にも、本人の活動の内側ではコントが途切れていませんでした。
『ピカルの定理』でコントへ|本人が語った「第二の人生」の始まり
舞台で続けてきたコントとテレビでの知名度が大きく重なったのが、フジテレビ系『ピカルの定理』でした。
渡辺さんにとって、テレビでコントを継続して演じられる環境がようやく現れます。
憧れていたコント番組でレギュラーに
『ピカルの定理』では、ビヨンセのパフォーマンスだけではなく、さまざまなキャラクターを演じるコントへ参加しました。
中学生のころから見ていたテレビのお笑いと、若手時代に舞台で続けていたコントが、ここで同じ仕事の中に入ります。
本人は『ピカルの定理』に参加した時期を、自分にとって「第二の人生のスタート」だったと位置づけています。
番組ではダンスや大きな動きだけではない渡辺さんの表現が知られるようになり、ピン芸人として見せられるものが増えていきました。
テレビで知られた姿とは別の表現を広げていく
コントを継続できるようになった一方、ファッションや広告など、お笑い番組以外から声がかかる機会も増えていきます。
2012年には単独ライブを行い、テレビだけではなく、自分が中心になって作る舞台でもコントを続けました。
2014年には自身がプロデュースするファッションブランド「PUNYUS」もスタートしています。
テレビの出演者として知られたあとに、自分で企画する仕事や表現を外へ広げる時期へ入っていきました。
「次のカード」を探し、2014年ニューヨークへ
『ピカルの定理』などでやりたかった仕事を経験すると、渡辺さんは次に何を見せるのかを考えるようになります。
当時、オリエンタルラジオの中田敦彦さんへ相談した際には、苦手な部分を直すより、自分が得意な部分をさらに伸ばした方がいいという趣旨の助言を受けました。
そこで自分の武器として考えたのが、言葉だけではなく動きや表情まで含めた「表現力」でした。
2014年、渡辺さんは新しい表現を探す場所としてニューヨークへ向かいます。
ニューヨーク留学から海外へ|2019年2拠点、2021年に活動拠点を移す
最初のニューヨーク滞在は、日本での仕事を捨てて海外へ完全移住するものではなく、次に使える表現を増やすための挑戦でした。
その経験を一度で終わらせず、渡辺さんは数年かけて海外で観客の前へ立つ機会を増やしていきます。
弱点を直すより、自分の表現力を伸ばすためニューヨークを選ぶ
ニューヨークでは英語やダンスを学ぶだけでなく、街で暮らしながら日本とは違うエンターテインメントやファッションに触れました。
日本ではすでにテレビの人気者となっていましたが、海外では渡辺直美という名前を知らない人の中へ入ることになります。
言葉が十分に通じない環境でも、表情や動き、衣装、身体を使って伝えるという方法は、それまで舞台で続けてきた表現と重なる部分がありました。
2016年ワールドツアーで海外公演を本格化
2016年にはニューヨーク、ロサンゼルス、台北を巡るワールドツアーを開催しました。
ニューヨークではWebster Hall、ロサンゼルスではUnion Nightclub、台湾では台北のOMNIを会場とし、海外の観客を前に単独公演を行っています。
台湾は渡辺さん自身が生まれ、子どものころにも母親と訪れていた土地でもありました。
日本のテレビで知られた芸人が海外へ行く段階から、自分の公演を海外の観客へ届ける段階へ進んでいきました。
2019年の東京・NY2拠点を経て、2021年からニューヨーク中心へ
海外での活動を続けた渡辺さんは、2019年から東京とニューヨークの2拠点生活を始めました。
さらに2021年4月からは、活動の中心をニューヨークへ移します。
中学生のころに石岡で吉本の舞台をテレビ越しに見ていた渡辺さんは、2021年にはニューヨークを拠点に仕事をする芸人になっていました。
移住後も日本での仕事を続けながら、アメリカでは現地の観客へ直接コメディーを届ける準備を重ねていきます。
英語のスタンドアップから2026年東京ドームへ
ニューヨークへ活動拠点を移した後半のキャリアでは、日本で作ったものを海外へ持っていくだけでなく、英語そのものを使って笑いを届ける仕事が増えていきます。
その一方、日本では若手時代から続けてきたコントを大きな会場へ持ち帰る動きも始まりました。
2024年、ニューヨークで初の英語スタンドアップ単独公演
2023年にはアメリカ7都市でポッドキャストのライブツアーを行い、翌2024年10月18日にはニューヨークのGramercy Theatreで初のスタンドアップ単独公演『Stand Up with Naomi Watanabe』を開催しました。
この公演は全編英語で行われ、一般発売後にチケットが完売したため、同じ日の夜に追加公演も設定されています。
子どものころにものまねや身体表現から笑いへ入った渡辺さんが、今度は英語だけで海外の観客を笑わせる舞台へ立ちました。
2025年、日本で13年ぶりの単独コントライブ
2025年6月には東京・IMM THEATERで、日本では13年ぶりとなる単独コントライブを5日間6公演開催しました。
全6公演、計4,200席が完売し、渡辺さん自身が企画と脚本を担当して新作コントを披露しています。
ジャングルポケットの池田一真さん、スパイク、ネルソンズ、横澤夏子さんら、若手時代から近い世代の芸人たちもコントへ参加しました。
「私はコントがしたくて この世界に入ったんですね。」
Numero TOKYO 特別号発表
公演最終日には、翌2026年に東京ドームでライブを行うことが発表されました。
東京ドーム4万5,000人超とギネス認定、北米18都市ツアーへ
2026年2月11日、芸歴20年の節目に『渡辺直美 (20) in 東京ドーム』が開催されました。
会場には4万5,000人を超える観客が集まり、渡辺さんは出演するだけでなく、企画や脚本、楽曲制作などにも関わっています。
ステージでは学生時代やNSC時代、若手時代など、ここまで歩いてきた約20年間を題材にしたコントや演出が組み込まれました。
千鳥、又吉直樹さん、平成ノブシコブシ、友近さん、ハリセンボン、シソンヌ、チョコレートプラネット、ジャングルポケットら、長い芸人人生の中で関わってきた芸人たちも出演しています。
この公演では44,356枚のチケットを販売し、「女性ソロコメディアンによるコメディーショーで販売されたチケットの最多枚数」としてギネス世界記録に認定されました。
来場者数の4万5,000人超と、ギネス認定の対象になった販売チケット44,356枚は、それぞれ別の数字として公式に発表されています。
東京ドームで披露したのも、芸人になった当初から続けてきたコントを中心とするショーでした。
その約2か月後の2026年4月から6月には、全編英語のコメディーツアー『FROM TOKYO』を実施し、ロサンゼルスからバンクーバーまでアメリカ・カナダの18都市を巡りました。
台湾で生まれ、石岡で友達にものまねを見せていた子ども時代を経て、中学生のころにはテレビと吉本の舞台を見ながら芸人になる進路を決めていました。
中学卒業後の3年間のファミレス勤務、NSCでのコンビ活動と解散、ピン転向後の舞台や深夜のコント稽古を通り、仕事の場所は日本の劇場からニューヨークへと広がっていきました。
2026年には東京ドームと北米18都市の舞台に立ち、芸人を目指したころから続けてきた「人を笑わせる仕事」を、コントとスタンドアップの両方で続けています。












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