人物プロフィール
ピンクのベストに七三分け、胸を張った立ち姿で「トゥース!」と決めるオードリーの春日俊彰さんは、今では登場した瞬間に誰なのか分かるほど強烈なキャラクターを持っています。
ところが、芸人を始めたころから現在の「春日」が完成していたわけではありません。
お笑いを始めた直接のきっかけは、中学時代からの同級生だった若林正恭さんに誘われたことでした。
しかもコンビ結成当初は、現在とは反対に春日さんがツッコミ、若林さんがボケを担当していた時期があります。
埼玉県所沢市で育った少年が日大二中で若林さんと出会い、大学時代に誘われて芸人となり、長い試行錯誤を経て現在の「オードリー春日」になるまでを、時間を追ってたどります。
春日俊彰の生い立ちと家族|所沢で育ち、祖父から受けた影響
春日俊彰さんは1979年2月9日、埼玉県所沢市で生まれました。
所属するケイダッシュステージの公式プロフィールでは埼玉県出身とされ、埼玉西武ライオンズの公式資料では所沢市出身と紹介されています。
所沢で過ごした子ども時代と西武ライオンズ
春日さんが生まれた1979年は、西武ライオンズが埼玉県所沢市を本拠地として新たに歩み始めた年でもありました。
後年まで埼玉西武ライオンズを応援していることで知られていますが、その縁は芸人として売れてから始まったものではありません。
学生時代には西武ライオンズ球場や西武ドームで球場アルバイトも経験しています。
2022年に埼玉西武ライオンズが公開した春日さんのプロフィールにも、所沢市出身であることとともに、この球場アルバイト経験が記されています。
テレビに出るようになってからもライオンズとの関係は続き、球団イベントへの出演などを重ねていきました。
春日俊彰が大きな影響を受けた祖父
春日さんの子ども時代を知るうえで欠かせない家族が祖父です。
2020年にオードリーの半生を取り上げたTBS系『中居正広のキンスマスペシャル』では、人生で影響を受けた人物を尋ねられ、春日さんは祖父を挙げています。
さらに2026年のTOKYO FM『川島明 そもそもの話』では、幼いころに見ていた祖父の行動を具体的に振り返りました。
祖父は外で拾ってきた木を家で何年も磨き、表面が光ってくると文字を彫って床の間へ飾っていたそうです。
春日さんは、祖父の「作れるものは自分で作る」という姿勢に、自分と重なる部分があると話しています。
後にむつみ荘で長く暮らし、必要なものを工夫しながら生活する春日さんの姿を知っていると、子どものころから身近にそうした大人がいたことも興味深いところです。
学校の図書室で「いつか自分の伝記」を思い描いていた
子どものころには、現在の春日さんを思わせる少し変わった夢もありました。
後年のインタビューで春日さんは、学校の図書室に並んだ本を見ながら、自分についての伝記がいつか作られないかと考えていたことを明かしています。
「いつか自分の伝記ができないもんかな」
type
芸人になることを幼いころから決めていたわけではありませんが、自分が何者かとして世の中に残る未来は、ずっと遠くに思い描いていたようです。
日大二中・高校で若林正恭と出会い、アメフトに打ち込む
春日さんの人生に若林正恭さんが登場するのは、芸人になってからではありません。
二人は日本大学第二中学校・高等学校で学生時代をともにしました。
中学2年で若林正恭と同じクラスになる
春日さん自身が2026年のラジオで振り返ったところによると、若林さんと初めて同じクラスになったのは中学2年生のときでした。
当時の若林さんは春日さんの後ろの席におり、いろいろないたずらを仕掛けてきたため、春日さんは「やんちゃな人」という印象を持っていたそうです。
現在では30年以上にわたる関係になりますが、始まりは芸能界でも養成所でもなく、男子生徒同士として過ごした中学校の教室でした。
日本大学第二中学校・高等学校も、現在公開している学校資料の著名な卒業生として春日俊彰さんと若林正恭さんを並べて紹介しています。
高校ではアメフト部へ|ディフェンスでオール関東にも選出
高校へ進んだ春日さんは、アメリカンフットボール部に所属しました。
ケイダッシュステージの公式プロフィールでは、春日さんの特技としてアメリカンフットボールが挙げられ、ポジションはディフェンスエンド、さらに関東代表歴が記載されています。
スポーツ誌『Number』でも、日大二高時代にディフェンスラインやオフェンスラインでプレーし、オール関東の選抜メンバーに選ばれた経験が紹介されています。
若林さんも同じアメフト部でランニングバックとしてプレーしており、二人は教室だけでなくグラウンドでも時間を共有していました。
後に芸人コンビを組む二人は、高校時代にはアメフト部のチームメイトでもあったのです。
高校時代から積み重なった若林とのエピソード
春日さんは後年、高校生だった自分へ言葉をかけるなら、若林さんとのエピソードをもっと作っておくよう伝えたいと話したことがあります。
中学2年から一緒だったため、現在トーク番組やラジオで語れる昔話がたくさん残っているからです。
この時点では二人ともテレビで冠番組を持つ未来を知るはずもありませんでしたが、学校で過ごした日々そのものが、後のオードリーのトークを支える材料になっていきます。
日本大学へ進学後、若林の誘いで芸人になる
高校を卒業した春日さんは日本大学商学部へ進学しました。
この大学時代に、人生の進路がテレビを見る側から出る側へ大きく動き始めます。
大学時代はテレビ関係の仕事を目指していた
意外なのは、大学生になった春日さんが、最初からお笑い芸人一本に進もうとしていたわけではないことです。
子どものころからテレビの世界には興味を持っていましたが、当初考えていたのはテレビ関係の仕事でした。
2026年のTOKYO FMのインタビューでは、大学時代にマスコミセミナーへ通っていたことも明かされています。
一方の若林さんは、すでにお笑い芸人を目指していました。
同じ学校で長く過ごした二人でしたが、大学生になった時点では将来への向き方が同じだったわけではありません。
「若林くんに誘われた」ことから始まったお笑いへの道
その春日さんに声をかけたのが若林さんでした。
若林さんからネタ見せに行ってみないかと誘われたことが、二人がお笑いの世界へ入っていくきっかけになります。
春日さん自身も2019年のインタビューで、お笑いを始めた理由について非常に端的に語っています。
「相方の若林くんに誘われたから始めただけ」
20’s type
春日俊彰さんが芸人になった直接のきっかけは、若林正恭さんからの誘いでした。
芸人養成所へ入り、そこで偶然相方を見つけたコンビではありません。
中学時代から知っている同級生に声をかけられ、そのまま二人でお笑いを始めたというルートでした。
2000年4月、養成所を経ず「ナイスミドル」を結成
2000年4月、春日さんと若林さんは「ナイスミドル」を結成しました。
春日さんが21歳になった年です。
NSCなどの養成所で同じ期になったわけではなく、学生時代からの関係をそのまま芸人コンビへ持ち込んだ形でした。
ただし、ここで誕生したのは、現在テレビで見るオードリーと同じ形のコンビではありません。
ナイスミドル時代の試行錯誤|春日がツッコミだった若手時代
「春日=強烈なボケ」「若林=春日をさばくツッコミ」という現在の印象から見ると、ナイスミドル時代の二人はかなり違っていました。
最初は春日がツッコミ、若林がボケだった
コンビ結成当初、春日さんはツッコミ、若林さんはボケを担当していました。
2026年に春日さんが明かしたところでは、当時のツッコミはかなりシンプルだったそうです。
「よしなさい」「やめなさい」
TOKYO FM『川島明 そもそもの話』
この2種類ほどのツッコミで戦っていた時期もあったといい、現在の芸風とはかなり距離があります。
現在の役割をそのまま20代前半までさかのぼらせることはできません。
漫才やコントを試しながら、自分たちに合う形を探す
若手時代のオードリーは、一つのスタイルだけを続けていたわけでもありませんでした。
春日さんは後年、二人でコントをしたり、漫才で時事ネタを扱ったりと、さまざまな形を試したと振り返っています。
試しては自分たちにできることとできないことを知り、その結果として残った形が後のオードリーにつながっていきました。
売れてから完成した芸風を過去へ当てはめるのではなく、若手時代には二人ともまだ自分たちの形を探していた時期が長く続いていました。
2005年「オードリー」へ改名した経緯
結成から5年後の2005年、コンビ名にも変化が起きます。
春日さんが2026年に語った経緯では、所属事務所の社長から「ナイスミドル」という名前が二人の雰囲気に合っていないと指摘されたことが改名の始まりでした。
寿司店で話をしていた際、社長側から出た候補には「うにいくら」という名前もあったそうです。
最終的には二人で考え直し、「華がある存在」から連想したオードリー・ヘプバーンの名前をもとに「オードリー」となりました。
2005年、ナイスミドルは「オードリー」へ変わりました。
むつみ荘の下積みから「オードリー春日」とズレ漫才が生まれるまで
名前がオードリーになっても、すぐにテレビの人気者になったわけではありません。
春日さんの20代には、現在の知名度からは想像しにくい、長い売れない時期がありました。
同級生が社会人になる中、風呂なしアパートで芸人を続ける
春日さんは2019年のインタビューで、大学を卒業すると周囲の同級生たちの生活が少しずつ変わっていったと話しています。
一緒に食事へ行く店が変わり、車や家を買う話、結婚の話が増えていきました。
その一方で春日さんは、まだ売れない芸人として風呂のない古いアパートで暮らしていました。
その部屋こそ、後にテレビやラジオでも広く知られることになる阿佐ヶ谷の「むつみ荘」です。
2020年の『金スマ』関連資料では、テレビで売れた後も家賃3万9000円のアパートに住み続けたことが紹介され、春日さん自身も後年、風呂なしの部屋に約20年間住んだと振り返っています。
むつみ荘は売れた後に作られた節約キャラクターの小道具ではなく、売れない時代から続いた春日さんの生活そのものでした。
若林がピンクベストと胸を張る「春日」を作っていく
この売れない時期に、もう一つ大きく変わっていったものが春日さん自身の見せ方です。
春日さんは2019年のインタビューで、ピンクのベストを着ることも、胸を張ることも若林さんから勧められたと明かしています。
さらに後年には、若林さんが普段の春日俊彰という人物を観察し、その一部分を取り出して強くしたものが「オードリー春日」だと説明しました。
テレビで知られる「春日」は、若林さんが相方の中にあった特徴を見つけ、形にしていったキャラクターでもありました。
「“芸人・春日”を作ったのは若林くん」
20’s type
もちろん、まったく別人を演じているという意味ではありません。
春日さん自身も、もともと自分の中にあるものを若林さんが抽出したのだと説明しています。
試行錯誤を重ね、現在につながるズレ漫才へ
衣装や立ち姿だけでなく、漫才の形も変わっていきました。
現在のオードリーは、春日さんが独特なボケや態度を見せても、若林さんが必ずしも真正面から処理せず漫才を進めていく「ズレ漫才」で知られています。
しかし、この形にたどり着くまでにはコントや別タイプの漫才を試した時期がありました。
結成時には春日さんがツッコミだった二人が、試行錯誤を重ねる中で役割を変え、現在につながる漫才へたどり着きました。
ピンクベスト、胸を張った春日さん、そしてその春日さんとの会話をずらしながら進める若林さんという組み合わせが固まり始めたことで、オードリーは他のコンビとは違う見え方を持つようになります。
2008年「おもしろ荘」からM-1敗者復活へ|仕事量が変わった一年
長く続いた若手時代の空気が大きく変わるのが2008年です。
この年、オードリーはテレビで知られる機会を増やし、年末にはM-1グランプリで一気に全国へ名前を広げました。
「おもしろ荘」でオードリーへの注目が高まる
2008年には日本テレビ系『ぐるナイ』の若手芸人企画「おもしろ荘」への出演などを通して、オードリーがテレビで目に留まる機会が増えていきます。
ここですぐ全国的な人気コンビになったというより、長くライブで試してきた春日さんのキャラクターと二人の漫才が、テレビの視聴者にも届き始めた時期でした。
そして同じ年の12月、芸人人生の大きな転機となる舞台へ進みます。
M-1敗者復活から決勝へ進み、最終2位
『M-1グランプリ2008』でオードリーは、そのまま決勝進出を決めたわけではありませんでした。
敗者復活戦を勝ち上がり、最後の1組として決勝の舞台へ入りました。
決勝第1ラウンドでは649点を獲得し、その時点の最高得点で最終決戦へ進出します。
最終決戦ではNON STYLE、ナイツと争い、優勝はNON STYLE。
オードリーの最終順位は2位でした。
優勝は逃しましたが、敗者復活から現れたピンクベストの春日さんとオードリーの漫才は、一夜で全国の視聴者へ強い印象を残しました。
M-1公式サイトには2008年大会の決勝結果が現在も残されており、オードリーの2位が確認できます。
テレビ出演が急増し、2009年にはオールナイトニッポンが始まる
M-1後、オードリーを取り巻く仕事の状況は大きく変わりました。
それまで長く売れない時期を経験した二人がテレビ番組へ次々と呼ばれるようになり、2009年にはニッポン放送『オードリーのオールナイトニッポン』もスタートします。
一時的な賞レースの注目だけで終わらず、テレビとラジオの両方に二人の居場所が生まれていきました。
中学時代から話してきた二人の関係そのものが、今度は毎週のラジオで聞かれるコンテンツになりました。
売れた後も広がった「オードリー春日」|学生時代の経験から現在へ
M-1後の春日さんは、漫才やトークだけに活動を限定しませんでした。
若手時代に作られた「オードリー春日」というキャラクターへ、次々と新しい仕事が重なっていきます。
アメフトや水泳経験がスポーツ・肉体企画へ広がる
春日さんは高校時代のアメフトに加え、水泳も得意としており、所属事務所の公式プロフィールにはアメリカンフットボール、水泳、潜水に関する経歴が並んでいます。
ブレイク後は、その身体能力を使う番組企画への出演が増えていきました。
ボディビル、フィンスイミング、レスリング、エアロビなどにも挑戦し、フィンスイミングでは国際大会のマスターズ日本代表としてメダルも獲得しています。
ただし春日さん自身は、こうした競技を最初から自分で選び続けてきたとは説明していません。
番組や事務所から「やってみないか」と声をかけられ、それを受けてきたと話しています。
若林さんから芸人へ誘われたときと同じように、仕事を渡されると受け取り、そこで必要なことをやるという形が続いています。
所沢と西武ライオンズとの縁が現在まで続く
子ども時代を過ごした所沢との関係も消えていません。
学生時代に球場で働いた埼玉西武ライオンズとは、ブレイク後もイベント出演などでたびたび関わっています。
ケイダッシュステージの公式プロフィールにも、2012年と2013年に埼玉西武ライオンズ「1日企画部長」を務めた記録が残っています。
2022年に球団が公開した資料では、春日さんを所沢市出身で学生時代に球場アルバイトを経験した人物として改めて紹介しました。
売れた後に地元との関係が突然作られたのではなく、少年時代から学生時代に続いていたものが、芸人としての仕事にもつながっています。
中学からの相方・若林と2024年の東京ドームへ
2009年に始まった『オードリーのオールナイトニッポン』は、ブレイク直後だけの番組では終わりませんでした。
2024年2月18日には番組15周年を記念して『オードリーのオールナイトニッポン in 東京ドーム』が開催されました。
東京ドームの会場だけでなくライブビューイングやオンライン配信でも多くの人が視聴し、合計の視聴規模は約16万人に達しました。
春日さんは後年のインタビューで、この東京ドーム公演の中でも特に最後の漫才を「いい仕事」として挙げています。
大がかりな演出ではなく、二人だけで漫才をする時間だったからです。
中学2年の教室で出会い、2000年にコンビを組んだ二人が、24年後には東京ドームの最後を漫才で締めました。
現在の春日さんは、自分の中に普段の「春日」と、ピンクベストで胸を張る「オードリー春日」がいるような感覚を語っています。
その「オードリー春日」を形にしたのは、学生時代から自分を知る若林さんでした。
所沢で育ち、中学で若林さんと出会い、誘われて始めたお笑いは、ナイスミドル時代とむつみ荘での長い試行錯誤を経て、M-1、ラジオ、そして東京ドームまで続いています。












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