人物プロフィール
友近さんといえば、日常のどこかにいそうな人物を細かく演じ分ける一人コントをはじめ、歌手の水谷千重子、中高年プロアルバイターの西尾一男など、設定そのものから人物を作り込む芸で知られています。
俳優としてドラマや映画にも出演し、自ら企画した映像作品まで手掛けていますが、そうした表現は芸人になってから突然始まったものではありません。
愛媛県松山市で育った子どものころには、犬を観客に田んぼで一人ドラマをし、家では姉と台本のない即興コントをしていました。
大学卒業後は道後温泉の旅館で仲居として働き、その後は地元テレビのレポーターとして活動してから、26歳で仕事を辞めてNSC大阪校へ入り、本格的に芸人の道へ進んでいます。
現在の友近さんからは想像しにくい、松山で過ごした少女時代から芸人になる直前、そして大阪で自分の笑いを形にしていった時期までを順番にたどります。
友近の生い立ちと家族|松山の田んぼで始まった「一人ドラマ」
友近さんは愛媛県松山市で生まれ育ち、両親と姉がいる家庭で子ども時代を過ごしました。
家では口数が多い子ではなく、周囲の大人や同級生をじっと見ながら、その人がどんなことで笑うのかを一人で観察しているような子だったそうです。
無口な小学生が、犬を観客に田んぼで一人ドラマ
実家の近所には田んぼや空き地が残り、学校から帰ると缶蹴りをしたり、道路にチョークで絵を描いたりしながら外で遊んでいました。
松山市立石井小学校の卒業生でもあり、2025年に母校を訪れた際には、小学生のころに人前で歌った経験から表現する喜びを感じたことを児童に伝えています。
一方、学校や家の中とは別に、一人になったときにはすでに現在の芸を思わせる遊びを始めていました。
犬の散歩に出ると田んぼで歌い、登場人物を一人ですべて演じる「一人ドラマ」をしていたのです。
「観客は犬です(笑)。」
ウェルチル「街と芸人~友近~」
誰かに見せるためではなく、一人で役を作り、場面を想像して演じること自体を楽しんでいました。
父のお笑い好きと、姉との即興コントが最初の「答え合わせ」
父親はお笑い番組が好きで、友近さん自身も後年、お笑いへの関心には父の影響があったと話しています。
家庭の中では父親に厳しい面もあり、友近さん自身も父と頻繁に話すタイプではありませんでしたが、お笑いを見る環境は身近にありました。
そんな友近さんが、自分のひょうきんな部分をほとんど隠さず見せていた相手が姉でした。
皿洗いをしながら二人で「ごりょんさん」と「女中」になりきり、どちらかが話し始めた設定へもう一人が即興で乗っていく遊びを繰り返していました。
高校生になるころには設定も細かくなり、「流れ着いた水産工場で本名を隠して働く女」と、昔から働いている地元のおばちゃんというように、二人で架空の人物を作って会話していました。
「いまだに姉にだけはネタの相談もするんですよ。」
婦人公論.jp
姉とのやり取りでは、自分が面白いと思った言葉や設定に相手が反応するか、その場ですぐ分かりました。
中学生になると歌の舞台へ|お笑い番組と2時間ドラマに夢中だった頃
子どものころから歌も好きで、毎日放送の「全日本ジュニア歌謡選抜」で準優勝した経験もあり、人前で表現する機会が少しずつ増えていきました。
テレビでは『オレたちひょうきん族』や『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』などのお笑い番組を見ながら、大映ドラマや『土曜ワイド劇場』のようなドラマにも夢中になっていました。
とりわけ、事情を抱えた女性が登場するドラマの世界が好きで、中高生のころには制服姿のまま目の焦点をぼんやりさせ、街を歩きながら「ワケありの女」になりきることまでしていました。
実際の家庭にドラマのような事情があったわけではなく、友近さんは単純に自分とは違う人物の人生を演じることを面白がっていたと振り返っています。
高校・大学時代|テニス部、ものまね、地元テレビへの入り口
高校へ進んでも、お笑いや演じる遊びが学校生活から消えることはありませんでした。
ただし、お笑い一色の学生生活だったわけではなく、放課後には部活動にも打ち込んでいます。
高校ではテニス部、休み時間は歌とものまね
高校時代はテニス部に所属し、放課後の時間の多くを部活動に使っていました。
一方で休み時間になると、友人の前で歌ったり、ものまねを披露したりして盛り上がっていました。
友近さんによれば、周囲には同じようなお笑いの感覚を持つ友人がいて、テレビ番組やドラマについて話せる環境にも恵まれていたそうです。
学生時代の友人とは大人になってからも交流が続き、集まると当時と同じように笑い合う関係が残っています。
卒業アルバムで一人だけ「無罪」|笑いの感覚が合った友人たち
高校時代の雰囲気がよく分かるのが、卒業アルバムの集合写真です。
撮影直前まで半紙を隠し、一人だけ「無罪」と書いた紙を掲げて写真に収まりました。
書道の時間にも、きれいな字を書くことだけでなく「何を書いたら面白いか」を友人同士で競うようなことをしていました。
学校の休み時間や授業の中でも、日常の一場面を笑いへ変える遊びが続いていたことが分かるエピソードです。
大学で学生レポーターになり、人前へ出る仕事を始める
大学生になると、友近さんは地元テレビ局のローカル番組のオーディションを受け、人前へ出る活動を始めました。
得意だった歌を披露したことから歌謡コンテストへ出場し、「長崎歌謡祭」への挑戦を番組で追ってもらうなど、テレビとの接点が生まれていきます。
その後は大学在学中から学生レポーターとして、地元のテレビ番組へ出演するようになりました。
観光地や店を紹介する仕事からスタジオでの進行まで経験し、テレビカメラの前で話すことは、芸人になる前から仕事の一部になっていました。
NSCを考えるも父親の反対で一度断念
大学時代には、すでに大阪のNSC(吉本総合芸能学院)へ行くことも考えています。
しかし父親は、先の見えにくい芸能界へ進むことを心配し、地元できちんと就職してほしいと反対しました。
友近さんはこの時点では父親の意向を受け入れ、NSC行きを断念しています。
後年は、このころについて自分でもどこまで本気だったのか分からず、まだ芸人になる時期ではなかったとも振り返っています。
一度は芸人という進路を選ばなかったことで、その後の仲居とレポーターの経験を経て、改めて自分が何をしたいのかを考える時間が生まれました。
道後温泉の仲居と地元レポーター|芸人になる直前の若い頃
大学を卒業した友近さんが最初に選んだのは、芸人でもテレビ局の社員でもありませんでした。
地元・愛媛を代表する観光地、道後温泉の旅館で仲居として働き始めます。
2時間サスペンスへの憧れから旅館の仲居へ
旅館を選んだ理由には、子どものころから見続けていた2時間サスペンスが関係していました。
温泉地や旅館を舞台にした「湯けむり」ものの世界が好きで、自分も一度その空気の中で働いてみたいと思ったのです。
本人は後年、何か事件が起きないかと期待して就職したと冗談交じりに振り返っています。
テレビで見ていた架空の世界への興味が、実際の就職先を選ぶ理由の一つになっていました。
ものまねを見たテレビスタッフからレポーターに誘われる
仲居として働いていた時期、松山の女性を紹介するテレビ番組へ一般参加者として出演する機会がありました。
そこで友近さんがものまねを披露すると、番組のディレクター兼カメラマンから「面白い」と声をかけられます。
これをきっかけに、仲居をしながら地元テレビのレポーターも続ける生活になりました。
やがて仲居を辞めてレポーターへ仕事を絞り、夕方の帯番組などで観光地やグルメを紹介するようになります。
大学時代の学生レポーターから続いた経験を含めると、松山で約5年間レポーターの仕事を経験してから大阪へ向かうことになります。
愛媛時代のコンビ「ディープ・キス」とローカル活動
愛媛でローカルタレントとして活動していた時期には、地元タレントのらくさぶろうさんと「ディープ・キス」というコンビを組んで活動していたことも、後年のテレビ企画などで紹介されています。
現在の友近さんはピン芸人として知られていますが、NSCへ入るより前から、レポーター、ものまね、ローカルでのお笑い活動など複数の形で人前に立っていました。
一方で、このコンビの細かな活動期間や解散の事情について本人が詳しく公に語った資料は限られているため、芸人人生の中心はこの後のNSC入学から見るのが自然です。
小ネタをカットされ続け「編集されない舞台」へ気持ちが動く
レポーターの仕事では、普通に情報を伝えるだけでなく、ロケの途中へものまねや小さな笑いを何度も入れていました。
ところが情報番組で優先されるのは店や観光地などの情報で、友近さんが入れた笑いの部分は編集で使われないことも増えていきます。
自分のVTRを見ながら、ネタを作れるわけでもないのにテンションだけ高いレポーターだと思われているのではないか、と考えるようになりました。
そこで、ただ面白そうに振る舞うのではなく、きちんとネタを作って自分の笑いを試したいという気持ちがはっきりしていきます。
「そのネタを誰にもカットされない舞台でやって勝負したい」
婦人公論.jp
大学時代には一度見送った芸人という進路を、今度は自分の意思で選び直しました。
26歳でNSC大阪校へ|仕事を辞め、ピン芸人として再出発
友近さんは地元でしていた仕事をすべて辞め、2000年にNSC大阪校23期へ入りました。
このとき26歳で、高校卒業後や大学在学中に入ってきた年下の同期生が多い環境からのスタートでした。
生活費を貯めて大阪へ|NSC23期で年下の同期に囲まれる
大阪へ行く前には、NSC在学中にアルバイトへ時間を取られなくてもいいように、愛媛であらかじめ生活費を貯めていました。
住んだのは黒門市場の近くで、現在ほど観光客が多くなかったころの下町の空気の中で生活を始めます。
同期とは年齢差がありましたが、本人によれば壁はなく、ドライブやUSJへ行ったり、誰かの家へ集まったりして過ごしていました。
「同期」という言葉は養成所の期と芸歴が近い仲間で意味が変わることがありますが、友近さんの正式な養成所歴はNSC大阪23期です。
3日に1本の新ネタを作り続けたNSC時代
大学時代にNSCを考えたときとは違い、この時点では芸人としてやっていく目的がはっきりしていました。
時間をお笑いへ使える環境を事前に作っていたため、授業では約3日に1本というペースで新ネタを作り、次々に発表しています。
ピンなので、設定を考えるところから台本、演技まで自分一人で進めなければなりません。
それでも本人にとっては、生み出す苦しさより、思い切り面白いことだけを考えられる楽しさのほうが大きい一年でした。
レポーター時代に欲しくなった「自分のネタで勝負する時間」を、NSCでは一日単位で使えるようになりました。
通天閣とスナックでアルバイト|大阪でも続いた人間観察
生活費そのものは準備していましたが、友近さんは大阪で通天閣やスナックのアルバイトもしています。
目的の一つはお金よりも、人を見ることでした。
昔から「濃いおじさん」が気になり、新世界なら面白い人物にたくさん出会えるのではないかと考えて通天閣を選んだと話しています。
目の前に気になる人がいると、話し方や表情だけを見るのではなく、その人物がそこへ来るまでにどんな人生を送ってきたのかまで想像していました。
「人間として興味がありました。」
ウェルチル「街と芸人~友近~」
実際に、そこで観察した人々から複数のネタが生まれています。
ネタを考える場所も机の前だけではなく、阪堺電車に乗って大仙公園へ行き、歩きながら一人で設定を考えることもありました。
「スナックのママ」のネタからバッファロー吾郎との出会いへ
NSC入学から半年ほどたったころ、授業の成果を見せる中間発表会で「スナックのママ」のネタを披露しました。
そのネタを見ていた番組スタッフの目に留まり、バッファロー吾郎のラジオ番組へレポーターとして呼ばれることになります。
友近さんにとってバッファロー吾郎は、もともと自分のネタを見てもらい、面白いと認めてもらいたかった先輩芸人でした。
ラジオではVシネマ『ミナミの帝王』に出演していた竹井みどりさんのものまねを披露し、その着眼点を面白がってもらいます。
ものまね一つをきっかけに、バッファロー吾郎から主催ライブへ呼ばれるようになりました。
若手時代|baseよしもとから、うめだ花月へ
NSC在学中から舞台へ立つ機会を得た友近さんですが、最初から一般客の投票で勝ち続けたわけではありませんでした。
むしろ若手劇場の通常ルートとは少し違う形で、先輩芸人やスタッフから先に芸を評価されていきます。
客票では伸びなくても、舞台袖では先輩芸人が笑っていた
大阪のbaseよしもとでは、オーディションを勝ち抜きながら上のステージを目指す若手が多く活動していました。
友近さんのネタは、その場の若い客層へ必ずしも毎回強く響いたわけではありません。
ところが本人が覚えているのは、客席の反応だけではなく、舞台袖にいたすでに活躍している芸人たちが笑ってくれていたことでした。
やがてbaseよしもとの支配人から、ここで通常の勝ち上がりを続けるタイプではないとして、先輩芸人が多く出演していたうめだ花月へ行くよう勧められます。
本人も後年、この移動を一般的な劇場ルートからの「飛び級」のようなものだったと振り返っています。
バッファロー吾郎のライブで初めてできた「答え合わせ」
バッファロー吾郎のライブへ呼ばれたとき、友近さんには別の緊張がありました。
自分が面白いと思う芸人を支持している客の前で、自分のネタが本当に笑ってもらえるのかを試す場だったからです。
そこでしっかり笑いが起きたことで、子どものころから求めていた「自分の笑いの感覚は合っているのか」という確認が一つできました。
「やっと最初の『答え合わせ』ができたと感じました。」
婦人公論.jp
誰にでも合わせてネタを変えるのではなく、自分の笑いを面白がる客を増やしたいという目標も、この時期にはっきりしました。
R-1初回決勝とNHK新人演芸大賞で評価が全国へ広がる
NSC卒業後は吉本でピン芸人として活動し、若手の賞レースでも早い時期から結果を残します。
2002年には、第1回の「R-1ぐらんぷり」決勝へ進出しました。
翌2003年にはNHK新人演芸大賞の演芸部門で大賞を受賞し、NHK上方漫才コンテストでも優秀賞を受賞しています。
大きな大会の結果が続いたことで、大阪の劇場や先輩芸人の間だけで知られていた存在から、テレビ局側にも名前が届くようになりました。
賞レースそのものがゴールだったのではなく、ネタを見たテレビ関係者から次の仕事へ声がかかる段階へ入っていきました。
初単独ライブとオールザッツ漫才を経て東京の仕事へ
2003年末には、MBSの『オールザッツ漫才』の若手ネタバトルで優勝しました。
友近さん本人は後年、この優勝を境に注目が大きくなり、TBSから声がかかって東京で3本のレギュラー番組が決まったと振り返っています。
2004年1月には初の単独ライブも開催し、テレビだけではなく、自分で作ったネタを長い尺で見せる活動も続けました。
東京の仕事が始まってもすぐには生活拠点を移さず、大阪のレギュラーを続けながら新幹線で東京へ通う生活が約7年間続きます。
東京での仕事が増えた2010年、ようやく生活拠点も東京へ移しました。
愛媛から大阪へ移ったときとは違い、東京へは仕事が先に増え、その流れに合わせて生活拠点を動かしています。
人間観察から生まれた芸が、水谷千重子・西尾一男へ
テレビ出演が増えてからも、友近さんは一人コントや単独ライブをやめず、架空の人物を細かく作る芸を続けました。
その中から、通常の一ネタを超えて独立した活動をするほど大きくなったキャラクターも現れます。
幼い頃から続く「誰かになりきる」遊び
友近さんの人物コントは、実在する一人をそのまま再現するものばかりではありません。
実際に見た人の口調や仕草、好きなドラマの空気、自分が知っている地域の人物像などを組み合わせ、その人に過去や仕事や人間関係までありそうな設定を作ります。
大阪の通天閣で人を観察していたときも、目の前の特徴だけではなく「この人はどういう人生を歩いてきたのか」と考えていました。
役を一つ作ると、その人物が別の場面では何を言うかまで広げられるため、単独ライブの一場面から後に大きなキャラクターへ育っていくこともありました。
水谷千重子がライブを代表する存在になるまで
水谷千重子も、最初から歌手名義で独立して活動するために作られた存在ではありませんでした。
単独ライブで複数のネタを作った際、その一つとして「水谷千重子40周年記念リサイタル」というコントを披露したことから始まっています。
友近さんは演歌番組への長年の出演を通じ、演歌歌手のこぶし回しだけでなく、トークやダジャレ、独特の受け答えまで面白がっていました。
ライブで水谷千重子を演じると、客側も「40年前から応援しているファン」のような感覚で設定へ乗ってくることに気づきます。
演者だけで設定を守るのではなく、観客まで架空の芸能史へ参加する形になったことで、水谷千重子の世界が広がりました。
その後は実際の演歌歌手をゲストへ迎える公演へ発展し、明治座で座長公演を行うほどの活動になっています。
父親の姿とも重なる西尾一男
もう一人の代表的なキャラクターが、ピザ店で働く中高年プロアルバイターの西尾一男です。
友近さんは東京FMの番組で、直接のモデルになった人物として愛媛の焼肉店「くいしん坊」の大将を挙げており、よどみなく話し続ける地元のおじさん像などが人物造形へ入っています。
一方、西尾一男には父親をはじめ、自分が好きだったおじさんたちの要素も重なっています。
大学時代にはNSC行きへ反対した父でしたが、友近さんが26歳で本当に芸人になると、出演番組をすべて録画し、新聞や雑誌の記事をスクラップするほど応援するようになりました。
「私がお笑いに関心を持ったのも、父の影響があったと思います。」
家族葬のファミーユ「友近さんインタビュー」
父親は2016年、友近さんが出演していたNHK連続テレビ小説『あさが来た』の最終収録日の前日に亡くなりました。
生前に細かく書き残していたエンディングノートには父親らしい部分が多く、後にはその内容まで西尾一男のコントへ取り入れています。
父との関係そのものも、亡くなった後まで人物コントの中へ残ることになりました。
2時間サスペンス好きの少女から「友近サスペンス劇場」へ
一人コントやキャラクターだけでなく、友近さんは好きだった昔のテレビ映像そのものを再現する方向へも活動を広げています。
その代表が、映像制作チーム・フィルムエストTVと制作した『友近サスペンス劇場』です。
仲居になる理由にもなったサスペンスへの憧れ
友近さんが長年好きだったのは、温泉地、旅館、崖、聞き込み、地元の人々などが登場する昔の2時間サスペンスでした。
若いころに道後温泉の仲居を選んだほど好きだった世界を、後には自分が企画する側として形にしています。
2024年に公開された『友近サスペンス劇場「外湯巡りミステリー・道後ストリップ嬢連続殺人」』では、舞台も地元・愛媛が選ばれました。
子どものころにテレビで見ていた「温泉サスペンス」の世界を、故郷を舞台に自分で作る側へ回っています。
愛媛時代のディレクターと再び組んでドラマ制作
さらに『友近サスペンス劇場』には、若いころのローカルテレビ時代とのつながりもあります。
仲居時代のものまねを見て友近さんをレポーターへ誘ったディレクター兼カメラマンとは、その後も関係が続きました。
友近さんはサスペンス劇場を作る際、自分から電話をかけてその人物へ撮影を依頼したと話しています。
芸人になる前の愛媛で最初に面白さを見つけてくれたテレビスタッフと、後年は自分の企画したドラマを一緒に撮影しました。
コント・俳優・映像制作へ広がった現在の表現
『友近サスペンス劇場』は、ただ古いドラマを懐かしむ企画ではなく、画面の質感や芝居、間の取り方まで「あのころの番組」に見える映像として制作されました。
作品は第15回ロケーションジャパン大賞の審査員特別賞も受賞しています。
フィルムエストとの取り組みはその後も続き、2025年にはテレビ東京で、存在しない昔の名作ドラマを現代に作る『架空名作劇場』へ友近さんも出演しました。
一人で役を演じていた子ども時代から、舞台のコント、キャラクター公演、俳優業、さらに映像そのものを企画するところまで、扱う範囲が広がっています。
地元・愛媛と家族とのつながりが続く現在
大阪、東京へ活動拠点を移してからも、友近さんの仕事には愛媛との接点が何度も登場しています。
2026年には、仕事だけでなく家族とのつながりから、新しい地元ラジオ番組を始めることになりました。
2026年、母・千鶴さんが大切にしたラジオを受け継ぐ
母の友近千鶴さんは、南海放送で2011年4月から『友近ママの魔法の引出し』を担当し、長年ラジオのプレゼンターを務めていました。
2026年夏に千鶴さんが亡くなり、番組は8月1日で最終回を迎えます。
その翌週の8月8日、同じ土曜夜の放送枠で、友近さんがプレゼンターを務める『友近ママの娘の魔法の引出し段取りします。』が始まりました。
「無言の遺言だと勝手に捉えて」
南海放送
母から直接「番組を継いでほしい」と言われたわけではないものの、友近さんは母が大切にしていたラジオを自分が引き継ぐとコメントしています。
愛媛でテレビのレポーターをしていた若いころから四半世紀以上が過ぎ、今度は母が長く話していた地元ラジオのマイクの前へ座ることになりました。
松山の田んぼで一人で役を演じ、姉との即興コントで笑いを確かめていた時間から、友近さんの「誰かを演じる」遊びは始まっていました。
仲居とレポーターを経験した末、26歳で自分のネタを試すためNSCへ進んだことが、プロの芸人としての大きな転換になりました。
その後も人物コント、水谷千重子、西尾一男、サスペンス作品、そして故郷のラジオへと表現の形を変えながら、昔から続けてきた人間観察と演じることを現在の仕事へ広げています。












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