すゑひろがりず南條庄助の生い立ち|大学卒業後NSCへ、解散直前から生まれた狂言風漫才

人物プロフィール

本名
南條庄祐
身長
168cm
血液型
A型
出身地
大阪府 堺市
コンビ・グループ名
すゑひろがりず
相方・メンバー
三島達矢
結成年
2011年
所属事務所
吉本興業
芸人活動開始年
2006年
養成所・スクール
NSC大阪校 28期

着物姿で小鼓を鳴らし、現代の言葉や出来事を和風に変換するすゑひろがりずの南條庄助さんは、2019年のM-1グランプリ決勝をきっかけに広く知られるようになりました。

現在の姿だけを見ると、最初から伝統芸能を取り入れた芸人だったようにも見えますが、若手時代は普通の漫才を試し、別のコンビやトリオを経験し、劇場のオーディションにも何年も通らない時期がありました。

大阪府堺市で育ち、野球に打ち込みながら大阪外国語大学まで進んだ南條さんが、お笑いを仕事にすると決めたのは大学卒業のころでした。

高校卒業時には一度NSC行きを断念し、大学卒業時に就職活動をせず、改めてお笑いへ踏み出しています。

そこから現在の相方・三島達矢さんと組み、解散を決めるところまで追い込まれた末に狂言風のネタへたどり着くまでには、10代のころから続いていたお笑いへの思いと、いくつもの遠回りがありました。

南條庄助の生い立ちと家族|堺で育ち、お笑いを見ていた子ども時代

南條庄助さんは1982年6月3日生まれで、大阪府堺市出身です。

後に狂言風漫才をすることになる少年時代ですが、家庭の中で身近だったのは伝統芸能よりも、テレビから流れてくるお笑いでした。

家族で『ごっつええ感じ』を見ていた幼少期

南條さんは小学生のころからダウンタウンが好きで、日曜夜には家族で『ダウンタウンのごっつええ感じ』を見ていたと明かしています。

本人によると、このころはまだ「芸人になる」と決めていたわけではありませんが、毎週のように家族とお笑いを見る生活の中で、お笑いそのものを好きになっていきました。

テレビの中の芸人を見て楽しむところから始まり、中学生になると、その興味が「見る側」から「やってみたい側」へ少しずつ変わっていきます。

父親との焼肉の記憶と、子どものころから続いた野球

南條さんが後年、自身の「南條記」で思い出していたのが、家族で焼肉へ行ったときの父親の姿です。

子どものころ、父親は自分で食べるよりも家族のために肉を焼き続け、母親から食べるよう声をかけられても焼く手を止めなかったといいます。

南條さん自身が父親になり、子どもたちの肉を焼いていた2025年、その光景を見ながら昔の父親を思い出していました。

もう一つ、子ども時代から学生生活に長く続いていったのが野球でした。

硬式野球チーム「堺ビッグボーイズ」のOB記録には、本名表記の南條庄祐として名前が残り、その後の進路も鳳高等学校→大阪外国語大学と記録されています。

お笑いへの興味を持ちながらも、学生時代の南條さんの日常には野球がかなり大きな位置を占めていました。

中学・高校時代|劇場のお笑いに衝撃を受けた野球少年

家でテレビのお笑い番組を見ることが好きだった南條さんにとって、中学生のころに見た一つの番組が、それまで知らなかった世界への入口になりました。

それがABCテレビで放送されていた『すんげー!Best10』でした。

『すんげー!Best10』で初めて「自分でもやりたい」と思う

番組には中川家、メッセンジャー、ケンドーコバヤシさん、陣内智則さんら、大阪の劇場で活動していた芸人たちが出演していました。

南條さんはここで、それまでテレビ番組として見ていたお笑いとは別に、「劇場のお笑い」という世界があることを知ります。

なかでもジャリズムから受けた影響は大きかったそうです。

「自分でやりたいなあと強く思ったのはそれから」

FANY Magazine

南條さんが芸人を具体的な進路として意識し始めたのは、この中学生の時期でした。

鳳高校では野球中心、卒業時に友人をNSCへ誘う

高校は大阪府立鳳高等学校へ進み、高校時代も野球を続けました。

一方で、中学時代から芽生えていた「お笑いをやりたい」という気持ちも消えておらず、高校卒業が近づくと友人に「NSC行けへん?」と声をかけています。

ところが友人には断られ、一人でNSCへ入るほどの勇気は出なかったため、その時点では芸人への道を選びませんでした。

高校卒業時に一度目の「芸人になる機会」が訪れましたが、南條さんは大学進学を選びます。

大阪外国語大学時代|就職より先にお笑いへ挑戦すると決める

高校を卒業した南條さんは大阪外国語大学へ進学しました。

芸人への思いを完全に手放したわけではなく、大学生活の間も「お笑いをやりたい」という気持ちと、現実的な進路との間で揺れていたといいます。

大学まで野球を続け、インドネシア語を学ぶ

大学でも野球を続けており、2021年にプロ野球・DeNA戦で始球式を務めた際には、当時の大阪外国語大学野球部の後輩がDeNAの通訳になっていたという再会もありました。

この始球式では、長く続けてきた野球経験を生かしてノーバウンド投球を披露しています。

大学時代にはインドネシア語も学んでいました。

当時は、20年以上あとにインドネシアで芸人として舞台へ立つことになるとは、まだ想像していなかった時期です。

就活をせず、2005年にNSC大阪28期へ

大学卒業が近づき、周囲の同級生たちが就職へ向かい始めると、南條さんは高校卒業時に一度見送ったお笑いの道を再び考えるようになります。

このまま就職してしまえば、ずっとやりたかったことへ挑戦しないままになるという思いがありました。

「まあ就職する前に一度は挑戦してみたほうが納得できるやろ」

FANY Magazine

南條さんは就職活動をせず、2005年にNSC大阪校28期へ入りました。

高校卒業時には一人で踏み出せなかった道へ、大学卒業時には一人で進むことを選んだことになります。

NSC卒業後|「うずまき」となにわ突撃隊で始まった芸人人生

NSC大阪28期には現在の相方となる三島達矢さんもいましたが、この時点ではまだコンビではありません。

南條さんと三島さんはそれぞれ別の相手と組み、別々に芸人人生をスタートさせています。

三島達矢とは別クラス、最初はそれぞれ別のコンビで活動

同じ28期でも2人はNSCでは別クラスで、南條さん自身、当時の三島さんを同期の中でもかなり早く結果を出した存在として見ていました。

三島さんは「バルチック艦隊」でNSC在学中にM-1準決勝まで進んでおり、講師からの評価も高かったと後年語っています。

一方の南條さんは最初のコンビ「うずまき」などで活動し、現在のすゑひろがりずとはまったく違う形で舞台に立ち始めました。

同期だからすぐ意気投合して結成したわけではなく、NSC卒業後もしばらくは、それぞれが別々の相方と芸人生活を送っていました。

「うずまき」で『クイズ!紳助くん』なにわ突撃隊へ

2006年には「うずまき」で活動していた南條さんが、朝日放送『クイズ!紳助くん』の「なにわ突撃隊」へ参加します。

体を張るロケへ若手芸人が挑む企画で、南條さんは番組終了までさまざまなロケを経験しました。

このころを一緒に過ごした同期の兼光タカシさんは、若いころの南條さんをこんな言葉で振り返っています。

「芸のない好青年(笑)。」

FANY Magazine

兼光さんによれば、南條さんにはロケで求められるガッツがあり、突撃隊ではよく呼ばれていたものの、芸人としての本業ではなかなか仕事が増えず、アルバイトも続けていました。

テレビ番組のロケには出ていても、舞台芸人として順調に上がっていったわけではありませんでした。

三島達矢との合流|トリオ「ガンセキオープン」から「みなみのしま」へ

南條さんと三島さんの道が本格的に交わったのは、NSC在学中ではなく、それぞれが最初のコンビを経験したあとでした。

きっかけになったのは、養成所の授業ではなくアルバイト先の人間関係でした。

三島の相方と同じバイト先になり、南條からトリオ参加を申し出る

三島さんはバルチック艦隊を解散したあと、別の芸人と新しいコンビを組んでいました。

その新しい相方と南條さんが同じアルバイト先で働いており、南條さん自身も最初のコンビを解散して先行きに不安を抱えていた時期でした。

「ちょっと1回、入れてくれへん?」

QJWeb

南條さんから声をかける形で3人になり、トリオ「ガンセキオープン」として活動するようになります。

三島さんが後年語った南條さんの第一印象は「明るい人」で、当時は「トリオなら劇場へ入りやすいかもしれない」という考えもあったそうです。

3年間劇場に入れず、1人が脱退して2011年にコンビへ

トリオを組めば状況が変わるかと思われましたが、現実には約3年間、劇場のオーディションに落ち続けました。

後輩たちが次々と劇場へ上がっていく一方、3人は若手の活動拠点だった5upよしもとへ入ることができませんでした。

やがてメンバーの1人が抜け、南條さんと三島さんの2人が残ります。

M-1グランプリ公式に登録されている現在のコンビ結成日は2011年4月1日で、2人は「みなみのしま」として活動するようになりました。

「みなみのしま」という名前は、南條さんの「南」と三島さんの「島」を組み合わせ、先輩の三浦マイルドさんから提案されたものだったと2人は後年明かしています。

現在のコンビができても、すぐに現在の芸風や人気へたどり着いたわけではありません。

M-1の漫才を書き起こしても結果が出ず、解散を決める

2人になってからは、しゃべくり漫才をはじめ、自分たちに合う形を探してさまざまなネタを試しました。

過去のM-1グランプリの漫才を約10年分書き起こし、漫才の型を研究したこともあったといいます。

それでも劇場のオーディションには受からず、三島さんの家で自分たちのネタ映像とテレビへ出始めた後輩たちを見比べると、積み重ねてきたものが結果へ結びついていない現実がはっきり見えてしまいました。

「もう、辞めや」

QJWeb

30歳を目前にした2人は、すでに申し込んでいた劇場オーディションを最後にして、ダメなら解散すると決めました。

最後のオーディションで起きた転機|「狂言風クリスマス」が初の劇場合格へ

解散を決めた2人には、最後のオーディションでいつもの漫才をする気力もほとんど残っていませんでした。

そこで思い出したのが、数カ月前の小さなライブで遊び半分に披露した「狂言風クリスマス」というショートネタでした。

地下ライブで最もウケたネタを最後の一回に選ぶ

狂言風クリスマスは、それまで試したネタの中でも客席の反応が特によく、同じライブに出ていたミルクボーイの駒場孝さんからも、本ネタにしてはどうかと勧められていました。

漫才で結果が出ないまま解散するのであれば、最後に一番ウケた変わったネタをやってみようと、2人はそのネタを劇場オーディションへ持っていきます。

解散を前提に出た最後のオーディションで狂言風ネタが大きくウケ、2人はそこで初めて劇場出演をつかみました。

何年も普通の漫才で届かなかった場所へ、終わるつもりで持っていった一本のネタで入ることになります。

ミルクボーイ駒場の言葉と劇場合格、2週間後に着物を購入

オーディションで手応えを得ると、三島さんは迷わず狂言風へ軸足を移そうとしました。

南條さんにはまだ通常の漫才への未練もありましたが、三島さんから着物や鼓を使うことを提案され、2人は伝統芸能風の世界観を本格的に作り始めます。

劇場合格から約2週間後には着物を用意し、最初は古着店で安価な黒い着物を購入して、店の人に着方を教えてもらったことも明かしています。

「売れそうだから着物を着た」というより、普通の漫才を続けても解散するところまで来た結果、和装へ大きく舵を切った形でした。

小鼓も加わり、現在につながる伝統芸能風へ

現在の南條さんを象徴する小鼓は、最初から持っていたものではありません。

南條さんはインターネットで約8万円の小鼓を購入しましたが、買えばすぐ音が出せる楽器ではなく、最初は思うように鳴らせませんでした。

当時はほかの芸人とルームシェアをしており、部屋で練習すると音の問題もあったため、風呂場やトイレでも叩いて練習していたといいます。

狂言の体験教室へ足を運ぶなど、ネタで使い始めたあとから伝統芸能そのものについて学ぶ機会も増えていきました。

着物と小鼓という現在では当たり前に見える姿は、解散寸前だった時期に一つずつ加わってできたものでした。

2014年の上京と大宮時代|仕事が減ったあと営業で芸風を磨き直す

狂言風という形を見つけた「みなみのしま」は、2014年に活動の場所を大阪から東京へ移します。

ここでも、一度注目されたあとに仕事が減る時期があり、現在の明るい芸風になるまでさらに変化が続きました。

キングオブコント準決勝後、テレビ出演が減って再び停滞

上京した2014年と翌2015年にはキングオブコント準決勝まで進み、珍しい和風のネタとしてテレビで取り上げられる機会も出てきました。

しかし、その新鮮さが一巡すると出演依頼は減り、ネタ以外の場面で呼ばれるところまでは広がりませんでした。

上京したころには名前の表記にも変化があり、本名の「南條庄祐」から「南條庄助」へ変更しています。

本人によると、インターネットで字画を調べたところ「助」のほうがよかったことから現在の表記へ変えたそうです。

郵便局・カレー店・会議室の営業で客層に合わせることを覚える

東京で仕事が伸び悩んでいた時期、2人の活動で重要になっていったのが大宮でした。

そこで経験したのはテレビ向けの大きな仕事ばかりではなく、郵便局、カレー店の店内、会議室といった場所で行われる小規模な営業でした。

賞レースなら奇抜な見た目だけでも最初のインパクトを作れますが、営業では目の前にいる子どもから高齢者まで、その場の客を実際に笑わせなければ時間が続きません。

大宮の営業を重ねる中で、静かで重々しかった登場を明るくし、客とのやり取りも増やす方向へ芸風が変わっていきました。

くまだまさしさんの営業を目の前で見て、その場にいる幅広い客を笑わせる技術に驚いたことも、2人が後年語っている出来事の一つです。

2016年「すゑひろがりず」へ改名し、芸風も明るく変化

2016年には「みなみのしま」から「すゑひろがりず」へ改名しました。

和装や狂言風の声だけに頼るのではなく、登場から明るく客席へ入っていき、子どもにも高齢者にも伝わる言葉や動きを増やしていきます。

2018年には大宮セブンへ加わり、大宮ラクーンよしもと劇場を中心とした芸人たちとの活動も大きな比重を占めるようになりました。

南條さんは後年、自身の活動を振り返り、芸歴20年のうち最初の15年ほどは、職業と呼べるほど芸人だけで稼げていなかった時期だったという趣旨の文章も残しています。

狂言風という武器を手に入れたあとにも、営業の現場で何年も形を調整する時間が続いていました。

2019年M-1へ|南條から三島へ「もう一度漫才をやりたい」

2016年から2018年ごろには営業で手応えを得る機会が増え、すゑひろがりずとして仕事を続けていく形が少しずつ見えるようになっていました。

その一方で南條さんには、営業を続けるだけではなく、一度大きく名前を知ってもらいたいという思いが生まれていました。

営業だけで終わらないため、前説の楽屋でM-1挑戦を提案

2019年春ごろ、南條さんは前説の仕事で一緒になった三島さんに、M-1へ本気で取り組みたいと伝えます。

大宮で営業を続けていく未来は見えていましたが、そのためにも一度は多くの人に顔と名前を知ってもらう結果が欲しいと考えていました。

解散寸前のころは三島さんが狂言風へ強く舵を切り、2019年には南條さんの側からM-1へもう一度力を入れることを提案しています。

着物姿の芸を営業で磨き続けてきた2人が、再び漫才の大舞台へ向かいました。

2019年に初のM-1決勝進出、8位を機にバイト生活を終える

そして2019年12月、すゑひろがりずはM-1グランプリで初の決勝進出を決めます。

決勝では637点を獲得し、M-1グランプリ公式記録では8位でした。

優勝ではありませんでしたが、全国放送の決勝で着物と小鼓を使った漫才を披露したことで、仕事の状況は大きく変わります。

M-1決勝進出後、南條さんと三島さんはそれまで続けていたアルバイトを辞めました。

南條さんは2016年に一般女性と結婚しており、その相手とは芸人になる前から長く交際していました。

「14年間、頼り切りだったんで。」

文春オンライン

長く支えてもらっていた妻へ、これから返していかなければならないと話したのも、M-1決勝後でした。

南條さんは後に、自身の芸人人生の大きな転機として、狂言ネタを初めてやった日とM-1決勝の2つを挙げています。

M-1後|R-1・YouTube・劇場へ広がった現在

M-1決勝後はテレビ出演が増えましたが、南條さんの活動はコンビの漫才だけに限られなくなっていきます。

それまで別々に積み重ねてきたロケ、劇場、営業、野球や大学時代の経験まで、思わぬ場所で仕事と交わるようになりました。

2020年R-1で3位、ゲーム実況がテレビのロケにも生きる

南條さんは2020年のR-1ぐらんぷりで決勝3位となり、コンビとは別にピンでも結果を残しました。

もう一つ大きく育った活動が、2019年に始めていた公式YouTubeチャンネル「すゑひろがりず局番」です。

開設当初からすぐ人気が出たわけではありませんでしたが、M-1後にゲーム実況が注目され、現代のゲームを狂言風に言い換える動画がチャンネルの大きな柱になりました。

南條さんは子どものころ、ゲームを自分で操作するよりも友達が遊んでいる後ろから見ているタイプだったそうで、ゲームをする三島さんの横から言葉を挟む現在の実況スタイルと重なる部分があります。

さらにゲーム実況で、画面の先に現れたものをその場で説明し続けるようになったことで、それまで苦手意識のあったテレビのロケにも変化があったと話しています。

若手時代には「なにわ突撃隊」で体を張るロケを経験し、M-1後にはゲーム実況で培った言葉の反応が再びロケ仕事にも生きるようになりました。

2021年に双子の娘が誕生し、父親になった南條庄助

仕事が大きく変化した翌年の2021年6月には、南條さん夫妻に双子の女の子が誕生しました。

南條さんはSNSで「双子の姫様」と表現して誕生を報告し、吉本興業を通じて寄せたコメントでは、妻と病院への感謝とともに、笑顔と鼓の音が絶えない家庭にしたいと語りました。

中学生で芸人に憧れ、長いアルバイト生活を経てM-1決勝へ進んだ南條さんは、仕事が安定し始めた時期に双子の父親にもなりました。

大学で学んだインドネシア語が、40代のジャカルタ仕事へ

2025年9月には、すゑひろがりずとしてインドネシア・ジャカルタを訪れています。

そこで再び出てきたのが、大阪外国語大学時代に学んでいたインドネシア語でした。

南條さんは現地で大勢のインドネシア人を前にネタを披露したあと、20歳ごろの自分へ向けるように、大学時代を振り返っています。

「もっとちゃんと学んどけよ。」

南條記

大学卒業時に就職よりお笑いを選んだ南條さんが、40代になって大学で学んだ言葉を使いながら海外で芸を披露する仕事へ戻ってきました。

2026年現在も、すゑひろがりずは大宮の劇場や舞台、テレビ、YouTube「すゑひろがりず局番」など複数の場所で活動を続けています。

家族とお笑い番組を見ていた堺の少年は、中学生で劇場に憧れ、高校卒業時には一度立ち止まりながらも、大学卒業時に自分からNSCの扉を開きました。

そこから別コンビ、トリオ、劇場不合格、解散寸前の一夜を経て生まれたのが、現在のすゑひろがりずの姿です。

小鼓を持って舞台へ立つ現在までの道のりには、一度では決まらなかった進路と、何度も形を変えながら続けてきた20年以上の時間があります。

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