賀屋壮也の生い立ちと家族|教師一家で育ち、コンビニで加賀翔と出会い「かが屋」になるまで

人物プロフィール

本名
賀谷壯弥
生年月日
1993年2月19日
身長
178cm
血液型
B型
出身地
広島県 呉市
コンビ・グループ名
かが屋
相方・メンバー
加賀翔
結成年
2015年
所属事務所
マセキ芸能社
芸人活動開始年
2014年

日常の一場面を切り取ったコントで知られるかが屋の賀屋壮也さんは、コント以外にも俳優やドラマ脚本、イラストや漫画などへ活動を広げています。

東京学芸大学を卒業し、中学校社会科と高校公民の教員免許も持っていますが、もともと教師を目指して大学へ進んだわけではありませんでした。

大学時代に目指していた仕事は、舞台に立つ芸人ではなく構成作家・放送作家でした。

その進路を大きく変えたのが、アルバイト先のコンビニで出会った現在の相方・加賀翔さんです。

芸人になるつもりがなかった大学生が、コンビニで一人の芸人と知り合ったところから「かが屋」への道が始まりました。

広島県呉市で過ごした子ども時代から、学校生活、東京学芸大学への進学、加賀さんとの出会い、初舞台、売れない若手時代まで順番にたどります。

賀屋壮也の生い立ちと家族|呉市広の教師一家で育った子ども時代

賀屋さんは1993年2月19日生まれで、広島県呉市広の出身です。

幼いころの家庭には教師が多く、家でも学校の勉強とは少し違った形で言葉に触れていました。

両親の離婚後、母方の祖父母と暮らした教師の多い家庭

賀屋さんの父親と母親はともに国語教師で、両親の離婚後は母方の祖父母の家で生活していました。

母方の祖父も小学校の校長を務めていたため、本人が後年「教員が多い一家」と話すほど、身近に学校教育に携わる大人がいる家庭でした。

母親は古文を教えており、小学校低学年だった賀屋さんには自作の古文ファイルを用意していました。

平家物語の冒頭などを覚え、小学生のうちから現在ではあまり使わない古い言葉にも触れていたそうです。

「両親がふたりとも国語の教師でした。」

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家庭には本も多く、2026年に始まったエッセイ連載のインタビューでも、小学生のころから古文や漢文に触れ、「読む」経験が多かったと話しています。

小学生で古文を学び、少年合唱団で初めて舞台へ

習い事では、小学1年ごろから近所の英会話教室へ通い、小学3年からは男児だけの少年合唱団に入りました。

この合唱団で経験したのが、賀屋さんにとって初めて人前に立つ舞台でした。

幕が下りた舞台袖に立ち、緞帳の裏側に大きく書かれている「火の用心」の文字まで覚えているといいます。

芸人になってから劇場へ立ったときには、客席を舞台側から見る景色に懐かしさを感じたそうです。

賀屋さんが舞台に立った最初の経験は、お笑いではなく小学生時代の合唱でした。

兄・弟と子ども部屋で漫画を描いていた小学生時代

賀屋さんは三兄弟で育ち、兄と弟も漫画や絵を描いていました。

2026年に初コミックの刊行が発表された際には、子どものころ、三兄弟それぞれが子ども部屋で漫画を描いていたことも明かしています。

学校でもプリントの裏などに漫画を描き、完成すると教室後方のロッカーへ置いて、友人に読んでもらっていたそうです。

テレビで知られるようになるよりずっと前から、誰かに見てもらうために自分で話と絵を作る時間がありました。

呉青山中学・高校時代|学校生活の中で漫画や映画に向かった

小学校を卒業すると、賀屋さんは中学受験を経て呉青山中学校へ進み、そのまま呉青山高等学校まで通いました。

小学生のころとは学校での過ごし方が変わり、漫画や映画、ドラマなどを見る時間が増えていきます。

中学受験で呉青山中学校へ進学

賀屋さんは小学4年ごろから本格的に塾へ通い始め、中学受験を経験しました。

小学校ではあまり勉強しなくても点数が取れていたため、本人は後年、当時の勉強をかなり甘く見ていたと話しています。

ところが中学生になると数学の授業についていけない時期が現れ、それまでのようにはいかなくなりました。

呉市が公表している賀屋さんのプロフィールでも、呉青山中学校、呉青山高等学校、東京学芸大学という学歴が確認できます。

中1後半からの学校生活と、そばにいた母親

中学1年の後半ごろからは、同級生の女子から陰口を言われる時期が続きました。

本人が後年語ったところでは、当時の家は薪で風呂を沸かしており、煙突の位置の関係で子ども部屋に干した服へ煙のにおいがつくこともあったそうです。

学校では男子とは普通に接していた一方、女子から聞こえる距離で悪口を言われることがあり、本人は次第に目立たないよう振る舞うようになっていきました。

学校へ行きたくない気持ちを母親へ漏らしたときには、母親が細かな事情を問い詰めるのではなく、外へ連れ出して一緒に過ごしてくれたことも覚えているといいます。

この時期については、賀屋さん自身が2021年のインタビュー動画で詳しく語っています。

漫画や映画、ドラマなどの長く続く作品を見ることが、学校とは別の時間を過ごす方法になっていました。

漫画・映画・ドラマを見続け、高校ではメディアの仕事に興味

中学から高校にかけて、賀屋さんは漫画だけでなく映画やドラマ、バラエティ番組にも触れるようになります。

高校時代にはテレビや映画などのメディア関係の仕事そのものに興味を持つようになり、『ダウンタウンのごっつええ感じ』を見たときの面白さも後年のインタビューで挙げています。

ただ、この段階でも自分が芸人として舞台へ立つ未来を考えていたわけではありませんでした。

東京学芸大学への進学|3.11の受験を経て放送作家を目指す

高校卒業が近づくと、賀屋さんは大学進学のため本格的に受験勉強を始めました。

教師の多い家庭で育ちましたが、大学選びの理由は教師になるためではありませんでした。

教師志望ではなく「東京へ出たい」と大学を選んだ

高校3年になって受験勉強へ本腰を入れた賀屋さんは、前期で横浜国立大学、後期で東京学芸大学を受験しました。

東京学芸大学という学校名から教師志望だったようにも見えますが、本人は大学選びについて明確に説明しています。

「もともと教師を目指していたのではなく、とにかく東京に出たい」

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前期の横浜国立大学には合格できず、東京学芸大学の後期試験へ向かうことになりました。

教員養成で知られる大学へ進みながら、賀屋さん自身の関心は東京とメディアの世界へ向いていました。

東日本大震災の夜を東京駅の寝袋で過ごし、翌日に受験

東京学芸大学の試験日は2011年3月12日でした。

前日の3月11日、賀屋さんは兄が住んでいた東京へ向かうため、昼ごろ広島を出る新幹線へ乗りました。

新幹線が静岡付近を走っていたところで東日本大震災が発生し、列車は急停車しました。

徐行を繰り返して東京駅へ着いたものの首都圏の交通は止まり、予定していた兄の家へ移動できませんでした。

そこで役に立ったのが、兄の家には布団が一つしかないからと母親に持たされていた寝袋でした。

東京駅で寝袋に入って一夜を過ごし、翌朝に試験会場へ向かいます。

大きな混乱の翌日でしたが実際に受験し、その東京学芸大学へ合格しました。

大学でメディア社会を学び、放送作家へ脚本を送る

東京学芸大学では社会科を学び、その中でも賀屋さんが特に興味を持ったのがメディア社会でした。

高校時代からテレビや映画が好きだったこともあり、次第に構成作家や放送作家という仕事へ関心が向かいます。

バナナマンの番組『バナナ炎』のエンドクレジットに出ていた放送作家・オークラさんの名前を見て職業を調べたことも、作家という道を意識するきっかけの一つでした。

映画研究会にも入り、短い映像作品を撮る一方、弟子を募集していた放送作家へ自分で脚本を送ったこともありました。

しかし採用には至らず、大学3年になるころには、そろそろ就職先を決めなければならない時期を迎えます。

コンビニで加賀翔と出会い、芸人という選択肢が現れる

大学3年だった賀屋さんの進路を変えた場所は、芸能事務所でも養成所でもありませんでした。

アルバイトをしていたコンビニに、すでに芸人活動を経験していた加賀翔さんが入ってきます。

店長がつないだ2人を近づけた「バナナマン好きなんだって?」

当時、加賀さんは朝のシフト、賀屋さんは夜のシフトに入ることが多く、同じ店で働いていても最初はほとんど顔を合わせませんでした。

間に入ったのがコンビニの店長でした。

店長から互いがお笑い好きだと聞かされ、店の忘年会で同席したとき、喫煙所へ向かった加賀さんを賀屋さんが追いかけました。

そこで賀屋さんが切り出した話題が、2人とも好きだったバナナマンです。

お笑いや映画の好みが近いことが分かると、勤務時間の違った2人は急速に話すようになりました。

加賀さんは後年、初対面の賀屋さんについて、黒縁眼鏡で少し暗い印象があり、近い距離から急に話しかけられたので最初は警戒したことも明かしています。

加賀のピンネタを手伝う作家志望から、2人で舞台へ

このころの賀屋さんが加賀さんへ近づいた理由は、自分も芸人になりたかったからではありません。

放送作家を目指していたため、すでに芸人として活動している人と知り合っておくことが作家への道につながるかもしれないと考えていました。

「自分が芸人になるとは全く思っていなかったです。」

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まずは加賀さんのピン芸のネタを一緒に考えるようになり、賀屋さん自身もコントの台本を用意して加賀さんへ見せるようになります。

賀屋さんが憧れていたオークラさんにも芸人経験があったため、芸人を経験してから作家になる道もあると考えられました。

そして加賀さんから2人で舞台へ出てみようと誘われます。

作家になるため芸人と知り合おうとした賀屋さんが、その芸人から誘われ、自分も舞台へ立つことになりました。

2014年の初舞台は2万円以上かけて大失敗

2人が初めて一緒に舞台へ立ったのは、正式に「かが屋」を結成する前の2014年4月13日です。

会場は、なかの芸能小劇場で開催されたフリーライブでした。

まだ一度試してみる程度の感覚でしたが、初めてのコントに力が入り、赤ちゃんの人形やおばあちゃん役のカツラなど、小道具や衣装を次々と購入しました。

ライブのエントリー代まで含めると、2人が使った金額は2万円以上になったといいます。

賀屋さんは少年合唱団で舞台経験があり、加賀さんにもピン芸の経験があったため、2人とも本番前にはかなり手応えを持っていました。

ところが舞台ではほとんど笑いを取れず、見に来ていた賀屋さんの大学の友人からも「初めてだから」と慰められる結果になります。

「元を取りたかったんですよ。」

logirl

費やしたお金も練習時間も、この一度で終わらせるには大きすぎました。

初舞台の成功ではなく、「このままでは終われない」という失敗の感覚が2人を次のライブへ向かわせました。

2015年に「かが屋」結成|マセキ所属と教員免許取得

一度だけのつもりだった舞台を続けるようになった2人は、ライブ出演を重ねながらマセキ芸能社への所属を目指しました。

一方、賀屋さんには大学生として終わらせなければならないことも残っていました。

「平井」と「久保」だった2人の姓が「加賀」「賀屋」になった

2人が出会った当時、現在と同じ名字で呼ばれていたわけではありませんでした。

本人たちの対談では、当時の賀屋さんは「平井さん」、加賀さんは「久保」と呼ばれていたことが語られています。

2人とも両親の離婚を経験しており、後にそれぞれ母方の姓へ変わった結果、「加賀」と「賀屋」というよく似た名字が並びました。

そこから現在のコンビ名「かが屋」が生まれています。

オーディションライブを経てマセキ芸能社へ

賀屋さんはNSCなどのお笑い養成所には通っていません。

2人は一般のライブへ出演しながら、マセキ芸能社のオーディションライブへ挑戦しました。

オーディションライブを勝ち上がり、2015年に「かが屋」を結成し、マセキ芸能社へ所属します。

初めて2人で舞台へ出た2014年と、正式なコンビ結成・所属の2015年は別の時期です。

賀屋さんは養成所からではなく、コンビニでの出会いとライブ出演を入口に芸人人生を始めました。

母の言葉で教員免許を取得し、母校で教育実習

芸人になることを母親へ伝えた賀屋さんに、母親は芸人をやめて教師になるよう求めたわけではありませんでした。

東京学芸大学へ入ったのだから、教員免許だけは取っておくよう勧められます。

賀屋さんはその言葉を受けて大学へ5年間通い、中学校社会科と高校公民の教員免許を取得しました。

「せっかく学芸大学に入らせてもらえたんやから、教員免許は取らせてもらいなさい」

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教育実習には、自身が通っていた中高一貫校へ行きました。

体育祭の準備中には、普段は教師の言うことを聞かない生徒がパイプ椅子を運んでいる姿を見つけ、ホームルームで褒めたところ、翌日は運ぶ量が倍になっていたといいます。

このとき見た生徒の姿から作られたのが、後のかが屋のコント「合唱」でした。

日本史の授業を組み立てて説明した経験についても、物事を順番に組み立てる現在のネタ作りに生きていると本人が話しています。

売れない若手時代|コンビニ、ファミレス、大学でネタを作った日々

マセキ芸能社へ所属できても、そこからすぐテレビで知られるようになったわけではありません。

最初の数年間はアルバイトとライブを行き来しながら、自分たちに合うコントを探していました。

7時〜15時まで一緒に働き、仕事後も夜までネタ合わせ

コンビを組んでからは、2人が一緒に過ごせるようコンビニの店長へ頼み、同じ朝7時から午後3時までのシフトに入れてもらいました。

8時間一緒にアルバイトをしたあとも、そのまま解散するわけではありません。

仕事が終わるとファミリーレストランへ移り、2時間ほどネタを考え、ライブがあればそのまま舞台へ向かいました。

ライブ後には東京学芸大学へ行き、夜遅くまでその日の反省や次のネタについて話す日もありました。

後年、東京学芸大学で行われたインタビューでも、賀屋さんは大学の喫煙所などでネタの話をし、練習してから舞台へ向かっていたと振り返っています。

出会ったコンビニで一緒に働き、勤務後もファミレスと大学でネタを考える生活が続きました。

「声が小さい」「展開がない」と言われ続けた約2年間

現在のかが屋は静かな会話や日常の空気まで使ったコントで知られていますが、結成当初からその形が完成していたわけではありません。

ライブでは「声が小さい」「展開がない」といった指摘を受け、結成からしばらくは思うように笑いを取れない時期が続きました。

初期には、賀屋さんが憧れていたバナナマンの設楽統さんのような立ち位置を意識していた時期もあったと、加賀さんが後年話しています。

現在のイメージとは違い、賀屋さんが落ち着いて全体を回すような形を試していた時期もありました。

それでもライブへ出続け、ネタを作り直す中で、無理に弱点を消すのとは違う方向が見え始めます。

「電車にて」「大富豪」で弱点がかが屋のスタイルへ変わる

変化が出たのは2017年前後でした。

声が小さいと指摘されるなら、そもそも加賀さんがほとんど話さない設定にしてしまおうと考えて作ったコントの一つが「電車にて」です。

加賀さんの静かな演技に対して、賀屋さんが強いキャラクターとして動く形が舞台で受けました。

さらに加賀さんが地元・岡山の方言なら大きな声を出しやすいことに気づき、「大富豪」など別のコントも生まれます。

それまで注意されてきた特徴をすべて消すのではなく、2人が自然にできる動きを使ったネタで反応が変わっていきました。

この時期には芸人の寺田寛明さんがSNSでかが屋を紹介するなど、客席だけでなく周囲の芸人からも名前を知られるようになります。

売れない時期に指摘されていた「声の小ささ」まで利用したころから、現在につながるかが屋のコントが形になっていきました。

2018年から注目が拡大|初テレビからキングオブコント決勝へ

舞台で手応えが出てくると、次に変わったのは周囲からの評価と仕事の範囲でした。

かが屋の名前が一気に広がったように見える2019年の前にも、いくつかの段階があります。

キングオブコント2018準決勝と人生初のテレビ出演

2018年、かが屋はキングオブコント準決勝まで進出しました。

大会公式の記録にも、同年の準決勝進出32組の中に「かが屋」の名前が残っています。

呉市が後に公表した賀屋さんの略歴でも、キングオブコント2018準決勝進出を「注目を集めた」出来事として紹介しています。

同じころテレビ出演も始まり、劇場やライブ中心だった活動が少しずつ外へ広がっていきました。

2019年、芸人仲間から先に評価され「ゴッドタン」1位へ

2019年7月には、テレビ東京『ゴッドタン』の企画「この若手知ってんのか!? 2019」で大きく取り上げられました。

各事務所の芸人や関係者へのアンケートで、かが屋は「こいつは天才だと一目置かれている芸人」第1位になりました。

番組では千原ジュニアさん、バカリズムさん、東京03の飯塚悟志さんらから高く評価されていることも紹介されています。

ライブ関係者からは、舞台袖で他の芸人たちがかが屋のネタを見る割合が高いことまで紹介されました。

テレビで広く知られるより前に、ライブ現場で一緒になる芸人や関係者の間で評価が高まっていました。

「かが屋のコントはほぼ全部見ている。面白いですよ」

テレ東プラス

キングオブコント2019決勝後に仕事の幅が広がった

同年9月、かが屋はキングオブコント2019の決勝へ進みました。

2018年には準決勝、その翌年には『ゴッドタン』で同業者からの評価が取り上げられ、その先でKOC決勝へ進んでいます。

このため、賀屋さんの芸人人生を一つの賞レースだけで区切るより、2017年ごろから舞台で手応えが変わり、2018年に注目が広がり、2019年にテレビで大きく名前が知られるようになった流れで見る方が実際の歩みに近くなります。

初舞台から約5年を経て、ライブで評価されていたかが屋がテレビでも知られる存在へ変わっていきました。

放送作家志望だった賀屋壮也が、脚本・俳優・漫画へ活動を広げる

キングオブコント決勝後、賀屋さんの仕事はかが屋としてのコントだけにとどまらなくなりました。

大学時代に考えていた仕事や、子どものころから続いていたことも、別の形で表に出てきます。

加賀の休養中にピン活動を続け、R-1でも決勝へ

2020年、相方の加賀さんが体調不良のため休養に入ると、賀屋さんは一人での活動を続けました。

ピン芸にも取り組み、2021年のR-1グランプリでは決勝へ進出して3位となりました。

その後、加賀さんが復帰すると、再びかが屋としての活動も続いていきます。

2022年にはキングオブコントで再び決勝へ進み、2024年には「マイナビLaughter Night 第10回チャンピオンLIVE」で優勝しています。

大学時代に目指した「作家」がドラマ脚本という形で仕事になる

芸人になる前、賀屋さんは放送作家へ自分の脚本を送っていました。

そのころは採用されませんでしたが、芸人として活動する中で今度は実際にドラマ脚本を書く仕事がやってきます。

2020年にはHuluのドラマ『恋、ランドリー。』で脚本を担当しました。

続いて日本テレビ『でっけぇ風呂場で待ってます』でも複数話の脚本を担当しています。

かが屋のコントでは2人で実際に演じながらネタを作るため、普段は台本を文字に起こさないものの、テレビでコントを披露する際には提出用の台本を書く役割を賀屋さんが担当していました。

「文字に起こす役割が、2人の間では僕だったんです。」

TVガイドWeb

作家を目指していた大学生が芸人になり、その芸人活動を経て実際にドラマ脚本を書くようになりました。

子どものころから描いていた漫画が現在の創作活動へ

賀屋さんは現在も趣味として動物のイラストや漫画を挙げており、絵を使った仕事も続けています。

そして2026年には、自身初のコミック『ぼくのろんげはうごく』の刊行が発表されました。

発売予定日は2026年11月18日で、2026年9月15日現在はまだ発売前です。

小学生のころにプリントの裏へ漫画を描き、兄や弟と同じ部屋でそれぞれ絵を描いていた時間から長い年月がたっています。

賀屋さんは広島県呉市で教師の多い家族の中に育ち、東京へ出たいという思いから東京学芸大学へ進みました。

放送作家を目指していた大学3年のころ、コンビニで加賀翔さんと出会い、一度だけのつもりだった舞台から芸人人生が始まります。

現在もかが屋としてコントを続けながら、脚本、演技、文章、漫画と、舞台へ立つ前から好きだったことを含むさまざまな表現へ活動を広げています。

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