人物プロフィール
情報番組や『マルコポロリ!』などで、歯切れよく自分の意見を話す姿が知られているほんこんさんですが、芸人になる前は高校卒業後にそのまま吉本へ入ったわけではありません。
本名は蔵野孝洋さんで、大阪市で育ち、高校卒業後には車関係の会社で約2年間働いていました。
会社員を続けながらお笑いの世界が気になり始め、NSCの願書を手にしてもすぐには応募せず、約1年間考えた末に会社を辞めています。
しかも、板尾創路さんと130Rを組む前には、今田耕司さんとの「ダブルホルモンズ」をはじめ、複数の相方とのコンビ活動を経験していました。
現在のほんこんさんへ続く道は、高校時代のお好み焼き店でのアルバイトから、会社員生活、NSC、相方との出会い、心斎橋筋2丁目劇場へと少しずつ形になっていきます。
ほんこんの生い立ちと家族|本名・蔵野孝洋として大阪で育つ
ほんこんさんは1963年6月16日生まれで、吉本興業の公式プロフィールでは大阪府大阪市出身とされています。
テレビ東京の番組資料でも1963年大阪市生まれと紹介されており、「ほんこん」という芸名で活動する以前は本名の蔵野孝洋として生活していました。
大阪市で育った子ども時代と家庭環境
幼少期の両親や兄弟姉妹の人数、家族それぞれの職業などについては、本人や吉本興業から詳しい家族構成が広く公表されているわけではありません。
そのため、子ども時代について家族の人物像を推測で補うより、本人が具体的に話している高校時代以降の出来事を追うほうが、若い頃の姿をはっきり見ることができます。
少なくとも大阪で10代を過ごし、その後も若手時代の活動拠点は大阪で、芸人になってからは心斎橋筋2丁目劇場へつながっていきました。
学校生活から高校時代へ
ほんこんさんの高校名については所属事務所の公式プロフィールでは公表されていませんが、高校生のころにすでにアルバイトをしていたことは本人の回想から分かっています。
当時働いていたのはお好み焼き店で、ここで客と接した経験が、のちに芸人を考える最初のきっかけになりました。
60歳を迎えた2023年には本人のInstagramに「同級生と還暦祝い」と投稿しており、学生時代からつながる友人との交流も続いています。
高校時代にお笑いへ興味|お好み焼き店の客から「おもろい」と言われる
ほんこんさんがお笑いという仕事を意識する入口は、学校の文化祭や芸能事務所のオーディションではなく、アルバイト先での何気ないやり取りでした。
まだ芸人になるとは決めていなかった高校生の時期に、店の客から自分の話し方や振る舞いを面白がられます。
アルバイト先で初めて意識した「人を笑わせる」仕事
お好み焼き店で接客していたとき、客からかけられたのが「面白い」という言葉でした。
「おまえ、おもろいな」
週刊実話Web
このときお笑いへの興味は生まれましたが、本人はまだ芸人の世界を自分が入れる場所とは考えておらず、高校卒業後に選んだのは芸能界ではなく就職でした。
漫才ブームの中でダウンタウンを見て衝撃を受ける
1980年代前半は漫才ブームの熱がまだ残り、テレビでは数多くのお笑い芸人が活躍していました。
ほんこんさんが強く引きつけられたのは、島田紳助さんが出演していた番組で目にした若いダウンタウンの漫才でした。
松本人志さんと浜田雅功さんはNSC大阪校1期生で、ほんこんさんがまだ会社員だったころには、すでに大阪で若手芸人として活動していました。
高校時代に芽生えたお笑いへの興味が、ダウンタウンの漫才を見たことで現実の進路として近づいていきます。
高校卒業後は会社員に|NSCへ進むまで1年間迷った
高校卒業後のほんこんさんには、芸人として舞台に立つ前に約2年間の会社員生活がありました。
芸人への転身は勢いだけで決めたものではなく、仕事を続けながら吉本の養成所へ入るかどうかを考える期間を挟んでいます。
車関係の会社で約2年間働く
就職先について本人は「車関係の会社」と話しており、高校を出てからおよそ2年間そこで働いていました。
この時期にもテレビでお笑いを見ており、ダウンタウンの漫才を目にしたことで、自分もお笑いの世界へ行くという選択肢が具体的になっていきます。
ただし、仕事を辞めてすぐ養成所へ飛び込んだわけではありませんでした。
NSC3期の願書を手にしながら応募しなかった1年間
ほんこんさんは一度、NSC大阪校3期生の願書を手にしています。
それでも、その年には入学せず、会社を辞めて芸人になるかどうかを約1年間考えました。
会社員として働く生活を手放し、翌年になってようやくNSCへ進む決断をします。
「芸人になる」という転機の直前に、会社勤めと1年間の迷いがあった点は、ほんこんさんの若い頃をたどるうえで外せない時期です。
会社を辞め、1985年にNSC大阪4期へ
1985年、ほんこんさんは会社を辞め、NSC大阪校4期生として吉本のお笑い養成所へ入りました。
吉本興業の公式プロフィールでも「1985年 NSC大阪校4期生」と記録されており、同期には板尾創路さん、今田耕司さんらがいました。
NSC自体も1982年に開校したばかりで、師匠へ弟子入りする以外のルートから芸人を目指せる仕組みが始まってまだ数年という時期でした。
約2年間の会社員生活を経て、ほんこんさんの芸人人生が1985年に動き始めます。
NSC大阪4期で今田耕司とダブルホルモンズを結成
NSCへ入ったあと、ほんこんさんが最初から板尾創路さんと組んだわけではありません。
最初の重要な相方になったのは、同じNSC大阪4期の今田耕司さんでした。
「骨付きカルビ」と「上ロース」でコンビ活動を開始
2人が組んだコンビ名はダブルホルモンズで、当時ほんこんさんは「骨付きカルビ」、今田さんは「上ロース」という名前を使っていました。
テレビ東京の『開運!なんでも鑑定団』公式ページにも、NSC入学後に今田さんとダブルホルモンズを結成し、ほんこんさんが「骨付きカルビ」を名乗っていた経歴が残っています。
今田さん自身も後年、NSCでほんこんさんと仲良くなり、ダブルホルモンズとして活動した時期を詳しく振り返っています。
ほんこんがネタを書き、月1回のNSC寄席へ
現在は情報番組でのトークやコメントの印象が強いほんこんさんですが、最初のコンビでは自分でネタを書く側でもありました。
「ネタはほんこんさんがほぼ書いていて」
POPEYE Web・今田耕司インタビュー
今田さんによれば、2人は月1回のNSC寄席を目標にネタを作り、舞台へ向けて練習していました。
ほんこんさんの芸人人生は、テレビタレントとしてではなく、自分でネタを書いて相方と舞台に立つところから始まっています。
今田の遅刻が続きダブルホルモンズを解散
ところが、ダブルホルモンズは長く続きませんでした。
当時の今田さんは夜のアルバイトなどもあり、ネタ合わせへ何度も遅刻していたと本人が明かしています。
待っても来ないため、ほんこんさんが今田さんの家まで迎えに行くこともあり、今田さんは「あと15分」と言いながら再び眠ってしまったことまであったそうです。
今田さんの父親が、帰ろうとするほんこんさんに息子を見捨てないでほしいと頼んだこともありましたが、遅刻は改善せず、ほんこんさんからコンビ解消を切り出しました。
今田さんは後年、この時期について自分が「ルーズ過ぎた」と認めています。
130Rまでに続いたコンビ遍歴|ホンコン・マカオと石田靖
ダブルホルモンズが終わったあとも、ほんこんさんはすぐ現在の130Rへ落ち着いたわけではありません。
別の相方との活動や短期間のコンビを経ながら、自分が舞台に立ち続けられる組み合わせを探していきます。
板尾創路が名乗っていた「ホンコン」を引き継ぐ
少し意外なのは、芸名の「ホンコン」を先に使っていたのが板尾創路さんだったことです。
板尾さんはNSC時代、寄席のために組んだコンビの一つでホンコン・マカオの「ホンコン」を名乗っていました。
その後ほんこんさんが新しい相方と組む際、板尾さんへ「ホンコン・マカオというコンビ名にしたい」と伝え、板尾さんが了承したことで名前が引き継がれました。
現在の「ほんこん」という芸名へ続く呼び名は、この若手時代のコンビ遍歴の中で本人のものになっていきます。
ホンコン・マカオの相方が芸能界を離れる
心斎橋筋2丁目劇場が動き始めたころ、ほんこんさんはホンコン・マカオとしてネタを披露し、板尾さんは芝居、今田さんはピンネタと、それぞれ別の形で舞台へ立っていました。
しかしホンコン・マカオの相方が芸能の世界から離れることになり、このコンビも解散します。
相方を失ったほんこんさんは、それでも芸人を辞めず、次に一緒に舞台へ立つ相手を探しました。
石田靖とはわずか1日でコンビ解消
次に組んだ相手の一人が、同じ吉本の石田靖さんでした。
本人の回想では石田さんとコンビを組むことを決め、大﨑洋さんへ報告したものの、売れないだろうと止められ、その組み合わせはわずか1日で終わっています。
今田耕司さんとの解散後も複数の組み合わせを経験し、それでも舞台から離れなかった時期の先に、板尾創路さんとのコンビが待っていました。
板尾創路から誘われ、後の130Rへ|初舞台で得た手応え
板尾創路さんとほんこんさんは、ともにNSC大阪4期で、プライベートでも付き合いのある同期でした。
それでもNSC在学中から固定コンビだったわけではなく、それぞれ別々の活動を経験してから一緒に舞台へ立つことになります。
板尾から「試しに組んでみぃひん?」と声をかけられる
板尾さんは2丁目劇場の芝居へ出演する一方、数カ月に一度の芝居だけでは先へ進みにくいと感じ、コンビでネタをやりたがっていたほんこんさんへ声をかけました。
「試しに組んでみぃひん?」
双葉社 THE CHANGE・板尾創路インタビュー
板尾さんは、その言葉を聞いたときのほんこんさんのうれしそうな表情まで覚えていると話しています。
いくつものコンビを経たほんこんさんは、ここで現在まで続く板尾創路さんとの組み合わせにたどり着きました。
「ウケなかったらやめよう」と臨んだ初舞台
2人が組むにあたって、ほんこんさんは初舞台の反応次第では芸人をやめることまで考えていました。
「初舞台でウケへんかったらやめよう」
週刊実話Web
ところが実際に2人で舞台へ立つと客席の反応があり、そのままコンビとして活動を続けることになりました。
板尾さんも後年、ほんこんさんとコントをやった際に手応えがあり、その後2丁目劇場へ定着していったと話しています。
「ウケなかったら終わり」と考えていた最初の舞台で笑いが起きたことが、2人を次の舞台へ進ませました。
130Rという名前を島田紳助から許可を得て使用
結成直後の2人には、しばらく正式なコンビ名がありませんでした。
番組で名前を募集する話まで出ましたが、最終的には自分たちで決めることになり、2人ともバイクが好きだったことから「130R」を選びます。
「130R」はもともと島田紳助さんの個人事務所の名前だったため、2人は紳助さんから許可をもらって使用しました。
吉本興業の公式プロフィールでは結成年月を1986年6月と記載する一方、読売テレビなど後年の番組資料では1987年結成という表記もあり、資料によって1年の差があります。
心斎橋筋2丁目劇場の若手時代|コントを磨いた130R
130Rが形になった時期、大阪のお笑い界では若手が舞台へ出る新しい場所が生まれていました。
心斎橋筋2丁目劇場は1986年5月にオープンし、NSC卒業生らの活動拠点となっていきます。
オーディションを経て2丁目劇場へ
2丁目劇場が始まる際、プロデューサーだった大﨑洋さんがNSC卒業生を集めてオーディションを行い、若い芸人たちが舞台へ上がる機会を得ました。
ほんこんさんと板尾さんもコンビで舞台へ立ち、客席の反応を確かめながらコントを中心に活動するようになります。
現在の130Rはコンビでネタを披露する機会が少ないものの、板尾さんは当時について、ほんこんさんとネタを考えてコントを演じ、笑いが取れることに楽しさを感じていたと振り返っています。
ダウンタウン・今田耕司・東野幸治らと過ごした日々
2丁目劇場にはダウンタウン、今田耕司さん、東野幸治さん、木村祐一さんら、その後テレビの中心で活躍する芸人たちが集まっていました。
板尾さんによると、芸人同士で普段から「どうすればもっとウケるか」を話し、思いついた笑いを試したり、互いに意見を出したりする時間が続いていました。
映画や漫画の話も含めて情報を交換しながら、生活の中で自然に笑いを考えていたという若手時代でした。
ほんこんさんは今田さんとの最初のコンビを終えたあとも、同じ世代の芸人たちが集まる2丁目劇場でネタを作り続けました。
1989年ABCお笑い新人グランプリで優秀新人賞
舞台で活動を重ねた130Rは、1989年に第10回ABCお笑い新人グランプリの諸芸部門で優秀新人賞を受賞しています。
この受賞歴は現在も吉本興業の130R公式プロフィールに記録されています。
ただし、この賞だけで突然全国区になったわけではなく、大阪の劇場とテレビで経験を重ねる時期が続き、その先で東京の番組へ呼ばれることになります。
『ごっつええ感じ』で東京へ|ほんこんが全国区になるまで
2丁目劇場から大阪のテレビへ活動を広げた130Rに、大きな環境の変化が訪れたのは1990年代初めでした。
先に東京で存在感を強めていたダウンタウンの番組へ呼ばれ、ほんこんさんと板尾さんも全国放送のコントへ参加します。
ダウンタウンに呼ばれ東京のコント番組へ
1991年にレギュラー放送が始まった『ダウンタウンのごっつええ感じ』へ130Rの2人が出演し、ほんこんさんの顔は大阪以外にも広く知られるようになりました。
板尾さんによれば、この番組では「130R」というコンビを前面に出すより、板尾さんもほんこんさんも一人の芸人としてコントや企画へ入る形が多かったといいます。
若手時代に2人でネタを作って舞台へ立っていた活動から、大人数の出演者が参加するテレビコントの現場へ仕事の形が変わっていきました。
2丁目劇場を中心に活動していたほんこんさんにとって、『ごっつええ感じ』出演は全国へ活動範囲が広がる大きな転機になりました。
『ごっつええ感じ』の現場で続いたネタ作りの日々
東京へ進んでからも、舞台時代に続けていた「笑いを考える時間」がなくなったわけではありません。
「松本さんと一緒におるときは常に“ネタ繰り”」
読売テレビ『黄金列伝』
板尾さんも休みの日まで松本人志さんらとボケを考えていたと明かしており、番組収録の時間だけでコントが作られていたわけではありませんでした。
2丁目劇場で同世代の芸人と「どうすればウケるか」を話していた時間が、そのまま規模の大きなテレビコントの現場へ移ったような時期でもありました。
会社員からNSCへ入り、自分でネタを書いていたほんこんさんは、全国区になったあともコントを考える現場の中にいました。
『ごっつええ感じ』終了後に変わった130Rとほんこんの仕事
1997年に『ダウンタウンのごっつええ感じ』が終了すると、板尾さんとほんこんさんの仕事は徐々に別々の方向へ広がっていきました。
コンビを解散したわけではありませんが、若手時代のように2人で新しいネタを作って舞台へ出る機会は少なくなります。
板尾創路の俳優業が増え、コンビでの活動が減少
板尾さんは俳優や映画監督などの仕事を増やし、ほんこんさんもバラエティーや吉本新喜劇など、それぞれの現場で活動する時間が長くなりました。
2012年に読売テレビ『黄金列伝』で2人そろって出演した際にも、コンビでの共演が非常に少なくなっていることが話題になっています。
それでも、共演機会の少なさがそのまま解散を意味したわけではなく、久しぶりに2人が並べば自然に掛け合いが始まる関係は続いていました。
新喜劇・バラエティーから情報番組へ活動が広がる
ほんこんさんはその後、吉本新喜劇やさまざまなバラエティー番組へ出演し、コンビのコントだけに活動を限定しない芸人になっていきました。
さらに情報番組でニュースや社会問題について発言する機会も増え、2026年9月現在もABCテレビ『教えて!ニュースライブ 正義のミカタ』にパネラーとして出演しています。
関西テレビの『マルコポロリ!』でも長く番組に参加しており、2026年の放送でもレギュラー陣の一人として出演しています。
現在の「話すほんこん」より前には、ネタを書き、相方を替え、劇場でコントを作っていた長い若手時代がありました。
THE SECONDを見て板尾へ「ネタをやらへんか」と声をかけた現在
コンビでの活動が少なくなってから長い年月が過ぎても、ほんこんさんの中から「130Rでネタをやる」という気持ちが完全になくなったわけではありません。
芸歴16年以上の漫才師が競う『THE SECOND』を見たことをきっかけに、ほんこんさんは板尾さんへ再びネタをやらないかと声をかけています。
130Rはもともとコントを中心に活動してきたこともあり、板尾さんは大会出場には前向きではありませんでしたが、コンビそのものについては別の考えを示しています。
「130Rを解散することはないと思います」
双葉社 THE CHANGE・板尾創路インタビュー
コンビでの出演が少なくても、130Rは現在まで解散していません。
高校時代のお好み焼き店から始まったほんこんさんとお笑いとの接点は、会社員生活を経てNSCへ入り、今田耕司さんとのダブルホルモンズや複数の相方との活動へ進みました。
その後、板尾創路さんから声をかけられて130Rとなり、2丁目劇場でコントを重ね、『ごっつええ感じ』をきっかけに全国へ活動の場が広がりました。
現在は情報番組やバラエティーで話す姿が中心になっていますが、その前には相方とネタを作り、舞台の客席から返ってくる笑いを確かめ続けた若い頃がありました。












コメントを残す