人物プロフィール
元「和牛」の水田信二さんといえば、細かなところまで気になる人物像を生かした漫才と、料理人として働いた経験を持つ芸人として知られています。
和牛解散後も吉本興業に所属し、ピン芸人として劇場やテレビに立つ一方、料理番組では包丁を握り、地元・愛媛の番組にも出演しています。
その経歴だけを見ると、料理人として働いたあとにお笑いへ転身したようにも見えますが、水田さんは中学2年生の時点ですでに「お笑い芸人になる」と決めていました。
それでも高校卒業後に向かったのは、お笑いの養成所ではなく神戸の調理師学校でした。
料理の仕事を経験したのちNSC大阪校へ入り、卒業後には同期のバイク川崎バイクさんを介して川西賢志郎さんと出会い、2006年に和牛を結成します。
30歳を過ぎてもアルバイトを続けた時期を経て、2016年のM-1グランプリ準優勝で仕事が大きく動き出しました。
水田信二の生い立ちと家族|海まで30秒の愛媛・伊予市で育つ
水田信二さんは1980年4月15日、愛媛県伊予市で生まれ育ちました。
現在の吉本興業公式プロフィールでも出身地は伊予市とされており、18歳で地元を離れるまで、海のすぐそばで暮らしていました。
実家のすぐ裏に海があり、釣りや海水浴をして過ごした子ども時代
2026年のインタビューで水田さんが真っ先に思い出した地元の風景は、伊予市の海でした。
実家は裏口を出ると海まで約30秒という場所にあり、地元の子どもたちは魚を釣ったり、そのまま海へ入って泳いだりしていたそうです。
夏には五色姫海浜公園へ行き、花火を見たり、昔ながらのかき氷を食べたりしながら過ごしていました。
海は遊びに行く特別な場所ではなく、自宅のすぐ外にある日常の一部でした。
ちりめんじゃこやじゃこ天が身近だった家族の食卓
港町で育った水田さんの家では、魚介類も身近な食べ物でした。
朝にはちりめんじゃこをごはんにのせて、ふりかけのようにして食べることが多く、じゃこ天や魚のすり身にパン粉をつけて揚げた「ガンス」もよく食卓に並んでいたといいます。
伊予市にはかつお節や調味料で知られるマルトモ、ヤマキがあり、水田家にもそうした地元企業の商品が普通に置かれていました。
後に和食や洋食の店で働き、料理を大きな仕事の一つにしていく水田さんですが、食べることや料理の材料は幼いころからかなり近いところにありました。
父の「細かさ」と、兄・姉から受けた影響
水田さんには4歳上の兄と姉がいます。
兄は後にお笑いへ興味を持つ入口となり、姉は音楽へ夢中になるきっかけを持ち込んだ存在でした。
姉が誰かからもらってきたCDの中にBUCK-TICKがあり、水田さんはそれを聴いたことで一気に音楽が好きになり、誕生日にはアルバムを買ってもらっています。
父親については、川西賢志郎さんが実際に何度か会った際、「結構細かいことを言う人」という印象を持ったと日本漢字能力検定のインタビューで話しています。
水田さんも、後には父親の間違いを自分が指摘するようになり、「細かさでは父を超えたのでは」と笑っていました。
小中高校時代|中学2年で「お笑い芸人になる」と決める
水田さんがお笑いに触れた時期は、料理人を辞める直前よりずっと前までさかのぼります。
小学校高学年から中学生にかけて、すでに将来の仕事としてお笑いを考えるようになっていました。
4歳上の兄が見ていたテレビから、お笑いへの興味が始まった
最初のきっかけは、4歳上の兄が見ていたテレビでした。
小学校5、6年生ごろから兄と同じ番組を見るようになり、ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、とんねるずらがテレビでしゃべっている姿を見て、「楽しそうな仕事だ」と感じるようになります。
当時から漫才師になることだけを考えていたわけではなく、人前でしゃべるお笑いの仕事そのものに惹かれていました。
そこから気持ちは早く固まり、中学2年生で芸人になることを決めています。
「自分にはお笑い以外の道はない」
日本漢字能力検定
この言葉を実際に口にするのは料理人を経験した後ですが、芸人を目指す考えそのものは中学生のころから続いていました。
高校ではサッカー部、放課後は海や川へ
高校時代はサッカー部に所属していました。
学校では周囲を笑わせる側のグループにいて、放課後には友人たちと海や川へ泳ぎに行くこともありました。
後年のインタビューでは子どものころを人見知りだったとも話しており、店の人と積極的に会話するタイプではなかった一方、学校では友人たちとにぎやかに過ごしていた時期がありました。
松山へ自転車で通い、音楽やファッションにも夢中になった
中学生までは伊予市内で過ごすことが多かった水田さんにとって、高校時代に足を運ぶようになった松山市は大きな街でした。
本人によると、伊予市から松山まで約60分かけて自転車をこぎ、ほぼ毎日のように通っていた時期があります。
古着屋を回り、『MEN’S NON-NO』を読み、当時松山にあったラフォーレ原宿・松山で雑誌に載っている服に似たものを探しました。
音楽では姉から知ったBUCK-TICKを入口に、松山大街道のレコード店へ通い、ライブハウスにも足を運ぶようになります。
後に和牛のライブDVDが、自分が少年時代に通っていた店に並んだことも本人の記憶に残っています。
高校3年、相方にしたかった友人の進路を聞いて調理師学校へ
高校3年になると、進路を決める時期がやってきます。
水田さんには将来一緒にお笑いをやりたいと思っていた友人がおり、その友人が神戸の調理師学校へ進んで料理人を目指すと知りました。
水田さんは「それなら自分も一緒に行こう」と考え、すぐに願書を提出します。
芸人を諦めて料理人を選んだのではなく、将来相方にしたかった友人と一緒に県外へ出るため、料理の学校へ進もうとしたのが始まりでした。
ところが、その友人から後になって「調理師学校へ行くのをやめた」と告げられます。
すでに願書を出していた水田さんは、一人で神戸へ向かうことになりました。
調理師学校と料理人時代|芸人への夢を残したまま料理の世界へ
18歳で愛媛を離れたとき、水田さんが周囲に伝えていた進路は「料理人になる」でした。
しかし本人の中では、芸人になるという中学生からの考えが消えていたわけではありませんでした。
友人は進学をやめ、水田信二だけが神戸の調理師学校へ
神戸の調理師学校へ進んだ水田さんは、当初は1年間通って調理師免許を取り、その後NSCへ行くつもりでした。
お笑いへの準備期間のような感覚で始めた料理の勉強でしたが、包丁を使い、材料を扱い、細かな工程を重ねるうちに料理そのものが好きになっていきます。
1年でNSCへ行くつもりが、料理そのものを好きになり就職
調理師免許を取ったあと、予定どおりすぐ芸人へ向かうことはせず、そのまま料理の世界へ就職しました。
水田さんには細かな作業が多い料理人の仕事が合っており、仕事として料理をする面白さも感じていました。
その後のプロフィールでは、大阪の和食店と神戸の洋食店で計7年間の料理経験を持つ元料理人として紹介されています。
この「7年間」は現在の公式な人物紹介でも使われている料理経験の総期間で、水田さん自身は23歳のころにNSCへ入る決断をしたと語っています。
料理店で働きながらも「一番やりたい仕事ではない」という思いが残った
料理人という仕事は嫌いではなく、むしろ自分に向いていると思える仕事でした。
それでも、仕事を続ける中で「自分が一番やりたいことはこれなのか」という感覚だけは消えませんでした。
中学2年で決めたお笑いの道を忘れたまま料理人になったのではなく、料理を好きになったことで予定より長くその世界に残りながら、お笑いへの気持ちも持ち続けていたことになります。
23歳、職場の先輩の言葉をきっかけにNSCを決断
動き出すきっかけが来たのは23歳のころでした。
職場の先輩から「遊んでいていいのは25歳まで」という趣旨の言葉をかけられ、それまで残り続けていたお笑いへの気持ちに火がつきます。
安定して続けられる料理の仕事を離れ、NSCへ入ることを決めました。
料理人を辞めたときは「もう後がない」という感覚があり、別の職業を経験したからこそ、お笑いを選ぶ覚悟もはっきりしたと後に話しています。
料理の仕事は芸人になる夢を遠ざけた時期ではなく、水田さんが改めて「何を仕事にしたいのか」を決める時間になりました。
NSC大阪26期時代|料理人から芸人としての生活へ
料理の世界を離れた水田さんは、吉本興業の養成所NSC大阪校26期へ入ります。
ここから、それまで頭の中で考えていた「芸人になる」という進路が実際の生活になりました。
芸人になることを家族に知らせないままNSCへ
水田さんは18歳で愛媛を出る際、家族や周囲には料理人になると伝えていました。
その後NSCへ進んだときも、芸人になることを家族へ改めて大きく宣言したわけではありません。
本人が後年明かしたところでは、家族が本格的に芸人として活動していることを知ったのは、水田さんが出場した関西の漫才コンテストの決勝をテレビで見たときでした。
中学生から長く考えてきた芸人への進路を、家族にはほとんど知らせないまま実行に移していました。
同期にかまいたち・天竺鼠・藤崎マーケット・BKB
NSC大阪校26期には、後にテレビや劇場で活躍する芸人が多くいました。
かまいたち、天竺鼠、藤崎マーケット、バイク川崎バイクらが同じ26期です。
2026年のインタビューで水田さんは、NSCに入った当初は全国各地から「地元で一番面白い」と言われてきたような人が集まっていた一方、最初の夏ごろまでに辞めていく人も多かったと振り返っています。
水田さん自身はそこで大きく自信を失うことはなく、料理人から転身してきた自分にも「無駄に自信があった」と話していました。
NSCでネタを作り、卒業後も相方を探した時期
現在の水田さんは、和牛時代のボケとして広く知られていますが、NSCへ入った時点では当然ながら川西さんとコンビを組んでいませんでした。
養成所でネタ作りや舞台を経験し、卒業後もすぐ現在につながる相方が決まったわけではなく、それぞれ別の形で活動しながら相方を探す時間が続きます。
川西さんとの出会いはNSC在学中ではなく、卒業してから約2年後だったと水田さん自身が振り返っています。
周囲が辞めていく中でも、大阪に合わせて自分の話し方を変えなかった
愛媛から大阪へ出ると、話すテンポも周囲の空気も大きく変わります。
それでも水田さんは、大阪の速いしゃべり方に無理に合わせようとはしませんでした。
2026年に地元を振り返った際には、愛媛の人は話したり歩いたりする速度ものんびりしていると語っており、自分まで別人のように変えるより、そのままでいることを選んでいました。
後に和牛の漫才で見せる、細かなことをじっくり積み重ねていく水田さんの話し方も、最初から大阪の速さだけに寄せて作られたものではありませんでした。
川西賢志郎との出会い|BKBの紹介から2006年に和牛結成
NSCを卒業した水田さんが出会うことになるのが、同じ大阪校26期だった川西賢志郎さんです。
同じ期に在籍していても二人はそこで親しくなったわけではなく、コンビ結成にはもう一人の同期が関わっていました。
NSC同期でもほとんど接点がなかった水田と川西
川西さんもNSC卒業後、組んでいたコンビが解散して相方を探していました。
水田さん側も相方を必要としており、双方の状況を知ることになったのがバイク川崎バイクさんでした。
川西さんはBKBさんへ相方探しを相談し、BKBさんが出演していたインディーズライブにも足を運んでいます。
しばらくして今度は水田さんからBKBさんへ連絡が入りました。
「誰か相方おらへん?」
文春オンライン・バイク川崎バイク インタビュー
BKBさんはそこで川西さんのことを伝え、二人をつなぎました。
BKBの紹介を受け、なんばのビックカメラで二人が会う
紹介を受けた二人が待ち合わせた場所は、大阪・なんばのビックカメラでした。
養成所の同期でありながら、コンビを組むほどの関係ではなかった二人が、相方候補として改めて顔を合わせます。
川西さんと水田さんの双方から相方探しの相談を受けていたBKBさんが、後の和牛をつなぐ役になりました。
それぞれ相方を探した末に、川西賢志郎と組むことを決める
川西さんは相方探しが長く続き、水田さんもNSC卒業後すぐに一つのコンビへ定まったわけではありませんでした。
周囲の同期には、すでに相方を決めて活動を続けている芸人もいる中で出会った二人は、漫才という同じ方向へ進み始めます。
2006年12月、水田信二さんと川西賢志郎さんは「和牛」を結成しました。
2006年12月に和牛結成、コンビ名と初期のネタ作り
結成当初は「川西水田」として活動していた時期があり、M-1へ出場するため正式なコンビ名が必要になりました。
後年のインタビューによると、そのとき水田さんはステーキ店でアルバイト中で、川西さんから電話でコンビ名を相談された際、店のメニューにあった言葉から「和牛」を提案したとされています。
さらに二人は後年、「和牛」と画像検索した際、本来の牛肉より自分たちの写真が先に出れば売れたことが分かるという話もコンビ名の由来として明かしていました。
水田さんが料理人だったから「和食」の和を取った、という意味ではありません。
和牛の若手・下積み時代|劇場で「伝わる漫才」を作り直す
和牛を結成した二人は、大阪の劇場を中心に漫才を続けました。
後にM-1で何度も優勝候補と呼ばれるようになりますが、最初から作りたいネタが客席へ届いていたわけではありません。
好きで作ったネタが劇場オーディションに通らなかった時期
若手時代の和牛には、劇場へ出るためのオーディションをなかなか突破できない時期がありました。
水田さんは当時、自分たちが好きで作ったネタについてこう振り返っています。
「当時好きで作ってたネタはほとんど劇場のオーディションで落ちてた」
QJWeb
そこで少し「分かりやすさ」を意識したネタを作ってみると、オーディションを通過しました。
水田さんは、自分たちが100%やりたい形ではないネタで結果が出たことを手放しでは喜べなかったものの、客へどう届くかを考えるきっかけになりました。
一文字まで話し合い「自分たちの面白さ」と「分かりやすさ」を両立
そこから和牛は、自分たちが面白いと思うことだけで終わらせず、それを観客にどう伝えるかまで細かく話し合うようになります。
ネタ作りでは、言葉を一つ変えるどころか「この一文字を変えるか」というところまで詰めることもありました。
日本漢字能力検定の対談でも、水田さんは結成当初、台本に書いた助詞まで川西さんへそのまま言ってもらおうとしていたことを話しています。
オーディションに落ちた経験から、面白いと思うものを変えるのではなく、その面白さが届く言葉を探す作業が増えていきました。
30歳を過ぎてもアルバイト、同期が先に売れていった日々
舞台で漫才を磨く一方、生活がすぐ安定したわけではありません。
同じ26期では、天竺鼠、かまいたち、藤崎マーケットらが先に仕事を増やしていきました。
水田さんは2026年のインタビューで、30歳を過ぎてもアルバイトをしていたと振り返っており、両親から「まだ続けるの?」と心配された時期もあったそうです。
芸人として月に1万円も稼げていないころには、100グラム90円ほどの豚バラ肉、30円のもやし、15円の卵を使った合計135円ほどの炒め物とごはんをよく食べていました。
営業先で高そうな弁当をもらえる日があっても、本人にとっては自分で作った熱々の豚もやし炒めと炊きたてのごはんのほうがおいしく感じたといいます。
料理人として身につけた技術は、売れる前の芸人生活でも毎日の食事を支えていました。
水田の「細かい正論」を生かす漫才が形になっていく
和牛の漫才で広く知られるようになったのが、水田さんが細かなことを次々と指摘し、川西さんが受け止めながら返していくスタイルです。
この形も、最初から完成していたものではありませんでした。
仕事先で水田さんが同期の芸人へ細かな点を指摘し続けていた場面を川西さんが見て、「この水田を漫才に入れたら面白いのでは」と考えたことが一つのきっかけになっています。
正しいことを細かく言い続ける人物を水田さんのキャラクターとして定めると、それまでよりネタが作りやすくなり、後の和牛らしい漫才へつながっていきました。
2014年NHK上方漫才コンテスト優勝で大きな結果
劇場でネタを重ねてきた和牛は、2009年と2010年のABCお笑い新人グランプリで新人賞を受賞し、少しずつ結果を残していきます。
そして2014年、第44回NHK上方漫才コンテストで優勝しました。
結成から約7年がたっており、水田さんが30代に入ってからつかんだ大きなタイトルでした。
ただし、全国で一気に顔を知られるようになった転機として、水田さん本人が後に挙げているのは、この優勝よりさらに後のM-1です。
M-1で全国区へ|2016年の準優勝を境に仕事が変わった
2015年にM-1グランプリが復活すると、和牛はそこから5年続けて決勝の舞台に立ちました。
劇場で長く続けてきた漫才が、全国の視聴者へ一気に届く時期に入ります。
2015年に初めてM-1決勝へ進出
2015年のM-1グランプリで、和牛は初めて決勝へ進出しました。
吉本興業の公式プロフィールでは、この年の最終順位は6位と記録されています。
翌2016年は決勝へ直接進むことができず、敗者復活戦へ回りました。
2016年は敗者復活から準優勝、水田本人がブレイクを実感
2016年12月4日、和牛は敗者復活戦から決勝へ戻ってきます。
決勝のファーストラウンドでは469点を獲得し、銀シャリの470点にわずか1点差で続いて最終決戦へ進出しました。
最後は銀シャリが優勝し、和牛はM-1準優勝となります。
水田さんが後に「分かりやすくブレイクを感じた」と振り返っているのが、この2016年のM-1準優勝でした。
それまで30歳を過ぎてもアルバイトをしていた生活から、地元・愛媛でも取材やロケの依頼が増え、街で気づかれることも多くなっていきます。
賞レースの順位だけではなく、水田さん自身が仕事と周囲の反応の変化をはっきり感じたのが2016年でした。
2017年・2018年も準優勝、和牛の漫才が全国へ広がる
和牛は翌2017年、2018年もM-1準優勝となり、2016年から3年連続で2位という結果を残しました。
2018年には第53回上方漫才大賞の奨励賞も受賞しています。
さらに2019年もM-1決勝へ進み4位となり、2015年から2019年まで5年連続で決勝へ出場しました。
若手時代に劇場オーディションで「分かりやすさ」を試行錯誤していた二人が、全国放送の4分間で何度も評価されるところまで来ていました。
劇場中心だった二人の仕事がテレビや地元・愛媛へ広がっていく
M-1で名前が広がると、劇場と漫才だけでなくテレビ、ラジオ、ロケなど仕事の種類も増えていきました。
水田さんの地元・愛媛では、南海放送で和牛の冠番組『和牛のA4ランクを召し上がれ!』も放送されるようになります。
料理人経験も芸人の仕事の中へ入り込み、和牛二人による料理コンテンツ『和牛キッチン』は2020年にレシピ本にもなりました。
18歳で「料理人になる」と伝えて愛媛を出た水田さんが、今度は芸人として故郷に戻り、料理も使いながら番組を作るようになっていました。
和牛解散からピン芸人へ|料理人経験と愛媛が現在の仕事に
M-1で全国的な知名度を得た後も和牛は漫才を続けましたが、結成17年を超えた2023年12月、翌春での解散を発表しました。
二人は2024年3月末で別々の道へ進みます。
2024年3月、17年以上活動した和牛が解散
吉本興業は2023年12月12日、和牛が2024年3月末をもって解散することを正式に発表しました。
水田さんは発表時、自身の気の緩みによる複数回の遅刻が一つのきっかけになり、その後、漫才のパフォーマンスや取り組み方について川西さんとの差を感じるようになったと説明しています。
二人とも「客に笑ってほしい」という目的は同じだったものの、川西さんが求めるものと水田さんがやりたいことの間に徐々に差が広がり、漫才が苦しいものになっていったというのが水田さん側から公表された経緯でした。
「漫才も漫才以外のお仕事も、芸人の仕事は全て本業です」
ORICON NEWS
解散はどちらか一人がお笑いを辞めるためではなく、二人がそれぞれ芸人として活動を続けるための区切りになりました。
解散後も吉本興業に所属し、ピン芸人として活動
和牛解散後も水田さん、川西さんはともに吉本興業へ所属したまま活動を続けています。
水田さんはピン芸人としてテレビや劇場へ出演し、漫才コンビ時代とは異なる形で一人でステージに立つ機会も増えました。
地元・愛媛では2024年4月から南海放送『ミズタのレシピ!』が始まり、愛媛の食材や土地を扱う仕事も続いています。
中学生まで過ごした伊予市と、高校時代に自転車で通った松山周辺が、今度は仕事で何度も訪れる場所になりました。
料理番組と初の単著レシピ本へ、昔の料理経験が再び仕事になる
ピンになった水田さんの大きな活動軸の一つが、やはり料理です。
BSよしもとの『水田信二の注文の多い料理教室』では、元料理人としての技術と、細かなことまで言いたくなる水田さんのキャラクターをそのまま組み合わせています。
番組は2026年9月6日に第100回を迎え、ゲストの南海キャンディーズ・山里亮太さんとポルケッタ作りに取り組みました。
2025年3月25日には、単著として初となる料理本『水田の小言を熟読するほど 一生ものの自炊力が身につく いちいちうるさい定番レシピ』も発売されました。
普通なら省かれがちな段取りまで細かく書き込み、火加減も数字で示すなど、料理人時代の経験と、水田さんの細部まで気になる性格をそのまま一冊にしています。
高校卒業後に一度選んだ料理の道が、20年以上を経てピン芸人・水田信二を支える大きな仕事になっています。
月1で伊予市へ帰り「老舗洋食屋さんみたいな芸人」を目指す現在
2026年現在、水田さんは月に1回ほど伊予市の実家へ帰る生活を続けています。
実家では両親と姉、3匹の猫が暮らしており、地元のスーパー「フジ」で食材を買い、姉と一緒に料理をしながら過ごすこともあるそうです。
子どものころ家族のイベントで通ったステーキハウスへ行き、高校時代によく食べていた店をロケの合間にのぞくこともあります。
これからの芸人像について、水田さんは地元の店を例にこんな言葉を残しています。
「地元の老舗洋食屋さんみたいな芸人」
SUUMOタウン
場所や時代に合わせて自分そのものを変えるのではなく、どこへ行っても同じスタイルで笑わせたいというのが現在の目標です。
海まで30秒の伊予市で育ち、中学生で芸人になると決めながら、一度は料理の世界へ進んだ水田信二さん。
料理人を辞めてNSCへ入り、川西賢志郎さんと和牛を組み、30代まで続いたアルバイト生活からM-1準優勝を境に全国へ名前を広げました。
和牛が解散した現在は、あのころ身につけた料理と、生まれ育った愛媛の両方を持ったまま、ピン芸人として新しい仕事を続けています。












コメントを残す