豊本明長の生い立ち|春日井の高校時代からJCA3期、アルファルファ・東京03結成まで

人物プロフィール

生年月日
1975年6月6日
身長
175cm
血液型
A型
出身地
愛知県 春日井市
コンビ・グループ名
東京03
相方・メンバー
飯塚悟志、角田晃広
結成年
2003年
所属事務所
プロダクション人力舎
芸人活動開始年
1995年
養成所・スクール
スクールJCA 3期

日常の会話から少しずつ空気がずれていくコントで知られる東京03の中で、豊本明長さんは飯塚悟志さんや角田晃広さんとはまた違った立ち位置を担っています。

淡々とした人物から女性役、物語の流れを変える役まで演じる豊本明長さんですが、その芸人人生は最初から東京03として始まったわけではありません。

愛知県春日井市で育った豊本さんは小学生のころからプロレスに夢中になり、中学生になると地元近くへ来たFMWの興行へ足を運び、高校生になると文化祭の教室にプロレスのリングまで作りました。

さらに高校時代の担任は、高校2年生のころには、すでに豊本さんがお笑い芸人になる夢を語っていたと覚えています。

高校卒業後は東京へ向かい、スクールJCA3期へ入りましたが、そこで最初から現在の形ができたわけではなく、別の相手とコンビを組んでツッコミをしていた時期もありました。

その豊本さんをJCA2期の飯塚悟志さんが誘い、アルファルファを経て角田晃広さんが加わり、2003年に東京03が生まれます。

豊本明長の生い立ちと家族|愛知県春日井市で育った子ども時代

豊本さんは1975年6月6日生まれで、愛知県春日井市の出身です。

プロダクション人力舎の公式プロフィールには特技として「プロレス観戦」が記されていますが、この趣味は芸人になってから始まったものではありません。

小学生のころからプロレスに夢中になった

豊本さん自身がスポーツナビで連載したコラムによると、プロレスを好きになったのは小学生のころでした。

大人になってからも団体を問わず会場へ足を運ぶほどですが、その出発点は春日井で暮らしていた少年時代にあります。

テレビで見るだけではなく、成長すると実際のプロレス会場へ出かけるようになり、特に大仁田厚さんとFMWに強く惹かれていきました。

家族と過ごした春日井での少年時代

豊本さんは幼少期の両親の職業やきょうだい構成などについて、公の場で細かな家族プロフィールを多く語っているわけではありません。

一方で、春日井とのつながりはその後も長く続いており、地元の文化事業では春日井市立柏原中学校と春日丘高等学校に通っていたことも紹介されています。

高校は当時の春日丘高等学校で、同校は2016年に中部大学春日丘高等学校へ校名を変更しています。

芸人になった後にも春日井で東京03として舞台に立っており、2013年の地元公演では豊本さんの両親をはじめ、昔から豊本さんを知る人たちも客席を訪れていました。

中学生でFMWを見に行き、大仁田厚本人へ声をかけた

中学生のころ、豊本さんが夢中になっていたのが大仁田厚さん率いるFMWでした。

地元近くでFMWの興行が行われた際には、学校が終わると会場へ向かい、早めに着いた体育館の裏で大仁田さん本人を見つけます。

豊本さんが「頑張ってください」と声をかけると、大仁田さんはその場でFMWを立ち上げたころの話を聞かせてくれました。

「直接僕に話してくれている事がうれしくてたまらなかったです。」

スポーツナビ「東京03豊本のプロレスあれこれ」

高校生になってからもプロレス観戦は続き、豊本さんは後年、愛知県の名古屋国際会議場を高校時代にプロレスを見に行っていた思い出の会場として挙げています。

春日丘高校時代|文化祭にプロレスリングを作り芸人の夢を語った

春日丘高校時代の豊本さんについては、当時の担任だった本間志信先生が具体的な姿を覚えています。

プロレスが好きな高校生だっただけでなく、すでに卒業後の人生に「お笑い」という選択肢を持っていました。

高校2年ですでに担任へ「お笑い芸人になりたい」と話していた

本間先生が豊本さんの担任をしていたのは高校2年生のころでした。

「高校二年生の頃からお笑い芸人になりたいと夢を語っていた」

かすがい市民文化財団「FORUM PRESS vol.57」

先生の記憶では、豊本さんは周囲を笑わせる存在であると同時に、クラスで頼りにされる生徒でもありました。

まだ養成所へ入る前から「芸人になりたい」と口にしていたことを考えると、高校卒業後に突然お笑いを選んだわけではありません。

文化祭の教室にリングを作り、自ら水着姿で試合へ

高校時代の豊本さんを象徴する出来事が、学校の文化祭で行ったプロレス企画です。

教室の中にマットを敷くだけの簡単な催しではなく、本間先生が後年「本格的」と振り返るほどのリングを用意しました。

豊本さんは企画する側に回っただけでなく、自分も水着姿になってリングへ上がり、文化祭でプロレスを披露しています。

教室には観客が集まり、入りきれない人が出るほどになったため、入場を制限する状態になりました。

プロレスを見ることが好きだった少年が、高校では自分で場所を作り、人を集め、自分自身も人前へ出ていたことになります。

高校卒業後、お笑いの道を選び上京へ

高校時代から口にしていた芸人への道を、豊本さんは卒業後に実際の行動へ移しました。

愛知県春日井市を離れて東京へ向かい、お笑い芸人を育成するスクールJCAの3期生になります。

当時のスクールJCAには、現在のように何百人もの候補生が集まっていたわけではなく、期をまたいで芸人同士の距離が近い環境でした。

高校卒業後に上京|スクールJCA3期から芸人の道へ

東京へ出た豊本さんが入ったスクールJCAは、プロダクション人力舎が運営するお笑い養成所です。

豊本さんの人生で、ここから高校時代までとはまったく違う人間関係が始まっていきます。

『夢で逢えたら』がお笑いへの興味を強めた

豊本さんがお笑いに惹かれた背景には、フジテレビで放送されていたコント番組『夢で逢えたら』がありました。

「僕がお笑いっていいなと思うようになったのが『夢で逢えたら』だった」

お笑いナタリー「結成20周年 東京03インタビュー」

『夢で逢えたら』ではダウンタウン、ウッチャンナンチャンらがスタジオセットの中でコントを演じており、豊本さんにとって「お笑い」のイメージと「コント」は早い段階から近い位置にありました。

後に東京03としてスタジオにセットを組み、毎週のようにシチュエーションコメディを演じる『ウレロ☆』シリーズに参加した際、豊本さんは少年期から見ていた世界との重なりを感じることになります。

JCA3期へ入り、アンタッチャブルらと同じ期で過ごす

豊本さんが入ったのはスクールJCA3期でした。

同じ3期には、後にアンタッチャブルを結成する山崎弘也さんと柴田英嗣さんがいました。

当時のJCAは現在の西新宿ではなく東高円寺にあり、豊本さんによれば、自分が入ったころは生徒そのものが少なかったため、1期上の飯塚さんのこともすでに知っていました。

一方の飯塚さんはJCA2期に入ったものの、1年間で一緒に活動する相方を見つけられず、学校へ頼んで3期の授業にも参加するようになります。

最初のコンビではツッコミを担当していた

豊本さんはJCAへ入ってすぐ飯塚さんと組んだわけではなく、まず別の相手とコンビを作っていました。

養成所にいる以上はライブへ出なければならず、豊本さん自身の説明では、当時のコンビは組む相手が少なくなった中でできた組み合わせでした。

そのコンビで豊本さんが担当していたのは、現在の東京03のイメージからは少し意外なツッコミでした。

夏ごろのJCAライブで、そのコントを客席から見ていたのが飯塚さんです。

飯塚悟志に誘われアルファルファ結成|コント芸人として活動開始

飯塚さんが3期の授業へ通い続けていた理由は、自分の相方を探すためでした。

すでに山崎さんと柴田さんのアンタッチャブルはコンビとして形になり、多くの笑いを取っていた一方、豊本さんのコンビはまだ固定された状態ではありませんでした。

3期の授業へ来ていた飯塚が豊本のコントを見る

JCAライブで豊本さんのツッコミを見た飯塚さんには、引っかかるものがありました。

「なんかしっくり来ないな」

お笑いナタリー「スクールJCA特集 東京03インタビュー」

飯塚さんは豊本さんをツッコミとして見るより、ボケをやらせたほうが面白くなるのではないかと考えました。

話をしてみると、豊本さんには絵がうまいところや独特の視点もあり、飯塚さんはそこにも興味を持ちます。

「ツッコミよりボケ」と見込まれ、1995年にコンビ結成

飯塚さんから声をかけられた豊本さんは、1995年に「アルファルファ」を結成しました。

現在まで30年以上続く飯塚さんとの関係は、豊本さんが別のコンビでツッコミをしていた時期に始まっています。

2人が活動を始めたころはテレビに出ていない若手がライブへ出演する世界そのものがまだ身近ではなく、定期ライブへ出ながらコントを作っていく生活が続きました。

豊本さんも「芸人が売れて冠番組を持つ」という道を思い描いていたものの、JCAを出たからといって状況がすぐ変わるわけではありませんでした。

『爆笑オンエアバトル』常連になる一方で笑いの方向を見失う

アルファルファはその後、NHKの『爆笑オンエアバトル』へたびたび出演し、番組では17勝5敗という戦績を残しました。

しかし、番組では観覧客の審査が結果に直結するため、2人はしだいに「どうすれば客に受けるか」を強く意識するようになります。

飯塚さんは後年、受けるネタを追ううちに自分たち自身が何を面白いと思っているのか分からなくなり、活動を楽しいと思えない時期が来たと明かしています。

番組では結果を残していた一方で、アルファルファの内側では解散を考えるところまで行き詰まっていました。

この時期に豊本さんと飯塚さんの周囲にいたのが、別のトリオ「プラスドライバー」で活動していた角田晃広さんでした。

アルファルファから東京03へ|角田晃広が加わった2003年

角田さんのプラスドライバーは1996年から活動し、『爆笑オンエアバトル』でも14勝2敗という成績を残していましたが、2002年に解散します。

アルファルファも活動の方向を見失っていたため、3人はそれぞれ別の形で節目を迎えていました。

解散を考えていたアルファルファと元プラスドライバーの角田

飯塚さんと角田さんは以前から飲みに行く関係で、プラスドライバー解散後に角田さんがお笑いから離れようとしたときには、飯塚さんが引き止めています。

アルファルファの2人と角田さんは、芸風もそれまでの立ち位置も同じではありませんでした。

飯塚さんが角田さんに感じていたのは、作り込んだ一言よりも、追い込まれたときに思わず漏れる本音のおかしさでした。

長くアルファルファを見てきた放送作家のオークラさんも、最初はカラーの違う角田さんを加えることに疑問を持っていました。

角田をゲストに迎えたライブでトリオの可能性が見えた

そこで正式にトリオを組む前に行われたのが、アルファルファ+ゲスト角田晃広という形のライブでした。

3人でコントを演じた際、角田さんが追い込まれて逆ギレするように開き直る場面が、その日のライブでも特に大きな反応を得ます。

「これかもしれない」

テレ東プラス「あちこちオードリー」東京03特集

2人で行き詰まっていたアルファルファに角田さんが加わることで、それまでとは違うコントの形が見え始めました。

オークラが「東京03」と命名し、新しい3人組が始まる

2003年、豊本さん、飯塚さん、角田さんの3人は「東京03」として活動を始めます。

名前を考えたのは、アルファルファ時代から3人を知る放送作家のオークラさんでした。

オークラさんは電話で名前を相談された際、東京の市外局番「03」、2003年の結成、3人組という数字を重ねて「東京03」を提案しています。

アルファルファとして1995年から続けてきた豊本さんにとっては、芸人を一から始め直したのではなく、8年間のコンビ活動の先で新しい3人の形を作ることになりました。

東京03結成後の若手時代|アルバイトと解散危機の中でコントを続けた

3人になったことでライブは楽しくなったものの、東京03を結成した瞬間から仕事が順調に増えたわけではありません。

当時のテレビでは短時間で分かりやすく笑いを取るネタも多く求められ、会話を積み重ねて空気を変えていく東京03のコントとは噛み合わない場面もありました。

短いテレビネタ全盛の時代に長尺コントで苦戦

東京03が得意としていったのは、会社や飲食店、友人同士の集まりなど、日常にありそうな場所で人間関係のずれをじっくり見せるコントです。

短い時間のテレビ出演では持ち味を出し切れないことがあり、ライブで評価されても、そのままテレビで同じ結果になるわけではありませんでした。

その一方、2004年からは東京03名義の単独公演を重ね、2006年には第4回お笑いホープ大賞で大賞を受賞しています。

キングオブコントより前から、3人は単独ライブとコントを積み重ねていました。

飯塚の「やめる?」を角田が止めた

東京03として活動し始めてからも、一度はトリオそのものが終わりかけています。

単独ライブを続ける中で飯塚さんが「もう十分楽しかった」と感じ、角田さんと豊本さんへ活動を終えることを持ちかけた時期がありました。

意外にも、その話を止めたのが、一度は自分がお笑いを辞めようとして飯塚さんに引き止められていた角田さんでした。

角田さんが続ける意思を示したことで東京03は残り、その後は誰か一人を目立たせるのではなく、3人それぞれが立つネタへ変化していきます。

現在まで続く3人のバランスは、この解散危機を越えたころから少しずつ形を変えていきました。

豊本もアルバイトを続けながら舞台へ立っていた

若手時代には、豊本さんも芸人の仕事だけで生活していたわけではありません。

2014年のアルバイトを振り返るインタビューでは、詳しい職種名は明かさなかったものの、「パソコン系」の仕事をしていたことを話しています。

東京03のコントに会社員やアルバイト先の休憩室など身近な職場が登場する背景には、3人それぞれが若手時代に働いた経験もありました。

仕事の少ない20代に「何かしなきゃ」と焦っていた

豊本さんは20代のころについて、仕事が少ない中で焦りはあったものの、何をすれば状況が変わるのか分からなかったと後年明かしています。

「僕、本当に“先のことを考えられない人間”なんですよ。」

新R25「東京03飯塚が語る“豊本・角田から若手が学べること”」

何かをしていないと落ち着かないため予定を埋めても、それだけでは結果につながらない状態が続きました。

豊本さんは東京03になってから、「この3人で面白いコントをやる」ということ以外へ余計に手を広げないと決めたことで、自分の中の景色が変わったと話しています。

高校卒業後に東京へ出てからすぐ売れたのではなく、アルファルファ時代を含めて長い時間を舞台とアルバイトの間で過ごしていました。

キングオブコント2009優勝|テレビ出演増加後もライブを軸に

東京03結成から6年が過ぎた2009年、3人に大きな変化をもたらしたのがキングオブコント2009でした。

それまでにもライブやテレビのネタ番組で活動していた東京03ですが、全国的に名前を知る人が一気に増える出来事になります。

サンドウィッチマンを2本目で逆転して2代目王者に

2009年9月22日に行われた決勝では、各組が2本のコントを披露し、その合計得点で優勝を争いました。

1本目を終えた時点ではサンドウィッチマンが首位に立っていましたが、東京03は2本目で高得点を獲得して逆転します。

東京03はキングオブコント2009で優勝し、同大会の2代目王者になりました。

JCAから数えれば約15年、アルファルファ結成から約14年を経て迎えた優勝であり、豊本さんにとっても長い若手時代の先に訪れた転機でした。

優勝後にテレビの仕事が増えても舞台を離れなかった

KOC優勝によってテレビ出演は増えましたが、東京03は「優勝したからそのままテレビタレントへ」という道には進みませんでした。

角田さんは優勝後、テレビ収録で手応えを得られないまま帰り、3人で反省会を開くことも多かったと振り返っています。

その間も単独公演は継続し、ライブで新しいコントを作って観客の前で演じるという活動は変わりませんでした。

文化庁も後年、東京03について2004年から単独公演を毎年開催してきたことを紹介し、ライブを中心とする活動形態を評価しています。

『ゴッドタン』『ウレロ☆シリーズ』で3人らしいテレビの居場所が生まれる

テレビで東京03の持ち味が出る場所になったのが、テレビ東京の『ゴッドタン』や『ウレロ☆』シリーズでした。

どちらにも東京03と長く付き合ってきた佐久間宣行さんやオークラさんが関わっており、3人が普段の空気に近い形でテレビへ出られる機会になりました。

特にセットの中でコントを演じる『ウレロ☆』は、豊本さんが若いころに『夢で逢えたら』を見て感じていた「スタジオでコントをする世界」と重なりました。

ライブとは別の場所でも3人の会話や演技をそのまま生かせる仕事が増え、東京03としての活動の幅が広がっていきます。

少年時代からのプロレス好きが仕事へ広がった

東京03としてコントを続ける一方、豊本さん個人の活動で特徴的なのがプロレスとの関わりです。

ここで新しくプロレスを好きになったわけではなく、小学生だったころから追い続けてきたものが、大人になって仕事の一部にもなりました。

プロレス観戦を続け、番組やコラムの仕事につながる

所属事務所のプロフィールでも「プロレス観戦」は豊本さんの特技として掲げられています。

FIGHTING TV サムライの『速報!バトル☆メン』では司会を担当し、2016年からはスポーツナビで本人名義のプロレスコラムも連載しました。

春日井でプロレスを見ていた少年が、芸人になった後にはプロレスを語る側の仕事もするようになりました。

連載では大仁田厚さんだけでなく、長州力さんや藤波辰爾さん、スーパー・ストロング・マシンさんなど、自分が見てきた選手や大会について細かな記憶を交えて書いています。

高校時代に通った会場の記憶も大人になって残っていた

豊本さんがプロレスについて書いた文章には、愛知県で過ごした若いころの記憶が何度も登場します。

名古屋国際会議場についても、高校生のころにプロレスを見るため通っていた懐かしい場所だと記しています。

文化祭で自分がリングへ上がった高校生のころと、試合を伝える仕事をするようになった後年まで、プロレスは途切れず豊本さんの生活に残っていました。

東京03としてコントを続ける現在|第28回単独公演まで

キングオブコント優勝後も単独公演を積み重ねた東京03は、結成20年を超えても毎年のように新しいコントを舞台へ送り出しています。

豊本さんも東京03の活動を軸にしながら、コントで培った演技を生かしてドラマや映画などへ出演するようになりました。

結成20年を超えても新作コントと全国公演を継続

2022年度には東京03が文化庁芸術選奨の大衆芸能部門・文部科学大臣新人賞を受賞しました。

対象となった第24回単独公演『ヤな覚悟』では9都市34公演を行い、文化庁は洗練された脚本と演技に加えて、ライブ中心の活動形態を築いてきた点も評価しています。

テレビに出るための途中経過だった単独ライブが、東京03そのものを代表する活動として続いています。

そこにはアルファルファ時代から関わるオークラさんも入り、東京03とともに長年コントを作り続けています。

豊本はコント以外でも俳優など活動の幅を広げる

豊本さんは東京03の舞台だけでなく、映画やテレビドラマにも出演しています。

東京03のコントでは、強く感情を爆発させる飯塚さんや角田さんの隣で、淡々とした人物、妙に冷静な人物、女性役など幅のある役を受け持ってきました。

JCA時代にはツッコミがしっくり来ないと飯塚さんに見られていた豊本さんが、その後は3人のコントの中でさまざまな役へ入るようになっています。

2026年も3人で単独公演『満更じゃないから』を開催

2026年には第28回東京03単独公演『満更じゃないから』を開催しました。

東京公演から地方公演へ回り、9月には東京・Shibuya LOVEZで追加公演も行われ、作・演出には東京03とオークラさんの名前が並んでいます。

スクールJCAの公式サイトで後輩へ向けたメッセージを寄せた際、豊本さんは自分の長い芸歴を踏まえた言葉を残しています。

「とにかく諦めずに、辞めずに頑張ることが大切だと思います。」

スクールJCA「所属芸人からのメッセージ」

春日井でプロレスに夢中になり、高校2年で芸人になる夢を口にしていた豊本さんは、高校卒業後に東京へ出てJCAへ入りました。

飯塚悟志さんとのアルファルファで8年間活動した後、角田晃広さんが加わったことで、2003年から東京03という3人のコントが始まりました。

若手時代から続けてきた舞台は、2026年になっても東京03の活動の中心に残っています。

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