ピーマンズスタンダード吉田寛の生い立ち|芸人になったきっかけとみなみかわとの出会い、解散理由

人物プロフィール

生年月日
1979年12月15日
身長
167cm
血液型
B型
出身地
兵庫県 神戸市垂水区
芸人活動開始年
2004年
養成所・スクール
松竹芸能養成所

現在はテレビ番組を作る側に回っている元ピーマンズスタンダードの吉田寛さんは、かつてみなみかわさんと約14年間コンビを組んでいました。

『爆笑レッドカーペット』で賞を獲得し、海外ロケ番組に抜擢され、さらにシステマでもテレビ出演が増えるなど、芸人人生には何度も大きなチャンスが訪れています。

ところが吉田さんは、子どものころからお笑い芸人を目指して一直線に進んできた人物ではなく、大学卒業後の就職氷河期に、高校時代の同級生から誘われたことがお笑いの入口でした。

その同級生とのコンビが終わったあと、自分から何度も声をかけて組んだ相手がみなみかわさんです。

売れそうで届かなかった年月を経て、39歳でピーマンズスタンダードを解散した吉田さんは、今度はテレビ制作会社のADとして一から働き始めました。

吉田寛の生い立ちと家族|神戸で育ち、舞子高校から甲南大学へ

吉田寛さんは1979年12月15日生まれで、兵庫県神戸市垂水区の出身です。

学生時代は地元の兵庫県立舞子高等学校へ進み、その後は甲南大学を卒業しています。

のちに最初のコンビを組むことになる人物は高校時代の同級生で、芸人人生の入口には学生時代から続く人間関係がありました。

兵庫県神戸市垂水区で育ち、舞子高校へ

吉田さんの出身地は神戸市垂水区で、2010年に発売されたピーマンズスタンダードのDVDプロフィールでも、舞子高校から甲南大学へ進んだ経歴が紹介されています。

父親や母親、兄弟姉妹を含む幼少期の詳しい家族構成について、吉田さん自身が広く公表している情報は多くありません。

一方で、後年まで交流が続く高校時代の同級生がいたことは本人の話から分かっており、この友人が大学卒業後の進路を大きく動かすことになります。

甲南大学卒業時は就職氷河期、就職できず進路が止まる

甲南大学を卒業したころ、日本は厳しい就職環境にあり、吉田さんも就職先を決められないまま過ごしていました。

この時点では、芸人になることを以前から目標にしていたわけではありません。

「考えてなかったですね」

文春オンライン

大学を出たものの就職できずにいた時期、高校時代の同級生から「一緒にコンビをやろう」と声をかけられます。

就職という進路が止まっていたタイミングに、思いがけず「お笑い」という別の道が現れました。

高校同級生に誘われ、予定していなかった芸人の道へ

吉田さんは自分から相方を探して芸人になったのではなく、高校の同級生から誘われたことで大阪の松竹芸能の養成所へ入りました。

最初から順調だったわけではなく、養成所へ入ったあとの半年ほどは、なかなか笑いを取れなかったといいます。

大学卒業後、同級生と大阪松竹の養成所へ

吉田さんが高校の同級生と組んだ最初のコンビは「ブチネコ」という名前で活動していました。

大学卒業後まで会社員として働いた経験はなく、友人に誘われたところからそのままお笑いの世界へ入っていった形です。

松竹芸能の養成所ではネタを作り、人前に立ち、笑いを取る生活が始まりましたが、最初のころは結果が出ませんでした。

半年間ウケなかった養成所時代から、ライブと深夜番組へ

半年ほど苦戦したあと、少しずつ客席から笑いが返ってくるようになると、吉田さん自身も芸人として活動することが楽しくなっていきます。

ライブへ出演する機会が生まれ、関西ローカルの深夜番組でも漫才をするようになりました。

もともとは「やってみよう」くらいの感覚で始めた仕事でしたが、舞台に立つ機会が増えるにつれて、生活の中心がお笑いへ変わっていきました。

約1年で最初の相方が辞め、コンビ解消

芸人を始めて約1年が過ぎたころ、最初の相方から突然「辞めたい」と告げられます。

吉田さんによれば、相方が口にした理由は自動車の免許を取りに行くことで、芸人を続けながら教習所へ通えばいいと伝えても、相方は一つのことに集中したいと考えていました。

誘われて始めた側だった吉田さんだけが芸人として残ることになりましたが、その同級生とは関係が切れたわけではなく、後年も地元へ帰ると飲みに行く仲が続いています。

ここで芸人を辞めることもできましたが、吉田さんには「ここで辞めたら悔いが残る」という思いがありました。

養成所で出会ったみなみかわを誘い、ピーマンズスタンダード結成

最初のコンビが終わった吉田さんが次の相方として考えたのが、同じ大阪松竹の養成所にいたみなみかわさんでした。

現在の印象とは違い、当時のみなみかわさんは周囲とあまり群れず、先輩に対しても辛辣な言葉を口にすることがある若手だったと吉田さんは覚えています。

3か月後輩のみなみかわとは、競馬新聞のバイトを紹介される関係だった

当時の大阪松竹の養成所は3か月ごとに入所する仕組みで、みなみかわさんは吉田さんより3か月後輩として入ってきました。

みなみかわさんは大勢で食事へ行くような付き合いを避けることがあった一方、吉田さんとは比較的交流がありました。

その一つが、競馬新聞「競馬ブック」を梅田や難波などの売店へ運ぶアルバイトです。

吉田さんの回想では、5か所ほどを回り、1時間半ほどで仕事が終わるアルバイトで、みなみかわさんから紹介してもらいました。

ところがそのころのみなみかわさん自身は、芸人を続けることに積極的ではなく、東京へ行って放送作家になることを考えていました。

「断られたら辞める」覚悟で何度も誘い、2005年にコンビ結成

ピン芸人になる姿を思い描けなかった吉田さんは、近い世代の芸人を見渡し、一緒に組みたい相手を考えました。

そこで残ったのがみなみかわさんでした。

「僕が面白いと思えるのがみなみかわだけやったんです」

文春オンライン

最初の誘いは断られましたが、それで終わりにはせず、吉田さんは何度も頼み続けました。

みなみかわさんに断られたら、自分も芸人を辞めるつもりで声をかけていました。

みなみかわさんが最終的に誘いを受け、2005年7月にピーマンズスタンダードを結成します。

結成3日目、OCATのネタ合わせですでに大げんか

二人のコンビ生活は、最初から穏やかなものではありませんでした。

結成してわずか3日ほどのころ、難波のOCATにある広場でネタ合わせをしていたときのことです。

当時ボケを担当していた吉田さんが「ここはこうツッコんでほしい」と注文を出すと、みなみかわさんが広場に響くほどの大声で反発しました。

近くでは若いダンサーたちが音楽を流して練習していましたが、その声で踊るのを止めて振り返ったほどだったと吉田さんは話しています。

二人の間には結成直後から衝突がありましたが、その状態のまま十年以上コンビを続けていきます。

「ピーマンズスタンダード」として大阪の舞台へ

ピーマンズスタンダードでは吉田さんが主にボケ、みなみかわさんがツッコミを担当し、漫才を軸に舞台へ立っていました。

二人は大阪で活動しながら東京進出も考えるようになり、事務所へ上京したいと申し出ていました。

しかし、当初は目立った実績がないことを理由に簡単には認められず、まず大阪で結果を出す時間が続きます。

大阪時代、アイヒマンスタンダードの人気が上京への道を開く

コンビの流れを変えたのは、吉田さんではなく、みなみかわさんが一人で披露したネタでした。

しかも、そのネタが生まれるきっかけには吉田さん自身の欠席が関係しています。

吉田の欠席から生まれた「韓国のバックダンサー」ネタ

松竹芸能の若手が多数出演する年末のイベントで、吉田さんは舞台を休んでしまいました。

コンビに割り当てられていた時間を一人で埋めることになったみなみかわさんは、近くの店で大きなサングラスを買い、短時間で「韓国のバックダンサー漫談」を作ります。

これが客席に受け、やがて「アイヒマンスタンダード」というキャラクターへ育っていきました。

R-1準決勝と『あらびき団』出演で相方が先に注目される

アイヒマンスタンダードはR-1ぐらんぷりの準決勝まで進み、その舞台を見た『あらびき団』のスタッフから出演の声がかかりました。

番組に出演するとキャラクターが注目され、「ピーマンズスタンダード」より先に「アイヒマンスタンダード」の名前が芸人仲間にも知られていきます。

営業の依頼が入ると、みなみかわさんはコンビの仕事として吉田さんも現場へ連れていきました。

ただ、客席が期待しているのはアイヒマンスタンダードで、みなみかわさんのピンネタが受けても、二人の漫才では空気が変わることがありました。

吉田さんは後年、当時は相方への嫉妬が勝ってしまい、アイヒマンスタンダードのネタ中に舞台の端で冷ややかに見ていたこともあったと振り返っています。

相方の成功はコンビの上京を後押しする一方で、二人の間には新しい複雑さも生まれていました。

以前から希望していた東京進出が実現

二人はアイヒマンスタンダードが注目される以前から東京進出を希望していましたが、事務所からは実績が足りないと止められていました。

『あらびき団』で相方の名前が知られるようになると、再び上京を申し出て、ようやく大阪から東京へ活動の場を移します。

東京ではピーマンズスタンダードを知らない芸人からも「アイヒマンスタンダードのコンビだったのか」と認識してもらえるようになり、相方のピン活動が新天地での入口にもなりました。

東京で何度も訪れた「売れるかもしれない」瞬間

東京へ出たあと、ピーマンズスタンダードにもコンビとしてテレビで結果を残す機会が訪れます。

しかし、仕事が一気に定着するところまでは届かず、チャンスと停滞を繰り返しました。

「モヤモヤするねん!」でレッドカーペット賞を2週連続獲得

二人が漫才で使っていた「モヤモヤするねん!」というフレーズをショートネタにして『爆笑レッドカーペット』のオーディションへ持っていくと、すぐに収録へ呼ばれました。

さらに、その回で選ばれるレッドカーペット賞を2週連続で獲得します。

コンビとして全国放送で結果を残した大きなチャンスでしたが、番組自体が終盤を迎えていたこともあり、そこから急激に仕事が増えることはありませんでした。

海外過酷ロケへ抜擢されるも、有吉弘行の一言で現実へ

次に訪れたのが、マツコ・デラックスさんがMCを務めたフジテレビ系『(株)世界衝撃映像社』でした。

世界各地で過酷な映像を撮影するレポーターのオーディションを受けたところ、ピーマンズスタンダードも出演者に選ばれます。

周囲にはすでにテレビで活躍していた芸人が並び、芸人仲間からも「売れましたね」と声をかけられ、二人自身も仕事が大きく変わる感覚を持っていました。

半年ほど海外を回りながら撮影を続けましたが、番組は終了します。

最後のスタジオ収録では、海外から戻った二人が華々しく迎えられましたが、そこで有吉弘行さんから知名度について厳しい一言を向けられました。

自分たちは「売れた」と感じていた一方、世間ではまだほとんど名前が知られていないという現実に直面しました。

ライブとオーディションを続けた長い停滞期

そこから二人は、ライブに出演しながらオーディションを受け続ける生活へ戻ります。

吉田さんの記憶では、このあと大きな変化がない期間が約7年続きました。

テレビへの露出が少ない間もコンビ活動そのものが止まったわけではなく、2014年2月には松竹芸能 新宿角座で4年ぶりの単独ライブ「マブ」を開催しています。

当日は東京23区に大雪警報が出るほどの天候でしたが、開演から約30分後には客席がほぼ埋まり、漫才とコントを披露しました。

2015年には「マブ3」まで単独ライブが続き、テレビで大きく名前が広がらない時期にも劇場でネタを続けています。

さらに2016年7月にはTBSラジオ『マイナビ Laughter Night』で月間チャンピオンとなり、2017年のM-1グランプリでは準々決勝まで進みました。

賞レースやライブで結果を残しながらも、テレビの仕事が継続的に増えるところまでは届かない時間が続いていました。

システマで再びテレビへ|それでも仕事は定着しなかった

長い停滞のあと、再びテレビへの入口を作ったのもみなみかわさんでした。

今度の武器は、ロシアの武術「システマ」です。

約7年後、みなみかわのシステマで再びバラエティ出演が増える

みなみかわさんがシステマを習得し、呼吸法を使った「痛みを感じない」というネタがバラエティ番組で注目されると、コンビにも再びテレビ出演の機会が増えていきました。

吉田さんにとっては、レッドカーペット賞、海外ロケに続く3度目の「売れるかもしれない」時期でした。

本人は芸人引退後のインタビューでも、レッドカーペット、海外過酷ロケ、システマが、それぞれ売れる可能性を感じた出来事だったと挙げています。

「自分はここまでだったか、やりきった」

芸人ネクスト

番組出演が一巡すると再びライブ中心の生活へ

システマが受けたことで複数の番組へ出演し、それぞれの現場でも笑いを取ることができたため、二人は今度こそ仕事が継続するかもしれないと感じていました。

ところが一通り番組へ出演するとオファーは減り、再びライブ中心の日々に戻ります。

何度目かのチャンスが終わったところで、コンビをこのまま続けるのかという問題が現実的になりました。

ピーマンズスタンダードの解散理由|1年半続けた末に吉田寛が芸人引退

ピーマンズスタンダードは2019年2月に解散しましたが、決定は突然その日に生まれたものではありません。

システマで仕事が増えたあと再び状況が落ち着く中、みなみかわさんから吉田さんへコンビの今後について話がありました。

みなみかわから「一人でやりたい」と解散を切り出される

長く売れない時期が続き、コンビとして煮詰まった感覚がある中で、みなみかわさんには第二子が生まれる時期も重なっていました。

吉田さんによると、みなみかわさんは家族を養うことも考え、コンビを解散して自分一人で活動してみたいという考えを伝えました。

一方の吉田さんは、ピン芸人ではなくコンビという形で芸人を続けたい気持ちを持っていました。

吉田はコンビ継続を望み、約1年半引き留める

最初に解散を切り出されたとき、吉田さんはすぐには受け入れませんでした。

みなみかわさんを説得し、そこから約1年半、ピーマンズスタンダードを続けます。

その間に仕事の状況が変われば、二人で続けられる可能性もありました。

しかし、思うように仕事が増えないまま再び解散の話が出て、吉田さんも最終的に受け入れました。

「不仲」だけでは説明できない13年間と解散

二人の仲が良くなかったこと自体は、吉田さん本人も否定していません。

結成3日目のOCATでの衝突から始まり、舞台外では距離のある時期が長く続いていました。

それでも「不仲だったから突然解散した」とだけ捉えると、実際の経緯とは違います。

最初の解散提案から実際の解散までには長い猶予があり、吉田さんはコンビを続けるためにみなみかわさんを説得しています。

「相方の幸せを思うくらいの仲の良さはあります」

デイリースポーツ

これは解散時にみなみかわさんが残した言葉で、数え切れないほどけんかをしたことにも触れながら、13年間一緒に活動した相方について語っています。

コンビ仲の問題に加え、長く仕事が安定しなかったこと、家族を持つ時期が重なったこと、一人で活動したいというみなみかわさんの意思が解散までの流れにありました。

39歳、新しい相方を探さず芸人を辞める決断

解散時、吉田さんは39歳でした。

新しい相方を探して一からコンビを作る選択肢もありましたが、当時の吉田さんにはそこまで自分を奮い立たせることができなかったといいます。

さらに2019年1月には吉田さん自身にも第一子が生まれていました。

妻から芸人を辞めるよう求められたわけではありませんでしたが、40歳を前にした年齢と家族の変化も重なり、人生をいったん仕切り直すことを考えます。

ピーマンズスタンダードの解散と同時に、約15年続けた芸人生活そのものを終えることを決めました。

「私事ですが吉田は芸人を辞める事に決めました」

ORICON NEWS

松竹芸能も2019年2月6日に解散を正式発表し、みなみかわさんはピン芸人として活動を続け、吉田さんは芸能界を離れて別の道へ進むことを公表しました。

39歳でADから再出発|テレビに出る側から作る側へ

芸人を辞めることを決めた吉田さんには、配送やパソコン入力、当時アルバイトをしていたたこ焼き店など、複数の働き口から声がかかりました。

その中で選んだのは、15年間いたテレビ・芸能の世界と完全には離れない仕事でした。

解散の挨拶がきっかけで制作会社へ就職

芸人引退を決めた吉田さんは、それまで世話になったスタッフや関係者へ一人ずつ連絡していました。

その中に、以前BSのレギュラー番組で世話になった制作会社の社長がいました。

解散の挨拶をすると「うちで働くか」と声をかけられ、吉田さんは2019年3月からテレビ番組制作会社のADとして働き始めます。

39歳まで会社員経験がなく、自分のパソコンすら持ったことがなかった吉田さんにとって、まったく違う働き方のスタートでした。

それでもテレビ制作を選んだ背景には、芸人として積み上げた人間関係を失いたくない気持ちと、テレビそのものへの思いがありました。

「テレビという大きな枠組みの中にはいたい」

芸人ネクスト

テレビに出る立場を終えても、テレビそのものから離れることは選びませんでした。

パソコン経験も乏しい状態からADになり、1年目に仕事を飛ぶ

ADになると、ロケの準備、撮影許可、収録、編集、機材など、芸人時代には担当していなかった仕事を一度に覚えなければなりませんでした。

2019年の転職直後には、自分のパソコンをそれまで持ったことがなかったとも話しています。

さらに社会人としての仕事の進め方にも慣れておらず、メモを取らずに注意されるなど、39歳で新人として働く難しさを経験しました。

AD1年目には仕事がつらくなり、携帯電話の電源を切って2日間出社しなかったこともあります。

それでも「戻っておいで」と声をかけてくれた先輩がいて、頭を冷やした吉田さんは3日目に会社へ戻りました。

戻った日の夜には、先輩から「飛んだADがその日の飲み会に来たら面白い」と誘われ、本当に社長たちがいる店へ向かっています。

店へ入った瞬間は全員が固まったものの、先輩が自分が呼んだと説明すると場が和み、吉田さんはその後も会社に残りました。

芸人時代にはなかった「39歳の新人」としての生活を、辞めずに続けました。

ADからAPへ、芸人時代の経験が制作現場で生き始める

吉田さんはADを3年間経験したあと、会社の社長から勧められてAP、アシスタントプロデューサーの仕事へ移っていきました。

2024年の日刊SPA!の取材時点では株式会社ディ・コンプレックスでAPを務め、『坂上&指原のつぶれない店』などを担当していました。

AD時代の現場業務から、APとしてタレントの楽屋入りや出演者との調整に関わる立場へ仕事も変わっています。

芸人時代の知り合いが番組へ出演するときには、長く同じお笑い界にいた経験も生きるようになりました。

2026年に公開されたインタビューでは、昔から知るさらば青春の光・森田哲矢さんが、自分の携わる番組へ出演したことを喜んでいます。

現在はディ・コンプレックスのプロデューサーとしてテレビ制作へ

その後も制作の仕事を続け、現在は本人の公式Xプロフィールで株式会社ディ・コンプレックスのプロデューサーとしています。

かつて舞台で隣に立っていたみなみかわさんは、ピーマンズスタンダード解散後にピン芸人として活動を広げました。

吉田さんは一時期、「もし解散していなかったら」と複雑に感じることもあったものの、みなみかわさんが売れ始めたのはピンになった結果でもあると受け止めています。

「もっともっと売れてくれ!」

日刊SPA!

就職氷河期に偶然始まった芸人人生は、39歳で終わりましたが、吉田さんはその後もテレビの世界そのものから離れませんでした。

高校の同級生に誘われて大阪の養成所へ入り、みなみかわさんを自分から何度も誘ってピーマンズスタンダードを結成し、何度もブレイクの入口まで進んだ15年間がありました。

現在は舞台に立つ芸人ではなく、番組を作るプロデューサーとして、テレビに関わり続けています。

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