ななまがり森下直人の生い立ちと家族|芸人を志した少年時代と初瀬悠太との出会い

人物プロフィール

本名
森下直人
生年月日
1986年5月20日
身長
168.5cm
血液型
O型
出身地
神奈川県 横浜市
コンビ・グループ名
ななまがり
相方・メンバー
初瀬悠太
結成年
2008年
所属事務所
吉本興業
芸人活動開始年
2008年

一度聞くと頭に残る言葉や、どこから生まれたのか分からない架空の人物を次々と繰り出すななまがり・森下直人さん。

コントでは予測できない発想を見せ、テレビではそのままのキャラクターでも存在感を放っています。

ところが、その歩みを子ども時代まで戻してみると、最初のきっかけは夜に寝室から襖を少し開け、両親が見ていたテレビをこっそりのぞいたことでした。

芸人になりたいと思い続けながら、友人にはその夢を言えなかった高校時代を経て、横浜から大阪へ向かいます。

そこで出会ったのが、後に長くコンビを組むことになる初瀬悠太さんでした。

森下さんがどんな家庭で育ち、なぜ芸人を目指し、ほとんど話したこともなかった初瀬さんと「ななまがり」を作ることになったのか、幼少期から順番にたどっていきます。

森下直人の生い立ちと家族|横浜でテレビをのぞき見した少年時代

森下直人さんは1986年5月20日生まれで、吉本興業の公式プロフィールでは神奈川県横浜市出身とされています。

本人が後年語った昔の話には、父親、母親、兄が登場しており、両親と過ごしていた子ども時代の一場面から、お笑いへの興味が具体的な夢へ変わっていきました。

横浜で育ち、8〜9歳で「めちゃモテ」に引き込まれる

森下さんがお笑いの世界を意識したのは、まだ8〜9歳ほどだったころです。

子どもだった森下さんは夜になると先に寝かされていましたが、隣の居間では両親がテレビを見ていました。

眠るよりもそちらが気になり、襖を少し開けてこっそり見ていた番組が、後の『めちゃ×2イケてるッ!』につながる『めちゃ×2モテたいッ!』でした。

「俺、この人たちになろう!」

MEN’S NON-NO WEB

テレビを見て面白いと思っただけではなく、自分も画面の向こう側へ行くと、このころに決めています。

1993年にJリーグが始まった際には名古屋グランパスを応援すると決め、それ以降も長く追い続けていると話しており、幼いころから一度興味を持ったものを長く追いかけるところがありました。

父・母・兄がいる家族と、お笑いへの最初の憧れ

森下さんの昔を振り返る発言には、両親だけでなく兄も登場します。

2025年には子どものころからぬいぐるみが好きだったことを明かし、思春期には家族の前でその気持ちを隠していた時期もあったと話しています。

兄がクレーンゲームで犬のぬいぐるみを取ってきたときも、表向きは興味のないふりをしながら、誰もいないところでかわいがっていました。

大学進学で実家を離れた後、帰省した際にそのぬいぐるみを探すと、甥へ譲られていたことを知ったというエピソードも残っています。

家では好きなものをすべて表に出すタイプではなかった一方、テレビで見たお笑いへの憧れは消えず、そのまま中学、高校へ進んでいきました。

中学・高校時代|人を笑わせながら芸人志望は友達に言えなかった

お笑い芸人になりたいという思いを持ちながら、森下さんは学校では周囲を笑わせる側に回っていました。

ただし、自分の面白さには強い自信を持っていた一方で、芸人になりたいという夢を同級生へ堂々と話していたわけではありません。

中学・高校1、2年ではクラスで笑いを取り、3年で自信を失う

ななまがり結成から間もない2009年のインタビューで、森下さんは中学校、高校ともに1、2年生のころはクラスでよく笑いを取っていたと話しています。

ところが、3年生になるとそれまでの勢いが落ち、自分でも「急にへたれる」と表現する時期がありました。

子どものころから芸人への憧れは続いていましたが、高校卒業が近づいたころには「自分にはなれないのではないか」と、一度自信を失っています。

後に初瀬さんと実際に舞台へ立ち、放送作家のかわら長介さんが開いていた魁塾へ通うようになったことで、その気持ちは再び変わっていきます。

「お笑い芸人になろう!」

インタビューwithキタイ花ん

「自分が日本一おもしろい」と思う一方、芸人の夢は友人に隠した

高校時代の森下さんは、本人の言葉では自分が日本一面白いと本気で思っていたほど自信を持っていました。

一方で、芸人になりたいことは友人へ言えませんでした。

当時はやんちゃな友人たちにいじられ、そこから笑いが生まれることも多く、「お前が面白いのではなく周りのおかげだ」と言われることを恐れていたからです。

自信があるからこそ、芸人志望と宣言した後に普段の一言一言まで評価されることも気になっていました。

親には芸人になりたいと伝えていますが、こちらは反対されます。

友人には言い出せず、両親からは反対された状態で、森下さんは「大阪へ行く」という進路を考え始めました。

高校2年で「芸人になる方法」を調べ、初めてネタ作りを知る

意外なのは、幼いころから芸人を目指していながら、森下さんがお笑いの仕組みに詳しかったわけではないことです。

好きだったのはテレビのバラエティ番組で、高校2年生ごろまでは漫才やコント、ネタ作りについてほとんど知りませんでした。

芸人になる方法を調べ始めてから、相方を見つけてネタを作り、舞台へ立つという入口を具体的に知ります。

ただ、すぐにNSCへ進むことには抵抗がありました。

そこで思い浮かべたのが、テレビ演出家として知っていた「ヘイポー」こと斉藤敏豪さんでした。

経歴を調べるうちに大阪芸術大学の存在を知り、芸人が難しかった場合はテレビ制作側へ進む道も残せると考えます。

欠席0・遅刻240回だった高校生活

2026年には、高校時代の生活を示す別の数字も本人の口から明かされました。

朝起きることが昔から苦手だったという話の中で、高校時代について欠席はしなかったものの、遅刻回数は240回だったと語っています。

「欠席は0なんですけど、遅刻が240回」

デイリースポーツ

朝が苦手な状態は大人になっても続き、後には早朝の仕事がある森下さんを初瀬さんが電話で起こすこともあると明かされました。

大阪芸術大学へ|NSCではなく放送学科を選んだ理由

高校卒業が近づくと、子どものころから抱えていた芸人への憧れを、現実の進路へ落とし込む時期がやってきます。

森下さんが選んだのは、養成所へ直接入る道ではなく大阪芸術大学放送学科でした。

両親の反対を受けながら、横浜を離れて大阪へ

森下さんは親へ芸人になりたい意思を伝えていましたが、すんなり認められたわけではありません。

そこで、お笑いの本場である大阪へ行けば、横浜にいる家族や友人から距離を置いた状態で挑戦できると考えました。

横浜を離れて大阪へ進学することが、森下さんにとって芸人になるための最初の大きな行動になりました。

テレビ業界への道も残すため大阪芸術大学放送学科を選ぶ

大阪芸術大学を選んだ理由には、芸人だけに進路を絞り切っていなかったことも関係しています。

放送学科であればテレビ業界への就職も考えられ、もし自分に芸人が向いていなかった場合にも大学卒業という選択肢が残ります。

芸人になる自信と、うまくいかなかった場合への不安を両方抱えたまま大阪へ向かいました。

18歳の一人暮らしで起きた出来事が「自宅で食事できない」生活へ

大阪へ出た18歳ごろ、森下さんは初めて一人暮らしを始めました。

この最初の部屋はかなり汚れた状態になり、その経験から森下さんの中に「自宅は汚い場所」という感覚が残ることになります。

その後は自宅へ食べ物を持ち込むこと自体が気になり、長年にわたって家で食事を取ることが難しい状態が続きました。

2026年にもABCテレビの企画で「家飯チャレンジ」が行われるほど長く続いているエピソードで、18歳当時の一人暮らしまでさかのぼります。

落研・アメフト・ブレイクダンスから落研を選ぶ

大阪芸術大学へ入った森下さんは、最初から落語研究会だけに絞っていたわけではありません。

落語研究寄席の会、アメリカンフットボール部、ブレイクダンスサークルに入り、その中で最も自分に合った落研へ残りました。

同じ落研には1学年上にミルクボーイの駒場孝さん、内海崇さんがいました。

後に空気階段を結成する鈴木もぐらさんも同じ場所へ入り、大阪芸術大学の落研から複数のお笑い芸人が生まれていきます。

初瀬悠太との出会い|一斉メールへの唯一の返信からコンビへ

大学へ進んだことで、森下さんの人生に初瀬悠太さんが現れます。

ただし、出会ってすぐに意気投合した二人が自然にコンビを組んだという関係ではありませんでした。

B系ファッションの森下と、ほとんど話したことがなかった初瀬

大学入学当時の森下さんは、現在とはかなり違う格好をしていました。

B系のキャップにダボッとしたパーカーとパンツを合わせ、ピアスを着け、髪は茶色のウルフカットでした。

初瀬さんはそんな森下さんを見て、チャラそうで自分とは話が合わなそうだと感じていました。

森下さんのほうは初瀬さんの顔立ちが印象に残っていましたが、この段階では二人が特別に仲の良い友人だったわけではありません。

森下のコンビ募集メールに初瀬だけが返信

関係が動いたのは、森下さんが自分から相方を探したときでした。

落研の同学年へ、お笑いライブに出るため一緒にコンビを組まないかというメールを一斉に送ります。

そこへ返信したのが初瀬さんただ一人でした。

普段ほとんど話していなかった二人が、誰も返信しなかった一通の募集メールをきっかけにネタを作り始めます。

2009年のインタビューでは、森下さんがM-1へ出たいと考えてメンバーへ声をかけ、初瀬さんがそこへ応じたことも語られています。

最初の漫才は受けず、「コントって何?」から流れが変わる

二人が最初に始めたのは漫才でした。

ところが、落研の仲間の前で披露しても思うように笑いが起きず、先輩だったミルクボーイも当時の漫才がうまくいっていなかったことを覚えています。

ネタ作りに行き詰まったある日、森下さんが意味の分からない言葉を突然叫び、それを聞いた初瀬さんが笑いました。

そこで初瀬さんが「コントなら合うのではないか」と考えますが、森下さんはその時点でもコントがどういうものか十分理解していませんでした。

教えてもらいながら思いつくまま作ったコントを披露すると、それまでと違って笑いが起きます。

「コントをやり出した瞬間、みんながおもろいって言い出して」

TV Bros. WEB

漫才で苦戦していた二人は、森下さんの予測しづらい発想を生かせるコントを見つけたことで大きく変わりました。

インディーズライブ優勝とM-1、魁塾を経て芸人になる決意が固まる

大学3年生ごろになるとコントで反応を得られるようになり、二人は大阪のインディーズライブへ出始めます。

吉本の劇場オーディションを目指す芸人も出るレベルのライブで、ななまがりは出場2回目にして優勝しました。

もともと芸人になると決め切っていなかった初瀬さんも、ライブで結果が出始めたことで気持ちが変わります。

森下さんは初瀬さんが就職してしまうのではないかと内心気にしていましたが、初瀬さんから芸人としてやっていく意思を聞き、二人の進路が同じ方向へそろいました。

森下さん自身も、初瀬さんとのM-1出場やかわら長介放送作家魁塾で学んだ経験を重ねる中で、一度失っていた自信を取り戻していきました。

2008年11月にななまがり正式結成、コンビ名は辞書から偶然決まった

学生時代から二人で舞台へ立っていましたが、吉本興業とM-1グランプリの公式記録でななまがりの結成年月は2008年11月となっています。

コンビ名にも大げさな由来はありません。

辞書を適当に開き、指を置いた項目を名前にしようと決めて出てきた言葉が「ななまがり」でした。

後にテレビで何度も名前を呼ばれることになるコンビ名は、大学時代のそんな決め方から生まれています。

大学在学中に吉本の劇場へ|若手時代は舞台と夜勤を往復

コンビを組んで結果が出始めると、二人は大学を卒業してから動くのではなく、在学中のまま吉本の劇場へ挑戦しました。

ここから学生お笑いだった活動が、仕事として舞台へ立つ生活へ移っていきます。

大学4年で吉本の劇場オーディションに合格

インディーズライブでの優勝後、ななまがりは吉本の劇場オーディションを受け、2008年に合格しました。

大阪では多数のコンビがオーディションへ参加し、合格した後も劇場内のバトルで順位を上げなければなりませんでした。

二人にとっては劇場へ入ることより、入ってから上位へ進む期間のほうが長くなります。

大学生活とネタ作り、劇場出演が同時に進む若手生活が始まりました。

2012年に劇場上位へ上がっても、芸人収入だけでは暮らせなかった

ななまがりが劇場の上位メンバーまで上がったのは2012年です。

当時はかまいたち、天竺鼠らの名前が並ぶ劇場で、そこにななまがりも加わりました。

舞台の仕事は多く、休みが少ないほど出演していた一方、森下さんによれば当時の収入は月10万円ほどでした。

昼は劇場へ出てネタを作り、先輩と過ごし、アルバイトができる時間は夜になります。

劇場の上位メンバーになっても生活費を芸人の仕事だけで賄えず、夜勤を続ける日々が残っていました。

2014年の5up卒業単独を最後に大阪時代を終える

2014年2月27日には、5upよしもとで卒業単独ライブ「ななまがりの惜しまれ卒業単独」を開催しました。

この公演はVTRや企画コーナーを挟まず、30分間を二人のコントだけで構成しています。

劇場の上位まで進んだ二人でしたが、若手メンバーの卒業によって大阪でこれまでと同じように舞台へ立ち続けることが難しくなりました。

そこで次に選んだ場所が東京でした。

2014年に東京へ|知られない状態からもう一度始まった下積み

大阪で劇場の上位まで進んだ実績はありましたが、東京へ移れば同じ位置から始められるわけではありませんでした。

森下さん自身が後に振り返っているように、2014年には住居を東京へ移しています。

すゑひろがりず南條とのルームシェアから始まった東京生活

森下さんが東京で初めて住んだ家では、すゑひろがりずの南條庄助さんとルームシェアをしていました。

東京へ出た後はライブが一緒になるたびに食事へ行き、しばらく会わなければ夜中にファミリーレストランへ集まるほど親しくなります。

ななまがりとすゑひろがりずはユニットライブ「地獄変」も始め、その関係はそれぞれが一人暮らしを始めた後も続きました。

劇場仕事が減り、大宮の舞台でも結果を出せない日々

大阪では名前を知る客やスタッフがいた二人も、東京では知られていない状態に戻りました。

すぐにテレビ出演が増えることもなく、劇場の仕事も減ったため、再びアルバイトをする時間が増えていきます。

大宮の劇場ではルミネtheよしもとの出演枠を争うバトルへ参加しましたが、なかなか勝ち上がれませんでした。

大阪で劇場上位まで進んだ経験が、そのまま東京での仕事へ変わることはありませんでした。

キングオブコント2016決勝で周囲からの見られ方が変わる

東京で最初に手応えを感じた出来事として、初瀬さんはキングオブコントの準決勝進出を挙げています。

大阪時代は準々決勝までだった大会で一つ先へ進めたことが、東京で活動を続ける中で自信になりました。

そして2016年、ななまがりはキングオブコント決勝へ進出します。

決勝進出直後に仕事が一気に増えたわけではありませんが、森下さんはスタッフからの見られ方が変化したことを後年語っています。

東京へ移ってから数年を経て、キングオブコント2016がプロの現場で二人への評価を動かす一つの出来事になりました。

2017年ルミネ単独を父が見て、芸人活動への考えが変わる

東京で少しずつ状況が変わり始めたころ、森下さんの家族にも一つの出来事がありました。

森下さんは2017年のルミネtheよしもとでの単独ライブに、初めて父親ら家族を招きます。

当時、母親は闘病中だったため会場には来られず、後にDVDで公演を見ました。

森下さんはそれまで知らなかったものの、父親は息子が芸人を続けることに長く反対しており、母親へ「就職させたほうがいい」という思いを話していたといいます。

しかし、満員となったルミネの客席で息子のネタを実際に見たことで、父親の受け止め方が変わりました。

「父も芸人として応援してくれるようになりました」

ななまがり 森下 note

母親はその後亡くなっていますが、森下さんがルミネで単独公演を開く姿はDVDを通して見ることができました。

テレビで知られる転機|新元号企画からR-1決勝へ

キングオブコント決勝後も、ななまがりがすぐ全国的な知名度を得たわけではありません。

コント以外の森下さん自身の言動が番組の中で面白がられる機会が増え、ネタとは別の形でも二人の名前が広がっていきます。

2019年「新元号当てるまで脱出できない生活」で全国へ

大きな転機となったのが、2019年5月8日に『水曜日のダウンタウン』で放送された「新元号を当てるまで脱出できない生活」でした。

二人は新元号が発表される前から外部の情報を遮断された場所へ入り、「令和」を当てるまで脱出できない企画へ挑戦しました。

ヒントをもとに二人で新元号を推理し、「歯姫」「麦福」「笑国」など独特な候補を次々と出していく過程そのものが放送の中心になりました。

この回はギャラクシー賞2019年5月度月間賞に選ばれています。

ななまがりのネタを知らなかった視聴者にも、森下さんの発想と二人の関係性が長時間映る企画になりました。

ネタ以外の森下のキャラクターがテレビでも評価され始める

二人が後に転機として挙げている番組の一つに、ABEMA『チャンスの時間』があります。

ドッキリ企画の中で森下さんの普段の言動がそのまま笑いになり、オンエアを見た二人は、コントの設定から離れた場所でも森下さんのキャラクターが受け入れられることを知りました。

2020年以降、観覧客を入れない収録が増えた時期にも変化がありました。

ななまがりは以前から芸人仲間にネタを評価されることが多く、客席の反応がない収録では出演者同士の笑いがそのまま番組に乗るようになります。

先輩芸人から面白がられる場面が増え、それをきっかけにテレビへ呼ばれる機会も増えていきました。

2020年R-1決勝と、アルバイト生活の終わり

2020年には森下さん個人でもR-1ぐらんぷりのファイナリストになりました。

コンビとしてキングオブコント決勝を経験した後に、今度はピンで全国放送の決勝へ進んだことになります。

一方、大学在学中から続いていたアルバイト生活にも、このころようやく区切りがつきました。

初瀬さんは2023年のインタビューで、アルバイトを辞められた時期について「2020年くらい」と振り返っています。

2008年に劇場へ入り、2012年には大阪で上位メンバーになり、東京へ移った後も続いていた仕事との掛け持ちは、10年以上を経て終わりました。

コントから漫才へ広がった現在|THE SECOND決勝まで

ななまがりの出発点をたどると、漫才でうまくいかず、大学時代にコントへ切り替えたことで二人の形が見つかっています。

その後は長くコントを中心に活動してきましたが、芸歴を重ねた後にもう一度漫才へ力を入れるようになりました。

2022年から「ななまつり」で大量の新ネタを作る

2022年から始めた大規模な単独ライブが「ななまつり」です。

初年度は「玄武」「青龍」「朱雀」「白虎」の4公演を行い、それぞれ異なるネタを披露しました。

コントだけでなく漫才も含め、年間で大量の新作を作るスタイルがその後も続いています。

大学時代からネタの発想を担ってきた森下さんと、似たネタになっていないか細かく確認する初瀬さんという関係も変わっていません。

M-1準決勝を経て、漫才にも本格的に取り組む

ななまがりは結成当初に漫才からスタートしていましたが、長く活動の中心にあったのはコントでした。

それでもM-1グランプリでは2022年、2023年と準決勝まで進み、敗者復活戦にも出場しています。

大学時代には身内すらなかなか笑わなかったという漫才で、結成15年近くを経て大きな賞レースの終盤まで残るようになりました。

2024年30-1優勝とTHE SECONDグランプリファイナル

2024年には『水曜日のダウンタウン』の30-1グランプリで優勝し、さらに漫才賞レース『THE SECOND~漫才トーナメント~』でもグランプリファイナルへ進出しました。

ノックアウトステージではロビンフットを274点対268点で破り、8組が出場する最終日の舞台へ進みます。

「テレビで6分も漫才ができるなんて、人生初なんですよ」

フジテレビ「THE SECOND」

グランプリファイナル1回戦ではタモンズと対戦し、ななまがり268点、タモンズ269点という1点差で敗れました。

大学時代に漫才で笑いを取れずコントへ移った二人が、16年後には全国生放送の漫才賞レースで1点差の勝負をするところまで進みました。

2025年KOC準決勝、2026年も新ネタ28本の単独公演を続ける

コントでの挑戦も終わっておらず、ななまがりはキングオブコント2025で準決勝へ進出しました。

2026年4月には北沢タウンホールで「ななまつり 二〇二六」を開催しています。

「地」「水」「火」「風」の4公演すべてで内容を変え、1公演7本ずつ、合計28本の新ネタを用意する形式でした。

8〜9歳でテレビの向こう側へ行きたいと思った少年は、大学で偶然初瀬さんと組み、今も毎年大量の新しいネタを作り続けています。

最初からコントを知っていたわけでも、最初の漫才が受けたわけでもなく、吉本の劇場へ入った後も長く夜勤を続けました。

一斉メールへただ一人返信した初瀬さんとのコンビは2008年から続き、コントで形を見つけ、東京でやり直し、現在は漫才でも大きな舞台へ進むようになっています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA