人物プロフィール
『キングオブコント2023』で準優勝し、カゲヤマの名前を一気に広めた益田康平さん。
舞台では身体を大きく使ったコントを演じ、現在はテレビや劇場だけでなく、実家を舞台にした「益々荘」の活動でも知られています。
ところが、益田さんが子どものころに思い描いていた将来は芸人ではなく、サッカー選手になることでした。
大学では法政大学の強豪サッカー部へ自ら直談判し、就職活動まで進んだ末、中学時代からの友人だったタバやん。の誘いでお笑いの世界へ入っています。
安定した就職という進路からNSCへ方向を変えたあとも、すぐに売れたわけではありませんでした。
ここからは、東京都練馬区で過ごした少年時代から、相方との出会い、法政大学時代、芸人になる決断、15年間続いた清掃のアルバイト、そしてキングオブコントで大きく状況が変わるまでを順番にたどります。
益田康平の生い立ちと家族|練馬でサッカー選手を夢見た少年時代
益田康平さんは東京都練馬区で育ちました。
後に芸人仲間が住むことになる実家も練馬区にあり、父親と母親は、芸人になるという進路をめぐって後に大きく関わることになります。
ただ、子どものころの益田さんの関心はお笑いよりもサッカーへ向いていました。
幼稚園からサッカーボールを蹴り、将来はサッカー選手を目指す
サッカーを始めたのは幼稚園のころで、本人は後年、幼いころからプロになることを考えていたと話しています。
「ボクはずっと『サッカー選手になりたい』と思っていたんです」
マイナビニュース
中学校で所属したサッカー部は、東京都でベスト4に入るほどの強豪でした。
強いチームに入ったものの、益田さん自身はレギュラーには入れず、主にベンチで試合を見ていました。
強豪チームの中で試合へ出られない時間を過ごしていたころ、後の相方となるタバやん。と出会います。
中学でタバやん。と衝撃の初対面、強豪サッカー部のベンチ仲間に
2人は中学校の同級生でした。
友人を通じて初めて顔を合わせた際、工作をしていたタバやん。が、持っていたハサミを見せながら益田さんへ突然声をかけたといいます。
「乳首切っていい?」
smart Web
益田さんも引き下がらず服を脱ごうとし、最終的には一緒にいた友人が止めたという、現在の2人らしい出会い方でした。
サッカー部では益田さんがディフェンダー、タバやん。がゴールキーパーでしたが、2人とも試合に出る機会は多くありませんでした。
タバやん。は後年、このころについて「ずっとベンチ同士で仲良かった」と話しています。
お笑いへの温度差はかなりあり、タバやん。は子どものころから志村けんさんらを見て芸人を目指していた一方、益田さんが見ていたお笑い番組は『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』や『笑う犬』などで、本人も「それほど見ていなかった」と振り返っています。
この時点では、2人が将来コンビを組む話はまだ出ていませんでした。
高校卒業後に法政大学へ|強豪サッカー部へ直談判した学生時代
中学を卒業した益田さんは、その後もサッカー選手への思いを持ったまま進学し、高校卒業後は法政大学へ進みました。
そこで目にした大学サッカー部は、それまで以上に高いレベルの選手が集まる場所でした。
監督室へ「入れてください」と乗り込み、約3か月の練習生に
当時の法政大学サッカー部は少数精鋭で、1学年に入れるのは10人ほどだったと益田さんは説明しています。
全国大会経験者やユース出身者が並ぶ一方、益田さんは中学時代にも全国大会はおろか東京都大会へ出場した実績がなく、強豪チームでベンチにいた選手でした。
それでも諦めず、サッカー部の監督室まで直接出向き、「入れてください」と頼み込みました。
経歴を聞かれると、試合へほとんど出ていなかったことも正直に説明しています。
監督側も驚いたようですが、その意欲を買われ、正式な部員ではなく練習生として参加することになりました。
そこで約3か月、将来プロへ進むような選手たちと同じ練習に参加します。
最後は実力面から正式加入には至りませんでしたが、益田さんは、その3か月で自分のサッカーが大きく上達したと話しています。
就職活動では有名企業から内定、芸人はまだ予定外だった
サッカー部への挑戦を終えたあと、大学生活は就職を考える時期へ進みました。
益田さんは就職活動を行い、有名企業から内定を得ています。
つまり、大学卒業後にそのまま会社員になる道は、かなり具体的なところまで進んでいました。
一方、中学時代から仲の良かったタバやん。は別の道を考えていました。
タバやん。は高校卒業後に一度就職したものの、もともと持っていた芸人になる夢を諦めておらず、相方を探し始めます。
その候補として何度も声をかけた相手が益田さんでした。
益田康平が芸人になったきっかけ|タバやん。から何度も誘われNSCへ
益田さんは、タバやん。から最初に誘われた段階ですぐ芸人になると決めたわけではありません。
大学までサッカーを追いかけ、すでに就職先も決まりつつあったため、お笑いはまったく違う進路でした。
お笑い通ではなかった益田が、ライブのランキングに「勝負」を感じる
タバやん。は一度断られても、会うたびに「どうかな」と繰り返し誘っていました。
2人は社会人になる年齢になってからも、中学サッカー部時代の仲間たちとフットサルなどで顔を合わせていたため、関係が途切れていたわけではありません。
転機の一つになったのが、タバやん。と一緒に見に行ったお笑いライブでした。
出演していた芸人たちに順位が付き、上位から名前を発表されていく光景を見た益田さんは、自分が以前から惹かれていたものとお笑いの共通点に気づきます。
益田さんが惹かれたのは、お笑いにも「勝負」があることでした。
順位が上のほうで呼ばれたら気持ちいいだろうと感じた体験が、お笑いを選ぶ理由の一つになったと本人は振り返っています。
「2人なら200%売れる」タバやん。の誘いで就職から方向転換
タバやん。が益田さんを選んだ理由には、中学以来長く付き合ってきた中で、笑いの感覚が合うと感じていたことがありました。
「僕が1人でお笑いやっても100%売れるけど、益田とやったら200%売れる」
マイナビニュース
益田さんには当時、タバやん。以外にもアルバイト先の知人2人からNSCへ誘われたことがあったそうですが、その中で最も本気だったのがタバやん。でした。
益田さんは最終的に企業への就職ではなく、タバやん。と芸人を目指す道を選びます。
両親の強い反対、父の独立と「メロンを持って謝りに来た」タバやん。の母
この選択に、益田さんの両親は強く反対しました。
すでに大学まで進み、就職先も決まるところまで来ていたため、そこから芸人になるという話を簡単には受け入れられなかったようです。
ただ、父親も広告代理店で働いたあと、ちょうど50歳前後で独立した時期でした。
自分も個人で仕事を始めた立場だったことから、最後には息子の選択を認め、送り出しています。
さらにタバやん。の母親は、自分の息子が益田さんを芸人の道へ誘ってしまったと責任を感じ、メロンを持って益田家へ謝りに来たそうです。
こうして中学校のサッカー部で出会った2人は、大学卒業の時期に同じお笑いの道へ入ることになりました。
NSC東京14期からカゲヤマ結成|中学の同級生が相方になるまで
2008年、益田さんとタバやん。はNSC東京校14期としてお笑いの世界へ入りました。
益田さんにとって、劇場や賞レースの仕組みまで熟知したうえでの入学ではありませんでした。
2008年に2人でNSCへ入り、2009年4月にカゲヤマを結成
益田さんは当時、芸人になれば『エンタの神様』や『爆笑レッドカーペット』のようなテレビのネタ番組へ出演し、そこから売れていくものだと考えていたといいます。
キングオブコントが始まったのも、2人がNSCへ入った2008年でした。
養成所に入って初めて、劇場出演や営業、賞レースなど、テレビ画面からは見えていなかった芸人の仕事を知っていきます。
翌2009年4月、2人は正式にカゲヤマを結成しました。
中学で出会ってからすでに何年も友人関係が続いていたため、養成所で初めて知り合った即席のコンビではありません。
コンビ名「カゲヤマ」は影山ヒロノブから
コンビ名の「カゲヤマ」は、2人が好きだった歌手の影山ヒロノブさんに由来しています。
影山さんは『ドラゴンボールZ』などのアニメソングで知られ、2人ともカラオケで楽曲を歌うほど好きだったことから、名字の響きをコンビ名に取り入れました。
こうして芸人としてのスタートを切ったものの、テレビで一気に知られるような展開はすぐには訪れませんでした。
若手劇場時代|「ゴリラドラム」に支えられた売れない時期
カゲヤマは結成後、劇場やライブへ出演しながらネタを作り続けました。
この時期の2人を長く支えたのが、初期から披露していた「ゴリラドラム」です。
結成2~3年目から約10年続いた「ゴリラドラム」
「ゴリラドラム」を始めたのは、結成から2~3年目ごろでした。
タバやん。がゴリラのように胸を叩く動きを見せる一発芸で、長い若手時代にカゲヤマを知ってもらう入口の一つになりました。
益田さんは2023年、賞レースではなかなか結果が出なかった時期について、ゴリラドラムに「10年ぐらいお世話になった」と振り返っています。
賞レースの決勝へ届かない年月の中でも、一本のネタが約10年にわたって2人の活動を支えていました。
2014年に∞ホールで第2回単独、満員を目指してチケットを売る日々
2014年8月には、東京・ヨシモト∞ホールで第2回単独ライブ「人にやさしく」を開催しています。
単独ライブを開ける段階まで来ていたものの、客席が自然に埋まる人気コンビではありませんでした。
初めての単独ライブでは客入りが振るわず、空いた客席を目立たなくするため、段ボールで人形を作って置いたことまであったと当時のインタビューで明かしています。
第2回単独を前にした2人はチケットの売れ行きを気にしながら、いつものライブ以上に「今回は満員にしたい」と観客へ呼びかけていました。
大きな小道具を使うネタも多く、扇風機を分解してモーターを利用するなど、自分たちで仕掛けを作りながらライブへ持ち込んでいた時期でもあります。
翌2015年には、コンビ名の由来となった影山ヒロノブさんのライブへ招待され、本人と対面する機会が訪れました。
7~8年目にダイタクから叱られ、同期の助言でネタを見直す
活動を続ければ続けるほどネタが安定したわけでもなく、タバやん。は結成7~8年目ごろを「一番ネタが酷かった時期」と振り返っています。
同期のダイタクがMCを務めるライブへ出演した際、そのネタを見たダイタクから、終演後に居酒屋で厳しく指摘されました。
「お前らこのままだとマジでヤバいぞ」
FANY Magazine
後輩もいる席で、2人とも泣きそうになるほど強く言われた出来事だったそうです。
さらにネルソンズや相席スタート・山添寛さんら同じ東京NSC14期の仲間からも、ネタや演じ方について意見をもらうようになりました。
山添さんは台本そのものだけでなく、動きや演じ方について動画を見ながら細かく伝えることもあり、後のM-1やキングオブコントでも相談する相手になっていきます。
居酒屋で同期から厳しく言われた出来事を、2人は後に「ターニングポイント」だったと振り返っています。
15年の清掃バイトと実家「益々荘」|30代まで続いた下積み
舞台へ出続けていた一方、芸人の収入だけで生活できる状態にはなかなか届きませんでした。
若手時代から続けていた仕事の一つが、タバやん。と一緒に入っていたエアコンやダクトの清掃です。
終電から始発まで働くエアコン・ダクト清掃をタバやん。と15年
2人は同じ清掃のアルバイトを、芸人生活の初期から約15年間続けました。
現場によっては終電で集合し、人がいなくなった商業施設などで夜通し作業をして、始発の時間に仕事を終えることもありました。
一晩働けば手取りで1万円ほどになり、昼間や夕方に芸人の仕事が入っても調整しやすかったことが、長く続いた大きな理由でした。
昼や夕方は劇場、深夜は清掃という生活を、カゲヤマは30代になっても続けていました。
同じ清掃現場には、空気階段や鬼越トマホーク、オズワルドの畠中悠さんら、ほかの芸人が入ることもあったといいます。
益田さんは実家暮らしを続けており、30歳を過ぎても十分な芸人収入がない時期には、両親から「いつまで続けるんだ」という趣旨の言葉をかけられることもありました。
実家の1階に山添寛や渡辺銀次ら芸人が住み「益々荘」へ
ところが、長い下積みの途中から、益田さんの実家そのものにも芸人仲間が集まり始めます。
実家は二世帯で使える造りになっており、以前祖母が利用していた1階部分が空いたあと、益田さんと親しい芸人たちが家賃を払いながら住むようになりました。
住人の一人が、同期の相席スタート・山添寛さんです。
山添さんによると、益田さんの父親は自宅を「お笑い界のトキワ荘」のような場所にしたいと考え、ある日、表札まで「益々荘」へ変えていました。
その後はドンデコルテの渡辺銀次さんらも暮らすようになり、益田さんの両親にとっても、息子以外の売れていない芸人が身近にいる生活が日常になっていきます。
芸人になることへ強く反対していた家族の家が、いつしか芸人仲間の生活拠点になっていました。
35歳ごろ「この歳になったら楽しいだけじゃダメ」と感じた時期
タバやん。は、芸人を辞めようと思ったことはほとんどなく、長い芸人生活も「部活の延長」のように楽しかったと話しています。
しかし2人が35歳前後になったころ、益田さんから、それまでとは少し違う言葉が出ました。
「この歳になったら、もう楽しいだけじゃダメなんだよ」
マイナビニュース
益田さん自身もこの発言を覚えており、当時はまだ賞レースで大きな結果が出る前で、「このままで良いのか」と感じていた時期だったと説明しています。
それでも、コンビで本格的に解散を話し合ったことはなかったと2人は話しています。
同期が先に結果を出したり、自分たちも賞レースで一つ上の段階まで進んだりする小さな変化が、そのたびに活動を続ける材料になっていました。
M-1 2022からキングオブコント2023へ|清掃バイトを辞めた先の転機
長く賞レースで決勝へ届かなかったカゲヤマに、はっきりとした変化が見え始めたのが2022年でした。
M-1グランプリ2022で準決勝へ進み、敗者復活戦にも出場します。
M-1敗者復活1週間前、朝までの清掃後にラーメンを食べながら退職を相談
M-1敗者復活戦が迫っていた時期も、2人はまだ清掃のアルバイトへ入っていました。
本番のおよそ1週間前には、朝方まで終わらない特にきつい現場に入り、作業中に2人で「もう辞めようか」と話したそうです。
仕事が終わったあと、そのままラーメンを食べながら、敗者復活戦で何かを残せたらアルバイトを辞めようと相談しました。
芸人を始めてから約15年続けた清掃の仕事は、2022年12月で終わりました。
M-1で優勝したわけではありませんが、準決勝まで進んだことで、翌年へ向けて本人たちが「いい風が吹いている」と感じられる状況が生まれました。
同期の助言を受けながらネタを磨き、KOC初決勝へ
2023年には久しぶりに単独ライブを開き、そこで生まれた2本のコントをキングオブコントの準決勝へ持ち込みました。
2本目に使う候補のネタは、劇場で15回ほど試していたにもかかわらず、益田さんの感覚では、しっかりウケたのは2回ほどしかなかったといいます。
普段なら容赦なく「面白くない」と言ってくるダイタク、ネルソンズ、山添さん、和田まんじゅうさんら同期が、そのネタについてはそろって「面白い」と評価しました。
長年ネタへ厳しい言葉をくれていた同期全員の反応が一致したことで、2人はそのコントを信じて準決勝へ持っていきます。
そして2023年9月、キングオブコントで初めての決勝進出が決まりました。
益田さんは決勝進出を報告する投稿で、芸歴を重ねてようやく届いたことを「15年かかって」と表現しています。
945点で準優勝、決勝後に60件以上の仕事オファー
2023年10月21日のキングオブコント決勝で、カゲヤマはトップバッターとして登場しました。
1本目は、益田さんが取引先へ謝罪する状況から意外な姿を見せるコントで、469点を獲得してファイナルステージへ進出します。
続く2本目ではさらに高い476点を獲得し、2本合計は945点。
サルゴリラに次ぐ準優勝となり、15年間アルバイトと舞台を並行していたカゲヤマの仕事環境が大きく変わりました。
2024年のキングオブコント会見では、決勝後の変化について、カゲヤマ自身が仕事の依頼数を明かしています。
「決勝が終わってから60件以上のオファー」
キングオブコント公式・TBS
マネージャーによれば、KOC前と比べて仕事量は3~4倍ほどになり、それまで週に1日ほどあった休みもほとんどなくなる時期が訪れました。
「賞レースで結果が出たあともバイト」という状態ではなく、ここで初めて芸人の仕事が日常の中心になっていきました。
ブレイク後の益田康平|サッカーと益々荘も続く現在
KOC準優勝後はテレビ出演が増えましたが、カゲヤマはネタをやめてタレント活動だけへ移ったわけではありません。
劇場や単独ライブ、賞レースへの挑戦を続けながら、益田さん個人の活動も広がっています。
仕事が急増しても、ネタと賞レースへの挑戦を継続
2026年2月28日にはYOSHIMOTO ROPPONGI THEATERで単独ライブ「解放」を開催し、会場チケットは完売しました。
ネタ作りは現在も、日常で見つけた題材を2人が持ち寄り、話しながら膨らませる形が中心です。
益田さんが題材を持ってくることも多いものの、片方だけがすべてを書いているわけではなく、2人で意見を出しながら形にしています。
2026年もキングオブコントへ出場し、準々決勝まで進みました。
KOC準優勝後も、カゲヤマにとって劇場とコントは活動の中心に残っています。
幼稚園から続けたサッカーが現在の活動にも残る
子どものころにプロを目指したサッカーも、芸人になったことで完全に離れたわけではありません。
吉本興業の公式プロフィールでは現在もサッカー・フットサルを趣味として挙げ、定期的にプレーしています。
欧州サッカーにも詳しく、サッカー関連のイベントや企画へ出演する機会も生まれました。
さらに個人では大食いも特技となり、2026年4月には『有吉ゼミ』の大食い企画でギャル曽根さんとの対決に勝利したことを、自身のXでも喜んで報告しています。
サッカーだけを追いかけていた少年時代から、コント、大食い、企画まで仕事の幅はかなり広がりました。
「益々荘」は売れた芸人まで戻ってくる場所へ
一方で、練馬の実家「益々荘」はKOC後もなくならず、むしろ新しい展開を見せています。
ドンデコルテの渡辺銀次さんは約10年間住み続け、2025年のM-1グランプリで準優勝したあともすぐには退去しませんでした。
2026年7月に益田さんがテレビで現在の住人を聞かれた際には、父、母、益田さん、渡辺銀次さんという生活が続いていると答えています。
さらに、一度は売れて益々荘を離れていた相席スタートの山添寛さんが再び入居。
売れる前の芸人を受け入れてきた家に、売れたあと離れた芸人まで戻ってくるという状態になりました。
益田さん自身も「それいけ益々荘」でその日常を発信し、2026年7月にはYouTubeチャンネルの登録者数が10万人に到達したことを報告しています。
かつて芸人になることを反対された実家は、現在では益田さん自身の活動にもつながる場所になっています。
幼稚園からサッカー選手を目指し、法政大学の強豪サッカー部へ自分で扉をたたいた益田康平さんは、大学卒業を前にタバやん。から誘われ、まったく別の勝負の世界へ入りました。
そこから清掃の仕事を15年続けながらコンビで舞台へ立ち、2023年のキングオブコントで初めて決勝へ進み、準優勝をきっかけに仕事の景色が変わりました。
現在もカゲヤマとしてコントを続ける一方、少年時代からのサッカーや、家族と芸人仲間が暮らしてきた益々荘も、益田さんの活動の中にそのまま残っています。












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