ダイアン・ユースケの生い立ちと若い頃|「地獄の高校時代」から津田とNSCへ進むまで

人物プロフィール

本名
西澤裕介
生年月日
1977年3月14日
身長
170cm
血液型
A型
出身地
滋賀県 愛知川町
コンビ・グループ名
ダイアン
相方・メンバー
津田篤宏
結成年
2000年
所属事務所
吉本興業
芸人活動開始年
2000年
養成所・スクール
NSC大阪校 22期

ダイアンではボケとネタ作りを担当し、津田篤宏さんとの掛け合いで知られるユースケさん。

現在はテレビやラジオだけでなく、劇場での漫才、YouTube、文章へと活動が広がっていますが、芸人になるまでの歩みをたどると、子どものころから人前へ出続けてきたタイプではありません。

高校時代は本人が「地獄」と表現するほど学校生活になじめず、深夜ラジオが数少ない楽しみの一つでした。

相方の津田篤宏さんとは小学4年生のころから顔を知っていましたが、当時から漫才をしていたわけでも、将来コンビを組む約束をしていたわけでもありません。

高校を出て短大へ進み、卒業や就職を考える年齢になってから、ずっと好きだったお笑いが初めて現実の進路として浮かび上がってきます。

滋賀で過ごした子ども時代から、中学での津田さんとの出会い、高校・短大、NSC、売れる前の大阪での日々、M-1、東京進出までを順番にたどります。

ユースケの生い立ちと家族|滋賀・愛知川で育った子ども時代

ユースケさんは1977年3月14日、滋賀県愛知川町の出身で、現在の地名では愛荘町にあたります。

大人になってから家族について文章を書くようになったユースケさんの記憶には、父親、母親、姉と過ごした子ども時代の場面がいくつも残っています。

父母や姉との暮らしを本人のエッセイからたどる

2026年の初著書『なんなん自分』には、「僕のお母さんやぞ」「優秀な姉ちゃんとヘタレで卑怯な弟」「生粋の鍵っ子」「実録 カッコよくない親父」といった、家族や幼少期を題材にした文章が収録されています。

3歳上の姉は、子どものころから勉強もスポーツも得意だったと紹介されており、ユースケさんはそんな姉と自分を対比させながら幼いころの出来事を書いています。

父親について本人が2020年に公開したnoteでは、背丈は160cmを少し超えるくらいで、きつめのパーマに眼鏡という姿を覚えています。

子どもが想像するような「強くて格好いい父親」とは違った、と書いたあとに続くのが、父親への短い言葉でした。

「好きやったけどね。もちろん今も。」

ダイアン ユースケ公式note「実録 カッコよくない親父」

その文章には「市民プール」「町内バス旅行」という見出しもあり、父親について語るときも抽象的な家族像ではなく、子どものころに一緒に過ごした場所から記憶をたどっています。

少年時代の本人は活発な面を持ちながら、知らない場所へ入ると人見知りが出る子どもだったと後年語っています。

仲のよい友人の中では笑わせることがあっても、学校で積極的に前へ出て何かを披露するタイプではありませんでした。

一方で、お笑いを見ることは早くから日常に入り、保育園のころからザ・ドリフターズを見て、その後はダウンタウンやとんねるずの番組にも親しんでいました。

「人前へ出ること」と「お笑いを見ること」は、ユースケさんの中ではまだ別々のものでした。

小学4年のサッカーチームで津田篤宏を初めて見かける

後に二十年以上コンビを続ける津田さんをユースケさんが初めて見たのは、小学4年生のときでした。

二人は別々の小学校へ通っていましたが、地域の少年サッカーチームが同じでした。

ただ、この時点では特別に仲がよかったわけではなく、ユースケさん自身もQJWebの対談で「本格的に仲よくなった」のはもっと後だったと説明しています。

サッカー時代を二人で振り返ると、津田さんが「自分はキャプテンだった」と言い出し、ユースケさんがすぐに否定するなど、昔の記憶をめぐって現在と変わらないやり取りも見せています。

小学生のころに同じ場所にいた二人は、その後同じ中学校へ進みます。

中学3年で津田と親しくなり、別々の高校へ

同じ中学校へ入ったあとも、すぐ親友になったわけではありません。

二人の距離が縮まったのは、中学生活も終盤に入った3年生で同じクラスになってからでした。

同じクラスになった中3から二人の距離が縮まる

中学時代には、二人でダウンタウンなどテレビのお笑いについて話していました。

ただし、大阪の学生がお笑い劇場へ足を運ぶような環境とは違い、滋賀で暮らす二人にとってお笑いはまだテレビの向こう側にあるものでした。

中学時代に漫才を始めたわけでも、芸人になる約束をしたわけでもありません。

2024年の『A-Studio+』では、中学時代の同級生や恩師への取材も行われ、地元の友人は二人の違いをこんな言葉で表現していました。

「みんなで遊びたい津田」「こぢんまり遊びたいユースケ」

お笑いナタリー

同級生からは、無口で人見知りだったユースケさんが、のちに人前へ立つ芸人になったことへの驚きも語られています。

中学3年は受験もあり、学校の外でいつも二人一緒に遊んでいたわけではありませんでした。

高校受験では、津田さんが不合格だったことを知ったユースケさんがショックを受け、合格者が集まる日に姿のない友人を探したという出来事も後年明かされています。

高校へ進むと二人は別々の学校生活に入り、互いの家を行き来するようになるのは高校卒業後のことでした。

本人が「地獄」と呼ぶ高校生活と、数少ない楽しみだった深夜ラジオ

ユースケさんの出身高校は複数の人物データベースで滋賀県立八幡高等学校と紹介されていますが、吉本興業の公式プロフィールでは高校名までは掲載されていません。

学校名以上に本人が繰り返し語っているのが、その3年間をどのように過ごしたかです。

2020年には、自身のnoteにそのまま「地獄の高校時代」と題した文章を公開しました。

「それぐらい僕の高校生活はキツかったのです。」

ダイアン ユースケ公式note「地獄の高校時代」

2026年のインタビューでは、高校にはあまり友人がいなかった一方、地元の友人とは遊んでいたと振り返っています。

そのころに聴き始めたのが深夜ラジオで、本人にとっては高校生活の「救い」であり、数少ない楽しみだったといいます。

クラスの中心で人を笑わせ続ける学生生活ではなく、学校では静かに過ごし、家へ戻ればテレビやラジオのお笑いに触れる時間が続きました。

芸人になる以前のユースケさんにとって、お笑いは「将来の職業」より先に、長く見たり聴いたりしてきた好きなものでした。

短大時代と卒業後|就職を前にお笑いが進路へ変わる

高校を卒業しても、すぐNSCへ向かったわけではありません。

ユースケさんは京都の嵯峨美術短期大学へ進み、芸人とは違う進路を歩き始めます。

嵯峨美術短期大学へ進み「2年でやりたいこと」を探す

短大を選んだ当時は、卒業後に何をするのかがはっきり決まっていたわけではありませんでした。

後年『ナインティナインのオールナイトニッポン』へ出演した際には、4年間ではなく2年間の短大へ行き、その間にやりたいことを見つけようという感覚だったと説明しています。

つまり、この時点でも「芸人になるために美術短大へ行った」という経歴ではありません。

二年間の学生生活が終わりに近づけば、同級生と同じように就職を考える時期がやってきます。

そこへ、高校卒業後は別の道を歩いていた津田さんが再び現れました。

ハウスマヌカンを経験した時期と、芸人になる直前の生活

ユースケさんには短大卒業後、衣料品店の販売員を指す当時の呼び方で「ハウスマヌカン」として働いた経験があります。

本人がラジオで経歴を説明した際も、「短大卒業」の次に出てきた仕事がハウスマヌカンでした。

ファッションへの興味自体はもっと早く、中学生のころから服を意識するようになり、後年も当時出会ったショップ店員から受けた影響について文章を書いています。

短大へ進み、販売の仕事も経験する一方で、長く好きだったお笑いは生活の中に残っていました。

芸人という選択が現れたのは、学生生活が終わり「これから何を仕事にするか」を決めなければならなくなった時期です。

ユースケが芸人になったきっかけ|津田とNSC大阪22期へ

高校卒業後、ユースケさんが短大へ進んでいる間、津田さんは専門学校を卒業して会社員になっていました。

中学時代から知っていた二人が再び同じ方向を見るのは、20代前半になってからです。

仕事を辞めて戻った津田と再び遊ぶようになる

津田さんは専門学校を卒業後、営業職として就職しましたが、半年ほどで退職し、滋賀へ戻りました。

22、23歳ごろになると、津田さんとユースケさんは再び一緒に遊ぶようになります。

高校時代は別々に過ごした二人が、ここで再び近い距離になりました。

二人ともテレビのお笑いが好きだったことは中学時代から変わっていません。

津田さんは2023年の『ボクらの時代』で、会社を辞めて戻ったあと、NSCの年齢制限も意識しながら「最後に勝負してみよう」という話をユースケさんにしたと振り返っています。

就職を考える中で「好きだったお笑い」が選択肢になる

ユースケさん側には、幼いころから芸人になると決めていたという物語はありません。

短大生活が終わり、これから長く働くことを現実に考えたとき、「自分は何が好きなのか」を考えました。

「学生生活が終わって、働くとなった時に『何が好きかな』と考えたら、お笑いだった」

WWDJAPAN

人見知りであることや、人前へ出る仕事に向いているかを細かく考え抜いてから決めたわけでもありませんでした。

ずっと好きだったお笑いを仕事にしてみようと考え、NSCへ行くことが具体的な行動になりました。

昔からの夢を一直線に追ったのではなく、就職を目前にしたときに、それまで長く見続けてきたものが職業の候補へ変わった瞬間でした。

どちらが誘ったかも曖昧なまま、ボケ・ツッコミ未定でNSC面接へ

「芸人になろう」と最初に言ったのはどちらなのかについては、本人たちの記憶にも揺れがあります。

津田さんが後年「自分から誘った」と振り返った番組がある一方、2021年の二人そろってのインタビューでは、どちらが言い出したのか二人ともはっきり覚えていませんでした。

共通しているのは、津田さんが仕事を辞めて滋賀へ戻り、就職を考えていたユースケさんと再び遊ぶようになった時期にNSC行きが決まったことです。

コンビを組むための役割分担すら、その時点では決まっていませんでした。

「ボケもツッコミも決めないまま、NSCの面接行きました。」

QJWeb

中学からの友人二人が、役割すら決めない状態で大阪のお笑い養成所へ向かいました。

NSC時代とダイアン結成|すぐには評価されなかった二人

1999年、二人はNSC大阪校22期へ入りました。

同期にはキングコングや山里亮太さんらがおり、年齢では高校卒業直後に入ってくる生徒より少し上でした。

ネタ見せで評価されず、コンクールの社内予選にも落選

NSCへ入ったからといって、すぐ「面白い二人」として扱われたわけではありません。

最初は現在とは逆に津田さんがボケ、ユースケさんがツッコミを担当していました。

ところが、滋賀で普通の友人として話してきた二人にとって、突然相手へ強く「なんでやねん」とツッコんだり、意識的にボケたりするのは照れのある作業でした。

最初のネタ見せでは二人とも声が小さく、講師から注意を受けたとテレビ東京系の番組でも振り返っています。

講師から褒められるようになるまでにも時間がかかり、今宮子供えびすマンザイ新人コンクールへ出場するための吉本社内予選にも落とされました。

2026年のインタビューでは、NSC時代はネタを作って講師に見せ、それ以外はアルバイトをするような毎日で、最初から特別楽しかったわけではなかったと話しています。

現在のダイアンから逆算して「養成所時代から圧倒的に評価されていた」とすると、本人が語る当時の感覚とはずれます。

初めて手応えを得たネタ見せとNSC22期の仲間

評価がすぐについてこなくても、ネタ見せを続ける中で忘れられない場面がありました。

当時、一期上のNSC21期だったレギュラーが授業のアシスタントを担当していました。

あるネタ見せの最中、ほかの生徒からは見えにくい場所でネタを見ていた松本康太さんが、ユースケさんたちの漫才を見て大きく笑っている姿が目に入りました。

NSCではほかの生徒のネタに笑わない空気もあり、反応に飢えていたユースケさんにとって、その姿は「自分たちのネタは面白い」と感じられた記憶として残りました。

同期の山里亮太さんは後年、NSC時代からユースケさんを高く評価しています。

しかし本人は、当時目立っていたのはむしろ山里さんのほうで、自分たちは毎回講師に褒められていたわけでもなかったと話しています。

少しずつネタ見せで反応を得ながら、友人二人が「芸人のコンビ」へ変わっていきました。

2000年4月にダイアンを結成し、漫才師として歩き始める

吉本興業の公式プロフィールでは、ダイアンの結成年月は2000年4月とされています。

NSCへ入学した1999年と、コンビとして活動を始めた2000年は同じ年ではありません。

当初は津田さんがボケ、ユースケさんがツッコミでしたが、その後は現在知られているユースケさんがボケとネタ作り、津田さんがツッコミという形へ変わりました。

コンビ名の「ダイアン」は、中学時代の外国人英語教師の名前から取ったものとして二人がたびたび語っています。

小学生のサッカーチームで顔を知り、中3で親しくなった二人が、20代前半になって初めて漫才コンビとして同じ道を歩き始めました。

baseよしもと時代|仕事量の差から一度は解散を考える

NSCを出たダイアンは、大阪の劇場で若手芸人としての時間を重ねていきます。

のちに全国で知られる二人ですが、テレビの仕事で忙しくなる前には、baseよしもとを中心にライブへ出続けた時期がありました。

大阪の劇場を中心に活動した若手時代

NSC卒業後はオーディションに比較的早く受かり、劇場の二軍メンバーに入るなど、出だしからまったく仕事がなかったわけではありません。

ただ、そこから一気に売れたわけでもありませんでした。

上の世代が劇場を卒業し、笑い飯、麒麟、千鳥らが中心になるころには、ライブのあと先輩と飲みに行き、朝まで過ごして再び劇場へ向かうような日々もありました。

本人は2026年のインタビューで、仕事自体は劇場しかない時期だったと振り返っています。

テレビなど劇場外の仕事が増えていく芸人もいる中、ダイアンは漫才を続けていました。

ダイアン公式YouTubeでは、2005年のbaseよしもとのスケジュールを見ながら、「ガンガンライブ」や連続する単独ライブなど当時の劇場生活を二人自身が振り返っています。

「翌春まで結果が出なければ解散」と二人で決める

結成から5年ほどたつと、周囲との仕事量の差が目につくようになりました。

QJWebの対談でユースケさんが挙げたのは、同世代のギャロップに番組レギュラーがある一方、自分たちには目立った結果が出ていなかったころです。

秋ごろ、二人は「このまま翌年3月まで本気で続け、それでも結果が出なければ解散しよう」という話をしました。

不仲になったことが原因ではありません。

周囲のコンビと比べて仕事量に差がつき始めたことが、初めて本格的に解散を考える理由になりました。

二人は今でも、その話をした場所がbaseよしもとだったのか、なんばグランド花月の奥の通路だったのかで記憶が食い違っています。

解散を決めかけた重い場面でさえ、後年二人で話すと「場所が違う」という言い合いになっています。

結果が出なくても解散話を忘れ、活動はそのまま続いた

約束していた翌年3月を迎えても、大きな結果は出ませんでした。

ところが、二人は解散しませんでした。

続けると改めて決意した劇的な出来事があったわけでもなく、二人とも解散の約束そのものを忘れていたのです。

気づいたころには夏まで過ぎ、そのまま秋になっていました。

一度は期限を決めて解散を考えたコンビが、その期限を二人そろって忘れたまま漫才を続けていました。

辞める話が消えたあと、ダイアンは次第にM-1グランプリへ強く向き合う時期へ入ります。

M-1へ向き合った数年間がダイアンの転機に

若手時代のダイアンにとって、M-1は単に毎年出場する大会の一つではなくなっていきました。

ユースケさん自身が後年、芸人人生のターニングポイントとして挙げているのがM-1です。

決勝を目指して漫才と本気で向き合った2〜3年

M-1への挑戦期間の終盤、ユースケさんはそれまで以上に漫才と向き合いました。

本人の表現では、最後の2〜3年はM-1へ向けて必死に漫才をしていた時期です。

大会で勝つため、普段のダイアンの形をそのまま持ち込むだけではなく、M-1という短い競技時間の中で伝わるよう、ネタを組み立てていました。

M-1へ本気で取り組んだ時間の中で、関西での仕事が増え、ダイアンを知る人も増えていきました。

2007・2008年に2年連続でM-1決勝へ

その積み重ねの先で、ダイアンは2007年のM-1グランプリ決勝へ初進出し、7位となりました。

翌2008年にも決勝へ進出し、結果は6位でした。

2年連続決勝という結果だけをもって、その瞬間に全国区のブレイクを果たしたとするのは実際の歩みとは違います。

ユースケさんが語っている変化は、M-1へ必死に取り組んだことで関西での仕事が増え、コンビを認知してもらえる機会が増したというものです。

M-1は優勝による一夜のブレイクではなく、ダイアンの漫才と仕事が少しずつ変わっていく大きな転機になりました。

M-1後に見えてきた「自分たちらしい漫才」

M-1への挑戦が終わると、ユースケさんのネタ作りにも変化がありました。

大会当時はM-1に合わせてシステムへ当てはめるようにネタを作る面があったのに対し、その後は普段の二人に近い漫才へ戻っていきます。

すると二人自身もやりやすく、客席の反応もよかったといいます。

若いころには、現在より「ぶっ飛んだ設定」のネタを作ることもありました。

現在は若い人から年配の人まで分かるテーマを意識しながら新ネタを作り、単独ライブを続けています。

賞レースが終わったあとも漫才をやめず、「大会向けの形」から普段のダイアンらしい形へ戻っていきました。

芸歴18年で東京へ|西澤裕介から「ユースケ」へ

M-1後も大阪で活動を続けたダイアンは、結成直後に東京へ出たコンビではありません。

大きな移動を決めたのは、芸歴が18年ほどになった2018年でした。

2018年4月、大阪から東京へ活動拠点を移す

ダイアンは2018年4月1日から東京へ活動拠点を移しました。

ユースケさんは、それ以前から強烈に東京志向だったわけではなく、数年前から少しずつ東京を意識し始め、前年になってその気持ちが強くなったと吉本興業のインタビューで説明しています。

「大阪でずっとやるのか、東京で勝負するのかは決めなあかん時期やった」

よしもとニュースセンター

40歳を超えてからの東京進出だったため、周囲からは驚かれました。

東京へ来てすぐ何か一つの仕事で状況が変わったわけではなく、ユースケさん自身は後年、その変化を「グラデーション」のようだったと表現しています。

NSCへ入った時期も東京へ出た時期も、周囲より遅いと本人が感じるタイミングで次の場所へ進んでいます。

2019年に「ユースケ」へ改名した経緯

東京進出の翌年、もう一つ目に見える変化がありました。

2019年4月18日、それまで本名と同じ「西澤裕介」で活動していた西澤さんが、芸名を「ユースケ」へ変更すると発表しました。

きっかけは『いろはに千鳥』のロケで占い師に出会い、「西澤」という名前について改名を勧められたことでした。

発表の場所は東京・ルミネtheよしもとの「ダイアンの新ネタ&トークライブ トークのダイちゃん」で、千鳥や三四郎も立ち会っています。

ライブでは津田さんが太鼓を鳴らす「改名の儀」まで行われ、「ユースケ」と書かれた書が披露されました。

滋賀で西澤裕介として育ち、ダイアン結成から約19年を経て、東京進出後に現在の「ユースケ」という芸名になりました。

漫才を続けながら、ラジオ・YouTube・文章へ広がった現在

東京へ拠点を移し、名前も変わりましたが、ダイアンの活動から漫才がなくなったわけではありません。

テレビの仕事が増えた現在も、ユースケさんはネタを書き、二人で単独ライブを続けています。

若手時代とは変化したネタ作りと、今も続ける単独ライブ

ユースケさんは、新ネタを作る作業そのものは今でも大変だと話しています。

それでも年に一度ほど単独ライブを続け、劇場へ立つ時間を残しています。

若手時代のような極端な設定を以前ほど使わなくなり、幅広い年代が分かる題材を意識するようになりました。

一方で、テレビだけに活動を移すのではなく、ラジオ、公式YouTube、劇場と、津田さんと二人で話したり漫才をしたりする場所を並行して持っています。

NSCの最初のネタ見せでは友人同士でボケとツッコミをすることに照れていた二人が、現在も新しい漫才を作り続けています。

2026年『なんなん自分』で幼少期からM-1までを自ら文章にする

2026年1月21日、ユースケさんは初の著書『なんなん自分』をKADOKAWAから刊行しました。

320ページのエッセイ集には、日常の小さな違和感だけでなく、幼少期、母親や父親、姉、高校時代、ラジオ、NSC、M-1などが全40編にわたって収められています。

高校時代には深夜ラジオを聴く側だった人が、芸人になってラジオで話し、さらに50歳を前に自分の過去を文章にするようになりました。

本人は刊行前、書ける範囲で日ごろ感じていることや過去の出来事をほぼすべて書いたと説明しています。

「けっこう超大作なので、ぜひ皆さんに読んでもらえると嬉しいです。」

KADOKAWA

滋賀でテレビのお笑いを見ていた子ども時代には、まだ芸人という進路は決まっていませんでした。

就職を考える時期に津田さんと再び一緒になり、好きだったお笑いを仕事にするためNSCへ進んだことから、ダイアンとしての時間が始まりました。

評価されなかった養成所時代や解散を考えた若手時代、M-1、東京進出を経た現在も、二人は漫才を続けています。

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