せいやの生い立ちと家族|小学生で漫才、高校のコント、粗品に誘われ芸人になるまで

人物プロフィール

本名
石川晟也
生年月日
1992年9月13日
身長
163cm
血液型
A型
出身地
大阪府 東大阪市
コンビ・グループ名
霜降り明星
相方・メンバー
粗品
結成年
2013年
所属事務所
吉本興業
芸人活動開始年
2013年

霜降り明星のせいやさんは、漫才だけでなくテレビやラジオ、俳優、執筆、音楽へと活動を広げています。

現在の姿からさかのぼると、せいやさんは小学生のころから自分で漫才を作り、大勢の観客の前で笑いを取る経験をしていました。

高校では、それまで人を笑わせることが得意だった自分が通用しなくなり、学校で孤立した時期を経て、文化祭で自作のコントを披露することになります。

それほどお笑いと縁の深い学生生活を送りながら、大学では芸人ではなく教師を目指していました。

その進路を動かしたのが、高校生のお笑い大会で出会い、のちに何度もコンビ結成を持ちかけてきた粗品さんでした。

せいやの生い立ちと家族|東大阪の団地で育った子ども時代

せいやさんは大阪府東大阪市で育ち、両親と2人の妹がいる家庭の長男として子ども時代を過ごしました。

家でも学校でも人を笑わせることが身近にあり、その中でも小学校で出会った「お笑いクラブ」は特別な場所になっていきます。

小学校のお笑いクラブで4年生から漫才を作り始める

せいやさんは後年、小学4年生のころに初めて自分で漫才を作ったと明かしています。

小学校6年生になると、お笑い好きだった担任の先生が放課後に「お笑いクラブ」を作り、モノボケや大喜利、漫才などを子どもたちに教えていました。

遊びの延長で自由に笑わせるだけではなく、先生は面白くない答えには簡単に合格を出さず、黒板を使った大喜利でも子どもたちに次々と答えを考えさせていたといいます。

せいやさんも「しそ」という名前で大喜利に参加し、同級生と競うようにネタを考えていました。

学校の中に、子どもが自分でネタを書いて人前で試せる環境があったことになります。

好きだった芸人も同世代の子どもより幅広く、笑い飯、千鳥、フットボールアワーだけでなく、ザ・ドリフターズや志村けんさん、ビートたけしさんら昔のお笑いも見ていました。

小学6年生で大勢の観客の前に立ち、お笑いに夢中になる

小学6年生になると、せいやさんは同級生と漫才を披露し、NHKで行われたアマチュアの漫才大会で優勝する経験をします。

その舞台は学校の教室とは比べものにならない規模で、本人によるとNHKホールに約2,000人の観客がいました。

「その感覚が忘れられなくてお笑いにのめり込みました」

KINDAI PICKS

まだ小学生だったせいやさんにとって、大勢の観客から笑いが返ってきた体験は、お笑いへ深く入り込むきっかけになりました。

テレビで芸人を見るだけだった少年が、自分で書いたものを人前へ持っていき、実際に反応を受け取るところまで進んでいたのです。

両親と妹2人、団地で過ごした家族との生活

同じころ、家では2人の妹の兄として、家族5人で団地生活を送っていました。

せいやさんは後年、当時の自分の部屋について、布団を敷けばほとんどスペースがなくなるほど小さく、長さも約160センチほどだったと振り返っています。

建物の外から別の部屋へ声をかける人がいたり、夜になると猫の声が聞こえたりするような、住人同士の生活が近い団地でした。

この団地での家族との記憶は、芸人として売れた後もせいやさんの中に残り続け、のちに家族を題材にした仕事にも登場します。

中学時代から布施高校へ|文化祭のコントが学校生活を変える

小学校で漫才に夢中になったせいやさんは、中学に進んでも人前へ出ることをやめませんでした。

ところが、大阪府立布施高校へ進学すると、それまでの学校生活とはまったく違う状況に置かれます。

中学までは友人の輪の中でモノマネや笑いを楽しむ

中学時代のせいやさんは生徒会長を務め、部活動でもキャプテンを任されるなど、人の輪の中心にいることが多い生徒でした。

友人と公園へ集まれば自分たちで遊びを考え、せいやさんが司会役になって場を進めることもありました。

学校で撮った漫才やコントの映像をみんなで見る機会もあり、笑いを取ることは日常の中にありました。

当時は映画『プロゴルファー織部金次郎』が好きで、掃除中にほうきをゴルフクラブのように扱ってまねをしていたことから、友人には「織金」というあだ名まで付けられています。

高校入学後、笑いを取ろうとして居場所を失っていく

中学までの感覚を持ったまま高校へ入学したせいやさんは、最初からクラスで笑いを取りにいきました。

担任の先生とのやり取りでボケたり、同級生と漫画『SLAM DUNK』を使ったギャグを披露したりしましたが、中学時代のような笑いは返ってきませんでした。

それでも何とか笑わせようとするうちにクラスで浮くようになり、翌日には机の向きを変えられていたり、持ち物をめぐる嫌がらせを受けたりする状況になっていきます。

ストレスから髪が抜ける症状も出たと、本人は2025年のテレビ出演で当時を振り返っています。

友人に支えられながら学校へ通い続ける

家族は学校を休むことも勧めましたが、せいやさん自身は一度休めば戻れなくなるように感じ、登校を続けました。

中学時代からの友人には高校が楽しいように振る舞い、学校で起きていることを簡単には話していませんでした。

昼休みには人目を避けてプールの裏で一人で昼食を取っていた時期がありましたが、ある同級生がそこへ現れ、一緒に食べるようになります。

2025年に再会した際、その同級生は偶然見つけたのではなく、姿が見えなくなったせいやさんを探していたことを初めて明かしました。

団地で遊んでいた昔からの友人たちも状況を知りながら本人にはそれを告げず、休日になると以前と同じように遊びへ誘い、せいやさんが司会をするオリジナルゲームなどを続けていました。

友人たちはその集まりを「いやすん会」と呼んでいたといいます。

文化祭で自作のコントを披露し、大勢の前で笑いを取る

学校生活の流れが変わったのは、クラスで文化祭の劇を作ることになったときでした。

せいやさんは一人で脚本を書く役目を押し付けられましたが、中学まで漫才やコントを書いてきた経験を使い、劇全体を笑いの多い内容に仕上げていきます。

台本が形になるにつれて協力するクラスメートが増え、せいやさんは脚本だけでなく演出の中心にも入っていきました。

文化祭当日、せいやさんが作った劇は観客から笑いを取り、1年生のクラスながら校内の劇の大会で結果を残しました。

「俺は笑いではね返したぞ!」

entax

体育館で放ったこの言葉に歓声が起き、それまで孤立していた高校生活の空気が変わっていきました。

高校時代に笑いを使って状況を変えた経験は、この時点で終わった出来事ではなく、十数年後に再び作品として形になることになります。

高校生のお笑い大会で粗品と出会う

文化祭でコントを作ったあとも、せいやさんのお笑いへの興味は続きました。

高校3年生になると、学校の外にいる同世代の高校生芸人を意識するようになります。

粗品の高校生コンビを意識してハイスクールマンザイへ

当時、別の高校には「スペード」というコンビでお笑い大会へ出ていた粗品さんがいました。

粗品さんは高校生のお笑い界ではすでに名前を知られる存在で、せいやさんも「ほかの学校に面白いやつがいる」と意識していました。

高校3年生だった2010年、せいやさんは自分も友人とコンビを組み、ハイスクールマンザイへ出場します。

本人は後年、粗品さんたちのコンビを知ったことで「勝ちたい」という気持ちもあり、大会へ向かったと振り返っています。

別々のコンビで出場し、楽屋で初めて言葉を交わす

二人は同じ高校でも幼なじみでもなく、それぞれ別の高校、別のコンビとして大会に参加していました。

ハイスクールマンザイの大阪大会では、ともに勝ち残れなかったものの、その楽屋でせいやさんと粗品さんは初めて言葉を交わします。

粗品さんの方からせいやさんへ声をかけ、ネタが面白かったことを伝えたというのが、後の霜降り明星につながる最初の接点でした。

ただし、この時点で二人がコンビを組む話になったわけではなく、それぞれ別の進路へ進みます。

粗品がせいやの笑いを高く評価し、二人の関係が動き始める

高校生のお笑い大会などでせいやさんのネタを見た粗品さんは、その後もせいやさんのお笑いを強く評価していました。

せいやさんから見れば粗品さんはライバルとして意識していた存在でしたが、粗品さん側はやがて「一緒にコンビを組みたい相手」としてせいやさんを見るようになります。

二人は後年、学生時代にどのように出会ったのかを公式YouTube「しもふりチューブ」でも振り返っています。

近畿大学で教師を目指す中、粗品からコンビに誘われる

高校を卒業したせいやさんは、そのまま芸人の道へ進んだわけではありません。

地元の東大阪から通いやすかった近畿大学へ進学し、大学生活と教職課程の勉強を始めました。

近畿大学文芸学部へ進み、サークルと教職課程を両立

進学先は近畿大学文芸学部文化学科で、現在の文化・歴史学科にあたる学科です。

1年生では観光事業研究会に入り、会計も担当するなど、本人が後年振り返るところでは普通の大学生活を楽しんでいました。

大学では文化について学び、卒業論文では世界の酒やワインの起源をテーマにしています。

同時に教職課程も履修し、将来は学校の先生になることを考えていました。

高校時代に学校で孤立した経験があったからこそ、生徒の気持ちが分かり、楽しい学校生活を作れる教師になりたいという思いもあったと本人は話しています。

一方、大学1年生の学園祭では高校時代の相方と漫才大会へ出場して優勝しており、教師を目指しながらもネタを書くこと自体は続いていました。

すでにピン芸人だった粗品からの誘いを断っていた大学時代

せいやさんが大学生活を送っているころ、粗品さんは一般オーディションを経て吉本興業で芸人として活動を始めていました。

粗品さんはNSCへ通ったわけではなく、2012年には19歳で『オールザッツ漫才』の企画「FootCutバトル」を制するなど、ピン芸人として先に結果を出していきます。

そんな粗品さんが、大学2年生ごろのせいやさんへ本格的に「コンビを組もう」と誘い始めました。

しかし、せいやさんは大学でサークル活動も楽しみ、教師になる進路を考えていたため、すぐには誘いを受けませんでした。

粗品さんは自分が芸人としてさまざまな人のネタを見るようになった後も、せいやさんが面白いという考えを変えず、誘いを続けます。

粗品が結果を出しても誘い続けたことで進路を決断

せいやさんの気持ちが動いたのは、粗品さんがテレビのお笑い企画で結果を出したあとも、自分をコンビに誘い続けたことでした。

すでに一人で芸人として進めそうな粗品さんが、それでも大学生の自分を必要としていることを、せいやさんは重く受け止めます。

「この先の人生で、こんなに人から必要とされることはないやろうな」

よしもとニュースセンター

子どものころからお笑いを続けてきたせいやさんがプロになる決断をした直接のきっかけは、粗品さんから何度も必要とされたことでした。

両親からは、教員免許を取りながら芸人をやってみてはどうかという言葉をかけられ、せいやさんは大学を辞めずに二つを並行する道を選びます。

2013年1月に霜降り明星を結成し、大学と芸人生活を両立

2013年1月、大学生だったせいやさんと粗品さんは「霜降り明星」を結成しました。

せいやさんはNSCの卒業生ではなく、吉本興業の公式プロフィールでは「2011年 一般 33期扱い」とされています。

そのため「NSC大阪33期卒業」ではなく、NSC大阪校33期と同じ世代として扱われる芸人というのが正確です。

コンビを組んでからも大学の授業は続き、ネタ合わせをしてから講義へ向かい、その後また劇場へ行くような日もありました。

近畿大学の図書館や情報処理施設KUDOSでネタを考えることもあり、芸人の仕事が増えた3、4年生では課題やレポートに追われます。

大学を辞めることも何度も考えましたが、母親や粗品さん側の家族からも卒業を勧められ、2015年に近畿大学を卒業しました。

霜降り明星のネタはどちらか一人に任せ切る形ではなく、学生時代から続いていたせいやさんのネタ作りも生かしながら、二人で考えるスタイルが続いていきます。

霜降り明星の若手時代|劇場、アルバイト、迷走した漫才

粗品さんから誘われてコンビを組んだものの、霜降り明星の漫才は最初から現在の形だったわけではありません。

せいやさんには養成所で段階的に舞台経験を積んだ期間もなく、大学へ通いながら劇場の世界へ入っていきました。

結成後は劇場へ立ち、アルバイトと芸人仕事が並走

芸人だけの収入で暮らせる時期ではなく、せいやさんは大学生活や劇場出演と並行してさまざまなアルバイトを経験しました。

芸人になって半年ほどしたころにはTSUTAYAでも働き、後年には仕事中の失敗談を自分のYouTubeで話しています。

うどん店では大量の皿を一度に割ったり、カレーうどんへ麺を入れずに出してしまったりしたこともあったと本人が振り返っています。

派遣のアルバイトにも行きながら、予定が入れば芸人として劇場へ向かう生活が続きました。

テレビで知られるようになってから語られる失敗談の多くは、まだ芸人仕事だけでは生活が成立していなかった時期に実際に働いた経験から生まれています。

ボケとツッコミまで試しながら自分たちの漫才を探す

舞台へ出ても、結成当初の霜降り明星は思うように笑いを取れない時期がありました。

現在はせいやさんの動きの大きなボケと粗品さんの短く鋭いツッコミが知られていますが、若手時代には二人ともボケをやってみたり、ボケとツッコミを逆にしたりしています。

劇場のコーナーでも、養成所の授業や同期とのライブを経てきた芸人たちの中へ突然入ったせいやさんは、前へ出て古畑任三郎のモノマネをするなど、手持ちの芸を使いながら居場所を作っていました。

漫才でも試行錯誤が続き、せいやさんがツッコミ側に回って独特の言葉を叫ぶ形まで試しています。

M-1で知られる霜降り明星の形は、結成した瞬間に完成していたのではなく、舞台で滑る時期を含めて何度も役割を変えたあとに残った形でした。

2014年の単独ライブ「なみのり」で新ネタを試す

2014年8月には、大阪の5upよしもとで単独ライブ「なみのり」を開催しました。

当時の吉本のインタビューでは、普段の漫才だけでなく新ネタやコントを入れる構想を二人が話しており、粗品さんが大がかりな銭湯コントまで考えていました。

せいやさんもコントでセリフに詰まった経験を明るく振り返り、完成した芸風を見せる場というより、いろいろなアイデアを舞台で試していた時期だったことが伝わります。

同じインタビューでは粗品さんが、せいやさんの両親について、お笑いに反対ではないものの積極的に賛成している様子でもなかったと話し、単独ライブへ招いて驚かせたいという計画まで明かしていました。

実家からなんばへ自転車で通い、2017年の劇場・ABCへ

大学を卒業した後も、すぐに東京中心の売れっ子芸人になったわけではなく、大阪の若手劇場でネタを重ねました。

2017年3月には、芸歴6年目以下の若手が競う「Kakeru翔GP」で優勝し、翌4月にも連続で優勝しています。

このころのせいやさんはまだ東大阪の実家で暮らし、なんばの劇場まで自転車で通うこともありました。

本人によると、実家から劇場までは往復約21キロあり、自転車で約1時間かけて移動していたといいます。

劇場で少しずつ結果が出始めた2017年、霜降り明星は仕事の流れを大きく変える賞レースへ進みます。

ABC優勝で仕事が増え、2018年M-1で全国区へ

霜降り明星にとって、全国区になる最初の変化とM-1優勝は同じタイミングではありませんでした。

まず2017年に大阪で大きな結果を残し、そこから一年半ほどかけて全国へつながっていきます。

2017年ABCお笑いグランプリ優勝後に仕事量が変わる

2017年7月9日、霜降り明星は556組が参加した第38回ABCお笑いグランプリの決勝へ進みました。

ファーストステージを勝ち上がり、最終決戦でも得点を伸ばして優勝しています。

結成から約4年半で手にしたABCお笑いグランプリ優勝は、二人がコンビとして初めて大きく評価された節目になりました。

「相方と漫才ができて、ほんまによかったです」

よしもとニュースセンター

優勝後の会見で粗品さんは涙を流しながらそう語り、せいやさんも、結成当初は粗品さんの方が知られていたためコンビを疑問視する声があったことに触れています。

ABC優勝のあと、二人はそれまで空いていた日にも仕事が入るようになり、実際に仕事量の変化を感じ始めました。

2018年ytv漫才新人賞を経て初のM-1決勝へ

翌2018年2月25日には第7回ytv漫才新人賞でも優勝し、大阪の若手漫才師として結果を重ねました。

しかし、前年のM-1グランプリ2017では準決勝敗退だったため、M-1で勝つためのネタ作りはその後も続きます。

二人は月に7本ほどの新ネタを作る時期もあり、漫才を大量に試しながら決勝へ持っていくネタを磨いていました。

小学生で初めて漫才を書いてからネタ作りを続けてきたせいやさんも、粗品さんと一緒にネタを考える形でこの作業に加わっています。

そして2018年、霜降り明星は初めてM-1の決勝進出を決めました。

M-1優勝で史上最年少王者となり活動環境が大きく変化

2018年12月2日のM-1グランプリ2018には、過去最多となる4,640組がエントリーしていました。

霜降り明星はファーストラウンドで662点を獲得して1位で最終決戦へ進み、和牛、ジャルジャルとの最終決戦で4票を得て優勝しました。

せいやさん25歳、粗品さん25歳のコンビは、当時のM-1史上最年少王者になりました。

ABC優勝ですでに大阪で仕事が増えていた二人でしたが、M-1後は所属事務所での扱いも仕事の規模もさらに大きく変わったと、せいやさんは母校・近畿大学のインタビューで話しています。

高校時代に別々のコンビで出会った二人が、教師を目指していた大学時代を経てコンビを組み、結成6年目でM-1の頂点まで進みました。

高校時代の経験が、現在の執筆・俳優・音楽へ

M-1優勝後は漫才以外の仕事も増えましたが、せいやさんの新しい活動には学生時代や家族との記憶が何度も登場しています。

2020年にはテレビ企画で、長く団地で暮らしてきた両親のために新しい住まいを探す姿も放送されました。

その後は、自分自身の高校時代を物語として書く仕事にも時間を使うようになります。

高校時代をモデルに17年越しで『人生を変えたコント』を書く

2021年夏ごろから、せいやさんは高校時代の経験をもとにした物語の執筆を本格的に進めました。

最初は読売中高生新聞で『奪われかけた青春をコントで取り返してみた』として全12回の連載になり、その後さらに3万字以上を書き加えています。

3年以上かけて書き上げた作品は、2024年11月25日にワニブックスから『人生を変えたコント』として刊行されました。

高校の文化祭で自分が書いたコントによって学校生活の空気を変えた出来事が、十数年を経て一冊の半自伝小説になりました。

「僕の高校生のころの話をモデルに書いた物語です」

映画『人生を変えたコント』公式サイト

高校時代の出来事を芸人になってから語るだけでなく、自分で長い時間をかけて小説へ作り直した仕事でした。

団地と母親の記憶を「オカンのLINE」という音楽作品にする

2025年には、せいや名義とは別に「石川晟也」名義で音楽作品も発表しています。

その一曲が、2025年10月に公開された「オカンのLINE」です。

タイトル通り母親とのやり取りを題材にしながら、子どものころに暮らした団地や家庭での食事など、家族との記憶を歌の中へ落とし込んでいます。

幼少期の家族H2で登場した団地は、せいやさんが離れた後も昔話だけの場所にはならず、音楽を作る際にも思い出される場所になりました。

半自伝小説が映画化され、2026年12月公開予定へ

2026年5月には『人生を変えたコント』の実写映画化が発表され、主人公イシカワをなにわ男子の大橋和也さんが演じることが明らかになりました。

監督は河合勇人さん、脚本は林民夫さんが担当し、せいやさん自身も脚本やお笑いシーンの部分に関わっています。

さらに2026年8月には、オカン役を永作博美さん、オトン役を中川家・剛さん、高校の教師役をトータス松本さんが演じることも発表されました。

劇中にはウルフルズの「笑えれば」も登場し、せいやさんが高校時代に支えられた曲が、自身の高校生活をもとにした映画の中で使われることになっています。

映画『人生を変えたコント』は2026年12月18日に全国公開予定で、2026年8月現在はまだ公開前です。

活動が広がった現在も粗品と漫才を続ける

執筆や俳優、音楽など個人の活動が増えても、せいやさんと粗品さんの霜降り明星は現在もコンビとして活動しています。

二人の漫才は粗品さん一人がネタを完成させて持ってくる形ではなく、せいやさんもアイデアを出しながら二人で作るスタイルが続いています。

2025年には、若手時代から二人を知る芸人からも、互いの意見を尊重しながらネタを作っているコンビだと語られました。

小学生のお笑いクラブで漫才を作り始めたせいやさんは、高校で自作のコントによって学校生活の流れを変えました。

大学では教師を目指しましたが、高校時代に出会った粗品さんから繰り返し誘われたことで芸人になる道を選びました。

その後は霜降り明星としてM-1を制し、昔の家族や高校時代の記憶を小説や音楽にも残しながら現在まで活動を続けています。

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