人物プロフィール
演劇とコントの両方で活動する8人組・ダウ90000で、舞台に立つ中島百依子さん。
現在はダウ90000だけでなく俳優としてドラマへ出演し、蓮見翔さんとの漫才コンビ「6000」でも舞台に立っています。
これだけ聞くと、学生時代からお笑いが好きで芸人を目指してきたようにも見えますが、中島さんが子どものころから思い描いていたのは女優になることでした。
しかも小中学生のころはかなりの人見知りで、女優になりたいという夢を周囲に話すことさえできなかったといいます。
芸人志望ではなかった女優志望の学生が、大学で一人の同級生と仲良くなりたいと思ったことから、現在のダウ90000へたどり着きました。
中島百依子の生い立ちと家族|人見知りだった子ども時代
中島百依子さんは1999年8月21日、福岡県出身です。
後年の本人の話からは両親や姉の存在が確認できますが、子ども時代の家族について本人が詳しい構成や職業まで公表しているわけではありません。
一方で、家の中と外では本人の様子にかなり違いがあったことを、中島さん自身が振り返っています。
家族や親しい友人の前では活発だった小中学生時代
小学校から中学校にかけての中島さんは、本人いわく「特に人見知りが激しかった」時期でした。
知らない人の前では周囲の目を気にする一方、家族や心を開いた仲の良い友人の前では活発だったといいます。
現在でも大人数のトークで自分から入っていくことや自己紹介は得意ではなく、コントが終わった直後に素の自分として話す場面には戸惑いがあると明かしています。
ところが、同じ人前でも演技をしているときだけは平気でした。
自分自身について話すのではなく、別の人物になっている時間なら人前に出られたことが、幼いころから抱いていた夢とも重なっていました。
保育園のころから女優が夢、それでも人には言えなかった
中島さんが女優を意識したのは、芸能活動を始めるずっと前の保育園のころでした。
演技なら自分ではない誰かになれる感覚があり、女優になることを長く夢見ていました。
ただ、人見知りだった中島さんにとって「女優になりたい」と口にすること自体が難しく、夢は持っていても具体的な行動には移せないまま時間が過ぎていきます。
人前に出る仕事を夢見ながら、自分の夢を人には言えない子ども時代でした。
同年代がテレビに出る姿を見て焦っていた中学生時代
中学生になると、テレビに出演している同年代の子どもたちが気になるようになります。
女優になりたい自分はまだその夢を周囲に言うことさえできず、何も動けていない一方で、同じくらいの年齢の人がすでに映像の世界で仕事をしていました。
テレビを見るたびに現実との差を感じて落ち込むことがあったと、後年のインタビューで語っています。
それでもこの時点では、芸人になるという選択肢はまだ登場していません。
次に大きく動いたのは、高校時代に日本を離れた経験でした。
高校時代のカナダ留学で女優になる決意を固める
中島百依子さんの出身高校の校名は、本人インタビューや所属先の公式プロフィールでは明らかにされていません。
高校時代についてはっきり確認できる重要な出来事が、カナダへの留学です。
夢をはっきり語る人たちとの出会いで意識が変化
カナダで中島さんが接した人たちは、自分が将来やりたいことをはっきりと言葉にしていました。
それまで女優になりたいと思いながら、その夢を人に言うことさえ恥ずかしかった中島さんにとって、その姿は大きな刺激になりました。
カナダ留学を経て、初めて女優を本気で目指すことを決めました。
中学生のころにはテレビの中の同年代と自分を比べながら動けずにいましたが、高校では大学進学という具体的な次の行動へ移ります。
演技を学べる大学を探して日本大学芸術学部へ
進学先を考えるとき、中島さんが探した条件は演技の授業が受けられることでした。
そこで受験したのが、日本大学芸術学部です。
中島さんは日本大学芸術学部映画学科演技コースへ進み、子どものころから思い続けてきた演技を大学で学ぶことになりました。
この時点でも目標はあくまで女優であり、お笑いの養成所へ入った経験はありません。
大学へ入った中島さんには、まだ「どうすれば実際に女優として仕事へつながるのか」という道までは見えていませんでしたが、そこで現在まで続く人物たちと出会います。
日芸で忽那文香と出会い「はりねずみのパジャマ」へ
日芸で中島さんと同じコース、同じ学年だったのが、現在もダウ90000で活動する忽那文香さんでした。
最初から親しい友人だったわけではありませんが、中島さんはクラスの中で忽那さんの言動を面白く感じ、次第に気になる存在になっていきます。
忽那文香と仲良くなりたくて大学1年秋の公演へ
中島さんのクラスではサークルへ入っていない学生が多いなか、忽那さんは先に演劇企画団体「はりねずみのパジャマ」へ参加していました。
中島さんが印象に残っているのは、忽那さんが走って近づいてきて公演のチラシを渡し、そのまま走り去った場面です。
大学1年の秋ごろに行われる公演のチラシでした。
中島さんが劇場へ行こうと思った最初の理由は、演劇団体そのものへの強い興味ではありません。
公演を観れば感想を話すことができ、忽那さんと仲良くなるきっかけになると思ったからでした。
ところが実際に公演を観ると、作品そのものを非常に面白く感じます。
公演直後にLINEし、練馬のマクドナルドで加入が決定
観劇を終えた中島さんは、忽那さんへすぐLINEを送りました。
「どうにか入りたいです」
Bezzy
その後、中島さんは練馬のマクドナルドで、忽那さんと団体を立ち上げた蓮見翔さんに会うことになります。
中島さんは2時間ほど話すような面談になると思い緊張していましたが、実際には自己紹介をした程度で話は進み、蓮見さんから歓迎されました。
「忽那と仲良くなりたい」と観に行った一度の公演から、そのまま現在へ続くグループへの参加が決まりました。
蓮見翔の作品に出演し、役者としてサークル活動へ
加入後、中島さんは蓮見さんが脚本を書く作品へ役者として出演するようになります。
中島さん自身は女優になるため日芸へ入っており、蓮見さんの書くものを純粋に面白いと思って参加していました。
ここでも「芸人になるためにコントを学ぶ」という順番ではありませんでした。
演技をする場所を求めていた学生が、面白い作品を書いている同じ大学の仲間たちと舞台へ立つようになったという形です。
本人は「コント」だと知らずに演じていた
「はりねずみのパジャマ」では短い作品も演じていましたが、中島さんは当初、それをお笑いの「コント」と認識していませんでした。
「これがコントだって知らなかったです。」
テレビ朝日 logirl
周囲から「演劇なのか、コントなのか」と聞かれるようになって初めて、その境界を意識するようになったといいます。
中島さんはダウ90000へ参加する以前、お笑いをそれほど見てきたわけではありませんでした。
蓮見さんの書くものが面白いから演じていた結果、いつの間にかコントの舞台にも立っていたというのが、中島さんのお笑いとの最初の接点でした。
大学卒業とコロナ禍|ダウ90000として再出発
大学生活が終わりに近づくと、同級生たちは就職という進路も考え始めます。
中島さんはここで、子どものころから持っていた夢と、大学で見つけた居場所の両方を手放さない道を選びました。
就職は選ばず、女優の夢と蓮見翔の作品を選んだ
卒業時の中島さんには、女優になるという目標が残っていました。
そのため、周囲が就職する時期になっても、女優の夢を諦めて会社へ就職するという選択肢は浮かばなかったと話しています。
同時に、大学時代から一緒に活動してきた蓮見翔さんの書く作品は面白いという確信も持っていました。
卒業時点では俳優として継続的に仕事を得られる保証があったわけではありませんが、自分が面白いと思える場所で演技を続けられる状況はすでにありました。
中島さんは就職へ方向転換せず、演技を続ける道へ進みました。
2020年9月、ダウ90000として活動を仕切り直す
2020年になると、大学卒業に加えて新型コロナウイルスの影響が重なり、前身団体の活動はしばらく止まりました。
蓮見さんは同年9月、これまでのサークル活動から仕切り直し、残るメンバーへこの活動で生活していく意思がある人で続けたいと伝えます。
こうして2020年9月、日芸のサークルを母体としてダウ90000が動き始めました。
中島さんにとっては、大学のサークルで芝居をしていた時間が終わり、卒業後も演技を仕事として続けていく時期へ入ったことになります。
月15本の新作を作ったコントライブ「あの子の自転車」
ダウ90000が最初の演劇公演『フローリングならでは』へ向けて動くなか、お客さんを集めるために始めたのがコントライブ「あの子の自転車」でした。
そこで蓮見さんは、毎月新しいコントを書いていきます。
15本の新作コントを用意するライブを、4か月連続で続けました。
中島さんを含むメンバーにとっては、それが活動を始めた直後の通常運転だったため、比較できる別のやり方もありませんでした。
多人数をどう動かせばコントとして成立するのか、実際の舞台で大量の作品を試しながら探していく時期でした。
再生200回、30人規模のライブから「テアトロコント」へ
活動初期から大勢の観客が集まっていたわけではありません。
当時のYouTube動画は200回ほどの再生で、「あの子の自転車」も知人へ声をかけながら30人規模の客席を何とか埋める程度だったと蓮見さんが振り返っています。
大量に作品を作る方法をこのまま続けるべきか考えていたころ、ユーロライブの企画「テアトロコント」から出演依頼が届きます。
大学の内側から始まった活動が、少しずつ外の舞台へ出ていくようになりました。
8人のダウ90000が形になり、舞台と賞レースへ
ダウ90000が現在知られている8人組になるまでには、まだメンバーの変化がありました。
その途中で生まれた一本のコントが、人数の多さそのものを笑いへ変えるスタイルを見つけるきっかけになります。
「フロント」で大人数コントの型が見え始める
「あの子の自転車」2回目のライブで、蓮見さんが初めて当時のメンバー全員を使って書いたのが『フロント』でした。
それまでは3人や5人などに分けて出演していましたが、『フロント』では10人が次々に会話へ入り、蓮見さんがあるタイミングでツッコむ構造を試しました。
このコントの反応から蓮見さんは大人数を使う形に手応えを感じ、後の『顔合わせ』『AED』『まちがいさがし』などへ発展させています。
メンバーが多いこと自体が、ダウ90000のコントの武器として形になり始めました。
「旅館じゃないんだからさ」直前のメンバー離脱と8人体制
現在の8人体制になって最初の舞台は、第2回本公演『旅館じゃないんだからさ』でした。
ところが公演の約3週間前、メンバー2人が抜けることになります。
1人の離脱は事前に分かっていましたが、もう1人は出演する前提で脚本まで完成しており、メンバーも突然の話として受け止めました。
話し合いの途中、そのメンバーが考えるため外へ出ている間に、残ったメンバーたちは自分たちのコントのセリフから作品名を当てる遊びを始めます。
そこで偶然最後に出たタイトルが『脱退』で、直後に戻ってきた本人から本当に脱退すると告げられたことを、中島さんが後年語っています。
蓮見さんは完成していた脚本を短期間で大きく書き直し、メンバーも区民館でそれぞれの意思を確認しました。
この公演から、蓮見翔、園田祥太、飯原僚也、上原佑太、道上珠妃、忽那文香、中島百依子、吉原怜那の8人で進む形が固まりました。
『旅館じゃないんだからさ』はその後、第66回岸田國士戯曲賞の最終候補にも選ばれます。
M-1やABCお笑いグランプリでお笑いの舞台にも進出
演劇公演と並行して、ダウ90000はお笑いの賞レースにも出るようになります。
M-1グランプリ2021には蓮見さん、道上さん、忽那さん、中島さん、吉原さんの5人で出場し、準々決勝へ進出しました。
翌2022年には8人のコントで第43回ABCお笑いグランプリ決勝へ進んでいます。
その後もキングオブコントなどへ挑戦しますが、中島さんの活動は賞レースだけに寄っていくことはなく、演劇公演とコントの両方が続きました。
女優を目指して日芸へ入った中島さんが、お笑いの養成所を通らず、演劇サークルからM-1やABCお笑いグランプリの舞台へ進んだことになります。
女優を夢見た中学生が、初めてドラマの撮影現場へ
ダウ90000の仕事が増えていくなか、中島さんにはもう一つ待っていた仕事がありました。
子どものころから目指してきた映像での演技です。
初ドラマの仕事で感じた「ついに来た!」
2022年、中島さんはインタビューで、初めてドラマの仕事を経験したことを話しています。
それまでの活動は舞台が中心でしたが、中島さんがこの世界へ入ったときからやりたかったのは映像での演技でした。
「ついに来た!」
Steenz
撮影では多くのスタッフが動くなかでミスできない緊張感もありましたが、その緊張まで含めて仕事をしている実感が嬉しかったと語っています。
中学生のころ、テレビで活躍する同年代を見ながら何も動けていない自分に落ち込んでいた中島さんが、実際にドラマの撮影現場へ立ちました。
舞台から映像へ、「息の長い役者」を目指す
映像の仕事を経験した中島さんは、俳優としてもっと動けるようになりたいという思いを強めていきます。
目標として挙げているのは、名前が先に知られるよりも「あの役をやっていた人」と役から覚えてもらえるような「息の長い役者」です。
2022年には日本テレビのショートドラマ『今日、ドイツ村は光らない』にダウ90000のメンバーと出演し、その後も個人の俳優仕事が増えていきました。
2024年にはテレビ東京系ドラマ『夫の家庭を壊すまで』で、主人公の夫が勤務する会社の新入社員・松崎和歌子役を演じています。
ダウ90000でコントや演劇を続けながら、子どものころから望んでいた映像作品の役者としても仕事を重ねる形になりました。
フィルムカメラでメンバーを撮り続け、写真表現にも活動を拡大
中島さんの活動は、演じる側だけにはとどまりません。
趣味として使ってきたフィルムカメラで、ダウ90000のメンバーの日常や公演の舞台裏を撮るようになりました。
2025年には写真メディア「ENCOUNTER MAGAZINE」で写真企画へ参加し、メンバー以外の人物を撮影する連載にも挑戦しています。
第7回演劇公演『ロマンス』では、稽古や公演の合間に撮影したメンバーの姿が写真日記として公開され、俳優として同じ舞台へ立ちながら、カメラ越しにもグループを記録しました。
舞台では役を演じ、舞台を降りると自分のカメラで仲間を撮るという活動も、中島さんの仕事の一つになっています。
6000結成と現在の中島百依子|演劇・コント・漫才・俳優へ
ダウ90000が8人で活動を続ける一方、メンバーそれぞれの個人活動も増えていきました。
中島さんの場合は俳優や写真に加え、大学時代から一緒に作品を作ってきた蓮見翔さんとの2人漫才も始まります。
蓮見翔との漫才コンビ「6000」を2024年末に結成
中島さんと蓮見さんによる漫才コンビが「6000」です。
M-1グランプリ公式サイトでは、6000の結成年を2024年12月15日としています。
大学1年のころに練馬のマクドナルドで初めて蓮見さんと話し、その後は大人数の演劇やコントで一緒に活動してきた2人が、今度は2人だけで漫才をする形になりました。
2025年には6000としてダブルインパクト準々決勝、さらにM-1グランプリでも準々決勝へ進んでいます。
大学時代にはコントをやっていることすら意識していなかった中島さんが、後には漫才コンビとしてM-1へ出場するまでになりました。
個人活動が増えても「ダウ90000を地盤に」という思い
俳優や6000での漫才など活動が広がっても、中島さんはダウ90000を離れて個人へ軸足を移したわけではありません。
まだ活動が広がり始めた2022年の段階から、個々の力を強くすることでグループも守り、ダウ90000という地盤を崩したくないという考えを語っていました。
蓮見さんもメンバーにはダウ90000を「ホーム」として、そこからドラマや映画など自分たちの仕事へ進んでほしいと話しています。
ダウ90000を続けながら、それぞれが外の仕事へ出ていく形が実際の活動として続いています。
両親とのキャンプや写真にも見える現在の素顔
成人後の中島さんには、子ども時代とはまた違う家族との時間も生まれています。
キャンプを好きになった時期に父親もソロキャンプを始め、いつしか父娘の共通の趣味になりました。
両親は福岡で暮らしているため頻繁に会えるわけではありませんが、帰省した際には一緒にキャンプへ出かけています。
「オトナになって、両親と一緒にまた何かできることが嬉しい」
ラジオNIKKEI「LOGOS presents CAMP RADIO」
2026年の正月に帰省した際には、両親だけでなく姉と義兄も交えて1泊キャンプへ出かけたことも、ラジオ番組で紹介されています。
小中学生のころ、外では人見知りでも家族の前では活発だった中島さんにとって、家族と過ごす時間は大人になった現在にも残っています。
「ロマンス」受賞と2026年「40000」へ続く現在地
ダウ90000の演劇活動も、大学時代から大きく規模を変えました。
2025年に上演された第7回演劇公演『ロマンス』は東京、大阪、金沢、福岡などへ広がり、中島さんも8人のメンバーとして出演しました。
『ロマンス』は2026年2月に第70回岸田國士戯曲賞を受賞しています。
さらに2026年7月からは、約2年ぶりとなるコント単独ライブ『40000』を開始し、大阪、東京、札幌、仙台、福岡など全10都市を巡る公演へ進みました。
30人規模の客席を知人へ声をかけながら埋めていた時期から、8人で全国各地の劇場を巡る活動へ進んでいます。
保育園のころから抱いていたのは女優になる夢で、高校時代のカナダ留学を経て、その夢を自分の進路として選べるようになりました。
日芸で忽那文香さんと仲良くなろうと観に行った一度の公演から蓮見翔さんたちと出会い、演劇を続けるうちにコント、賞レース、漫才へと活動する場所が増えていきました。
現在はダウ90000の舞台に立ちながら、俳優、6000での漫才、写真と、大学へ入る前にはまだ見えていなかった仕事にも取り組んでいます。












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