人物プロフィール
おかっぱ頭で小声のまま言葉を重ね、相方のきむらバンドさんがやさしく受け止める漫才で知られるお笑いコンビ「たくろう」の赤木裕さん。
2025年12月には結成9年目で初めてM-1グランプリ決勝へ進み、そのまま優勝して第21代M-1王者となりました。
舞台では独特の間と挙動まで笑いになる赤木さんですが、子どものころは、練習試合から帰る電車の中で「トイレに行きたい」と言い出せないほど人前で声を出すことが苦手でした。
しかも、小中高で追いかけていたのは芸人ではなくプロ野球選手で、高校3年で野球選手への道が閉じたあと、京都産業大学での4年間を経てNSCへ進んでいます。
現在の相方と出会うまでにも、NSC時代の2つのコンビ、約1年間のピン活動があり、そこから2016年にきむらバンドさんと「たくろう」を結成しました。
滋賀で野球をしていた少年が、大学で就職を考え、芸人を選び、何度もコンビを組み直しながら現在の漫才へたどり着くまでには、テレビで見る姿だけでは分からない時間が続いています。
赤木裕の生い立ちと家族|野洲から大津へ移った野球少年
赤木裕さんは1991年10月24日生まれで、幼少期を滋賀県野洲市で過ごし、小学生のころに大津市へ移りました。
現在の漫才では、人とうまく会話がかみ合わないような振る舞いも笑いになりますが、子ども時代にはそれに近い出来事が日常の中にありました。
小学生で大津へ転居|人前で声を出すのが苦手だった子ども時代
赤木さんは後年のインタビューで、小学4年生ごろに転校したと振り返っています。
転校そのものには乗り気ではありませんでしたが、父親の影響で巨人ファンだったことから、「野球をやらせてくれるなら転校してもいい」という条件を出しました。
転校先ではリトルリーグのチームに入り、放課後や休日に仲間とグラウンドへ集まる生活が始まります。
ただ、野球仲間の中に入っても、人前で自分の希望を伝えるのは苦手なままでした。
ある練習試合の帰り、電車の中でトイレへ行きたくなったものの、それを周囲へ言い出せず、父親も一緒にいる中で間に合わなかったことがあったそうです。
「トイレに行きたい」と言うことさえできなかったという小学生時代の姿は、後に舞台上で見せる赤木さんとはかなり違います。
父・母・姉との4人家族|家ではほとんど話さなかった赤木裕
家族は父親、母親、姉、赤木さんの4人です。
子どものころは家の中でも口数が少なく、本人は「基本的に人見知りで、家でもおとなしかった」と振り返っています。
父親については厳しかった記憶も残っており、小学生のころ、学校へ提出するプリントを何日か忘れていたときの出来事を覚えています。
父親から何度も「プリントを持ったのか」と確認され、赤木さんが強い口調で言い返したところ、そのとき父親が食べていたヨーグルトが床へ飛び散り、母親が黙って雑巾を持ってきて拭いたそうです。
赤木さんの記憶にはヨーグルトの種類まで残っており、家庭での一場面をかなり具体的に覚えています。
小学6年で初めて漫才|クラスメイトが考えたネタで人前へ
お笑いとの最初の具体的な接点は、小学6年生の学校行事でした。
当時の赤木さんは『エンタの神様』などが放送されていれば見る程度で、特別なお笑い少年ではありませんでした。
文化祭のような行事で模擬店や演劇などの班が作られた際、野球仲間からお笑い班へ誘われ、最初は4人で参加します。
ところが本番が近づくと2人が抜け、赤木さんともう1人だけが残りました。
2人ともネタを書いた経験がなかったため、先生がクラス全員へ「ネタを考えてくる」という宿題を出し、集まった案を赤木さんたちが読んで採用するものを選びました。
赤木さんが後まで覚えていたのは、「今、何年?」と聞かれて西暦で答えるというやり取りで、本番の反応も悪くなかったそうです。
ただし、この漫才をきっかけに芸人を目指したわけではありません。
人前へ積極的に出るタイプではなかった赤木さんが一度だけ漫才を経験したあと、再び生活の中心になったのは野球でした。
打出中から光泉高校へ|プロ野球選手を目指した学生時代
大津市へ移ってからは平野小学校、打出中学校、光泉高校へ進んでおり、この学校歴は滋賀県の公式発信でも確認されています。
小学生で始めた野球は、中学、高校へ進んでも続きました。
打出中野球部で琵琶湖沿いを走った毎日
大津市立打出中学校では野球部に入り、練習に取り組んでいます。
後に滋賀県へ凱旋した際には、中学時代のトレーニングとして、琵琶湖沿いのなぎさ公園付近から近江大橋を渡って往復していたことを振り返りました。
休日には友人と浜大津周辺へ出かけることもあり、映画やボウリングなど、大津で学生生活を送っています。
このころも進路の中心にあったのはお笑いではなく、野球を続けることでした。
光泉高校でも野球を続け、高校3年でマネージャーへ
中学卒業後は光泉高校、現在の光泉カトリック高等学校へ進み、硬式野球部に所属しました。
学校公式でも赤木さんを2009年度卒業の元硬式野球部員として紹介しており、本人も当時はプロ野球選手になりたいと思っていたと話しています。
しかし高校3年になると、監督から選手として先へ進むのは難しいという趣旨の話をされました。
そこで選手からマネージャーへ回り、長く追ってきたプロ野球選手という進路がなくなります。
小学生で一度漫才をしていたものの、この時点で「それなら芸人になろう」とすぐに方向を変えたわけではありません。
プロ野球選手の夢が終わり、京都産業大学への進学を選ぶ
高校卒業後に選んだのは、芸人の養成所ではなく京都産業大学への進学でした。
大学公式の記録では、赤木さんは経営学部に在籍し、2014年3月に卒業しています。
高校まで長く続けた野球は大学でも完全には離れず、自分で新しい居場所を作ることになります。
京都産業大学で進路が変わる|就活から「一発逆転」で芸人へ
高校までの部活動とは違い、大学では自分でメンバーを集める側になりました。
その生活を楽しんでいた赤木さんにも、卒業が近づくにつれて就職を考える時期がやってきます。
経営学部へ進学し、草野球サークル「ディボーションズ」を立ち上げる
京都産業大学では、初心者を多く集めて草野球サークル「ディボーションズ」を立ち上げました。
高校では最後にマネージャーへ回っていましたが、大学のサークルでは赤木さん自身が4番打者でキャプテンを務めています。
サークル名は当時付き合っていたマネージャーの女性が好きだった歌手の歌詞から付けたもので、「devotion」が持つ敬愛や献身といった意味から名付けられました。
本人は当時について、仲間と過ごす時間が楽しく、自分なりに「陽の当たるところ」にいられる感覚があったと振り返っています。
就活を前に、お笑いが進路の候補へ
大学生活を送るうちに、避けられなくなったのが卒業後の進路でした。
赤木さんには、この職業に就きたいという明確な希望がなく、就職活動を意識する中で「自分は何をやりたいのか」を考えるようになります。
学生時代には警備員やコンビニなどでアルバイトを経験しましたが、手際よく仕事をこなすことができず、注意されることも多かったそうです。
会社へ就職しても同じようになるのではないかと考え、自分に何が残っているかを考えた先で、お笑いが選択肢に入りました。
「お笑いは一発逆転があるかなと」
月刊芸人「The origin of Laugh feat.たくろう」
小中高の野球でも中心選手だったわけではなく、高校では最後にベンチからも外れた経験があったため、本人はNSCなら別のチャンスを探せるかもしれないと考えました。
野球を諦めた高校3年ではなく、大学卒業を前に就職を考えた時期が、赤木さんが芸人を選んだ直接の転機でした。
芸人になる決断を家族は「社会勉強になる」と送り出した
芸人になると家族へ伝えたとき、両親から強く反対されることはありませんでした。
子どものころから家でもほとんど話さず、人とのコミュニケーションが苦手だったことを家族も知っていたからです。
「芸人さんからいろいろ学べるんやったら、いい社会勉強になるんちゃうか」
CHANTO WEB
2014年3月に京都産業大学を卒業した赤木さんは、その年にNSC大阪37期へ入り、お笑いの世界へ足を踏み入れました。
NSC大阪37期|2度のコンビ解散を経験した養成所時代
NSCへ入れば、すぐに現在の「たくろう」が始まったわけではありません。
赤木さんは養成所で低い評価を受ける授業も経験し、相方を替えながら卒業を迎えています。
一人しゃべりは100点満点中4点|NSCで受けた最初の洗礼
NSCの授業には、一人で前に出てしゃべり、その内容を評価される授業がありました。
1期上のきむらバンドさんは同じ種類の授業で1位になった経験がありますが、赤木さんは100点満点で4点という評価を何度も受けたと話しています。
大学まで人前で話すことを得意としてきたわけではない赤木さんにとって、養成所へ入っただけで状況が一変したわけではありませんでした。
それでも在学中から一人で活動するのではなく、相方を探して漫才に取り組み始めます。
「あぶりぽンズ」から「ムミムシュウ」へ
NSC在学中に最初に組んだコンビが「あぶりぽンズ」でした。
夏の「今宮子供えびす新人漫才コンクール」へ出場したあとに解散し、最初のコンビ活動は長く続きませんでした。
その後、NSCの合宿で知り合った加藤さんと「ムミムシュウ」を結成します。
ムミムシュウではクラスも上がり、赤木さん自身も手応えを感じるようになっていました。
しかし加藤さんは家族の反対を押し切ってNSCへ入っており、卒業ライブで首席になれなければ芸人を辞めると決めていました。
結果は首席に届かず、NSC卒業と同時にムミムシュウも解散します。
卒業後はピンで「アホマッチョ刑事」を続けた
再び相方がいなくなった赤木さんは、卒業後に約1年間ピンで活動しました。
そのころ続けていたのが、一人コント「アホマッチョ刑事」です。
細身の赤木さんがマッチョスーツを着け、「アホだけれど筋肉で事件を解決する刑事」という設定で演じるネタでした。
オーディションの作家から改善点を指摘されても、ほとんど変えずに同じネタを出し続け、後年には本人も「ピンでやる気はなかった」と明かしています。
ピンを続けながら新しい相方を探していた時期に、1期上でNSC大阪36期のきむらバンドさんとの話が動き始めました。
きむらバンドとの出会い|2016年「たくろう」結成まで
2人の間をつないだのは、NSCで講師のアシスタントをしていたチェリー大作戦・宗安聖さんでした。
ただし、きむらバンドさんと赤木さんでは、初めて会った時点でコンビ結成に対する温度差がありました。
宗安聖の紹介で出会い、きむらバンドは赤木裕にひと目惚れ
きむらバンドさんは当時、周囲のNSC関係者から「おもしろい後輩がいる」と赤木さんの名前を聞いていました。
心斎橋駅前で待ち合わせた際、やって来たのは現在よりかなり細く、太い眉毛が目立つ赤木さんでした。
後年の別のインタビューでは、当時の赤木さんが2リットルの水と大袋のシリアルを持ち歩き、歩きながら少しずつ食べていた姿まで覚えていると話しています。
「僕は一目惚れでしたね。もう見た目最高やん!て」
月刊芸人「The origin of Laugh feat.たくろう」
きむらバンドさんはファミリーレストランへ移ると、自分に何ができるのかを赤木さんへ説明し、一緒に組みたいと働きかけました。
インディーズライブで試しながらも、赤木は結成を即決しなかった
一方の赤木さんは、声をかけられてすぐ「この人と組む」と決めたわけではありません。
当時のNSCにはコンビ解散後、半年間は新しいコンビを組めないというルールがあったため、2人はまずインディーズライブなどへ試験的に出演しました。
一緒にネタをして手応えが見え始めても、赤木さんは正式な結成を決めかねていました。
宗安さんたちと、愛媛にあるきむらバンドさんの実家へ遊びに行った際にも、車の中で宗安さんから「木村と組むの?」と聞かれ、「まだわからない」と答えています。
きむらバンドさんは「実家まで来るなら組むつもりなのだろう」と思っていたため、その返事を運転席で聞いて戸惑ったそうです。
「長く続けられる、いい人」が決め手となりコンビ結成へ
赤木さんが慎重になっていた背景には、NSCですでに2度のコンビ解散を経験していたことがありました。
ネタや実績を積んでも解散すれば、それまで作ったものを一度手放すことになるため、次は長く活動できる相手かどうかを重視しました。
最終的に選んだのが、「長くやっていけそうで、人としていい」と感じたきむらバンドさんでした。
2人は2016年3月9日に「たくろう」を正式結成し、赤木さんにとって3組目のコンビが始まります。
コンビ名は、きむらバンドさんが木村拓哉さんのファン、赤木さんがイチローさんのファンだったことから、それぞれの名前を組み合わせて「たくろう」としました。
結成約3か月で現在につながる漫才の形が生まれる
結成当初から現在のような漫才だったわけではありません。
赤木さんは天竺鼠・川原克己さんのように、どっしり構えてボソッと面白いことを言うスタイルに憧れ、きむらバンドさんはフットボールアワー・後藤輝基さんのような鋭いツッコミを意識していました。
ところが、2人とも自分たちに合わない形を無理に演じ、結成直後はなかなか客席の反応を得られませんでした。
そこで台本を細かく固めることをやめ、赤木さんは普段のテンパりやすい話し方を隠さず、きむらバンドさんも強く訂正するのではなく、普段と同じようにやさしく返すようになります。
結成から約3か月で、現在につながる「赤木を基本的に肯定する漫才」の形ができました。
芸人になる前から困ることの多かった赤木さんの話し方や動きが、隠すものではなく舞台上の要素へ変わっていきます。
結成直後のたくろう|劇場とアルバイトを行き来した若手時代
漫才の形が見つかると、たくろうは早い段階で大阪の劇場で結果を出します。
一方で、それだけで生活できるようになったわけではなく、赤木さんはアルバイトを続けながら舞台へ立っていました。
結成5か月でKakeru翔グランプリWEST優勝
結成から約5か月後、たくろうは大阪・よしもと漫才劇場の若手ネタバトル「Kakeru翔グランプリWEST」へ出場しました。
初出場でそのまま優勝し、コンビを組んだばかりの2人が早くも劇場で結果を残します。
2016年のうちに漫才の基本形ができ、結成5か月でタイトルも獲得したため、活動の始まりは比較的早いものでした。
このあと長く活動の中心となるのが、若手芸人が日々ネタを磨くよしもと漫才劇場です。
難波の「珈琲艇キャビン」で続けたネタ合わせ
若手時代に2人がネタ合わせで利用していた場所の一つが、難波にある船を模した喫茶店「珈琲艇キャビン」でした。
ある日、約束した時間になっても赤木さんが現れず、きむらバンドさんは店で待ち続けます。
赤木さんがやって来たのは約5時間後で、店へ入るとカレーを注文し、一口食べて「辛すぎる」と言い、そのまま帰ろうとしたそうです。
きむらバンドさんは待っている間、「赤木と待ち合わせしている」のではなく、自分一人で店へ来て、たまたま赤木に会ったことにしようと頭の中で設定を変えていました。
赤木さん自身は、行きたくなかったものの相方が待っているので店まで行ったと後に説明しています。
アルバイトが続かない中、釣り堀で働いた赤木裕
芸人だけでは生活できなかったころ、赤木さんは飲食店など複数のアルバイトを経験しました。
ただ、仕事中にうまく受け答えできなかったり、皿を何枚も割ったりして、長く続かなかった職場もありました。
そんな中で比較的長く続いたのが、大阪市内の釣り堀でのアルバイトです。
当時の時給については本人が「900円くらい」と振り返っており、劇場へ出演しながら釣り堀で働く生活を送っていました。
2018年になると、結成してまだ数年だったたくろうに、仕事の状況を変える最初の大きな機会が訪れます。
M-1 2018準決勝から続いた7年間|早い手応えのあとに来た停滞
たくろうが全国規模の賞レースで大きく前へ進んだのは、M-1グランプリ2018でした。
ところが、ここで一気に決勝へ進んだのではなく、この準決勝から次に同じ場所へ戻るまで7年かかります。
敗者復活戦でまさかのタイムオーバー、それでも強く残った手応え
2018年、たくろうはM-1準決勝へ初進出し、決勝を逃したあと敗者復活戦へ回りました。
その敗者復活戦で起きたのが、出場コンビで唯一となったタイムオーバーです。
当時のルールではネタ時間3分、3分30秒で強制終了となる中、2人は約3分20秒のネタを用意していました。
普段は緊張すると早口になるため、出番直前に「ゆっくり、大きな声でやろう」と確認した結果、いつもより時間を使ってしまい、赤木さんが最後のセリフを言う直前に終了音が鳴りました。
オチの直前で漫才が強制終了するという失敗になりましたが、赤木さんにはその日の漫才そのものへの強い手応えが残りました。
準決勝まで進んだことで仕事も増え、赤木さんはそれまで続けていたアルバイトを辞めることができました。
アルバイトを辞め、夜の会議室でネタを作り続けようとする
一度準決勝まで進んだことで、2人は賞レースでさらに結果を出せば状況を変えられると考えるようになります。
そこで事務所の会議室を毎晩22時ごろから深夜3時ごろまで押さえ、5~6時間をネタ作りに使おうとしました。
しかし机に向かえば次々にネタができるわけではなく、ネタ担当の赤木さんは思いつかないままスマートフォンのゲームを始めます。
そのまま5時間ほどゲームをして終わる日もあり、漫才ではなく、そのゲームのスコアランキングで全国2位に入ったこともありました。
隣ではきむらバンドさんが何も言わず待ち、赤木さんが「帰ろうか」と声をかけると普通に応じるという夜が続きました。
2020年ごろから仕事が減り、ネタでも迷走
2018年に準決勝へ進んだあと、M-1では2019年、2020年と準々決勝まで進みましたが、決勝への距離は縮まりませんでした。
2020年ごろになるとテレビの仕事も減り、コンビはネタの方向でも迷うようになります。
それまでの役割を入れ替え、赤木さんがツッコミ、きむらバンドさんがボケを試した時期もありましたが、結果にはつながりませんでした。
仕事の少ない時期には、赤木さんが同期芸人と週3回ほどキャッチボールをして過ごし、突然カーブを投げて相手を驚かせることまでしていたと後に明かしています。
早く結果が出たコンビだったからこそ、2018年の準決勝以降に成績が伸びない時間が長く続きました。
2023年には「一度芸人を休みたい」と考えるまでに
状況が変わらないまま数年が過ぎ、2023年ごろには、ネタ作りのために会議室へ通うことを提案した赤木さん自身が活動から離れることを口にします。
「一回芸人を休んでひとりになりたい」
テレ朝POST「しくじり先生」
後に本人は、何をしても結果が出ず、仕事も右肩下がりになっていたことで、一度一人になりたかったと説明しています。
2018年のM-1準決勝から5年後、芸人を続けること自体から距離を置きたいところまで来ていました。
2024年の準優勝を経て、2025年に7年ぶりのM-1準決勝へ
それでもコンビ活動は続き、2024年には第54回NHK上方漫才コンテストで準優勝します。
M-1だけを見れば決勝には届かない時間が続いていましたが、普段立っている大阪の劇場では、目の前の客席で反応のあるネタを残していきました。
「僕らの一番の正義は、目の前のお客さんに笑っていただくこと」
QJWeb
かっこいいボケや尖ったネタを無理に作ろうとするより、劇場へ来た人が笑うものを優先するようになり、よしもと漫才劇場でネタを磨き続けました。
そして2025年、たくろうは2018年以来7年ぶりとなるM-1準決勝へ進出します。
そこから初めて、決勝進出者として名前を呼ばれました。
M-1グランプリ2025初決勝で優勝|大阪から東京へ
2025年12月21日のM-1グランプリ決勝は、たくろうにとって初めて立つ決勝の舞台でした。
2018年の準決勝から7年間戻れなかった場所を越えたその日に、コンビ最大の結果が出ます。
初めてつかんだM-1決勝で11,521組の頂点へ
M-1グランプリ2025には、史上最多となる11,521組がエントリーしました。
たくろうはファーストラウンドで861点を獲得して2位で最終決戦へ進みます。
最終決戦でも漫才を披露し、M-1グランプリ2025で優勝、第21代王者となりました。
初めてM-1決勝へ進出した大会で、そのまま11,521組の頂点に立ったことになります。
優勝直後には仕事の依頼が相次ぎ、2018年の準決勝後にアルバイトを辞め、その後もう一度アルバイトが必要になりそうなところまで仕事が減っていた状況も一変しました。
優勝後に仕事が増え、母校・滋賀へ凱旋
M-1優勝から約3週間後の2026年1月14日、赤木さんは相方とともに母校・京都産業大学を訪れました。
大学から赤木さんへ卒業生顕彰が贈られ、きむらバンドさんには感謝状が渡されています。
会場の神山ホールには在学生や教職員ら約1,000人が集まり、学生時代に草野球サークルを作っていたキャンパスへ、M-1王者として戻ることになりました。
その後は滋賀県庁も訪れ、中学時代に近江大橋を走っていたことなど、大津で過ごした学生時代を改めて語っています。
小学4年ごろの転居を嫌がっていた少年が長く暮らした滋賀へ、芸人として結果を残したあとに戻ってきました。
2026年4月から東京へ|それでも漫才を活動の中心に
M-1優勝後、たくろうは2026年4月から活動拠点を東京へ移すことを発表しました。
3月15日には、長く舞台へ立ってきたよしもと漫才劇場で卒業単独ライブを開催し、大阪での若手時代に一区切りをつけています。
きむらバンドさんは東京進出前の劇場について、グランドバトルでも寄席でも「自分たちは漫才をするだけ」という趣旨の言葉を残しており、活動場所が変わっても舞台に立つ姿勢は変えていません。
大学卒業後にNSC大阪37期へ入り、約12年を過ごした関西から、M-1優勝を経て東京での活動が始まりました。
人前で「トイレに行きたい」と言えなかった少年時代には、赤木裕さんが漫才師になる未来はまだ見えていませんでした。
プロ野球選手の夢が終わり、大学で就職を考えたところからNSCへ進み、2度のコンビ解散とピン活動を経て出会ったきむらバンドさんとの漫才が、その後の長い芸人人生になりました。
2018年のM-1準決勝から7年を経て2025年に優勝し、2026年には大阪から東京へ活動の場所を移して、たくろうとして再び舞台へ立っています。












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