ヤーレンズ出井隼之介の生い立ち|神戸への転校でラジオにハマり、大学中退から芸人へ

人物プロフィール

生年月日
1987年3月2日
身長
173cm
血液型
B型
出身地
神奈川県 横浜市
コンビ・グループ名
ヤーレンズ
相方・メンバー
楢原真樹
結成年
2011年
所属事務所
ケイダッシュステージ
芸人活動開始年
2007年
養成所・スクール
NSC大阪校 29期

ヤーレンズの出井隼之介さんは、楢原真樹さんの大量のボケを受け止めるツッコミとして漫才の舞台に立ち、M-1グランプリでは2023年から3年連続で決勝へ進出しています。

2023年には初めて進んだ決勝で準優勝し、その後はテレビだけでなく、TBSラジオやニッポン放送、ABCラジオなどにも活動の場を広げました。

そんな出井さんがお笑いを身近に感じるようになった入口は、舞台でも養成所でもなく、中学生のころに横浜から神戸へ移り、関西弁を覚えようとして聴き始めたラジオでした。

高校ではお笑いへの気持ちが少しずつ膨らみ、いったん大学へ進学したものの1年で退学し、神戸・三宮で働いて養成所へ入る資金を準備しています。

そこからNSC、元コンビの解散、楢原さんとの出会い、大阪から東京への移動、長いアルバイト生活を経て、全国に知られるヤーレンズへたどり着くまでには十数年の時間がありました。

出井隼之介の生い立ちと家族|神戸で生まれ、横浜で育った少年時代

出井隼之介さんは1987年3月2日生まれです。

プロフィールでは神奈川県横浜市出身と紹介されることが多い一方、本人は2026年のインタビューで、出生地と育った場所をもう少し細かく説明しています。

神戸で生まれてすぐ横浜へ|小学生までは「輪の外」ではなかった

出井さんが生まれたのは兵庫県神戸市で、その後すぐに家族で横浜へ移りました。

本人によると、12歳までは横浜で生活しており、小学校時代までは後の神戸時代ほど周囲との距離を感じることもなかったそうです。

「正確には、神戸で生まれたあとすぐ横浜に移って」

Represent

現在の公式プロフィールにある「横浜市(中学生まで)→神戸市(中学生から)」という経歴は、この幼少期の移動を表したものです。

父が毎朝淹れていたコーヒー|家の朝にあった豆を挽く音

子どものころの家庭の記憶として、出井さんが繰り返し語っているのがコーヒーです。

父親はコーヒー関連の会社に勤めており、家では毎朝、自社のコーヒー豆を挽いてコーヒーを淹れていました。

まだブラックコーヒーを飲む年齢ではなかった出井さんには、父親が牛乳を加えてカフェオレを作ってくれていたそうです。

朝に豆を挽く音がする家庭で育ったことは、ずっと後になって出井さん自身がコーヒーを淹れる習慣にもつながっていきます。

中学で横浜から神戸へ|転校初日の違和感からラジオにのめり込む

出井さんの生活が大きく変わったのは中学生になるころでした。

それまで暮らしていた横浜を離れ、家族とともに神戸へ移ったことで、言葉も学校の空気も一度に変わります。

学ランの学校へ一人だけブレザーで登校した転校初日

転校初日から、出井さんは周囲とは違う姿で教室へ入ることになりました。

新しい学校の制服がまだ間に合っておらず、周囲の生徒が学ランを着ているなか、出井さんだけがブレザー姿だったのです。

さらに横浜から来た出井さんが話すのは標準語で、関西弁の生徒が集まる学校ではそれだけでも目立ちました。

本人は当時、上級生のいる廊下を歩くだけでも声をかけられるような状態だったと振り返っています。

小学生までは周囲の輪から外れている感覚が特になかった出井さんにとって、神戸への転校は、自分と周囲との距離を強く意識する最初の出来事になりました。

関西弁を覚えるためキングコングらのラジオを聴き始める

神戸の学校になじむため、出井さんが考えたのが関西弁を覚えることでした。

そこで聴き始めたのが、当時の若手芸人が出演していたラジオです。

キングコング、陣内智則さん、ケンドーコバヤシさんらの番組を聴き、話し方や関西弁に触れていくうちに、目的は言葉を覚えることだけではなくなっていきました。

関西弁を身につけようとして聴いたラジオから、お笑いそのものを深く追うようになったのです。

後にNSCを選ぶ際、特に好きだった芸人として名前を挙げることになるケンドーコバヤシさんとも、このころからラジオを通して接していました。

剣道とヒップホップ|クラスの中心を少し離れて見る中学時代

中学では剣道部に入りながら、もう一つ夢中になったのがヒップホップでした。

こちらも入口はラジオで、KICK THE CAN CREWの楽曲を知ったことからCDを買い、RIP SLYMEやキングギドラなどへ聴く範囲を広げていきました。

学校では、スポーツが得意でクラスの中心にいる生徒たちから少し離れた位置にいることが増えたといいます。

本人は後年、環境が変わったことで強制的に輪の外側へ出た感覚があったと話しており、教室の中心に飛び込むより、少し離れたところから周囲を見る中学生になっていきました。

高校時代|“青春”から距離を取りながら芸人を意識

中学卒業後は須磨学園高校へ進みました。

高校でもお笑いとヒップホップへの興味は続きましたが、学校行事には積極的に混ざらず、本人の言葉を借りればいわゆる「青春」から距離を置くような過ごし方をしていました。

文化祭を休み、体育祭の日には京都へ向かった高校生活

本人が高校時代を振り返った文章には、学校行事を避けていた場面がいくつも残っています。

文化祭では最初から参加するつもりが薄く、事前の打ち合わせにも加わらず、当日も学校を休みました。

体育祭では朝の出席を取ったあと、競技へ向かわず誰もいない教室で寝ていた年もあり、別の年には京都へ寺を見に出かけたこともあったそうです。

人前へ出ること自体を嫌っていたわけではなく、お笑いは見続けていましたが、クラス全体で一つの行事に熱中する空気には入っていきませんでした。

お笑いとヒップホップを話せた友人が先に「芸人になる」と高校を去る

高校には、出井さんとヒップホップの話もお笑いの話もできる、特に気の合う同級生がいました。

ところが、その友人がある日、「芸人になる」と言って高校を辞めます。

出井さん自身も高校の途中から「お笑いをやりたい」という気持ちは持っていましたが、その時点ではすぐに学校を辞めて芸人になる決断まではしていませんでした。

友人が先に動いたことで、自分も芸人をやりたい一方、周囲と同じように大学へ進むのだろうかという迷いが残りました。

M-1を見続けながら「お笑いをやりたい」と思い始める

出井さんは2001年に始まったM-1グランプリを早い時期から見ていました。

ただ番組を楽しむだけではなく、友人と「今年はどのコンビが来るか」と話すほど芸人や漫才を細かく追っています。

高校時代にはすでに芸人という進路が頭にありながら、卒業時にはいったん大学へ進むことになりました。

大学進学から芸人になる決断へ|三宮で働き、NSCの資金を貯めた18歳

高校卒業後、出井さんは甲南大学へ進学しました。

しかし、大学へ入ったことで、かえって自分が本当に進みたい方向がはっきりしていきます。

大学でできた数少ない友人|朝までヒップホップを聴いた日々

大学では大人数の学生グループに混ざることはなく、本人が当時を振り返った文章では、親しくしていた友人は3人ほどだったと書いています。

なかでも印象的だったのが、長くフランスで生活し、帰国後に地元の仲間とヒップホップクルーを組んでいた年上の学生でした。

そのクルーは3MCにシンセサイザーという珍しい編成で、ライブへ誘われた出井さんは、友人が自分のパートをすべてフランス語でラップする姿も見ています。

別の友人の家では、OZROSAURUSなどを流しながら朝までゲームを続け、アルバイトの時間になればその友人を送り出すような日もありました。

高校から続いていたヒップホップは、大学でも数少ない友人とつながる共通の話題でした。

大学を1年で中退|芸人になりたい気持ちの強さに気づく

一方で、大学そのものの空気にはなかなかなじめませんでした。

出井さんは入学してしばらくすると、本格的にお笑いをやろうと考えるようになり、大学を1年で退学してNSCへ進むことを決めます。

「その気持ちが強かったことに大学に入ってから気づきましたね」

Represent

高校時代からぼんやり存在していた「芸人になりたい」という気持ちは、大学生活を経験したことで進路として具体的なものになりました。

三宮の居酒屋で月25日前後働き、養成所の入学資金を準備

大学を辞めたからといって、そのまますぐ養成所へ入れたわけではありません。

18歳だった出井さんは、神戸・三宮の居酒屋で月25日前後働き、NSCへ入るためのお金を貯めていきました。

大学を辞めるという決断の次にしたのは、舞台へ立つことではなく、入学資金を作るために働くことでした。

芸人になることには父親が反対していましたが、出井さんは自分で部屋を借りてお笑いの道へ進みます。

その出発時、幼いころから毎朝コーヒーを淹れていた父親が渡したのがコーヒーセットでした。

「送り出してくれる時にコーヒーセットを贈ってくれました」

CREA

出井さんが自分でコーヒーを淹れ始めたのも、このころからでした。

NSC大阪29期と元コンビ時代|高評価から解散まで

資金を準備した出井さんは、NSC大阪校29期へ入りました。

大阪で芸人を目指すなら当時はNSCという感覚が強く、何より中学生のころから聴いていたケンドーコバヤシさんへの憧れもありました。

ケンドーコバヤシらを聴いてきた出井がNSC大阪29期へ

ケンドーコバヤシさんが好きだった出井さんは、当時使っていたメールアドレスに「kendo-kobayashi」の文字を入れるほどでした。

NSC時代には大阪・西成で暮らし、授業やネタ作りの一方で、OZROSAURUSやTHA BLUE HERB、MSC、SHINGO★西成などの音楽も聴き続けていました。

現在の相方である楢原真樹さんはNSC大阪校28期で、同い年ながら大学へ1年間通った出井さんが1期後輩になります。

ただし、この時点ではまだ2人はコンビではありません。

NSCでは高評価だった「セカンドギア」|卒業後に失速

出井さんはNSCで相方を見つけ、「セカンドギア」として活動しました。

元相方は、後にピン芸人として活動するにっしゃんです。

養成所では最初に作ったネタが高く評価され、出井さん自身の記憶では同期のなかでもかなり上位にいるような扱いを受けていました。

ところが、NSCの外へ出てから同じ勢いは続きませんでした。

最初の1本に続くネタを作れず、養成所で評価された経験とは反対に、卒業後はオーディションにもなかなか通らない時間が始まります。

セカンドギアは解散し、その後は現在のすゑひろがりず・南條庄助さんと組んだ時期なども経ましたが、活動は長く続きませんでした。

元コンビ解散後、大学へ戻ることまで考えた22〜23歳頃

22〜23歳ごろになると、出井さんのなかで芸人を続けること自体が揺らぎ始めます。

親戚の集まりで「今、何をしているの?」と聞かれても胸を張って答えられず、芸人を辞めるなら改めて大学へ行くことや、きちんと働くことまで考えていました。

ちょうどそのころ、別のコンビで活動していた楢原さんも相方との活動が終わろうとしていました。

出井さんが芸人を辞める選択肢まで考えていた時期に、現在のヤーレンズへつながる誘いが来ます。

楢原真樹との出会いとコンビ結成|サザン仲間から標準語の引き漫才へ

NSCでは1期違いだった出井さんと楢原さんは、それぞれ別のコンビでライブへ出演するうちに顔を合わせるようになりました。

そこで2人を近づけたのは、お笑いだけではありませんでした。

ライブで顔を合わせ、サザンの“渋い曲”を歌う仲間に

2人にはサザンオールスターズが好きという共通点がありました。

通常のカラオケでは有名曲ばかりを求められて思うように好きな曲を歌えないため、サザン好きの仲間だけで集まり、一般にはあまり知られていない曲まで歌うカラオケをしていました。

出井さんと楢原さんは、舞台上でいきなり相方になったのではなく、ライブ仲間として顔を合わせ、サザンの曲を歌いに行く関係を経て距離を縮めていったのです。

楢原から「やってみないですか?」|辞めかけていた出井を誘う

楢原さんは新しい漫才を考えるなかで、大阪ではまだ目立っていなかった標準語で力を抜いて進める「引き」の漫才を試そうとしていました。

そのスタイルの相手として頭に浮かんだのが、横浜で育ち標準語を話す出井さんでした。

しかも出井さんが芸人を辞めそうだと知り、楢原さんは自分でネタを用意したうえで「やってみないですか?」と声をかけています。

一方の出井さんも新しい相方を探していたわけではなく、辞めるなら就職など別の道へ進もうとしていた時期でした。

2011年、出井さんは楢原さんと新しいコンビを組み、現在まで続く相方との活動を始めます。

結成3カ月弱でオーディション合格|ヒートアップからパープーズへ

2人が最初に名乗ったコンビ名は「ヒートアップ」でした。

その後「パープーズ」へ改名し、楢原さんが考えた標準語の漫才を軸に活動していきます。

それまで2人とも別々のコンビでなかなか突破できなかったオーディションに、新コンビでは結成から3カ月弱で合格しました。

相方を変えただけでなく、それまでとは違う漫才のスタイルを持ち込んだ直後に、一つ目の結果が出ています。

2012年「THE MANZAI」認定漫才師50組へ

結成翌年の2012年には、パープーズとして「THE MANZAI 2012」の認定漫才師50組に選ばれました。

当時の所属はよしもとクリエイティブ・エージェンシー大阪で、結成から約1年のコンビが全国の認定漫才師50組に入ったことになります。

出井さんもこの時期には「これ、いけるぞ」と感じていましたが、そのまま仕事が急増したわけではありませんでした。

早い段階で結果が出た一方、その後は大阪でなかなか次の段階へ進めない時期が続きます。

2014年に上京しヤーレンズへ|東京でも続いた長い下積み

大阪で活動を続けた2人は、2014年に環境そのものを変える決断をしました。

ここから、2023年のM-1初決勝まで約10年続く東京での生活が始まります。

大阪での伸び悩みから東京へ|「ヤーレンズ」へ改名

出井さんによると、当時のパープーズは大阪で主流だった雰囲気とは少し違う芸風で、それが大阪の空気とうまくかみ合っていない感覚がありました。

そこで所属していた吉本を離れ、2014年に東京へ移ることを決めます。

東京進出に合わせてコンビ名も現在の「ヤーレンズ」へ変更しました。

名前は2人が好きなサザンオールスターズの「YARLEN SHUFFLE~子羊達へのレクイエム~」に由来しており、曲名をもとに自分たちのコンビ名を探した末に決まりました。

その後はケイダッシュステージに所属し、東京で漫才を続けていきます。

朝のモスバーガーからライブ、深夜のファミレスでネタ合わせ

上京しても、すぐに芸人の仕事だけで生活できるようにはなりませんでした。

大阪時代には漫画喫茶やコンビニなど深夜に働けるアルバイトをしていましたが、夜型の生活を長く続けたことで体への負担を感じ、東京では朝のモスバーガーでも働いています。

当時の一日は、朝8時ごろから午後2時ごろまでアルバイトをし、帰宅して少し眠り、夕方5時ごろからライブへ向かうというものでした。

ライブ後に芸人仲間と過ごして深夜0時ごろになると、今度は楢原さんとファミリーレストランへ入り、2〜3時間ほどネタ合わせをします。

そこから再び朝のアルバイトへ向かうこともありました。

「お金はないけど暇でもない生活でしたね」

Represent

アルバイト、ライブ、深夜のネタ合わせが一日の中で連続する生活を繰り返しながら、2人は東京で舞台に立ち続けました。

芸人仕事とアルバイトで月12万〜15万円ほどだった時期

芸人としてはラジオのリポーターをしたり、ときどき深夜番組でネタを披露したりする仕事がありました。

ライブに多くの客が入れば収入が増える月もありましたが、出井さんによると、芸人の仕事とアルバイトを合わせても月12万〜15万円ほどの時期が続いています。

M-1でも何度も準々決勝まで進みながら、その先へ届かない年が重なりました。

2020年には4年連続5度目の準々決勝で敗退し、出井さんは自分のnoteに、それまで結果が出なかった年月や、敗退後に周囲の芸人から声をかけてもらった出来事を書いています。

「もう少しやろうかと思います」

出井隼之介 公式note

前年までの敗退後にも、TAIGAさんが缶コーヒーを買って一緒に歩いてくれたことなど、舞台の外で芸人仲間と過ごした場面が残っています。

2021年、周囲だけがM-1決勝へ進み「辞めようか」と考える

特に気持ちが揺れたのが2021年でした。

近い場所でライブをしてきたモグライダー、ランジャタイ、真空ジェシカ、錦鯉らがM-1決勝へ進み、それ以前にもトム・ブラウンやメイプル超合金など周囲の芸人が先に全国へ出ていました。

出井さんは、このころには「もう辞めようか」と考えるところまで来ていたと明かしています。

それでも後輩芸人から声をかけられ、モグライダー、ランジャタイ、ヤーレンズの3組でライブを行う機会ができ、錦鯉からネタ番組へ推薦してもらうこともありました。

自分たちの結果だけが停滞していた時期に、先に前へ進んだ芸人たちとの関係が途切れず、翌年の活動へ続いていきます。

M-1 2022から2023準優勝へ|仲間の後押しで変わった流れ

2022年になると、ヤーレンズの漫才をめぐる空気に変化が出始めました。

ライブの周辺でも「仕上がっている」と声をかけられるようになり、M-1ではそれまで越えられなかった準々決勝の先へ進みます。

モグライダー・ランジャタイ・錦鯉らの後押しで2022年に再び火がつく

2022年のM-1でヤーレンズは準決勝へ進出しました。

決勝には届かなかったものの敗者復活戦まで残り、前年までとは違う位置で大会を終えます。

その後、収入にも小さな変化が現れました。

出井さんによると、2022年の敗者復活を経た翌年の2023年4月、芸人として初めて月の給料が30万円になり、嬉しさから涙が出たそうです。

翌月は12万円、その次は6万円まで下がったため、ここで急に安定したわけではありません。

それでもM-1決勝へ進む前の時点で、仕事と収入には少しずつ変化が始まっていました。

敗者復活で令和ロマンと約束|2023年は毎月ツーマンライブ

2022年の敗者復活戦には、ヤーレンズだけでなく令和ロマンも出場していました。

どちらもそこで敗れ、翌年こそ決勝へ行こうと話した2組は、2023年に毎月ツーマンライブを開催します。

令和ロマンの髙比良くるまさんも、後にM-1公式インタビューでヤーレンズとの1年間を振り返りました。

「今年は決勝に行くぞと毎月ツーマンライブをやってきた」

M-1グランプリ公式

1年前には敗者復活で並んでいた2組が、2023年12月にはそろって決勝進出者として名前を呼ばれることになります。

M-1 2023初決勝で準優勝|最終決戦は4対3の1票差

2023年12月24日、ヤーレンズは結成12年目で初めてM-1グランプリ決勝の舞台に立ちました。

ファーストラウンドでは656点を獲得し、さや香、令和ロマンとともに最終決戦へ進みます。

最終決戦に残った令和ロマンは、前年の敗者復活戦から毎月一緒にライブを続けてきた相手でもありました。

審査員の最終投票は、令和ロマン4票、ヤーレンズ3票。

初めてのM-1決勝は、わずか1票差の準優勝という結果になりました。

中学時代にラジオからお笑いへ入り、高校、大学、NSC、元コンビ、大阪と東京での活動を経て、テレビでM-1を見ていた少年が決勝の最終2組まで残ったのは、芸人を志してから長い時間が過ぎた2023年のことでした。

2024・2025も決勝5位|3年連続ファイナリストへ

2023年の準優勝後も、ヤーレンズはM-1への挑戦を続けました。

2024年も決勝へ進み、825点で5位。

さらに2025年も3年連続となる決勝進出を果たし、トップバッターで843点を獲得して5位となりました。

初決勝だけで終わらず、3年続けて同じ舞台へ戻ったことで、M-1はヤーレンズの仕事が増えるきっかけであると同時に、その後も漫才を続ける大きな軸になっています。

ラジオ・コーヒー・漫才へ|出井隼之介の現在

M-1をきっかけに全国で名前を知られるようになった後も、出井さんの活動には昔から続いているものがいくつもあります。

その一つが、中学時代に神戸で聴き始めたラジオです。

中学時代に聴いていたラジオが、現在は複数のレギュラー番組へ

2026年現在、ヤーレンズはTBSラジオ「ヤーレンズの#ふらっと」、ニッポン放送「ヤーレンズのオールナイトニッポン0(ZERO)」、ABCラジオ「ツギハギ月曜日~ヤーレンズのダダダ団!~」などでレギュラーを持っています。

関西弁を覚えるために芸人の声を聴いていた中学生が、今度は自分の声を定期的にラジオから届ける側になりました。

テレビ東京「真空レンズ」などテレビでの活動も続いていますが、漫才の舞台とラジオは現在のヤーレンズを支える大きな仕事になっています。

コーヒー好きが連載や仕事にも広がる

もう一つ長く続いているのがコーヒーです。

子どものころは父親が毎朝豆を挽き、芸人になるため家を出るときには、その父親からコーヒーセットを贈られました。

現在の公式プロフィールでもコーヒーとカフェ巡りが趣味に挙げられ、出井さんはコーヒーをテーマにしたWeb連載も持つようになっています。

芸人になる前から家にあったものが、売れた後になって新しく作られたキャラクターではなく、そのまま現在の仕事の一部にも入っています。

2026年はM-1ラストイヤー|出場を表明して挑戦中

ヤーレンズは2011年結成のため、M-1の出場資格では2026年がラストイヤーにあたります。

出井さんは2026年7月、自身の公式XでM-1グランプリ2026への出場を表明し、エントリーナンバーが1064であることも公表しました。

2026年8月22日時点では大会は進行中であり、ラストイヤーの最終結果はまだ決まっていません。

大学を辞めてNSC大阪校29期へ入り、芸人を辞めることまで考えた時期を経た出井隼之介さんは、結成15年目のヤーレンズとして最後のM-1に臨んでいます。

横浜から神戸へ移った中学生が、周囲になじむために聴き始めたラジオから、お笑いへの興味は始まりました。

大学を1年で辞め、NSCへ進み、楢原真樹さんと出会ってからも長く結果が出ない時期は続きましたが、2人は東京で漫才を続け、2023年にM-1準優勝まで進みました。

2026年現在も、出井さんは中学時代から身近だったラジオ、父親との記憶から続くコーヒー、そして楢原さんとの漫才を仕事にしながら活動を続けています。

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