濱家隆一の生い立ちと若い頃|野球部主将からNSCへ、かまいたち結成までの道のり

人物プロフィール

本名
濱家隆一
生年月日
1983年11月6日
身長
187cm
血液型
B型
出身地
大阪府 大阪市
コンビ・グループ名
かまいたち
相方・メンバー
山内健司
結成年
2004年
所属事務所
吉本興業
芸人活動開始年
2004年
養成所・スクール
NSC大阪校 26期

かまいたちの濱家隆一さんといえば、相方の山内健司さんとバラエティー番組に出演しながら、MCやロケ、漫才、コントまで幅広くこなす芸人として知られています。

2026年現在も『かまいガチ』や『街グルメをマジ探索!かまいまち』などでコンビとしてMCを務めていますが、現在の姿にたどり着くまでには、何度も相方を替えたNSC時代や、早くから賞を獲得しながら仕事が減っていった若手時代がありました。

さらに時間を戻すと、母親が昼も夜も働いていた子ども時代、野球に打ち込んだ学生生活、ダウンタウンへの憧れなど、芸人になる前の濱家さんにもさまざまな場面があります。

高校卒業後はすぐNSCへ進んだのではなく、約40万円の入学費用を自分で用意するため、1年間アルバイトをしてからお笑いの世界へ入りました。

そしてNSCで何度もコンビを結成・解散した末、舞台で笑いを取っていた山内健司さんを濱家さん自身が誘ったことから、現在のかまいたちが始まります。

濱家隆一の生い立ちと家族|上新庄で母と暮らした子ども時代

濱家さんは1983年11月6日生まれで、吉本興業の公式プロフィールでは大阪府大阪市出身とされています。

子どもの頃を過ごした大阪市東淀川区の上新庄には大人になってからも思い入れがあり、幼少期から通っていたイズミヤ上新庄店が2021年に閉店した際には、最終営業日に自ら足を運んでいます。

母親が昼夜働き、古い文化住宅で暮らしていた幼少期

濱家さんが後年、子ども時代について詳しく話したインタビューでは、物心がついた頃から家計に余裕がなく、母親が昼も夜も働いていたことを明かしています。

食事ができないような生活だったわけではありませんでしたが、すいとんを食べることもあり、当時住んでいたのは古い文化住宅でした。

「物心ついた頃から貧乏だったんで、自分が貧乏っていうのは感じてなかったですね」

kodomoe

友達と自分の家を比べるようになってから、少しずつ「みんなと同じではない」と気づいていったそうです。

母親が仕事で家を空けることが多かったため、子どもだけになる自宅へ友達を呼ぶことも禁止されていました。

それでも学校へ行くことは好きで、家の外では友人たちと過ごしながら成長していきます。

少年野球へ3回見学に行ったものの入団できなかった

小学生の頃、仲の良い友達が少年野球をしていたため、濱家さんも母親へ「自分も行きたい」と頼みました。

母親から「見学へ行っておいで」と言われて参加し、申込用紙まで持ち帰りましたが、そのまま入団の話は進みませんでした。

それでも諦めず、再び母親へ頼むとまた見学を勧められ、結局、少年野球の見学には3回足を運んだものの、チームへ入ることはできませんでした。

後に中学、高校と野球部へ入る濱家さんですが、最初に野球をやりたいと思った小学生時代には、このような出来事がありました。

小学5年で母親が再婚し、暮らしが変わる

家庭の暮らしが変わったのは、濱家さんが小学5年生の頃でした。

母親が現在の父親と再婚し、その後はマンションで暮らすようになっています。

以前は家へ友達を呼べなかった濱家さんが、マンションへ移ってからどうしてもやりたかったことの一つが、自分の家での誕生日会でした。

ところが、小学生の頃に友達の誕生日会へ参加した記憶を頼りにお菓子を用意したため、中学生になっていた友人から「小学生の誕生日パーティーみたい」と言われ、本人はかなりショックを受けたと振り返っています。

昔の生活との違いが、こうした何気ない友人との場面にも表れていました。

小学校5・6年の恩師・久保敬先生との出会い

ちょうど家庭環境が変わった時期、学校では後の人生でも繰り返し名前を挙げることになる久保敬先生と出会っています。

小学5・6年生の担任だった久保先生との関係は、2023年に朝日新聞出版から刊行された『僕の好きな先生』でも一つの章として取り上げられました。

2026年に大阪府教育委員会の企画で学生時代を振り返った濱家さんによると、小学生の頃は口が立ち、生意気で、宿題やノートもあまりきちんとやらない児童だったそうです。

「人を笑かすことも好きでしたね。」

大阪府教育委員会「こころBOOK2026」

久保先生は、エネルギーを持て余していた濱家さんと正面から向き合い、自由に行動するなら、その裏には責任も伴うことを教えました。

濱家さん自身も、久保先生と出会っていなければ人生は大きく違っていたと後年話すほど、この2年間を強く覚えています。

小中学生時代|人前に出ることと野球が好きだった

家庭では母親が忙しく働いていましたが、学校にいる濱家さんは人前へ出ることを避けるタイプではありませんでした。

小学生から中学生へ進むにつれ、現在のテレビで見られる姿とはまだ違う形ながら、人の前に立ったり場を盛り上げたりする経験が増えていきます。

生徒会長や合唱コンクールの指揮を務める

濱家さんは小学生時代に生徒会長を務め、合唱コンクールでは指揮者も経験しています。

単に目立ちたがるだけではなく、大勢の前へ立つ役を引き受ける機会が子どもの頃からありました。

久保先生と過ごした6年生では、それまで十分に取り組んでいなかった勉強や宿題にも向き合うようになったと本人が話しています。

中学では野球部のムードメーカーに

中学校へ進むと、仲の良かった友達がみんな入部すると聞いたことから、濱家さんも野球部へ入りました。

本人によれば、野球が上達することだけを目標にしたというより、友人たちと毎日練習することが大きかったそうです。

選手として際立って上手かったわけではないとも話していますが、声をよく出し、チームを盛り上げる役回りをしていました。

本人が振り返る中学野球部での立ち位置は、上手さで引っ張る選手というより「声を出して盛り上げるムードメーカー」でした。

「元ヤン」といわれる若い頃は実際どうだったのか

濱家さんの若い頃については「元ヤン」という言葉で語られることがありますが、確認できる本人の話を追うと、学校へ行かず非行だけを繰り返していた学生像とは少し違います。

高校時代には茶髪にピアスという外見だったことを本人が認めており、自分自身を大阪弁で調子に乗っている人を表す「イチビリ」だったとも表現しています。

一方で、部活動には継続して参加し、高校では野球部の主将まで務めました。

そのため、若い頃を一言で「元ヤン」と決めるより、目立つことが好きで、少し尖った格好もしていた野球部員だったという本人の話をたどる方が実像に近くなります。

高校時代|野球部主将を務めながら芸人を目指す

中学を卒業した濱家さんは、姉が通っていた学校で、文化祭が楽しそうだったことや自分の学力との兼ね合いから進学先を選びました。

本人の公式Xでは、母校が大阪府立茨木東高校だったことも明らかにしています。

姉が通っていた高校を選び、野球部で主将に

高校でも野球を続けた濱家さんは、やがて野球部の主将を任されます。

中学時代と同じく、誰よりも野球が上手い選手として選ばれたというより、声を出しながら周囲を盛り上げる人物としてチームの中心にいました。

髪を染め、ピアスもしていた一方で部活動の主将を続けていたところに、濱家さんの高校時代の一面が見えます。

修学旅行のキャンプファイヤーで初めてコントを披露

お笑いへの興味も、テレビを見るだけではなく、人前で実際にやってみる形へ変わっていきました。

2026年の本人インタビューによると、高校の修学旅行で行われたキャンプファイヤーで、人前では初めてとなるコントを披露しています。

学園祭でも漫才のまねごとのようなことをしており、高校生活の中にはすでに「人を笑わせるために前へ出る」場面がありました。

ダウンタウンに憧れ「卒業したらNSCへ」と宣言

芸人という職業を意識するようになったのは、高校を卒業する直前ではありませんでした。

子どもの頃から『ダウンタウンのごっつええ感じ』が好きで、本人の中では「お笑いといえばダウンタウン、吉本」という感覚ができていたそうです。

「小さいときから芸人になるって決めてました」

POPEYE Web

高校では、卒業後にNSC(吉本総合芸能学院)へ入ることも周囲へ話していました。

進学や就職の途中で芸人を思いついたのではなく、物心がついた頃から抱いていた「芸人になる」という進路を高校卒業後に実行へ移そうとしていました。

高校卒業後|NSCの約40万円を貯めるため1年間アルバイト

進路そのものには迷っていなかった濱家さんですが、卒業後すぐNSCの教室へ入ったわけではありません。

申し込みについて調べたところ、入学金と1年間の授業料として、当時約40万円が必要だと分かったからです。

入学費用を知り、高校卒業後すぐにはNSCへ行けなかった

家計に余裕のある家庭で育ったわけではなかった濱家さんは、この費用を自分で用意することにしました。

そのため高校卒業後に1年間を空け、アルバイトをしながらNSCへ入るためのお金を貯めています。

大学へ通いながらお笑いを始めたわけでも、就職して何年も働いてから転身したわけでもなく、「NSCへ入るためのお金を貯める1年」を挟んで芸人の入口へ向かいました。

居酒屋で働きながら費用を貯めた1年間

アルバイト先の一つは居酒屋でした。

ただし、この1年間を毎日ネタ作りに費やしていたわけではありません。

アルバイト先の先輩とカラオケへ行き、麻雀をするなどよく遊んでおり、劇場へ通って研究するような準備もほとんどしていなかったと後年話しています。

本人の頭の中には「NSCへ入れば、自分はすぐに売れるだろう」という根拠のない自信がありました。

父と母へ芸人になる進路を伝える

芸人を目指すことに対して、家族がそろって猛反対したという話でもありません。

現在の父親は、専門学校などで手に職をつける道もあるのではないかと心配しましたが、母親は濱家さんに好きなことをするよう背中を押しました。

1年後には必要なお金も貯まり、高校野球部の後輩とコンビを組んだ濱家さんは、2003年、NSC大阪校26期へ入ります。

NSC大阪26期|5人の相方との解散を経て山内健司と出会う

現在は20年以上コンビを続けている濱家さんと山内さんですが、NSCへ入った時点では2人はコンビではありませんでした。

むしろ濱家さんにとってNSC時代は、相方を探しては組み、合わなければ解散することを何度も繰り返した時期でした。

高校野球部の後輩とコンビを組み、約700人のNSCへ

最初の相方は、高校野球部の後輩でした。

当時のNSC大阪校には約700人の生徒がおり、ネタ見せなどをもとに実力別のクラスが作られていました。

濱家さんのコンビは最初にAクラスへ入りましたが、本人は後年、その頃のネタを振り返って自分たちは全然面白くなかったと話しています。

高校野球部の後輩とのコンビは長く続かず、その後も別の相手と組んでは解散し、NSC在籍中だけで4回の解散を経験しました。

AクラスとCクラスを行き来しながら相方を替える

当時の濱家さんは、ネタの相性だけで相方を選んでいたわけでもありませんでした。

小学校から高校まで自分は比較的人気があったという感覚があり、「イケメンコンビ」として女性から人気を集めたいと考えて、男前であることを相方選びの条件にしていた時期があります。

一緒に話して面白くないと感じればすぐ解散し、また別の相手を探しました。

NSCでは、Aクラスにいてもコンビを解散するといったんCクラスへ戻る仕組みがあり、その「解散してCクラスへ戻った時期」が、後の相方となる山内健司さんとの距離を縮めます。

Cクラスで山内健司と連絡先を交換

山内さんは同じNSC大阪26期でしたが、濱家さんとはクラスも違うことがあり、最初から親しい同期ではありませんでした。

濱家さんは入学当初から山内さんのネタを見て「面白い」と感じており、コンビ解散後にCクラスへ落ちたことで再び同じクラスになりました。

そこで濱家さんから話しかけると、山内さんの方から電話番号を聞かれています。

ただ、この時点で2人がコンビになる話が進んだわけではなく、それぞれ別の形でNSCを卒業しました。

卒業後のオーディションで山内のピンネタを見て自ら電話

NSCを卒業した濱家さんは、その後に組んだ5人目の相方とも解散します。

新しい相方を探すため吉本のオーディションライブを見に行ったところ、そこへピン芸人として山内さんが登場しました。

山内さんは舞台上で大きな笑いを取っていましたが、オーディションの結果は不合格でした。

その姿を見た濱家さんは、NSC時代に交換していた電話番号を思い出し、その日のうちに自分から山内さんへ連絡します。

「コンビ組まへん?」

お笑いナタリー

山内さんもピン芸人として進むと決めていたわけではなく、コンビを組む相手を探していたため、この誘いを受けました。

2004年に「鎌鼬」を結成し、初めて山内のネタで笑う

2人は2004年5月にコンビを結成し、当初は漢字で「鎌鼬」と名乗りました。

実際に山内さんとネタ合わせをしてみると、それまで何人もの相方とネタを作っていた濱家さん自身が、腹を抱えるほど笑ったそうです。

「人気が出そうな男前」を優先していた相方探しから、舞台で本当に面白いと思った山内さんを自分から誘う形へ変わったところで、現在まで続くコンビが誕生しました。

NSC同期には天竺鼠、藤崎マーケット、和牛などがおり、卒業後は同期が住んでいた家に集まり、麻雀や食事をしながら一緒に過ごす機会も増えていきました。

若手時代|baseよしもとへ入り、早くも新人賞を獲得

現在の相方は決まりましたが、NSCを卒業しただけでテレビや劇場の仕事が与えられたわけではありません。

当時は劇場のオーディションへ自分たちで挑戦し、舞台へ上がる場所をつかむ必要がありました。

オーディションを重ねてbaseよしもとの舞台へ

「鎌鼬」を結成した2人は吉本以外のインディーズライブにも出演しながら、オーディションを受け続けました。

約1年後、若手芸人の拠点だったbaseよしもとのメンバーになります。

当時の劇場上位には千鳥、笑い飯、麒麟らがおり、かまいたちは下のクラスから順位を上げていきました。

M-1グランプリにも早い時期から出場し、結成直後から漫才とコントの両方を続けています。

2007年ABCお笑い新人グランプリ最優秀新人賞

結果が出るまで長い年月がかかったわけではありません。

2007年には第28回ABCお笑い新人グランプリ最優秀新人賞を獲得し、翌2008年には第43回上方漫才大賞新人賞も受賞しました。

まだ20代半ばだった濱家さんの給料も増え始め、本人によれば24歳頃には月15万~20万円ほど受け取る時期もあったそうです。

コンビ結成から数年で劇場へ入り、新人賞も獲得したことで、濱家さん自身はかなり早い段階で「このまま売れる」と感じていました。

早い成功で自信を持ちすぎ、仕事が減っていく

ところが、早く結果が出たことは、そのまま全国ブレイクへつながりませんでした。

濱家さんは2026年のインタビューで、賞を獲って仕事が入り始めた頃に「もう大丈夫」と思い、天狗になっていたと振り返っています。

遅刻をしたり生活がだらけたりしながら、「芸人だからこれでいい」という自分なりの芸人像に寄りかかるようになりました。

周囲の評判は悪くなり、真面目に活動する同期たちの仕事が増える一方で、自分たちの仕事は減っていきました。

20代後半の停滞|東京レギュラー終了と荒れた生活

新人賞を獲得したあとも、大阪の劇場やテレビで仕事を続けていたかまいたちには、20代半ばで一度大きな東京進出の機会が訪れます。

しかし、この時点ではまだ東京へ活動拠点を移すことにはなりませんでした。

2009年『ふくらむスクラム!!』で東京への機会をつかむ

2009年4月、フジテレビの若手芸人番組『ふくらむスクラム!!』のレギュラーに選ばれます。

当時の濱家さんにとって、東京は仕事で訪れるだけでも新鮮な場所で、六本木の交差点を見て興奮したことも後年話しています。

ところが『ふくらむスクラム!!』は同年9月で放送を終え、東京へ続くと思われた機会は半年ほどで途切れました。

山内さんはここで無理に東京へ出ず、いったん大阪で力をつけることを選びます。

番組終了後は大阪に残り、酒やギャンブルが増える

濱家さんは、それまで根拠のない自信を持って芸人を続けていましたが、東京の番組が終わった頃に初めて「このままではだめかもしれない」と感じたそうです。

しかし、すぐ仕事へ向き合い直したわけではありませんでした。

酒、パチンコなどのギャンブルに時間を使い、劇場へ泊まることもあり、会社からお金を借りて遊びに使っていた時期もあったと自ら明かしています。

酒を大量に飲み、仕事へ遅刻することもあり、28歳では痛風も経験しました。

新人賞を獲得して順調に見えた20代の途中で、仕事への姿勢と生活の両方が崩れ、全国へ出る足がかりもつかめない時期が続きました。

2012年ABCお笑いグランプリ優勝でも「伸び悩み」は続いていた

停滞していた時期にも、コンビとしてネタをやめたわけではありません。

2012年1月29日に行われた第33回ABCお笑いグランプリでは、コント「ホームルーム」を披露し、458点で優勝しました。

2007年の新人グランプリ以来、ABCの大会では2度目となる大きなタイトルでしたが、本人たちにとって意味は以前とは大きく違いました。

「ほんとにこの1回にかけて、絶対に優勝しようという気持ちでやったんで」

朝日放送テレビ「第33回ABCお笑いグランプリ」

大会公式ページでも、2007年の受賞後に同期や劇場の仲間が売れていく中、自分たちには大きな変化がなかった時期について濱家さんが語っています。

2012年の優勝は突然全国区になった瞬間ではなく、数年間の伸び悩みの中で再び結果を出した大会でした。

29歳で『せやねん!』のロケへ入り直す

29歳になる頃、かまいたちはMBSの情報番組『せやねん!』で千鳥の後任としてロケを担当するようになります。

東京へ一気に出るのではなく、大阪で街や人と向き合うロケを積み重ね、番組内でさまざまな企画に挑戦しました。

2012年に番組で挑戦したウェットスーツの早着替え企画では、山内さんがうまく脱げずボケが失敗しましたが、この出来事は後にキングオブコントで披露するウェットスーツのコントにもつながっています。

かまいたち公式YouTubeでも、2007年の初レギュラーから大阪でのロケ時代、2018年の東京進出までを本人たちが年代順に振り返っています。

仕事への向き合い方が変わり、賞レースの頂点へ

20代の濱家さんは、賞を獲った経験がありながら仕事や生活への姿勢を崩した時期を過ごしました。

その状態が変わっていった時期として、本人が繰り返し挙げているのが、30代に入ってから出会った現在の妻との出来事です。

30代に出会った現在の妻からの言葉を機に生活を立て直す

当時の濱家さんには、遅刻、借金、酒、仕事への不満など、それまで長く続いていた生活習慣が残っていました。

交際していた現在の妻との間で別れ話になった際、それまでの生活や仕事への姿勢を強く指摘されたそうです。

「絶対に売れませんよ、あなたは」

大阪府教育委員会「こころBOOK2026」

最初は聞き流していたものの、自分にこれほど熱を持って指摘してくれる人はいないのではないかと感じ、濱家さんは言われたことを一つずつ実行するようになりました。

借金の返済計画を立て、貯金を始め、仕事の悪口を言わないなど、それまでとは違う行動を取るようになります。

本人自身が「転機」として挙げているのは、賞レースの優勝より前に起きた、仕事と生活への姿勢を変えるこの出来事です。

キングオブコント2017で10代目王者に

かまいたちは、若手時代から漫才だけでなくコントにも取り組み続けていました。

そして2017年10月1日、キングオブコント2017の決勝へ進出します。

決勝で勝ち抜いた結果、かまいたちは大会公式記録で10代目キングとなりました。

2004年の結成から13年、東京の番組が短期間で終わった時期や大阪でのロケ生活を経て、全国大会の頂点へ立ちました。

ただし、優勝翌日から一気にすべての仕事が変わったわけではなく、濱家さん自身は後に、準優勝のにゃんこスターが大きく注目されたことで、自分たちの仕事が急増した感覚はなかったとも話しています。

2018年に活動拠点を東京へ移す

かまいたちには若手時代から、キングオブコントかM-1グランプリで結果を出したら東京で勝負するという考えがありました。

キングオブコント優勝から約半年後の2018年3月、なんばグランド花月の単独ライブで同年4月から東京へ進出することを観客へ報告します。

当時、大阪ではテレビ6本、ラジオ3本ほどのレギュラーを持っていましたが、東京へ出るため多くの番組を卒業しました。

売れていない状態から東京へ行ったのではなく、大阪で複数のレギュラーを持つ状況をいったん整理して、34歳で活動拠点を移しています。

M-1グランプリ2019で最後の挑戦を準優勝で終える

東京進出後も、かまいたちはテレビ出演だけに活動を切り替えず、漫才の賞レースにも挑戦を続けました。

M-1グランプリでは2017年から3年連続で決勝へ進み、結成15年のラストイヤーとなった2019年大会にも出場します。

1stラウンドを勝ち上がって最終決戦へ進み、大会公式記録ではミルクボーイに次ぐ準優勝となりました。

キングオブコントではコントの頂点に立ち、M-1最後の年には漫才でも最終決戦まで進んだことで、若手時代から続けてきた2つのネタの形を全国の舞台で見せることになりました。

東京進出後|漫才・コントからMCまで活動が広がる

東京へ拠点を移した時点で、かまいたちはすでに大阪で長い芸歴と複数のレギュラーを持っていましたが、東京では改めて初出演の番組へ出るところから始まりました。

その後、コンビでの冠番組やMCの仕事が増え、濱家さん個人にも司会や音楽番組など、それまでとは違う役割が広がっていきます。

冠番組が増え、かまいたちとして全国区へ

東京進出直後は、大阪時代のように自分たちが中心となる番組ばかりではなく、他の芸人が並ぶ全国ネットの番組へゲストとして入り、その場所で結果を求められる機会が増えました。

2020年にはテレビ朝日で『かまいガチ』がスタートし、その後もコンビ名を冠した番組やMC番組が増えていきます。

2026年現在も『かまいガチ』は放送が続き、フジテレビ『街グルメをマジ探索!かまいまち』でも山内さんとともにMCを担当しています。

若手時代から続けた漫才とコントを現在も軸にする

テレビではMCやトークの印象が強くなりましたが、かまいたちの出発点は山内さんとネタ合わせを始めた2004年にあります。

結成後はインディーズライブやbaseよしもとの舞台へ出て、M-1では漫才、キングオブコントではコントを磨いてきました。

特にキングオブコントの優勝ネタの一つにつながったウェットスーツのアイデアは、大阪の『せやねん!』で経験したロケ中の失敗から生まれています。

現在テレビで見られるかまいたちの仕事の前には、劇場、賞レース、大阪のロケを何年も繰り返した時間がありました。

MC・YouTubeなどへ広がった現在の活動

濱家さんは現在、コンビのツッコミという枠だけではなく、番組を進行するMCとして出演する機会も多くなっています。

かまいたち公式YouTubeでは、2人の昔話や若手時代の番組、食事、趣味などテレビとは違うテーマも扱い、コンビの活動場所は劇場とテレビだけではなくなりました。

子どもの頃は友達を家へ呼ぶことができず、小学生では野球をしたくてもチームへ入れなかった濱家さんは、高校で野球部主将を務めながら、すでに卒業後は芸人になると決めていました。

約40万円を貯めてNSCへ入り、何人もの相方との解散を経たあとに自分から山内さんを誘ったことで、2004年に現在まで続くかまいたちが始まりました。

若くして新人賞を獲ったあとも停滞は長く続きましたが、大阪の劇場やロケ、漫才とコントの賞レースを重ねた時間の先に、現在の冠番組やMCとして活動する濱家隆一さんの姿があります。

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