ヒコロヒーの生い立ちと家族|ガソリンスタンド就職志望から芸人になったきっかけ

人物プロフィール

生年月日
1989年10月15日
身長
165cm
血液型
AB型
出身地
愛媛県
所属事務所
松竹芸能
芸人活動開始年
2008年
養成所・スクール
松竹芸能養成所

テレビでは飾らない話し方と独特の間を見せ、ラジオでは自分の言葉で長くしゃべり、さらに俳優、執筆、脚本へと仕事を広げてきたヒコロヒーさん。

現在はマルチに活動していますが、10代のころから芸能界を目指していたわけではありません。

高校卒業後は、アルバイトをしていたガソリンスタンドへそのまま就職するつもりでした。

大学へ進んだのも親や学校に勧められたことが大きく、松竹芸能へ連絡したときでさえ、最初から芸人一本で食べていく覚悟を決めていたわけではありません。

大学の学園祭で欠員の代わりに一人で舞台へ出たことから、思いもよらない方向へ道が動き始めました。

ヒコロヒーの生い立ちと家族|愛媛で過ごした10代

ヒコロヒーさんは1989年10月15日生まれ、愛媛県出身です。

子ども時代の家庭をたどると、後にコントや文章を書く人になるずっと前から、身近なところに本がある生活を送っていました。

本があふれる実家で育ち、高校生で開高健を読む

2021年に初のエッセイ集『きれはし』を刊行した際、ヒコロヒーさんは読書の原点について、実家の様子から話しています。

「実家はいろいろな本があふれかえっているような家だった」

好書好日

熱心に勉強する学生ではなかった一方で、本は身近にあり、高校時代には開高健の作品を読むようになりました。

開高健については、高校生のころから作品を繰り返し読んでいたと後年語っています。

20歳ごろからは、自分に足りない教養を補おうと教科書に載っていそうな文学作品も読むようになり、図書館で本を借りる習慣も続いていきました。

父親については、子どものころは家にいることが少なく、どんな性格なのかもよく分からないまま大人になったとテレビで明かしています。

母親は、幼いころのヒコロヒーさんから見ると花や料理、お菓子作りが好きな穏やかな人でしたが、意外な一面もありました。

近所の年上の子たちにいじめられて泣いて帰った際には、母親からやられたまま帰ってくるのではなく、戻ってやり返してくるよう言われたことを自身のラジオで話しています。

大人になってから母親の友人に聞いたところ、その母親自身も高校時代には一人で竹刀を持って校内を歩いていたという話まで出てきたそうです。

中学・高校は反抗期|学校より地元の仲間と過ごした日々

思春期になると、本人が後に「反抗期だった」と振り返る時期へ入ります。

大人や組織に反発する一方、本格的に危ないことをする不良グループとも距離があり、どこにもすっきり収まらない仲間たちと過ごしていました。

高校では出席日数や成績も危うく、留年しかねない状態になったことがあったといいます。

学校へ行かない日は、地元の友人と喫茶店やゲームセンター、漫画喫茶へ行ったり、裏山で時間を過ごしたりしていました。

お笑いと無縁だったわけではなく、『めちゃ×2イケてるッ!』や『笑う犬の生活』などを見て、高校時代にはブラックマヨネーズのラジオや、くりぃむしちゅーの『オールナイトニッポン』も聴いていました。

ただし、このころのお笑いは将来の職業というより、テレビやラジオで楽しんでいたものの一つでした。

高校卒業後はガソリンスタンドへ就職するつもりだった

高校時代に長く時間を使っていた場所の一つが、アルバイト先のガソリンスタンドでした。

オレンジ色のつなぎを着て働き、副店長から卒業後もそのまま働けばいいという話をされると、本人もそれでいいと思うようになります。

高校卒業後の進路として実際に考えていたのは、芸能界でも大学でもなく、ガソリンスタンドへの就職でした。

ところが親と学校は大学進学を勧めます。

本人は勉強をほとんどしておらず、進学に積極的でもありませんでしたが、高校の先生が受験できそうな学校と方式を探してくれました。

親と学校に勧められ近畿大学へ|落研がお笑いとの接点に

就職するつもりだった高校生は、周囲に押される形で進学へ向かいます。

故郷の愛媛を離れた先で入ったサークルが、後に松竹芸能との接点を作ることになりました。

高校の先生が受験先を探し、大阪の近畿大学へ進学

先生が受験方法を探した結果、ヒコロヒーさんは大阪にある近畿大学へ進学しました。

大学では文芸学部芸術学科に入りましたが、ここでも最初からお笑い活動をするつもりだったわけではありません。

大学へ入った時点でも、芸人になるという具体的な進路はまだありませんでした。

むしろ学生生活ではアルバイトをたくさんしたいと考えており、サークルにも特別な目的を持って入ったわけではなかったといいます。

男前の先輩に誘われ落研へ|麻雀・映画・漫画もあった部室生活

入学後、ヒコロヒーさんが選んだのは文化会落語講談研究会でした。

理由はかなり率直で、新入生を勧誘していた学生の中に一番男前だと思った先輩がいたため、その先輩が所属する落研へついていったと話しています。

「お笑いを極めたい」ではなく、男前の先輩についていったことがお笑いサークルへ入る入口でした。

落研といっても活動は四六時中ネタを作るようなものではなく、大学から活動費を得るため年に数回の公演を行い、そのために落語や三味線、太鼓などを練習していました。

それ以外の時間には部室で麻雀をしたり、映画や漫画を見たり、雑談をしたり、仲間で旅行へ行ったりして過ごしていたといいます。

そのため本人は、当時の自分を本格的な「学生芸人」として捉えてはいませんでした。

欠員の代打で出た学園祭の一人コントで芸能事務所から声がかかる

大学2年生のころ、落研が学園祭でお笑いの企画を行うことになりました。

ところが出演予定者に欠員が出て、先輩から急きょ一人で出てほしいと頼まれます。

ヒコロヒーさんは作り込んだ勝負ネタを用意したわけではなく、しゃべりの中へものまねを少し入れるような即席の一人コントで舞台に立ちました。

その舞台を見ていた複数の芸能事務所関係者から、終演後に名刺を渡されます。

現在から見れば芸人人生の入口となる出来事ですが、当時の本人は芸能界そのものに強い興味を持っておらず、名刺をもらってもすぐには動きませんでした。

就活のつもりで松竹へ|芸人になる決断は後からやってきた

学園祭で名刺を受け取ったあとも、ヒコロヒーさんの生活がすぐ芸人中心になったわけではありません。

むしろ、その名刺が再び出てきたのは大学生活と進路に行き詰まり始めたころでした。

スカウトを約1年放置し、映画・ラジオの仕事を求めて松竹へ電話

芸能事務所から受け取った名刺は、約1年間そのままになっていました。

大学へあまり通わなくなり、就職を考える時期になると、好きだった映画やラジオの制作側で働くことを考えるようになります。

そこで以前もらった名刺を見返したとき、「松竹」という名前が目に留まりました。

映画好きだったヒコロヒーさんが思い浮かべたのは、芸人の養成所より、山田洋次監督らの映画作品に関わる「松竹」でした。

芸人になりたいから松竹へ連絡したのではなく、映画やラジオの仕事につながるかもしれないという「就活」の感覚から電話をかけています。

連絡後に案内されたのは、映画制作の現場ではなく、大阪・難波にあった松竹芸能の養成施設でした。

そこには芸人として成功しようとする若者が集まっており、周囲の熱量と自分との違いに驚いたと後に話しています。

Aマッソ・きつねと出会い、友人に会う感覚で養成所へ通う

養成所には、後に芸人として活動するAマッソやきつねもいました。

ヒコロヒーさんは彼らと親しくなり、養成所へ行く理由も、芸を学びに行くというより友人に会いに行く感覚に近かったと話しています。

大学や就職活動も続けながら、養成所だけに人生を賭けていたわけではない時期がしばらく続きました。

授業後に大勢で飲みに行ったり、バーベキューへ行ったりするような輪にも積極的に入らず、養成所の中でも自分のペースで過ごしていたといいます。

大学中退後も芸人一本ではなく、フリーターになるつもりだった

やがて単位取得が難しくなり、大学を中退することになります。

周囲へは「お笑いを頑張る」という理由を前面に出しましたが、その時点の本人の中では、まだ芸人になる決意が固まっていたわけではありませんでした。

「辞めたタイミングではそうじゃなかったです。フリーターになろうと思ってました。」

ラジトピ

学園祭で声をかけられ、養成所へ通い、大学まで辞めても、それだけで一直線に「芸人になる」とはならなかったところがヒコロヒーさんの経歴の特徴です。

おいでやす小田らとのライブでピン芸人の面白さを知る

芸人という仕事への気持ちが変わっていった背景には、養成所の授業以上に、実際のライブで出会った先輩たちがいました。

当時参加していたインディーズライブには、まだ現在ほど知られていなかったヒューマン中村さん、三浦マイルドさん、おいでやす小田さんらが出演していました。

一人で舞台を成立させる先輩たちを間近で見ながら、ピン芸人の難しさと面白さを知っていきます。

大変である一方、何をするかを一人で決められる「自由さ」に惹かれたことが、ピン芸人として続ける方向へ気持ちを動かしていきました。

2011年にピン芸人デビュー|大阪松竹でコントを作り始める

松竹芸能大阪養成所を経て、ヒコロヒーさんは2011年にピン芸人としてデビューしました。

ここからようやく、お笑いが生活の中心へ移っていきます。

初舞台直前に「ヒコロヒー」と命名|本名を使わなかった理由

ヒコロヒーさんは本名を公表していません。

「ヒコロヒー」という名前も、家族の名前や外国語に由来するものではなく、初舞台へ出る段階で本名を使いたくなかったことから作った芸名です。

本人は幼いころから「ヒ」「コ」のような角ばった形の文字が好きだったといい、好きな文字の形を組み合わせて、その場で「ヒコロヒー」と書いて提出しました。

芸名に特別な意味が先にあったのではなく、好きな文字の形を組み合わせたものだったと本人が説明しています。

ネット上では本名についてさまざまな説がありますが、本人は本名を明かしておらず、名前から本名を逆算するような説も否定しています。

コンビの誘いを断り続け、最初からピン芸人として活動

養成所時代にはコンビへ誘われることもありました。

ただ、誘ってきた相手としっくりこないと感じると「ピンでやりたい」と断っており、それを繰り返すうちに一人で活動する形が定着していきます。

現在のヒコロヒーさんに固定の相方がいるわけではなく、芸人人生のスタートから基本はピン芸人です。

初期から中心にしていたのは、人物同士の会話や独自の状況を一人で演じるコントでした。

ネタ見せで作家と衝突し、事務所ライブへ出られなくなる

大阪松竹での若手時代は、事務所の中で順調に押されて仕事が増えていくような時間ではありませんでした。

本人の回想では、当時ネタ見せを担当していた影響力のある作家と大げんかをし、施設から追い出され、事務所のライブにも出られない時期がありました。

所属しているのに舞台へ出る機会を失い、「もう辞める」と松竹芸能へ伝えるところまで関係がこじれます。

その一方、事務所以外のライブには出演し、外部の舞台でネタを試していました。

芸歴3年目ごろから単独公演|コントを書き続けた大阪時代

外部ライブで評価を得るようになると、事務所のランキングライブへ再び出る機会が生まれ、そこで優勝します。

優勝特典として用意されたのが、道頓堀角座での公式単独公演でした。

松竹芸能の記録では、2013年12月に「ヒッコロコメディショー」を開催しており、芸歴3年目ごろから単独公演を積み重ねています。

テレビの仕事が少ない時期から、一人でコントを書き、舞台へ立つことは途切れませんでした。

2016年には単独ライブ「漁港の女」を開催し、その後も「その次の女」「清純派」と公演を続けました。

大阪を離れて東京へ|アルバイトと借金の下積み生活

大阪で舞台に立ち続ける一方、事務所との関係には息苦しさが残っていました。

松竹芸能を離れようとした話から、次の生活拠点として出てきたのが東京でした。

松竹を辞めようとして提示された「東京へ行く」という選択肢

尊敬していた先輩芸人たちが松竹芸能を離れていったことや、作家との衝突が重なり、ヒコロヒーさんも大阪松竹へ退所の意思を伝えました。

すると会社から返ってきたのは退所の受理ではなく、東京にも松竹芸能があるため、そちらで活動してみてはどうかという提案でした。

嫌ならそのとき辞めればいいと言われ、本人もそれなら行ってみようという比較的軽い気持ちで東京松竹へ移籍します。

ところが大阪で笑いが起きたネタが東京では同じようにウケず、笑われる場所そのものが違うことに苦戦しました。

4万3000円の風呂なし物件、ネジ検品とスナックで生活

東京で最初に暮らしたのは、家賃4万3000円の風呂なし物件でした。

ライブへ出ればチケットノルマがあり、オーディションが突然入ればアルバイトを休まなければならず、仕事を増やせば今度はネタを考える時間が減っていきます。

「貧乏でもいいからとにかくネタを考える」

TOKYO FM「木村拓哉 Flow」

生活を安定させるより、ネタを考えて舞台とオーディションへ行く時間を残す方を選びました。

アルバイトではネジの検品をし、夜にはスナックでも働いています。

スナックでは年上の女性たちにかわいがられ、食事へ連れていってもらったり、服を譲ってもらったりすることもありました。

それでもアルバイト収入は十分ではなく、家賃や日々の生活費を補うための借金が少しずつ増えていきます。

本人によると、ギャンブルや酒で作った借金ではなく生活費が中心で、約10年の間に総額は500万円ほどになりました。

その間もネタを書き、劇場へ立ち、オーディションを受ける生活を続けています。

「売れる気がしない」と一度芸人を辞め、不動産会社へ

長い下積みの途中には、一度本当に芸人を辞めた時期もありました。

2016年ごろから約2年間担当していた元マネージャーの西尾さんは、当時からネタ作りに力を入れ、舞台へ出る機会を求めていたものの、なかなか結果につながらなかった姿を覚えています。

「これ以上やっても売れる気がしないから辞めます」

テレ朝POST

次に何をするのか聞かれたヒコロヒーさんは「丸の内OLになる」と答え、実際に不動産会社で働き始めました。

芸人とはまったく違う会社員生活へ移ったものの、昼休みに同僚から一緒にカレーを食べに行こうと誘われても、その日の気分でないと断ってしまうなど、職場の集団行動になじめませんでした。

3か月ほどで芸人へ戻り、単独ライブを続ける

会社員生活は約3か月で終わり、再び芸人へ戻りました。

戻ったからといって、すぐテレビで売れたわけではありません。

一杯200円のコーヒーで朝まで店に粘りながら机でコントを書き、少し稽古をして舞台へ立つ日々を繰り返していました。

「コントを作り続けることしかなかった。」

BRUTUS

単独ライブだけは続け、回数を重ねるうちにチケットがすぐ売れるようになり、業界関係者も会場へ足を運ぶようになりました。

公演グッズも自分で作り、売り上げが数か月分の生活費になることもありました。

2019年には単独ライブ「清純派」を開催し、テレビで広く知られる直前にも一人コントの舞台を続けていました。

みなみかわとのM-1が転機に|テレビの仕事が増え始める

ヒコロヒーさんはピン芸人ですが、ブレイク前に一人ではない漫才へ挑んだことがあります。

相手は、当時同じ松竹芸能に所属していた先輩のみなみかわさんでした。

単独ライブでの一度の漫才から「ヒコロヒーとみなみかわ」結成へ

きっかけは、みなみかわさんが行った単独ライブでした。

出演する芸人がそれぞれみなみかわさんとネタをする企画の中で、ヒコロヒーさんは二人で漫才を披露します。

その流れから「せっかく漫才をやったのだからM-1にも出てみよう」という話になり、2019年にユニット「ヒコロヒーとみなみかわ」が生まれました。

M-1グランプリ公式にも、同ユニットは2019年結成として登録されています。

みなみかわさんは固定の相方になったのではなく、普段は別々に活動する二人がM-1へ挑むために組んだユニットでした。

2019年M-1の男女逆転漫才が業界で反響、『ゴッドタン』へ

二人の漫才には、ヒコロヒーさんが普段から感じていた男性中心の社会への違和感が取り入れられました。

女性側が一般的には男性に割り当てられがちな振る舞いをし、みなみかわさんが軽く受けるという男女の役割を入れ替えたネタです。

本人にとって予想以上だったのは、大会での結果だけではなく、その漫才を見たテレビ業界から反応があったことでした。

「その後、仕事がパッと増えましたね」

VOCE

M-1での反響がテレビ東京『ゴッドタン』出演へつながり、そこから仕事量が変わり始めました。

『ゴッドタン』『有田ジェネレーション』後にスケジュールが埋まり始める

『ゴッドタン』に続き、TBS『有田ジェネレーション』などへ出演すると、それまで空白が多かった仕事の予定が目に見えて増えていきました。

本人は当時、予定管理アプリのカレンダーが埋まっていく様子を見て、仕事量の変化を実感したと話しています。

長く続けていたネジの検品やスナックのアルバイトも辞められるようになり、積み重なっていた借金も返済していきました。

売れる前に続けていた単独ライブをやめてテレビへ切り替えたのではなく、コントを続けている途中でテレビの仕事が増えていった形でした。

2021年はR-1準決勝・THE W決勝へ、テレビ出演も急増

2021年にはR-1グランプリ準決勝へ進み、同年の女芸人No.1決定戦 THE Wでは初めて決勝へ進出しました。

同年4月には齊藤京子さんと出演するテレビ朝日『キョコロヒー』も始まり、ピン芸人としてのネタだけでなく、トーク番組でも知られるようになります。

学園祭で偶然一人コントをしたころから約10年が経ち、アルバイトをしながら舞台へ出ていた生活は大きく変わりました。

売れた後も一人コントを続ける|本・ラジオ・映画へ広がった現在

テレビで知名度が上がったあとも、ヒコロヒーさんが若手時代から続けてきた活動は残っています。

その一方で、10代や大学時代に好きだった本、ラジオ、映画が、別の形で本人の仕事に加わっていきました。

テレビ出演が増えても単独公演を続ける

2013年ごろから始まった単独公演は、テレビ出演が増えたあとも続いています。

本人は2025年のBRUTUSで、最初は小さなライブバーで8人ほどの観客を前に始めた単独ライブが、13年後には1500人を集める公演になったと振り返っています。

売れたあとも「芸人であること」と「単独ライブを打つこと」をやめず、一人コントを作り続けています。

2026年には第14回単独公演「燃える家」の開催も発表されており、テレビ中心になった後も舞台でコントを作る活動は続いています。

高校時代からの読書がエッセイ・小説の仕事へ

若手時代にお金がなくなったとき、文章を書けば収入になるかもしれないと先輩から勧められ、noteでエッセイを書くようになりました。

そこから文章の仕事が増え、2021年には初のエッセイ集『きれはし』が刊行されます。

さらに短編小説集『黙って喋って』は、2025年に第31回島清恋愛文学賞を受賞しました。

高校時代に開高健を読んでいた一人の読者が、芸人として活動しながら文学賞を受ける書き手にもなりました。

松竹芸能によると、同賞でお笑い芸人の作品が受賞するのは創設以来初めてでした。

かつて憧れたラジオと映画が、自分の仕事になる

高校生のころラジオを聴き、大学を辞めるころにはラジオ制作や映画の仕事へ進みたいと考えていました。

そのために「松竹」へ連絡したことが、結果としてお笑いの養成所につながったのが芸人人生の入口でした。

現在はTOKYO FMで自身のラジオ番組を持ち、俳優として映画やドラマの撮影現場にも立っています。

「毎週自分の番組のラジオブースに入るたびに『夢みたい!』と思います。」

TOKYO FM「木村拓哉 Flow」

映画の現場についても、かつて本やドキュメンタリーで見ていた道具やスタッフの仕事を目の前で見られることを、今でも「夢みたい」と感じると話しています。

愛媛でガソリンスタンドへの就職を考えていた高校時代を経て、大学の学園祭で偶然一人コントをしたことから松竹芸能との接点が生まれました。

就活のつもりで連絡した松竹でピン芸人の道へ入り、アルバイトと単独ライブを続けた時間の先で、M-1をきっかけにテレビの仕事が増えていきました。

現在も一人コントを続けながら、若いころから好きだった本、ラジオ、映画へ活動の場を広げています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA