田津原理音の生い立ちと家族|NON STYLEで芸人を決意した中学時代からR-1優勝まで

人物プロフィール

本名
田津原理音
身長
175cm
血液型
B型
出身地
奈良県 橿原市
所属事務所
吉本興業
芸人活動開始年
2013年
養成所・スクール
NSC大阪校 35期

トレーディングカードのパックを開封するようにネタを進め、「R-1グランプリ2023」王者となった田津原理音さん。

イラストを描いたカードを自分で作り込み、写真撮影やライブポスターのデザインまで手がける姿を見ると、最初からこうしたスタイルのピン芸人を目指していたようにも見えます。

ところが、子どものころの夢は芸人ではなく漫画家で、お笑いを始めたときに憧れていたのもピン芸ではなく漫才でした。

人生の進路が変わったのは、中学2年のときにNON STYLEがM-1グランプリで優勝する姿を見た夜でした。

そこから高校野球、文化祭での漫才、NSC、何度ものコンビ解散、アルバイト生活を経て、一人で舞台に立つ現在の形へたどり着いています。

田津原理音の生い立ちと家族|奈良で漫画家を夢見た少年時代

田津原理音さんは1993年5月25日生まれで、吉本興業の公式プロフィールでは奈良県橿原市曽我町出身とされています。

「田津原理音」は芸名ではなく本名で、本人によると珍しい名字に加えて「理音」という名前から、会う前には女性だと思われることもあったそうです。

奈良で育ち、小学4年から高校まで野球を続ける

子ども時代の生活に長くあったのが野球でした。

小学4年ごろから始め、高校3年まで野球部でプレーしています。

ただし、後年のインタビューでは「野球が大好きで仕方なかったから続けた」という話にはなっていません。

本人は、一度始めたことを辞めるほうがしんどい性格で、野球を辞めたいと親に伝えるのも言いづらかったと話しています。

その一方で、小さいころから好きだったのが絵を描くことでした。

中学2年ごろまでは漫画家を目指しており、紙に絵を描くことは後にフリップ芸やカード芸へ形を変えて残っていきます。

現在のカード芸に使われているイラストは、芸人になってから突然身につけたものではありません。

漫画家志望だった中2でNON STYLEのM-1優勝を見る

田津原さんがお笑い芸人という仕事をはっきり意識したのは2008年、中学2年のときでした。

この年のM-1グランプリで優勝したのが、NON STYLEです。

田津原さんは優勝する2人を見て格好いいと感じ、それまで抱いていた漫画家という進路から、お笑い芸人へ気持ちを切り替えました。

まだ一緒に漫才をする相手はいませんでしたが、中学生のころから一人で漫才のネタを書いていました。

「その日からは完全にお笑い芸人にシフトしました」

タウンワークマガジン

この時点で目指していたのは、現在のようなピン芸ではなく漫才師でした。

M-1を見た翌朝、母へ「芸人になりたい」と伝えた

M-1を見て気持ちが高まっただけで終わったわけではありません。

翌朝には、その決意を母親へ伝えています。

「お母さん、僕芸人になりたいかもしれへん」

ch FILES

母からは「何言ってんの」といった反応が返ってきた記憶があるそうですが、幼いころから漫画家を目指していた息子だったこともあり、その後は芸人志望を応援してくれたと振り返っています。

中学2年で決めた芸人という進路は、高校卒業まで変わりませんでした。

高校へ進学しなくてもいいと思ったほどで、実際には受験して高校生活を送ることになりますが、その間も目指す先は芸人のままでした。

高校時代|野球部と文化祭の漫才で過ごした3年間

進学したのは奈良県立桜井高等学校で、硬式野球部に入りました。

高校では野球を続けながら、学校の中ではすでに「面白いと思われたい」という気持ちを行動に移しています。

最後の夏はベンチ外から応援団へ、県大会準優勝を経験

田津原さんのポジションは一塁手でした。

しかし、高校最後の夏はベンチメンバーに入れず、選手としてではなく応援団として大会に参加しました。

朝練を一緒にしていた同じ一塁手の仲間はレギュラーに入り、田津原さんはスタンド側からチームを応援します。

桜井高校はその夏の奈良県大会で決勝まで進みましたが、智辯学園に敗れて準優勝となりました。

閉会式を終えた選手たちが銀メダルを首に掛けてグラウンドから戻ってきたとき、そのレギュラーの仲間が最初に田津原さんのもとへ走ってきました。

「僕に銀メダルをかけてくれたんです」

ch FILES

レギュラーではなかった最後の夏にも、田津原さんの記憶には仲間から渡された銀メダルが残りました。

高校2年の文化祭で初めて人前で漫才を披露

野球部で過ごす一方、芸人になるための最初の舞台も高校時代に経験しています。

高校2年の文化祭で、初めて人前で漫才を披露しました。

本人によれば、その漫才はかなりウケたそうです。

当時は「コンビ以外でやっていく」という発想自体がなく、あくまで漫才師になるつもりでした。

学校でも前へ出られる機会があれば積極的に出て、一発ギャグなどもやっていたと後年話しています。

野球部を引退して髪を伸ばし、周囲から「おしゃれを始めた」と思われたころに、突然丸刈りにするというボケまで実行していました。

文化祭のステージへ立つより前から、「芸人になりたいから面白いと思われたい」という意識で学校生活を送っていました。

高校卒業まで芸人志望は一度も変わらなかった

中学2年で決めた進路は、大学や別の職業へ大きく揺れることなく高校卒業まで続きました。

卒業後はいよいよ、お笑いを仕事にするための場所へ入っていきます。

高校卒業後にNSC大阪35期へ|コンビ・トリオからピン芸人になるまで

田津原さんは2012年、吉本興業の養成所であるNSC大阪校35期へ入りました。

現在は一人で活動していますが、プロになった当初からピン一本だったわけではありません。

NSC大阪35期へ、ゆりやん・濱田祐太郎らと同じ期に

大阪35期にはゆりやんレトリィバァや濱田祐太郎がおり、後に田津原さんを含む3人がR-1グランプリ王者となりました。

ただ、田津原さん自身はNSCへ入った時点でも漫才師を目指しており、コンビを組んで活動する道を探しています。

2025年にR-1へ再挑戦した際には、NSCへ入り「漫才師でやっていくためにコンビを組んだ」と本人が改めて説明しています。

高校同級生に誘われ、プロと大学生のコンビで活動

NSC卒業後、田津原さんへ声を掛けてきた人物の一人が高校時代の同級生でした。

田津原さんはすでにプロとして芸人生活を始めていましたが、同級生は大学生でした。

「向こうから一緒にやろうと誘われたんですよ」

DOMOぱど

プロと大学生という形でコンビ活動を続けましたが、スケジュールや活動面で田津原さんが主導する場面が多くなりました。

本人は、人に気を遣いながら活動を進めることが自分には負担だったと話しています。

初期には「ブンナグラレルズ」などでも活動し、2013年には本人のXで解散を発表しています。

その後には高校同級生との「ぬくもりディスカッション」でも活動しましたが、こちらも2015年に解散しました。

さらに、後に紅しょうがを結成する熊元プロレスらとトリオを組んだ時期もありました。

本人は後年、漫才師を目指していた時期に「4回解散した」と振り返っています。

R-1の予選でピン芸人を見て「一人で勝ちたい」へ変わる

コンビを組んでは解散する時期が続くなか、考え方を大きく変えたのがR-1グランプリでした。

ルシファー吉岡さん、マツモトクラブさん、三浦マイルドさん、おいでやす小田さんらが、一人で会場を沸かせる姿を予選会場で見ました。

高校時代まで漫才しか考えていなかった田津原さんにとって、一人でもこれほど笑いを取れるという光景は新鮮だったようです。

「俺はこの大会で勝ちたい」

FANY Magazine

漫才師になるためにNSCへ入った田津原さんは、コンビの解散を繰り返した先でピン芸人になることを決めました。

2015年から本格的にピン芸人として活動するようになります。

若手・下積み時代|アルバイトをしながらフリップ芸を磨く

ピンになったからといって、すぐに芸人の収入だけで暮らせるようになったわけではありません。

舞台へ立ちながら、さまざまなアルバイトを経験しています。

コンビニ夜勤などを続け、空き時間にもネタを考える

最も長く続けたのはコンビニの夜勤でした。

ほかにも、ミシンを箱へ詰める仕事、健康診断の補助、8時間ほど服を畳み続ける仕事、カラオケ店、スーパーのレジ、介護施設のグループホームなどで働いています。

ただ生活費を得るだけでなく、仕事を選ぶときにも芸人活動を意識していました。

手が空いた時間をネタやアイデアを考える時間にできるアルバイト先を選んでいたと話しています。

コンビニで目にした客の行動を「あるある」としてネタにしたこともあり、アルバイト中の人間観察も舞台へ持ち込んでいました。

2019年ABCお笑いグランプリ決勝進出、その年にカメラとも出会う

2019年には第40回ABCお笑いグランプリの決勝へ進出しました。

同じ2019年、後の仕事を大きく広げる道具とも出会っています。

誕生日に一眼レフカメラをプレゼントしてもらったことが、写真を始めたきっかけでした。

最初に撮影していたのは風景でしたが、芸人として劇場へ通っているうちに、周囲に撮りたい人物がいくらでもいることに気づきます。

舞台上だけでなく、舞台袖、楽屋、打ち上げなどで芸人仲間を撮るようになり、その写真をSNSへ投稿しました。

すると芸人から単独ライブのポスター撮影を頼まれるようになり、紅しょうがなど芸人仲間のライブポスターも制作するようになります。

「芸人だから撮れる芸人の表情」という、ネタとは別の仕事が劇場の中から生まれていきました。

フリップからカードへ変えると、舞台袖に芸人仲間が集まり始めた

ピン芸人として長く使っていたのは、得意なイラストを生かしたフリップ芸でした。

客席ではウケても、舞台袖で見ている芸人から特に反応が返ってくるネタではなかったと本人は振り返っています。

それが、フリップから架空のトレーディングカードを開封するネタへ変えると、周囲の反応も変わりました。

ネタが終わるたびに先輩、同期、後輩が近づき、「ここを変えたらどうか」「こんなこともできるのではないか」とアイデアを出すようになったのです。

「仲間がこんなにアドバイスをくれるなんて初めての経験だった」

タウンワークマガジン

一人で演じるピンネタが、周囲の芸人も一緒に考えたくなるネタへ変わっていきました。

R-1グランプリ2023優勝|「人の意見を聞く」へ変えたネタ作り

カードという形を見つけたことに加え、2023年のR-1へ向かう田津原さんには、もう一つ大きな変化がありました。

それまで一人で抱え込んでいたネタ作りに、周囲の意見を入れるようになったことです。

2022年のR-1敗退後、芸人仲間から「頑固」と言われる

2022年のR-1準決勝が終わったあと、先輩たちと食事へ行く機会がありました。

その場にはビスケットブラザーズ・原田泰雅さん、今井らいぱちさん、清友さん、後輩の真輝志さんらがいました。

そこで田津原さんは、普段のネタ作りについてかなり率直な言葉を向けられます。

「田津原ってほんまに頑固やんなぁ」

ch FILES

本人によれば、それまでは周囲からアドバイスされても、ほとんど聞かずに一人でネタを作っていました。

ここまで真剣に言ってくれる人たちがいるのに変わらないのは申し訳ないと感じ、翌大会へ向けて周囲の意見を取り入れるようになります。

2023年のR-1で披露したカードネタは、「一人で作る」ことにこだわるのをやめた先で完成しました。

180円を惜しんだ生活からR-1決勝へ

R-1優勝前の生活には、まだアルバイト時代の延長のような部分が残っていました。

電車代の180円を惜しみ、40分ほどなら自転車でテレビ局や劇場へ向かっていたと本人は話しています。

2023年大会の東京2回戦も交通費は自腹で、帰りは料金を抑えるため安い夜行バスを利用しました。

その大会で初めてR-1決勝へ進出します。

カードパックは表から見える部分だけでなく、舞台では使わない裏面にまでボケを書き込み、ファイルに入ったカードの細部まで作り込んでいました。

子どものころから続けてきたイラストと、ピン芸人として積み重ねたフリップ芸が、カードという形で一つになりました。

470点で1stステージ首位、コットン・きょんとのFinalステージへ

2023年3月4日の決勝では、ファーストステージで470点を獲得し1位通過しました。

コットン・きょんさんとFinalステージを戦い、審査の結果、田津原さんが第21代R-1王者となります。

放送中には、Yes!アキトさんの採点時に田津原さんの「470」という数字が画面へ一瞬表示され、実際の得点と一致していたことも話題になりました。

田津原さん本人は後日、表示された470点はリハーサル時の点数だったと説明しています。

中学2年で「芸人になりたい」と決めてから約14年後、初めて進んだR-1決勝で優勝しました。

R-1優勝後もすぐに生活が安定したわけではなかった

優勝直後には移動でタクシーや新幹線のグリーン車を用意してもらうなど、それまでとは違う環境も経験しました。

一方、仕事のギャラが実際の収入へ反映されるまでには時間差があり、2023年6月のインタビューでは、優勝後最初に振り込まれた吉本興業からの月のギャラが6万円だったと明かしています。

仕事が忙しくなってアルバイトへ入る時間がなくなった一方、優勝後にも自宅の電気が止まったことがあったそうです。

さらに2024年になって、優勝翌月の4月に担当マネジャーが職場を離れ、その後約3か月間、担当マネジャーがいない状態になっていたことも明かしました。

田津原さんの説明では、すでに来ていた仕事のオファーの中には引き継げなかったものがありました。

R-1優勝後にテレビで見かける機会が急激に増え続けなかった背景には、こうした本人が予想していなかった事情も重なっていました。

R-1王者になった後|東京進出と写真・デザインへ広がる活動

R-1王者となってからも、田津原さんの活動はテレビ出演だけに向かっていったわけではありません。

芸人としてネタを作る一方、以前から続けてきた写真、イラスト、デザインの仕事も目立つようになっていきます。

写真展を開催し、芸人仲間のポスター制作も仕事に

2023年には初の作品展「どんな人生。」を大阪で開催しました。

会場には自身が撮影した写真だけでなく、ライブポスターやデザイン作品なども並びました。

2024年には東京でも作品展「どんな人生、―進―」を開催し、写真、芸人ライブのポスター、ネタで使ったフリップやR-1優勝時のカードを展示しています。

カメラについては、芸人だからこそ舞台袖や楽屋で見られる表情を撮れると考えるようになり、撮影そのものが仕事の一つになっていきました。

漫画家を夢見て絵を描いていた少年時代の「作ること」は、ネタだけでなく写真やポスターにも広がりました。

2024年に大阪のマンゲキを卒業して東京へ

2024年4月には活動拠点を大阪から東京へ移しました。

3月31日には大阪・よしもと漫才劇場で大阪ラスト単独ライブ「ひとりじゃなかった」を開催しています。

東京へ移って半年ほどたった2024年秋には、この先どう頑張ればいいのか分からなくなる時期もあったと話しています。

テレビにも出たい一方で、自分が何をしたいのかを考えた末、もう一度はっきりした目標として戻ってきたのがネタでした。

「ネタは今のところ一生作っていきたいものですからね」

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R-1王者という肩書きを得て東京へ移った後も、本人が選び直した中心にはネタがありました。

R-1グランプリ2025で再び決勝、家具の説明書をネタに

2025年にはR-1へ再びエントリーしました。

2023年の優勝当時は大会に芸歴制限がありましたが、その後制限が撤廃され、田津原さんがピン芸人を志すきっかけとなったルシファー吉岡さんやマツモトクラブさんらと同じ大会で戦えるようになったことが再挑戦の理由の一つでした。

決勝で披露したのは、家具を組み立てる「説明書」を題材にしたネタです。

ネタの材料を探すためホームセンターへ行き、用途も名前もよく分からない部品を約1万5000円分購入し、写真を撮って一つずつトレースするようにイラストへ起こしました。

2024年11月の単独ライブで初披露した段階では約8分あったネタを、R-1の4分へ縮めるため半年近く調整しています。

ファーストステージでは654点で3位となり、友田オレさん、ハギノリザードマンさんとともにファイナルステージへ進みました。

2度目の優勝には届きませんでしたが、2023年のカードとは違う題材で再び決勝の最終3人まで残りました。

漫画・イラスト好きから、写真や工作まで広がった現在

2026年には、田津原さんが「工作のおにいさん」となって子どもたちへ工作を教えるBSよしもとの冠特番「みんなでつくろう!タヅハーランド」も放送されました。

番組ではイラストを使った紙芝居や身近な材料を使う工作など、ネタ以外でも「描く」「作る」という特技を使っています。

同年にはトンツカタン・お抹茶さんとのユニット「ラガンラガン」を結成し、キングオブコントにも挑戦しました。

現在ピン芸人でありながら、コンビやユニットという形まで完全に閉ざしているわけではなく、面白いと思うものに合わせて活動の形を変えています。

漫画家になりたかった奈良の少年は、中学2年でM-1を見た翌朝、母へ芸人になりたいと伝えました。

漫才を目指してNSCへ入り、何度ものコンビ解散とピン芸への転向、アルバイト生活を経て、周囲の意見を取り入れて作ったカードネタでR-1王者になりました。

その後も絵、写真、デザイン、工作へと作るものを増やしながら、舞台では一人で新しいネタを作り続けています。

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