ダイアン津田篤宏の生い立ちと家族|高校受験・会社員時代からユースケと芸人になるまで

人物プロフィール

本名
石村篤宏
生年月日
1976年5月27日
身長
165cm
血液型
O型
出身地
滋賀県 愛荘町
コンビ・グループ名
ダイアン
相方・メンバー
ユースケ
結成年
2000年
所属事務所
吉本興業
芸人活動開始年
2000年
養成所・スクール
NSC大阪校 22期

大きな声のツッコミと「ゴイゴイスー」で知られるダイアン・津田篤宏さんは、現在では漫才だけでなくバラエティ、俳優、執筆まで活動の幅を広げています。

2023年にはダイアンとして『FNS27時間テレビ』の総合司会を務めるなど、全国放送の大きな番組でも存在感を見せるようになりました。

ところが芸人になるまでをたどると、子どものころから舞台に立っていたわけでも、中学や高校で漫才をしていたわけでもありません。

高校卒業後は専門学校へ進み、その後は就職しており、一度サラリーマンになってから会社を辞め、20代前半でようやく芸人という進路が現れました。

現在の相方・ユースケさんとは小学生のころから顔見知りでしたが、長い付き合いの中でも「将来は2人で芸人になろう」と約束した時期はありません。

滋賀でどんな家族の中で育ち、高校受験や会社員生活を経て、なぜユースケさんとNSC大阪校へ向かったのかを、昔から順番にたどっていきます。

ダイアン津田篤宏の生い立ちと家族|滋賀で育った少年時代

津田篤宏さんは1976年5月27日、滋賀県生まれで、兄が2人いる三男として育ちました。

のちに相方となるユースケさんも同じ地域で育っており、2人の関係は芸人になるはるか前、小学生のころから始まっています。

父の送迎で通った少年サッカー、小4でユースケと出会う

2人が最初に顔を合わせたのは、地元の少年サッカーチームでした。

ユースケさんが小学4年生でチームへ入ったころには、すでに津田さんが在籍しており、津田さんはセンターフォワードを務めていたと振り返っています。

練習には津田さんの父親が車で送り迎えをしており、ユースケさんは後年、津田家の車に子どもたちが大勢乗っていた当時の様子まで覚えていました。

ただし、小学生の2人は同じチームにいただけで、まだ特別に仲のいい友達ではありませんでした。

津田さん自身も小学生時代のユースケさんについて、強烈な第一印象があったわけではなく、ずっと走っている姿を覚えている程度だったと話しています。

兄とのけんかや母との記憶が残る津田家

津田さんは三男で、子どものころは兄たちとの距離もかなり近い家庭で育ちました。

2025年に実兄・健治さんとテレビ共演した際には、幼いころの激しい兄弟げんかとして「兄のウォークマン事件」を明かしています。

健治さんがお年玉などをためて買ったウォークマンを家で開封し、母親、もう一人の兄、父親と順番に聴かせていったところ、津田さんだけが飛ばされてしまいました。

兄が「これで全員聞かせた」と言ったことに腹を立てた幼い津田さんは、ウォークマンを持って家の裏へ行き、そのままドブ川へ投げてしまったそうです。

健治さんによると兄弟は当時、目が合うだけでけんかになるほどぶつかっており、その日も取っ組み合いになりました。

細かな叱られ方までは覚えていないという津田さんですが、最後に母親に抱きしめられたことは記憶に残っていると話しています。

中学3年でユースケと同じクラスになり、お笑いの話をする仲に

少年サッカーで顔を知っていた2人は、その後同じ中学校へ進み、中学3年生ごろに同じクラスになったことで一気に距離が縮まりました。

学校ではダウンタウンや深夜番組など、お互いに好きだったお笑いの話をするようになります。

現在のダイアンを知っていると、このころから人前で漫才をしていたようにも思えますが、実際には文化祭でネタを披露するようなタイプではありませんでした。

中学3年は高校受験の時期でもあり、放課後や休日にいつも一緒に遊んでいたわけでもなく、ユースケさんによれば学校外で遊ぶことはほとんどなかったそうです。

お笑いは2人の共通の話題にはなっていましたが、この段階ではまだ「芸人になる」という将来像にはつながっていませんでした。

高校受験に失敗して近江高校へ|フェンシングで県大会優勝

中学卒業が近づくと、津田さんとユースケさんは別々の高校を目指すことになります。

ここで津田さんには、現在も相方からたびたび話題にされる高校受験の出来事がありました。

塾と家庭教師で受験に備えるも、父と見た合格発表に名前がなかった

津田さんは受験に備えて塾を2つ利用し、さらに家庭教師にも来てもらうなど、かなり準備をしていたと本人が話しています。

試験を終えた本人には手応えがあり、「受かった」と思いながら合格発表の日を迎えました。

ところが父親と一緒に合格者の掲示を確認すると、自分の名前がありませんでした。

一方、中学校では合格した生徒が集まることになっており、ユースケさんは毎日のように一緒にいた津田さんだけが来ていないことに気づきます。

ユースケさんによれば定員超過はわずか1人だったといい、津田さんは後年になってもこの受験失敗を相方から何度もいじられることになりました。

なお、津田さんが不合格になった第一志望校について、本人の発言などから確実に校名まで確認できる資料はありません。

雨の中で家庭教師が謝罪、それでも進学先では「最高に楽しかった」

受験後には、教えていた家庭教師が傘も差さず津田家へ謝りに来たという出来事もありました。

第一志望には届かなかったものの、津田さんは滑り止めで受験していた近江高校へ進学します。

不合格の話だけを見ると苦い高校生活が始まったように見えますが、本人が後年語っている高校時代の記憶はまったく違います。

「高校時代、最高に楽しかった」

スポニチアネックス

高校受験の結果は希望どおりではありませんでしたが、進学した学校での日々まで含めると、本人の中では楽しい学生生活として残っています。

近江高校でフェンシング部に入り県大会優勝

近江高校で津田さんが取り組んだのがフェンシングでした。

現在のバラエティ番組での姿からは意外に感じられる経歴ですが、高校2年生のころには県大会で結果を残しています。

本人によると、高校2年生で滋賀県大会優勝を経験しています。

後年、パリ五輪のフェンシングをめぐる話題でも高校時代の競技経験を語っており、何十年たっても当時対戦した選手のことを覚えていました。

専門学校から会社員へ|芸人になる前の津田篤宏

近江高校を卒業した津田さんは、この時点でもすぐ芸人の道には進みませんでした。

まず専門学校へ進み、その卒業後には一般企業へ就職しています。

高校卒業後は専門学校へ進み、卒業後に営業職へ

津田さん自身は、ユースケさんとのなれ初めを振り返る際に「専門学校を卒業して働いた」と説明しています。

現在確認できる本人インタビューでは専門学校名までは明言されていませんが、卒業後は建設関係の会社でサラリーマン生活を始めました。

2026年に当時の仕事を聞かれると、建設会社向けの建材を販売するような仕事だったと説明しています。

初任給の手取りは16万〜17万円ほどだったといい、営業の仕事をしながら会社員として働いていました。

建材を扱う会社員生活を短期間で辞め、滋賀へ戻る

しかし会社員生活は長く続かず、津田さんは退職します。

給料の額だけが理由だったわけではなく、本人の中には会社でこの先ずっと働いていくことへの抵抗と、お笑いへの気持ちが残っていました。

「どこかで芸人になりたいと思ってたんで」

日刊スポーツ

会社を辞めたことで、それまで漠然としていた「お笑いを仕事にする」という選択肢が現実に近づいていきます。

退職後に滋賀へ戻ると、中学卒業後は別々の進路を歩んでいたユースケさんと再び遊ぶようになりました。

津田篤宏が芸人になったきっかけ|ユースケとNSC大阪校へ

芸人になるきっかけは、大きなオーディションへの挑戦でも、有名芸人からのスカウトでもありませんでした。

昔から知っている友人と再び会うようになり、テレビを見ながら話していた時間の中から少しずつ進路が変わっていきます。

地元で再び遊び始め、「自分たちもいけるかも」とお笑いが進路になる

津田さんが専門学校、就職、退職を経て地元へ戻ったころ、ユースケさんは短大卒業後の進路を考える時期に入っていました。

22〜23歳ごろに再び頻繁に遊ぶようになった2人は、もともと共通して好きだったお笑いを見ながら、自分たちにもできるのではないかという話をするようになります。

中学時代にはただのお笑い好きだった2人が、20代前半になって初めて「芸人」を自分たちの進路として考え始めました。

当時のNSCには入学資格に年齢制限があり、入学資金をためるためにさらに1年待てば、その制限が近づくという事情もありました。

そのため「いつか」ではなく、今動くしかないという判断になり、2人はNSC受験へ進みます。

明確な「コンビ組もう」はなく、役割も決めずに2人でNSC面接へ

ここで面白いのは、津田さんがユースケさんの家へ行って正式に「コンビを組んでくれ」と申し込んだような場面が、本人たちの記憶にはないことです。

2人同席のインタビューで「どちらから誘ったのか」と聞かれても、双方ともはっきり覚えていませんでした。

「ボケもツッコミも決めないまま、NSCの面接行きました」

QJWeb

現在は津田さんがツッコミ、ユースケさんがボケとして知られていますが、芸人への入口ではその役割さえ決まっていませんでした。

1999年に23歳前後でNSC大阪校22期へ入る

1999年、2人はそろってNSC大阪校22期へ入学しました。

吉本興業の公式プロフィールでも、津田さんとユースケさんはいずれも「1999年 NSC大阪校22期生」とされています。

同期にはキングコング、南海キャンディーズの山里亮太さん、とろサーモンの久保田かずのぶさん、中山功太さん、ミサイルマンら、その後長くお笑い界で活動する芸人がいました。

高校卒業後すぐに入った生徒もいる中で、会社員経験を経た津田さんは年齢がやや上の状態からスタートしています。

NSC大阪22期とダイアン結成|初めての漫才は声が届かなかった

NSCへ入った時点で、津田さんもユースケさんも本格的に漫才をした経験はありませんでした。

テレビを見ながら「自分たちもできるかもしれない」と考えていた2人は、ここで初めて人前でネタを見せる側になります。

本格的な漫才経験ゼロから始めた最初のネタ見せ

NSCでの最初のネタ見せは、2人にとってそれまでに経験したことがないほど緊張する場面でした。

お笑いナタリーのインタビューで、当時まだ西澤名義だったユースケさんは、最初に受けたダメ出しをはっきり覚えていると話しています。

「声が小さくて何を言ってるのかわからんかった」

お笑いナタリー

初めてのネタ見せでは、内容以前に声が届かず、当然ほとんど笑いも起きませんでした。

その後、NSCのアシスタントをしていたレギュラーが2人のネタで笑い、終わったあとに声をかけてくれたことは、津田さんの記憶に残っているそうです。

キングコングら同期が目立つなかで過ごしたNSC時代

22期の中では、キングコングが在学中から早くも結果を出していました。

キングコングが『ABCお笑い新人グランプリ』の本選へ出た際には、NSCの授業中にテレビ中継を見ることになったと津田さんたちは後年明かしています。

ユースケさんは悔しくて直視できなかった一方、津田さんは一番前に座り、床をたたきながら笑っていたと相方から暴露されました。

同じ場所からスタートした同期がテレビに出ていく中でも、2人はすぐ同じ位置へ上がれたわけではありませんでした。

2000年4月にダイアン結成、中学時代の英語教師からコンビ名を付ける

NSC入学の翌年、2000年4月にダイアンを結成します。

コンビ名の「ダイアン」は、2人が通っていた中学校にいた外国人英語教師の名前から付けられたもので、地元の愛荘町も公式資料でその由来を紹介しています。

少年サッカーで顔見知りになってから約10年を経て、同じクラスの友人だった2人がここで正式にお笑いコンビとして歩き始めました。

baseよしもとの若手時代|津田のツッコミが変わるまで

NSCを出たからといって、すぐ安定して舞台へ立てたわけではありません。

若手芸人の拠点だったbaseよしもとで、観客の前に立つための競争が始まりました。

劇場の入れ替え戦と新ネタ作りが続いた若手時代

当時のbaseよしもとには「ガブンチョ組」へ入るための入れ替え戦があり、ダイアンはなかなかそこを突破できませんでした。

津田さんは後年、そこへ入るまでに「2年くらいかかったのでは」と記憶していましたが、ユースケさんからすぐに「そんなにかかったか」と訂正されており、正確な期間について2人の記憶は一致していません。

少なくともNSC卒業後すぐに劇場の中心へ上がったのではなく、入れ替え戦を何度も受ける時期がありました。

NSC生だけを相手にネタを見せていたころと実際の劇場客では反応も異なり、ユースケさんは若い観客に合わせてネタを修正することにも苦労したと話しています。

仕事が少なかった時期には2人の間で解散の話が出たこともありましたが、後年その場所について思い出そうとしても「baseの入口」「NGKの奥の通路」と記憶が食い違うほどで、結局その話自体がいつの間にか立ち消えになりました。

講師から見れば、初期はユースケのボケを生かし切れなかった津田

若手時代の津田さんは、最初から現在のような強いツッコミを持っていたわけでもありません。

NSC講師としてダイアンを見ていた本多正識さんは、ユースケさんが独特の間でボケられる一方、当初の津田さんは最適なツッコミを選べず、声が小さかったり早口になったりすることもあったと回想しています。

卒業から数年たったころ、本多さんは刺激を与えるため、ユースケさんへ「別のうまいツッコミを探したらどうか」という趣旨の言葉まで投げかけたそうです。

それからしばらくして、本多さんが舞台で見ていた津田さんには変化が現れました。

「めきめきと津田くんがツッコミの腕を上げてきたんです」

集英社オンライン

千鳥やサバンナからの“ボケ千本ノック”でツッコミを磨く

本多さんが津田さん本人にツッコミが変わった理由を尋ねたところ、返ってきたのが先輩芸人から受けた大量のボケでした。

当時の関西ローカル番組では、千鳥やサバンナと共演する機会が増えており、大悟さん、ノブさん、高橋茂雄さんらが津田さんへ次々とボケを振っていました。

先輩が笑いを取れる形でボールを投げてくる以上、津田さんはその場ですぐ返さなければならず、それを本多さんは「ツッコミの千本ノック」のような経験だったと説明しています。

現在の津田さんを象徴する瞬発的なツッコミは、若手時代に先輩から何度もボケを振られ、それへ返し続ける現場の中で磨かれていきました。

番組で追い込まれた場面から「ゴイゴイスー」が生まれる

津田さんの代表的な言葉となった「ゴイゴイスー」も、最初から時間をかけて考案した決めギャグではありませんでした。

本多さんの回想では、ある番組の大喜利コーナーで司会役だったサバンナ高橋さんから、もっと面白い答えを求められた津田さんが苦し紛れに発した言葉が始まりでした。

「すごい」を強くしたような響きの言葉はその後も使われ続け、現在では津田さんを知らない人にも届く代表ギャグになっています。

ツッコミを鍛えた先輩たちとのやり取りと、代表ギャグの誕生は、どちらも同じ若手時代のテレビ現場から出てきた出来事でした。

M-1決勝進出で漫才師として存在感|関西で仕事が増えていく

劇場と関西ローカルの仕事を積み重ねていたダイアンにとって、全国規模で漫才を見せる大きな機会になったのがM-1グランプリでした。

ただし、決勝へ出た瞬間に全国で一気に売れたわけではなく、その後も大阪を中心に長い時間を過ごしています。

2007・2008年にM-1グランプリ決勝へ2年連続進出

2007年、ダイアンは初めてM-1グランプリ決勝へ進みました。

大会公式記録では2007年は7位で、翌2008年にも再び決勝へ進み6位となっています。

結成7〜8年目で2年連続M-1決勝へ進んだことで、劇場で漫才を続けてきたダイアンが全国放送の舞台にも姿を見せるようになりました。

若手時代に課題だった津田さんのツッコミが変わってきた時期と、2年連続でM-1決勝へ届いた時期が重なります。

劇場から関西のテレビ・ロケへ活動の幅が広がる

M-1決勝後もダイアンは大阪を拠点にし、劇場で漫才を続けながら関西のテレビやラジオへ仕事を広げていきました。

2009年には上方漫才大賞新人賞を受賞し、単独ライブにも観客が集まるコンビになっていきます。

千鳥ら長く付き合ってきた先輩芸人との番組共演も続き、若手時代に鍛えられた津田さんのツッコミや、いじられたときの返しがテレビの中でも使われるようになりました。

大阪でレギュラーを持つまでになっても全国区への距離が残った

2010年代に入ると、ダイアンは関西では複数のレギュラーを持ち、単独ライブのチケットも売れる存在になっていました。

2017年のお笑いナタリーのインタビューでも「関西でレギュラー番組を多数抱える」と紹介されており、すでに地元・関西では仕事が安定していたことが分かります。

その一方で東京を中心とした全国ネットでは、同じ関西で活動していた千鳥などに比べ、まだ毎日のように見かける存在ではありませんでした。

40歳を迎えるころになると、2人の間で「このまま大阪で続けるか、それとも東京へ出るか」という話が現実的な選択になっていきます。

41歳で東京進出|大阪での安定を離れてもう一度勝負

東京へ出る決断をした時点で、ダイアンは仕事のない新人ではありませんでした。

大阪ではテレビのレギュラーを複数抱え、芸歴も18年ほどになってからの東京進出でした。

後輩芸人の収入を知った番組収録の翌日に津田が「東京行こ」

東京進出の具体的な引き金の一つになったのが、大阪で出演した番組で若手芸人の月収を聞いたことでした。

津田さんとユースケさんは番組の聞き役として参加していましたが、自分たちよりかなり後輩の芸人が想像以上の収入を得ていることを知ります。

大阪では複数のレギュラーを持っていた自分たちと、劇場を中心に活動している後輩の収入差が思ったほど大きくなかったことに、津田さんはショックを受けました。

「次の日、東京行こうと思った」

ENCOUNT

後年になっても2人が繰り返し話している具体的な出来事で、収入面で感じた大阪での限界が東京行きを考える一つのきっかけになりました。

「一度は東京で勝負したい」と2018年4月に拠点を移す

ただし、東京進出の理由は収入だけではありません。

2018年の進出直後に行われた吉本興業のインタビューでは、津田さんは数年前から東京への気持ちが生まれ、前年にその思いが強くなったと説明しています。

「芸人である以上、一度は東京で勝負したいなと」

よしもとニュースセンター

2018年4月1日、津田さんが41歳のとき、ダイアンは活動拠点を東京へ移しました。

大阪で一定の仕事を得たあと、40代になってからもう一度新しい土地で勝負する選択でした。

しかも東京へ出た直後の4月7日には、関西で長年積み重ねてきた漫才が評価され、ダイアンは第53回上方漫才大賞の大賞を受賞しています。

東京進出後すぐではなく、時間をかけて全国で仕事が増える

東京へ移れば、それだけで全国区の仕事が一気に増えるわけではありませんでした。

津田さんは後年、上京当初について「仕事は全然なかった」と振り返っており、画面越しに視聴者とじゃんけんをするような仕事も経験しています。

初めて東京のテレビ番組へ出た際には、音声スタッフから津田さんと当時の西澤さんのどちらがどちらか分からないと言われ、関西との知名度の違いを実感したこともありました。

大阪ではすでに知られていたコンビが、東京ではもう一度名前を覚えてもらうところから始めることになったのです。

それでも従来の出方を大きく変えることはせず、バラエティ番組への出演を重ねる中で津田さんの大声の返しや、追い込まれたときに感情をそのまま出す姿が全国放送でも使われるようになっていきました。

現在の津田篤宏|漫才からバラエティ、俳優・執筆まで

東京へ出てから約5年がたったころ、ダイアンの立ち位置は上京直後とは大きく変わっていました。

漫才コンビとして活動を続けながら、津田さん個人の仕事もバラエティ以外へ広がっています。

『FNS27時間テレビ』MCが象徴した東京進出後の変化

2023年7月には、千鳥、かまいたち、ダイアンの3組が『FNS27時間テレビ 鬼笑い祭』の総合司会を担当しました。

東京へ来た当初はスタッフに名前と顔が十分伝わっていなかった津田さんが、5年後には長時間の全国特番を任される側になっています。

そのころには、漫才だけでなくバラエティで予想外の状況へ放り込まれたときの反応そのものが津田さんの見せ場となり、若手時代に先輩のボケへ必死に返していた経験とは違う形で瞬発力が使われる場面が増えていました。

50歳で初著書とドラマ初主演へ活動が広がる

2026年5月27日、50歳の誕生日には初の単著となる『津田日記』が新潮社から発売されました。

2025年の1年間に本人が書いた日記をまとめた一冊で、漫才やテレビだけではなかった津田さんの新しい仕事になっています。

さらに同年8月1日からはテレビ朝日のドラマ『タイムトラベルダディ』が放送され、津田さんにとってドラマ初主演作となりました。

23歳前後で漫才を一から学び始めた津田さんは、50歳で初の単著を出し、ドラマの主演まで務めるところへ活動を広げています。

小学生時代から知るユースケとの関係は現在も続く

活動内容が大きく変わっても、ダイアンの相方が少年サッカーで知り合ったユースケさんであることは変わっていません。

公式YouTube『ダイアンYOU&TUBE』では、演出を担当する中村拓馬さんが2人の空気を「中学の休み時間」のようなものとして捉え、凝った企画よりも幼なじみ同士のやり取りを見せる方向で番組を作っていると語っています。

2人自身も、友達から相方へ切り替わった明確な日があった感覚は薄く、コンビを組んで20年以上たった現在まで昔からの距離感が残っています。

父親に送ってもらった少年サッカー、中学でのお笑い話、高校受験、専門学校と会社員生活を経て、津田篤宏さんが芸人になったのは20代前半になってからでした。

会社を辞めて地元へ戻り、昔から知るユースケさんとNSCへ向かったことが、その後25年以上続く芸人人生の入口になりました。

若手時代にツッコミを鍛え、M-1、関西での活動、41歳での東京進出を経た現在も、隣にいるのは小学生のころから顔を知っていた同じ相方です。

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