人物プロフィール
現在の上田晋也さんといえば、バラエティ番組でゲストの話を拾いながら進行する司会・MCとしての姿を思い浮かべる人も多いでしょう。
しかし、有田哲平さんと出会った高校時代までさかのぼると、テレビに出るずっと前から、2人で何時間もしゃべり続ける日々を送っていました。
高校卒業後は熊本を離れて早稲田大学教育学部へ進みましたが、大学時代には芸能事務所へ送る履歴書を書き、お笑いの世界へ入る準備を始めています。
しかも、その履歴書を書いていた日に、後に30年以上コンビを続けることになる有田さんが偶然、上田さんの部屋へ泊まりに来ました。
熊本で育った少年が、有田哲平さんと出会い、大学生活を離れて芸人になるまでには、いくつもの具体的な出来事がありました。
上田晋也の生い立ちと家族|熊本で3人きょうだいの真ん中として育つ
上田晋也さんは1970年5月7日、熊本県に生まれました。
現在の所属事務所・株式会社チャッターボックスのプロフィールでも生年月日が確認でき、熊本はその後も上田さんと有田さんにとって長く関わり続ける故郷となっています。
兄・上田啓介と妹がいる家庭で育った子ども時代
上田さんは兄、上田さん、妹の3人きょうだいの真ん中として育ちました。
兄の上田啓介さんは、後に熊本でローカルタレントとして活動し、テレビで晋也さんと共演することもあります。
子どものころの上田さんを想像しやすいのが、2024年の『上田と女が吠える夜』で本人が明かした夕食時の話です。
食卓にハンバーグが1個余ると、兄や妹に取られないよう、そのハンバーグに自分の唾をつけて自分だけが食べられる状態にしていたと話し、出演者たちを驚かせました。
現在の冷静な司会ぶりとはかなり違い、家庭では兄と妹に挟まれながら遠慮なく動く子どもだったようです。
小中学生時代はどんな少年だったのか
小中学生時代については学校名よりも、上田さん自身が後年語った子どものころの姿に具体的な情報が残っています。
フジテレビ『堂本兄弟』の公式トーク記録では、子どものころ通信簿によく書かれていた言葉を聞かれ、上田さんは「落ち着きがない」と答えています。
習い事では習字を経験しており、子どものころになりたかった職業を聞かれた際には、すでに「お笑い」と答えていました。
「僕お笑いですね。」
フジテレビ「堂本兄弟」
ただし、「自分は芸人になれるかもしれない」と具体的に考え始めた時期については、同じ番組で高校1年生ごろだったと答えています。
子どものころからお笑いという職業を意識し、高校1年生で自分の発言が周囲にウケたことから、芸人という進路がより現実的になっていきました。
済々黌高校で有田哲平と出会う
中学を終えた上田さんは、熊本県立の進学校として知られる済々黌高校へ進みました。
ここで、高校卒業後も人生をともにすることになる同級生の有田哲平さんと出会います。
高校1年、プロレスと『お笑いスター誕生!』で意気投合
有田さんが2026年にTOKYO FM『川島明 そもそもの話』で振り返ったところによると、2人が知り合ったのは高校1年生のころでした。
共通して好きだったものの一つがプロレスで、有田さんは長州力に夢中になり、上田さんもプロレス好きだったことから話が合いました。
さらに2人とも、日本テレビ系で放送されていたお笑い番組『お笑いスター誕生!!』が好きだったことも距離を縮めるきっかけになりました。
有田さんと出会ったころには、上田さんの中にすでに「お笑い芸人になりたい」という思いが生まれていました。
後年、有田さんは自分について、当時はまだ芸人になることまで考えていなかった一方で、上田さんは比較的早い段階から芸人を志していたと振り返っています。
ラグビー部で毎日3時間「1日3ステ」のフリートーク
高校では2人ともラグビー部に所属しました。
ところが、後年語られた高校時代の思い出で目立つのは、ラグビーそのものだけではなく、部活動の前後に続けていた2人の会話です。
2024年の『しゃべくり007』では、有田さんが、授業が終わると練習前の部室で部員を相手に約1時間、上田さんと2人でフリートークをしていたと明かしました。
部員が着替えて部室を出て行き、次の部員が入ってくると、相手を替えて再び話し始めていたといいます。
その後は芝生で前日に見たプロレスの試合を再現し、練習が終わるとまた約1時間話しました。
さらに学校前の駄菓子屋へ移動し、そこでも部員数人を前にもう一度しゃべっていました。
「毎日3時間フリートークしてた。」
スポニチ Sponichi Annex
有田さんはこの放課後の流れを、ライブを1日に3回行うような意味で「1日3ステ」と表現しています。
芸人になる前の高校生2人が、客を入れ替えながら毎日約3時間しゃべっていたというのが、当時の実際の放課後でした。
放課後は有田の家へ通い、2人で過ごした高校生活
学校を離れてからも、2人は一緒に過ごしていました。
2024年、有田さんがTBS『有田哲平とコスられない街』で懐かしんだのは、当時流行していたファミコンの野球ゲーム『ファミリースタジアム』です。
上田さんの家は有田さん宅とは逆方向だったにもかかわらず、学校が終わると有田さんの家へ行き、2人でゲームをしていました。
「学校終わり、家、逆方向なのにわざわざ来て、毎日ファミスタやってた。」
スポニチ Sponichi Annex
有田さんはルールを詳しく教えず、自分が毎回勝っていたとも話しています。
部室でも、グラウンドでも、駄菓子屋でも、さらに放課後の家でも2人で時間を過ごしていたことになります。
早稲田大学へ進学|東京で芸人を目指し始める
高校を卒業すると、上田さんと有田さんはいったん別々の進路を選びます。
上田さんは早稲田大学教育学部、有田さんは立教大学へ進学し、2人とも熊本を離れて東京で暮らし始めました。
ポプラ社の上田さんの著者紹介でも、早稲田大学教育学部を中退した経歴が確認されています。
熊本から上京し、久我山の6畳一間で兄と2人暮らし
上京後の生活には、兄の上田啓介さんがいました。
上田さんが2026年にTBS『上田晋也のサンデーQ』で明かしたところでは、最初に住んだのは東京都杉並区久我山のアパートでした。
部屋は風呂なしの6畳一間で、家賃は5万5000円ほどだったといいます。
「久我山の風呂なしで5万5000円だったかな」
スポニチ Sponichi Annex
6畳の部屋で兄と2人暮らしをし、その後、妹が近くの風呂付きアパートへ引っ越してくると、上田さんは妹の部屋へ風呂だけ借りに行っていたことも明かしています。
早稲田大学へ通っていたころの上田さんは、久我山の小さな部屋で兄と暮らしながら東京生活を始めていました。
大学へ通いながら、お笑い事務所への履歴書を書く
東京へ出ても、高校時代に抱いていたお笑いへの思いは消えていませんでした。
有田さんが2026年のTOKYO FM『川島明 そもそもの話』で明かしたエピソードでは、大学時代の上田さんはすでに具体的な行動へ進んでいます。
ある日、上田さんはお笑い事務所へ提出するための履歴書を書いていました。
まだ有田さんと正式にコンビを組んだ後ではなく、上田さん自身がお笑いの世界へ入ろうとしていた段階です。
「友人に誘われて何となく芸人になった」のではなく、上田さんは有田さんが加わる前から、自分で芸能事務所へ応募しようとしていました。
有田哲平が久我山の部屋へ来た夜、コンビ結成へ
上田さんが履歴書を書いた日、別の大学へ進んでいた有田さんにも一つの出来事がありました。
それまで別々に進んでいた2人の道が、東京で再び重なります。
下北沢の合コン帰りに有田が上田の部屋へ
当時、有田さんは江古田で暮らしていました。
ある日、下北沢で開かれた合コンに参加したものの、うまくいかなかった有田さんは、自宅とは別方向にある久我山の上田さんの部屋へ泊まりに行きます。
久しぶりに会った2人は、高校時代に好きだったお笑いの話を始めました。
そこで有田さんが知ったのが、上田さんがその日に芸能事務所へ送る履歴書を書いていたことでした。
高校時代のお笑い話から2人で芸人を目指すことに
高校時代には毎日のようにしゃべっていた2人でしたが、芸人を目指す時点では同じ温度から始まったわけではありません。
有田さんによると、先に芸人志望を持っていたのは上田さんでした。
それでも、久我山で昔のお笑い話をしたことをきっかけに、有田さんも一緒に芸人を目指す流れになります。
上田さんが履歴書を書いたその日に有田さんが偶然泊まりに来たことが、2人でお笑いの世界へ進む直接のきっかけになりました。
1991年、2人は後のくりぃむしちゅーにつながるコンビ活動を始めます。
大学を離れ、コント山口君と竹田君のもとへ
2人が向かったのは、養成所ではありませんでした。
当時、芸能プロダクションを率いていたコント山口君と竹田君の山口弘和さんらのもとを訪ねます。
山口さんは、大学と芸人を同時に続けるより、大学を中退して飛び込むか、卒業後に挑戦するかを決めたほうがいいと2人に助言しました。
上田さんは早稲田大学を中退し、有田さんもその後大学を離れました。
大学生活を続けながら様子を見るのではなく、上田さんは大学を離れて芸人として活動する道へ進みました。
海砂利水魚の若手時代|付き人から舞台へ
現在のくりぃむしちゅーとは違い、活動初期の2人は海砂利水魚というコンビ名で舞台に立ちました。
しかも、最初から現在の「有田さんがボケ、上田さんがツッコミ」という形だったわけではありません。
上田は竹田、有田は山口の付き人としてスタート
約1年間、有田さんは山口弘和さんに、上田さんは竹田高利さんについて活動しました。
ただし、山口さんは後年、「弟子」というより先輩と後輩の関係だったと説明しています。
一般的な付き人のイメージとは少し違い、身の回りの世話や送迎などの雑用ばかりをさせることもありませんでした。
山口さんは、そんな時間があるなら映画やライブを見て感性を磨いてほしいと考え、アルバイトに追われなくても最低限生活できる程度の給料も出していたと振り返っています。
一方でスタッフへの接し方などは細かく教えられ、上田さんも注意されたことはすぐ理解していたといいます。
月1ライブで毎回新しいネタを作った若手時代
付き人をしているだけでは芸は身につかないという考えから、2人はかなり早い段階で舞台にも出してもらっています。
山口さんらが行っていた月1回の定期ライブでは、観客からお題をもらい、次の月までに新しいネタを作って披露する形で経験を積みました。
ネタの中身について山口さんが細かく型にはめることはなく、2人自身が考えた笑いを試す時間が続きます。
養成所の授業ではなく、付き人をしながら毎月新しいネタを作り、観客の前で試すことが海砂利水魚の最初期の日常でした。
最初は上田がボケ|有田ボケ・上田ツッコミへ変更
デビュー当初の漫才でボケを担当していたのは、意外にも上田さんでした。
有田さんがツッコミを担当し、現在とはまったく逆の組み合わせで漫才をしていました。
初期のネタを見た山口さんは、その配置に違和感を覚えました。
「当時は上田がボケで有田がツッコミ。今とは逆ですが、どうにも違和感がありましたね」
アサ芸プラス
山口さんから指摘を受けると、2人はほどなく有田さんがボケ、上田さんがツッコミという現在につながる配置へ変更します。
上田さんのツッコミは、芸人になった最初から固定されていた役割ではなく、若手時代の試行錯誤の中で生まれたものでした。
付き人時代から車内で雑学クイズをしていた上田晋也
付き人時代の上田さんには、後の仕事を知ってから見ると興味深い習慣もありました。
車で移動しているとき、上田さんは周囲へ雑学の問題を出し、クイズをして過ごしていたと山口さんが証言しています。
「上田は当時から雑学が好きだったんでクイズ大会をしながら過ごす」
アサ芸プラス
この時点では、もちろんテレビで「うんちく王」と呼ばれるようになる前です。
若手時代の移動時間から、上田さんは雑学を集め、周囲にクイズとして出すことを楽しんでいました。
ボキャブラ天国で知られても、すぐには安定しなかった
舞台やライブで経験を重ねた海砂利水魚は、やがてテレビへ活動の場を広げていきます。
大きな存在となったのが、フジテレビ系『ボキャブラ天国』でした。
海砂利水魚としてボキャブラ世代の一組に
海砂利水魚は『ボキャブラ天国』シリーズへの出演によって全国的な知名度を上げていきました。
有田さんのボケへ上田さんが強い言葉やたとえを交えて返すスタイルも知られるようになり、番組では「邪悪なお兄さん」というキャッチフレーズでも親しまれました。
一方、同じ番組には爆笑問題、ネプチューンなど、その後もテレビの中心へ進んでいく芸人たちが出演していました。
有田さんは後年、周囲の活躍が目立つようになり、次第に差がついていった時期だったと振り返っています。
有田6000円、上田50円だった携帯番号の“値段”
当時の上田さん自身の人気を象徴する、かなり具体的な記憶も残っています。
2025年の『上田ちゃんネル』で上田さんが明かしたのは、ボキャブラ芸人の携帯電話番号が名古屋で売られていたという話でした。
上田さんのもとへ届いたファンレターには芸人ごとの値段が書かれており、ネプチューンの原田泰造さんは約1万5000円、堀内健さんは約1万2000円、有田さんも約6000円だったといいます。
ところがランキングを下まで見ていくと、上田さんにつけられていた値段は50円でした。
海砂利水魚としてテレビに出ていた時期でも、有田さんと上田さんでは個人の人気にかなりの差があったことを本人自身が笑い話として残しています。
番組終了後、次の道を探した海砂利水魚
『ボキャブラ天国』が終了すると、出演していたことだけでその後の仕事が安定したわけではありませんでした。
有田さんによれば、ネプチューンや爆笑問題らの活躍が大きくなっていく一方で、海砂利水魚には先がはっきり見えない時期が訪れます。
付き人を辞めてから売れるまでに時間がかかったことは、若手時代を知る山口弘和さんも後年語っています。
その間も2人は、コントやトークライブなどで活動を続けていました。
2001年、海砂利水魚からくりぃむしちゅーへ
10年ほど使ってきた「海砂利水魚」という名前が変わったのは、事務所の方針や2人の会議ではなく、テレビ番組の企画でした。
舞台となったのはTBS系『新・ウンナンの気分は上々。』です。
改名対決に敗れ「くりぃむしちゅー」になる
番組では、海砂利水魚とバカルディがさまざまな対決を繰り広げ、負けたコンビが改名する企画へ発展しました。
先に敗れたバカルディは「さまぁ~ず」へ改名し、その後仕事が大きく増えていきます。
海砂利水魚が最初の改名対決で負けた場合には、高校時代に2人ともラグビー部だったことから「ザ・トライ」という名前が候補になっていました。
その対決には勝ったものの、再び行われた勝負で今度は海砂利水魚が敗北します。
内村光良さんが有田さんへ好きな食べ物を尋ね、有田さんがクリームシチューと答えたことから、新しいコンビ名が「くりぃむしちゅー」に決まりました。
2001年、約10年間名乗った海砂利水魚は、テレビ番組の対決をきっかけに「くりぃむしちゅー」へ変わりました。
上田は以前から「海砂利水魚」を変えたがっていた
突然の改名というと、上田さんも強く抵抗していたように見えますが、本人が後に著書『激変』で明かした事情は少し違います。
上田さんは「海砂利水魚」という名前を以前から変えたいと思っており、何年にもわたって改名を申し出ていたと書いています。
人に覚えてもらいにくく、表記を間違えられることもあり、漢字5文字の名前にも不満を持っていました。
そのため、改名が決まったとき、有田さんほど落ち込んではいなかったというのが上田さん側の記憶です。
「海砂利水魚」という名前への愛着だけで抵抗していたのではなく、上田さん自身は改名前から名前を変えたがっていました。
改名しても約1年間は大きな変化がなかった
さまぁ~ずが改名後に仕事を増やしたこともあり、「くりぃむしちゅー」への改名もそのままブレイクへつながったように語られることがあります。
しかし、有田さんが2026年に振り返った流れでは、くりぃむしちゅーには改名後も約1年間、大きな変化がない時期がありました。
「海砂利水魚からくりぃむしちゅーへ改名したから売れた」という一段階の変化ではなく、改名後にも仕事を模索する時間が続いていました。
“うんちく”をきっかけに上田晋也の仕事が変わる
改名後の上田さんに大きな変化をもたらしたのが、若手時代から好きだった雑学でした。
付き人時代の車内でクイズを出していた上田さんが、今度はテレビの中で知識を生かすようになります。
“うんちく王”として注目され、仕事が増えていく
転機の一つとなったのが、テレビ朝日系の深夜番組『虎の門』でした。
上田さんは、いとうせいこうさんが進行する討論企画「朝まで生どっち」に出演し、その後番組内で始まった「うんちく王」の企画へ参加します。
いとうせいこうさんとの対談では、上田さん自身がこのころの仕事の変化について語っています。
「僕の仕事が増えたのは、そうやってせいこうさんがプッシュしてくれたおかげですよ。」
QJWeb クイック・ジャパン ウェブ
2003年には『虎の門』で芸能界の「うんちく王」を競う企画が繰り返し放送され、上田さんの知識量そのものがテレビ上のキャラクターとして認識されていきました。
有田さんも、くりぃむしちゅーの仕事が増え始めた大きなきっかけとして、上田さんの“うんちく”を挙げています。
付き人時代に車内でやっていた雑学クイズが、30代になると「うんちく王」という形で上田さん個人の仕事を増やしていきました。
コンビのツッコミから司会・MCへ活動が広がる
うんちくで単独出演が増えると、上田さんの仕事は漫才やバラエティのツッコミだけではなくなっていきます。
知識を使う番組、ゲストの話を引き出すトーク番組、スポーツ番組などへ出演の幅が広がり、司会を任される機会も増えていきました。
2008年には日本テレビ系『しゃべくり007』が始まり、上田さんはネプチューン、くりぃむしちゅー、チュートリアルが自由にトークを広げる中で進行役を担います。
その後もクイズ番組では司会を担当し、テレビ朝日『くりぃむクイズ ミラクル9』でも上田さんが司会、有田さんがチームキャプテンという形で2人が共演しています。
高校の部室で2人が何時間もしゃべっていたころとは立場も場所も変わりましたが、現在も有田さんが自由に話を広げ、上田さんが拾って返す場面は続いています。
有田と再び熊本へ|故郷で冠番組を持つ現在
10代で熊本を離れた2人は、芸歴30年を超えてから故郷を舞台にした番組でも一緒に仕事をするようになりました。
2024年4月、熊本県民テレビで『くりぃむしちゅーの熊本どぎゃん!?』がスタートしました。
KKTはこの番組を、くりぃむしちゅーが東京で自慢できる熊本の人・モノ・場所を探す「ふるさとバラエティー」と紹介しています。
番組では2人が熊本へ戻り、若いころにはなかった場所を訪ねたり、学生時代から知る街の記憶を語ったりしています。
2026年にも番組は続き、上田さんと有田さんがそろって出演する回では、熊本時代の思い出を改めてたどっています。
済々黌高校で出会った2人は、東京で海砂利水魚を結成し、30年以上が過ぎた現在もコンビのまま熊本へ戻って番組を作っています。
熊本で兄と妹に囲まれて育った上田晋也さんは、高校で有田哲平さんと出会い、毎日のように何時間も話す学生生活を送りました。
早稲田大学へ進んだ後、自分で芸能事務所への履歴書を書いた日に有田さんが久我山の部屋を訪れ、2人は大学を離れて海砂利水魚として芸人生活を始めました。
付き人時代の漫才や雑学、ボキャブラ期、改名後の“うんちく”を経て、上田さんは現在、コンビ活動を続けながら司会・MCとしてもテレビの前に立っています。












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