人物プロフィール
独特の間と発想でコントにも漫才にも不思議な空気をつくる、ロングコートダディの堂前透さん。
2025年にはロングコートダディとしてキングオブコント優勝を果たしましたが、その芸人人生は高校卒業と同時に一直線で始まったわけではありません。
高校3年生の12月まで、堂前さんは大学進学を考えて勉強していました。
進路が決まりきらない中で偶然目にしたNSCの広告から方向を変え、三者面談で母親と担任に初めて「吉本へ行く」と明かし、その夜には家族会議が開かれています。
大阪へ出てからも、最初から現在の相方・兎さんと組んだわけではなく、別のコンビ、ピン、トリオを経験した末に2人は一緒になりました。
福井県おおい町でどんな子ども時代を過ごし、なぜ大学ではなく芸人の道を選び、どのようにロングコートダディができあがっていったのでしょうか。
堂前透の生い立ちと家族|福井県おおい町で育った3人きょうだいの真ん中
堂前透さんは1990年1月16日生まれ、福井県おおい町出身です。
地元のおおい町里山文化交流センターが両親に取材した記録には、テレビで見る姿だけでは分からない幼い堂前さんの様子がかなり具体的に残っています。
3人きょうだいの真ん中|何度叱られても平然としていた子ども時代
堂前さんは3人きょうだいの真ん中で育ちました。
母親によると、小さいころから面白いことが好きで、朝起こしに行くと布団の中で頭と足の位置が逆になっているほど寝相が激しかったそうです。
几帳面だった兄とは対照的で、何度叱ってもあまりこたえていないように見える子でもありました。
家庭の中で「面白い子」として記憶されていた姿は、芸人になってから作られたキャラクターではなく、家族が知る幼少期から続いています。
兄の入院中、家の空気を変えていた幼い堂前
父親の仕事の関係で、堂前家は若いころに3年間大阪で暮らした時期もありました。
その大阪生活の途中、兄が入院したことがあり、家の空気が沈みやすい時期があったといいます。
そんな中でも幼い堂前さんは普段と変わらず、母親は当時を振り返っています。
「透が居なかったら暗い家庭だったと思う」
おおい町里山文化交流センターだより
家族が大変な時期に、本人は意識せずとも家の中を和ませる存在になっていました。
幼なじみの飯めしあがれこにおと過ごした名田庄
堂前さんの地元時代を知る人物の一人が、福井県住みます芸人の飯めしあがれこにおさんです。
おおい町は2人を「幼馴染の同級生」で、かつてコンビを組んでいた間柄と公式に紹介しています。
堂前さん自身も後年、保育園から一緒だった同級生とNSCへ行くことになり、2人で大阪へ出たと話しています。
芸人人生の最初に隣にいたのは、後の兎さんではなく、子どものころから知っている地元の友人でした。
中学・若狭高校時代|脚本、勉強、絵に親しんだ学生生活
堂前さんが人に見せるものを考えていた記録は、中学生のころから残っています。
一方で高校時代の本人が最も力を入れていたと答えているのは、お笑い活動ではなく勉強でした。
中学校の文化祭では3年間、劇の脚本を担当
中学校では、文化祭で上演する劇の脚本を3年間すべて堂前さんが担当していました。
現在のコント作りとは規模も立場も違いますが、中学生の時点ですでに、舞台で人に見せる話を書く側に回っていたことになります。
ただし、この時点で「将来は芸人になる」と決めていたわけではありません。
芸人という進路が現実の選択肢になるのは、もっと後の高校3年生になってからでした。
若狭高校では「勉強かな」|友人の輪を行き来した高校生
高校は福井県立若狭高校へ進学しました。
2021年のch FILESのインタビューで、高校時代に一番頑張っていたことを尋ねられた堂前さんは「勉強かな」と答えています。
周囲も一定程度は勉強する雰囲気があり、遊びながらも勉強していないと友人から突っ込まれるような環境だったそうです。
友人関係については、自分を冗談めかして「一軍」と表現しながら、にぎやかなグループにも、それ以外の友人たちにも行き来できる立ち位置だったと振り返っています。
学校でひたすら目立つタイプだったというより、いくつもの人間関係の間を自然に動いていた高校生の姿が見えてきます。
子どものころから絵が好き|美術室の「ファースト」で終わったデッサン
現在の堂前さんはイラストも得意分野として知られていますが、絵を描くこと自体は子どものころから好きでした。
高校1年か2年のころには、美術の先生から放課後にデッサンを教えてもらったことがあります。
最初に三角錐を描き、先生は作品に「ファースト」と書いてくれました。
ところが翌週に予定されていた2回目のレッスンへ堂前さんは行かず、本人いわく本当に「ファースト」の1枚だけで終わったそうです。
のちにロングコートダディの単独ライブでは、自分たち2人の写真よりイラストの方が目を引くと考え、堂前さん自身がフライヤーを描くようになります。
吉本新喜劇から『爆笑オンエアバトル』へ|コントを見るようになった少年時代
福井では吉本新喜劇が放送されており、堂前さんは後年、自分のお笑いの原点として新喜劇を挙げています。
意識して研究していたというより、放送されているから普通に見る、生活の中にある笑いでした。
その後、ネタそのものを意識して見るようになった番組が『爆笑オンエアバトル』です。
そこからラーメンズ、バナナマン、おぎやはぎなどを好きになり、ビデオやDVDを借りて見るようになりました。
コント番組では『はねるのトびら』も真剣に見ていたと話しており、後に本人が「自分でやるならコント」と自然に考えた背景には、こうして見てきた笑いがありました。
高校3年12月に大学進学から吉本へ|堂前透が芸人になったきっかけ
若狭高校へ進んだ堂前さんは、最初から卒業後に芸人になる予定だったわけではありません。
高校3年生になっても大学進学を想定して勉強を続けていましたが、行きたい大学も、その先で何をしたいかも決めきれないまま冬を迎えます。
進路が決まらない12月、雑誌でNSCの広告を見つけた
本人が芸人を目指し始めた時期として明確に挙げているのが、高校3年生の12月です。
進路を決めなければならない時期に本を眺めていると、吉本総合芸能学院、いわゆるNSCの広告が目に入りました。
大学へ進んだ先にやりたいことが見つからない一方で、広告を読んだNSCには、それまでの選択肢にはなかった感覚があったといいます。
大学よりNSCの方が「一番しっくりきた」ことで、堂前さんはそこで進路を切り替えました。
子どものころからお笑いを見てはいましたが、「芸人」という職業を長年の夢として準備してきたというより、進路を決めるぎりぎりの時期に現実の道として選んでいます。
三者面談で突然「大学いかんし、吉本に行く」|その夜は家族会議に
しかも、進路変更を家族へ事前にじっくり相談していたわけではありませんでした。
若狭高校3年の2学期、12月に行われた最終的な三者面談の席で、母親と担任は初めて堂前さんの考えを知ります。
「ボク大学いかんし、吉本に行く」
おおい町里山文化交流センターだより
担任だけでなく母親も驚き、思わず堂前さんを二度見したと地元の広報で語っています。
当然、その日の話は学校だけでは終わらず、夜になると堂前家で家族会議が開かれました。
両親は当初、芸能の世界で食べていけるはずがないと反対しました。
それでも昔からお笑い番組が好きだったことを思い返し、本当にやる気があるのかを確かめたうえで、本人が自分で無理だと思うところまではやらせようという結論になりました。
大学進学を前提にしていた高校生が、12月の三者面談を境に吉本へ向かうことになりました。
2008年春に大阪へ|仕送りを受けながらNSC大阪31期へ
2008年春、堂前さんはNSC大阪校31期へ入りました。
吉本興業の公式プロフィールでも、堂前さんと後の相方・兎さんはともに2008年のNSC大阪校31期生とされています。
当時は入学金と1年間の授業料で計40万円かかり、授業の合間にアルバイトをしても生活費までは賄えなかったため、両親から仕送りを受けていました。
実家を出た堂前さんにとって、知らない土地での一人暮らしも、そこでのアルバイトも初めてです。
本人は後年、NSC時代について、初めてのことが一気に重なって「あまり記憶がない」と笑っています。
芸人になる決断だけではなく、18歳で生活そのものが福井から大阪へ大きく切り替わった時期でした。
NSC大阪31期時代|幼なじみと上阪し、兎と出会うまで
NSCへ入れば、そこで兎さんと出会ってすぐロングコートダディが始まったようにも見えますが、実際にはその間にいくつもの組み合わせがありました。
堂前さん自身も、養成所で用意された「相方探しの会」には参加していません。
保育園からの同級生と大阪へ|八尾で始めた初めての一人暮らし
堂前さんが大阪へ出る際には、保育園から仲のよかった同級生も一緒にNSCへ進みました。
その友人の親戚が大阪府八尾市でマンションの大家をしていたことから、堂前さんはそこに住むことになります。
住み始めてから、NSCのある難波まで「意外と遠い」と気づいたという話も残っています。
地元を離れてきた18歳の生活は、授業だけで完結せず、移動、一人暮らし、アルバイトまで全部を自分で回すところから始まりました。
「ゼットンズ」からピン、「大三元」へ|現在の相方にたどり着く前
一緒に大阪へ来た同級生とは、NSC時代に「ゼットンズ」というコンビで約4か月活動しました。
堂前さんは冗談交じりに「組んだ覚えはない」と語っていますが、その後ゼットンズを離れると、しばらくピンで活動します。
さらに次は「大三元」というトリオを組みました。
現在のコンビだけを見れば「NSC同期の兎と結成」で一行にまとめられますが、堂前さんは短期間にコンビ、ピン、トリオを経験してから現在の相方へたどり着いています。
兎の第一印象は「ひょろひょろ」|別々の相方で活動していた同期時代
兎さんもNSCで最初から堂前さんと組んでいたわけではありません。
何人かと組んでは解散し、やがてケチャップ清水さんと「オムレッツ」を結成し、自身は「タマゴ高橋」という名前で活動していました。
そのころ堂前さんは清水さんと親しく、兎さんとも接点が増えていきます。
NSCで初めて堂前さんを見た兎さんの印象は、細身で人見知りそうな、かなり暗そうな人物だったそうです。
ただ、堂前さんが「大三元」で活動していたころから2人で遊ぶようになり、単なる同じ期の芸人から距離が縮まっていきました。
堂前から兎を誘いロングコートダディ結成|「一緒にいて楽」が決め手
NSC卒業が近づくころ、兎さん側に大きな変化が起きます。
当時の相方が大学へ専念することになり、卒業公演を前に兎さんは再び一人になりました。
岡山へ戻ろうとしていた兎へ、堂前から声をかけた
相方を失った兎さんは卒業公演へ一人で出ることを選ばず、自分では面白いと思っていたのに結果が伴わない状況で気持ちも折れ、岡山へ帰ろうかと考えていました。
そのタイミングで声をかけたのが堂前さんです。
ロングコートダディは兎さんから堂前さんを誘ったのではなく、堂前さんから兎さんへ声をかけて始まっています。
堂前さん自身もそれまでにコンビやトリオを経験しており、兎さんも何度か相方が変わっていました。
お互いが最初の相方ではない状態で、NSC卒業直前になって現在の2人が組み合わさったことになります。
『ギャグマンガ日和』を全巻持っていた2人|笑う場所が似ていた
堂前さんが兎さんを選んだ理由には、能力を分析したような話より、2人で過ごしたときの感覚が出てきます。
共通して好きだったのが、増田こうすけさんの漫画『ギャグマンガ日和』でした。
2人とも全巻を持っており、漫画について話してみると、面白いと思うところや笑うポイントが似ていました。
「一緒にいてこういう感じ楽だな」
月刊芸人
笑いのポイントが似ていて、一緒にいて楽だったことが、堂前さんから兎さんへ声をかける理由になりました。
2009年4月に結成|「カレー」「ソテー」を経てロングコートダディへ
吉本興業とM-1グランプリの公式記録では、ロングコートダディの結成は2009年4月です。
現在の名前になる前には「カレー」、その後「ソテー」というコンビ名を使った時期もありました。
ネタについて堂前さんは、コントを見て育ってきたため、自分で最初に書いたものも自然にコントになったと話しています。
ところが、コンビができたからといってすぐ舞台が増えたわけではありません。
組んだばかりのころは、舞台があっても2か月に1回ほどで、それ以外は2人で遊んでいる時間も多かったと兎さんは振り返っています。
久しぶりに舞台へ出れば、袖にいる同期や先輩から「声が小さすぎて何を言っているか聞こえない」と指摘される状態でした。
何度かコントを続けて評判が生まれるようになり、先輩からインディーズライブへ呼ばれる機会が少しずつ増えていきます。
一度解散し「堂前タオル」でピンへ|朝6時の電話から再結成
ロングコートダディは結成から現在まで途切れず続いてきたコンビでもありません。
結成4年目にあたる時期、一度完全に解散しています。
オーディション最下位と若手芸人の旅行|兎から解散を切り出した
兎さんによると、きっかけの一つはオーディションバトルで成績を落とし、再び最下位まで戻った時期でした。
さらに、先輩が100人ほどの若手芸人を誘った海への旅行にも2人で参加しました。
周囲には大勢の芸人がいるのに、堂前さんも兎さんもその輪へまったく馴染めず、兎さんは「自分は芸人としてダメだ」と感じるほど気持ちが折れたといいます。
堂前さんも旅行が楽しかったわけではなく、自分も心が「しなるくらい」にはなったと話しています。
そして兎さんから解散を持ちかけ、2012年9月にロングコートダディはいったん解散しました。
解散中の堂前は「堂前タオル」でピン芸人に
解散を告げられた堂前さんは、その出来事を大きな悲劇としては語っていません。
コンビとして当時それほどよい時期でもなかったこともあり、解散後は「堂前タオル」という名前でピン芸人として活動しました。
しかも、そのピン活動はそれなりに楽しかったと本人は振り返っています。
一方で、解散を切り出した兎さんの方は、約1か月すると再び堂前さんとやりたいと思い始めました。
自分から別れを告げた手前、言い出しにくく、同期へ相談しながら数か月を過ごすことになります。
雪の日に自転車を盗まれ、朝6時に再結成の電話
再結成につながった日は、出来事が妙に重なっています。
兎さんがコンビニの深夜アルバイトを終える時間に外を見ると、雪が降っていました。
そのうえ自転車まで盗まれており、家まで歩いて帰らなければならない状況になったところで「今しかない」と考え、朝6時に堂前さんへ電話しました。
「もっかいコンビ組んでくれへんか」
月刊芸人
寝ていた堂前さんはその場で復帰を決めず、「1週間考えさせてくれ」と電話を切りました。
1週間後、2人は喫茶店で会い、再びコンビを組むことを決めます。
2012年の解散を経て、ロングコートダディは2013年1月に再結成しました。
劇場メンバーになるまで約6年|ロングコートダディの長い若手時代
再結成しても、すぐに安定した仕事が待っていたわけではありません。
大阪で舞台へ出るためのオーディションを受け続け、正式な劇場メンバーになるまでには結成から約6年かかりました。
『NSC道場』『ピラミッド』のオーディションを2人で受け続けた
若手時代には、月に一度開かれる『NSC道場』や『ピラミッド』などのオーディションライブへ出ていました。
多くの芸人が競い合う空間でしたが、堂前さんと兎さんはともに人見知りで、知らない芸人が大勢集まる場所そのものを得意としていませんでした。
兎さんは、そんな場所では2人で「結託しないとどうにもならない」ため、むしろコンビとして強くなれたと振り返っています。
堂前さんが「コンビとして成り立った」と感じたのは、正式に劇場メンバーになったときでした。
兎さんの記憶では、それは組んでから6年目ほどのことです。
久宝寺の線路沿いの公園|電車が通るたび止まったネタ合わせ
若手時代のネタ合わせ場所として2人が挙げているのが、久宝寺駅近くの公園です。
公園は線路のすぐそばにあり、練習している最中に電車が通ると、お互いの声が聞こえなくなりました。
静かな稽古場が用意されていたわけではなく、電車の音が過ぎるのを待ちながらネタを合わせる日々でした。
結成直後に「声が小さすぎる」と言われていた2人が、舞台を重ねながら劇場へ定着していった時期でもあります。
珈琲館サモアでネタを書く|サービスされると翌日は行かなかった堂前
もう一つ、2人の若手時代に何度も登場する場所が珈琲館サモアです。
堂前さんはそこでネタを書くことがあり、店のお母さんが飲み物をサービスしてくれることもありました。
ただ、無料にしてもらった翌日まで続けて行くと厚かましいと考え、2日連続にならないよう来店日を調整していたそうです。
ミルクボーイとも店でよく会ったと兎さんは話しており、舞台だけでなく喫茶店や公園にも当時の芸人同士の時間がありました。
「カレー」時代からネタを見ていた先輩|2019年に上方漫才協会大賞の文芸部門賞
まだコンビ名が「カレー」だったころから、ダブルアートのタグさんはロングコートダディのネタを評価していた先輩の一人です。
タグさんは、まだほとんど知られていなかった2人のネタを面白いと言ってくれた最初期の先輩だったとされています。
コンビ名についても、東京に同名の芸人がいるとして変更を勧めたことがあり、その後「カレー」から「ソテー」、さらに現在のロングコートダディへ名前が変わっていきました。
劇場で長く活動を続け、2019年1月には第4回上方漫才協会大賞の文芸部門賞を受賞しています。
全国放送の賞レース決勝へ進むのは、その翌年からでした。
キングオブコントとM-1で全国へ|賞レースで変わったロングコートダディ
大阪で長く舞台を続けてきたロングコートダディは、2020年代に入ると全国規模の賞レースで決勝へ進むようになります。
コントだけでなく漫才でも結果を残したことで、2人を目にする機会は一気に増えていきました。
2020年キングオブコント初決勝|結成11年目で全国の決勝舞台へ
ロングコートダディが初めてキングオブコント決勝へ進んだのは2020年です。
結果は7位でしたが、2009年の結成から数えると11年目での初決勝でした。
結成当初には2か月に1度ほどしか舞台がなく、正式な劇場メンバーになるまでにも年数を要した2人が、全国放送のコント大会決勝へ進んだことになります。
翌2021年には今度はM-1グランプリ決勝へ進出し、4位となりました。
コントのKOCに続いて、漫才のM-1でも決勝へ進んだことで、ロングコートダディの名前は全国へ広がっていきます。
2022年はM-1で3位|KOCとM-1の両方で決勝へ
2022年は、ロングコートダディにとって賞レースでの存在感がさらに大きくなった年です。
キングオブコントでは再び決勝へ進み、7位。
その年のM-1グランプリ2022では3位となり、最終決戦まで残りました。
もともとコントを見ることからお笑いへ入った堂前さんですが、ロングコートダディは漫才とコントのどちらか一方だけで知られるコンビではなくなっていきました。
堂前さん個人でも、大喜利番組『千原ジュニアの座王』では2022年に通算100勝へ到達しています。
2023年に大阪の漫才劇場を卒業|活動拠点を東京へ
M-1で2年連続決勝へ進んだ翌年、2人は活動環境を大きく変えました。
2023年3月31日をもって大阪・よしもと漫才劇場を卒業し、4月から活動拠点を東京へ移しています。
卒業発表の際、堂前さんは所属が東京になるだけで大阪へもかなり戻ってくると話しており、大阪の舞台から完全に離れるという考えではありませんでした。
東京進出組の多くがヨシモト∞ホールへ所属する中、ロングコートダディは固定の劇場所属を選ばず、それでも舞台を大切にしていく考えを示しています。
福井から大阪へ出て15年、今度は大阪で築いた劇場生活を離れ、東京を新しい活動拠点にしました。
KOC準優勝から2025年王者へ|堂前透の現在につながる活動
東京へ拠点を移してからも、ロングコートダディはネタと賞レースから離れませんでした。
若手時代から続けてきたコントと漫才の両方で、さらに結果を積み重ねていきます。
2024年KOC準優勝、2025年ダブルインパクトでも準優勝
2024年のキングオブコントでは準優勝。
2025年には、漫才とコントの双方で競う『ダブルインパクト~漫才&コント二刀流No.1決定戦~』でも決勝へ進み、こちらも準優勝となりました。
結成当初からコントを書いてきた堂前さんと、M-1でも最終決戦まで進んだロングコートダディにとって、漫才とコントを両方披露する大会はそれまでの歩みと重なる形式でした。
2021年の時点で兎さんは、将来舞台で食べていくためにもキングオブコントのチャンピオンという称号が欲しいと語っていました。
その時点では堂前さんの方がKOCのタイトルに対して少し距離を置いた話し方をしていましたが、コンビはその後も決勝へ戻り続けます。
「モグドン」「警察泣いてる」でキングオブコント2025優勝
そして2025年10月11日、ロングコートダディはキングオブコント2025の決勝へ進出しました。
1stステージで披露したネタは「モグドン」。
FINALステージでは「警察泣いてる」を披露し、TBS公式記録で18代目キングに決定しています。
ロングコートダディは結成16年目で、キングオブコントの頂点に立ちました。
初めて決勝へ進んだ2020年から数えても5年が経っており、その間にはM-1での4位と3位、東京進出、KOC準優勝などが挟まっています。
若手時代に舞台へ2か月に1回ほどしか出られなかったコンビが、一度の決勝進出だけで終わらず、何度も大会へ戻った末の優勝でした。
高校時代から続く絵|2026年には初エッセイ『にっきにき日記』
賞レース以外の堂前さんの活動を見ると、昔から続いているものもあります。
吉本興業の現在の公式プロフィールにもイラストは趣味・特技として記載されており、若手時代にはロングコートダディのライブ用フライヤーも自分で描いていました。
高校時代には美術教師とのデッサンが1回で終わった堂前さんですが、絵を描くこと自体はその後も途切れていません。
2026年6月19日には、初のエッセイ集『にっきにき日記』をKADOKAWAから刊行しました。
これまでnoteやトークアプリ755で発信してきた日記に、2026年の書き下ろしと堂前さん自身の直筆イラストを加えた一冊です。
また、地元のおおい町との関わりも続いており、2024年には幼なじみの飯めしあがれこにおさんと町のPRドラマに出演し、2026年にもおおい町公式企画で再び故郷を訪れています。
若狭高校3年の12月、大学へ進むつもりだった堂前さんは、雑誌に載っていたNSCの広告を見て大阪へ向かいました。
そこで何人かの相方を経て兎さんを誘い、一度は解散しながら再び組み、線路沿いの公園や大阪の劇場で長い時間を過ごしました。
2025年のキングオブコント優勝と、2026年にも続くイラストや地元での活動は、その長い道の先にある堂前透さんの現在です。












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