人物プロフィール
『M-1グランプリ』で2年連続決勝へ進み、今ではエバースのツッコミ・町田和樹さんをテレビや劇場で目にする機会も大きく増えました。
2025年のM-1ではファーストラウンド870点で1位通過し、最終決戦まで進んで3位になっています。
佐々木隆史さんの独特なボケに巻き込まれながら返していく現在の漫才を見ていると、学生時代からお笑い一筋だったようにも見えますが、町田さんは子どものころから芸人を目指していたわけではありません。
むしろ、高校中退と交通事故を経験し、自動車ディーラーとして働いたあとに芸人へ転身したという、現在の姿からは想像しにくい道を歩いています。
両親はともに高校教師で、小学生時代はほぼ毎日習い事へ通い、中学生になると親と衝突して公園で何日も過ごすこともありました。
そんな町田さんが、なぜ会社員を辞めて東京NSC21期へ入り、佐々木さんと出会ってエバースを結成したのか、幼少期から現在までを順番にたどります。
町田和樹の生い立ちと家族|高校教師の両親のもと大和市で育つ
町田和樹さんは1992年4月24日生まれ、神奈川県大和市出身で、吉本興業の公式プロフィールでも大和市出身とされています。
家庭では父親と母親がともに高校教師で、子どものころはかなりきっちりとした生活を送っていました。
小学生時代は週7日ほど習い事、友達と遊べない生活
小学生のころの町田さんは、放課後を自由に遊んで過ごすという生活ではありませんでした。
本人によると、小学校時代は週7日ほど習い事が入っていたといい、友達ともほとんど遊べなかったそうです。
両親が高校教師という家庭だったこともあり、学校へ通って習い事を続ける毎日が、小学生時代の生活の中心になっていました。
後年のインタビューでも町田さんは家庭環境そのものが悪かったとは話しておらず、厳しく育てられた子ども時代として振り返っています。
野球を経験しながら育ち、中学進学を境に生活が変わる
学生時代には野球部も経験しており、のちに相方となる佐々木さんも野球経験者でした。
ただ、小学生まで続いていた習い事中心の生活は、中学校へ進むころから大きく変わっていきます。
友達と遊ぶ楽しさを知るようになると、それまで抑えられていたものが一気に出るようになり、家で両親とぶつかる機会も増えていきました。
つきみ野中学校時代|親と衝突し、公園から修学旅行へ
町田さんが通った中学校は、地元・大和市の大和市立つきみ野中学校です。
2026年には卒業生として同校を訪れており、母校の全校生徒を前にエバースで漫才も披露しています。
遊ぶ楽しさを知り、親と揉めると3〜4日家出
中学生になった町田さんは部活動にも取り組んでおり、いわゆる不良になったわけではありませんが、友達と遊ぶことのほうが楽しくなっていきました。
その変化をめぐって両親と揉めると家を出るようになり、友人宅ではなく、あえて公園で寝て過ごすこともあったといいます。
ずっと家へ戻らなかったわけではなく、3〜4日ほど外で過ごしてから帰宅し、また揉めると家を出るということを繰り返していました。
その家出期間と学校行事が重なったこともあります。
「公園から行って公園に帰りました。」
Tarzan Web
修学旅行の日も家へ戻らず、公園から出発して旅行を終えると再び公園へ戻ったという、中学時代の町田さんが目に浮かぶようなエピソードです。
M-1のブラックマヨネーズで初めて漫才のおもしろさを意識
このころの町田さんは、テレビのお笑い番組を片っ端から見るような少年ではありませんでした。
本人が最初の大きな衝撃として挙げているのが、クリスマスイブに見た『M-1グランプリ』のブラックマヨネーズです。
ブラックマヨネーズの漫才を見て「漫才っておもしろい」と感じたものの、この時点では自分が舞台へ立つことまでは考えていませんでした。
子どものころから芸人を夢見ていたのではなく、まずは観客として漫才のおもしろさに気づいたのが中学生のころでした。
中学の同級生がNSCへ進み、お笑いの養成所を知る
もう一つ、中学時代にのちのお笑い人生へつながる出来事がありました。
同級生の一人が中学校を卒業すると、そのままNSCへ入ったのです。
町田さんはそこで初めて、若いうちから入れるお笑いの養成所が身近に存在することを知りました。
ただ、このときも「自分も行く」というところまでは進まず、本人にとっては「こういう進路もあるのか」と知った程度でした。
進学校へ進むも高校中退|直後のバイク事故で入院
中学校を卒業すると、町田さんは本人が「軽い進学校」と表現する高校へ進みました。
小学生時代に習い事へ通っていたこともあり進学はできたものの、高校生活は中学までとは違う形で行き詰まっていきます。
高校へ通わなくなり、進級できず中退
高校へ入った町田さんは学校生活をあまり楽しいと感じられず、次第にきちんと通わなくなっていきました。
その結果、進級できない状況になり、高校を辞めることになります。
本人は後年、自分から勢いで「辞めてやる」と決断したのではなく、進級できなかったため辞めざるを得なかったと説明しています。
両親が二人とも高校教師という家庭で、自分だけが高校中退になったことに、当時の町田さん自身もかなり戸惑っていました。
高校名については本人のインタビューでは具体名を明かしておらず、「軽い進学校」と説明しています。
同級生が大学進学を考えるころ、事故後の療養生活へ
高校を離れ、「これからどうしよう」と考え始めた直後、さらに大きな出来事が起こります。
町田さんはバイク事故に遭い、太ももを大きく負傷しました。
2026年の本人インタビューでは、事故後に約1カ月入院したと振り返っています。
周囲の同級生が大学進学など将来の進路を考えていた時期に、自分は高校を中退し、病院で療養していました。
事故は命に関わっていてもおかしくなかったほどだったといい、この時期の経験は、のちにNSCや劇場で評価されない日々を過ごしたときにも比較の基準として残ります。
芸人として結果が出ない時期にも、本人は「事故のころよりはまし」と考えることができたと話しています。
三菱の自動車ディーラーへ就職|キャバクラでの笑いから芸人を意識
事故後、町田さんがすぐ芸人になったわけではありません。
まず選んだのは就職で、三菱系の自動車ディーラーで営業として働き始めました。
3〜4年間営業として働き、新車販売全国10位に
ディーラーには3〜4年ほど勤務し、町田さんは車を売る営業の仕事で結果を出していきます。
年配の顧客が多い店舗で、本人は本人なりにどうすれば話を聞いてもらえるのかを考えながら営業していました。
来店した顧客へその場だけで対応するのではなく、あとから連絡して改めて会いに行くなど、人との距離を縮める方法を自分で考えていたそうです。
その結果、新車販売で全国10位に入り、上位の中で20代は自分だけだったと本人は振り返っています。
芸人とはまったく違う仕事ですが、初対面の相手と話し、相手の反応を見ながら距離を縮める経験を重ねていた時期でした。
地元のキャバクラで笑いが取れ「お笑いをやってみよう」と考える
会社員3年目あたりになると、町田さんの中に少しずつ「お笑いをやってみようかな」という気持ちが出てきます。
その直接のきっかけは、意外にもテレビ番組や有名芸人との出会いではありませんでした。
「直接のきっかけは……キャバクラです。」
QJWeb
会社員になったことで学生時代の友人たちより自由に使えるお金があり、地元の仲間と飲みに行くなかでキャバクラへ足を運ぶ機会が増えていました。
そこで自分が話すと相手が笑ってくれることが続き、「自分はお笑いでもいけるのではないか」と考えるようになったのです。
本人は後年、料金を払っている客だから笑ってもらえただけだったと笑いながら振り返っていますが、その手応えが芸人という進路を現実のものへ近づけました。
営業で全国10位になった経験もあり、「もし芸人でうまくいかなければ営業へ戻れる」という感覚を持てたことも、挑戦へ踏み出しやすくした一因でした。
『笑っていいとも!』グランドフィナーレを見てNSCへ願書を送る
もう一つ背中を押したのが、2014年の『笑っていいとも!』グランドフィナーレでした。
ダウンタウン、とんねるず、ウッチャンナンチャン、ナインティナインなど、お笑い界の第一線で活躍してきた人たちが同じ場所へ集まる光景を見て、町田さんの気持ちは大きく動きます。
その熱が冷めないうちにNSCへ願書を送り、会社員から芸人へ進むための最初の行動を起こしました。
中学生のときブラックマヨネーズを見て漫才のおもしろさを知り、同級生がNSCへ進む姿を見ても、その時点ではまだ自分の進路ではありませんでした。
そこから数年後、会社員として働き、実際に人を笑わせた手応えを持ったことで、ようやく自分が舞台へ立つ側へ進みます。
東京NSC21期へ|ボケを諦めツッコミを選んだ町田和樹
町田さんが入ったのは東京NSC21期です。
営業で全国上位に入った経験があっても、NSCへ入れば周囲にはお笑いだけを考えてきた人たちが大勢おり、すぐに目立つ存在になれたわけではありません。
選抜クラスには入れず、早い段階でツッコミへ転向
町田さん自身、NSCには「すごいヤツがいっぱいいた」と話しており、成績上位の選抜クラスには入れませんでした。
そこで早い段階から、自分がボケとして前へ出るよりも、相手の言動へ反応するほうが向いていると考えるようになります。
ボケを続けるのではなく、ツッコミでやっていく方向へ早くから切り替えました。
学生時代にも、先輩から急に無茶ぶりされたときやイジられたときの返しを周囲から評価されることがあり、そうした自分の反応の仕方にも心当たりがあったそうです。
現在のエバースでも、佐々木さんから次々と変な状況へ巻き込まれ、それに町田さんが返していく形が大きな特徴になっています。
別コンビを経験するも、現在の相方探しへ
NSCへ入ってすぐ現在のエバースが完成したわけではなく、町田さんも佐々木さんも最初は別々の相手とコンビを経験しています。
2026年のananのインタビューでも、2人はエバースがそれぞれ2回目のコンビだったと明かしています。
町田さんはツッコミとしてボケを探しており、一方の佐々木さんはNSC入学直後に組んだ相方が最初のネタ見せを終えたあとに辞めることになりました。
この佐々木さんの元相方が、現在まで続く2人をつなぐ人物になります。
佐々木隆史との出会い|バーミヤンからエバース結成へ
町田さんと佐々木隆史さんは学校の同級生でも、地元の幼なじみでもありません。
東京NSC21期の同期として入り、それぞれ別の相手と組んだあと、一人の元相方を介して知り合いました。
佐々木の元相方から紹介され、3人で初対面
佐々木さんが最初のコンビを解散する際、元相方から「ツッコミでボケを探している人がいる」と紹介されたのが町田さんでした。
最初の顔合わせで向かったのは、高級店でも劇場近くの楽屋でもなく、3人で入ったバーミヤンでした。
「最初はその3人でバーミヤン行ったんですよ。」
QJWeb
初対面にもかかわらず、なぜか町田さんが会話を仕切っており、佐々木さんの記憶では町田さん側から「一回やってみるか」という流れになったそうです。
町田さんも佐々木さんと組みたいと思っており、その理由を聞かれると、佐々木さんの見た目がよかったことも大きかったと答えています。
「お互いネタを書こう」と決めたのに町田は何も持ってこなかった
一度一緒にやってみることになった2人は、次に会うまでにそれぞれネタを考えてくることにしました。
この提案をしたのは町田さんでしたが、次に会ったとき、佐々木さんはネタを用意していたのに対し、町田さんは何も考えてきませんでした。
本人にもなぜ持っていかなかったのか記憶がなく、「出たとこ勝負でなんとかなる」と思ったのではないかと後年話しています。
結果として、そのときから現在まで佐々木さんがネタ作りを担当する形になりました。
初対面のファミレスで町田さんが仕切り、自分からネタを考えようと言ったのに持ってこなかったという始まりは、現在の2人の関係を知ったあとに読むと印象の変わるエピソードです。
野球用語から「エバース」と命名し、漫才コンビとして始動
コンビ名の「エバース」は、野球でバントの構えからバットを引いて投球を見送る動作を指す言葉です。
2人とも学生時代に野球を経験しており、町田さんは後年、なぜその言葉を選んだのかについて、シンプルに「かっこいい」と思ったからだと説明しています。
NSC在学中から2人で活動を始め、吉本興業の公式プロフィールではエバースの結成年月は2016年4月1日とされています。
こうして町田さんは会社員から東京NSCへ進み、佐々木さんと組んで本格的な漫才師として活動を始めましたが、結成後すぐに仕事が増えたわけではありませんでした。
誰にも知られなかった若手時代|∞ホール最下層で過ごした4年間
現在はM-1決勝で上位を争うエバースですが、若手時代は同期の中でも目立つコンビではありませんでした。
町田さん自身、NSCに何百人もいたなかで目立っていた20〜30組ほどには入れず、芸歴4年目くらいまで同期からエバースの存在を認識されていなかった感覚があると振り返っています。
NSCではBクラス、それでも同期と距離を置いて2人で行動
当時のNSCには成績によるクラス分けがあり、上位のAクラスには7〜8組ほど、エバースがいたBクラスには20組ほどがいたと佐々木さんが説明しています。
決してトップ層ではありませんでしたが、2人はかなり尖っていました。
CやDクラスの生徒の前を通る際には、自分たちがもっと上のクラスにいるかのように堂々と歩いていたといいます。
同期と仲よくすること自体も格好悪いと思っており、学校時代からの友達ではないのに、結成後は2人だけで過ごす時間が増えていきました。
この長い2人きりの時間は、すぐに評価へ結びつかなかった一方、後年の漫才には大きく入り込んでいきます。
ヨシモト∞ホールのトライアルクラスを4年間抜けられず
NSC卒業後、若手時代の主戦場だったのがヨシモト∞ホールです。
当時はファースト、セカンド、サード、トライアルの4クラスがあり、1年目は最下層のトライアルから始まる仕組みでした。
エバースは毎月のバトルで上位へ進めず、神保町へ主戦場が移るまで約4年間、一度もトライアルクラスを抜けられませんでした。
佐々木さんの回想によれば、ライブは月に2〜3本ほどで、自分たちで外部ライブを主催したり積極的に出演したりすることもほぼありませんでした。
新ネタをバトルへ持っていって笑いが起きず、客票が0票になることもあり、エンディングでもほとんど話さない時期が続きます。
SNSも芸歴4年目あたりまでほとんど使わず、それでも「上のクラスより自分たちのほうがおもしろいことを言っている」という根拠のない感覚だけは持ち続けていました。
芸歴4年目、オズワルド伊藤の一言とM-1初3回戦が変化の入口に
変化が見え始めたのは芸歴4年目でした。
このころエバースはM-1で初めて3回戦まで進み、それまで距離を置いていた同期や先輩とも少しずつ話すようになります。
さらに年末、先輩と後輩が即席コンビを作るシャッフル漫才ライブで、佐々木さんはM-1決勝進出を決めたばかりのオズワルド・伊藤俊介さんから相手に指名されました。
ほとんど結果のなかったエバースでしたが、伊藤さんはすでに何本かネタを知っていました。
「まあでも負ける気しないだろ?」
QJWeb「ここで1球チェンジアップ」
結果が出ていない自分たちに対して、先輩から当然のようにそう言われたことが佐々木さんには強く残り、伊藤さんと組んだ1週間で漫才の基本も教わりました。
町田さんと佐々木さんを取り巻く環境が、少しずつ2人だけの世界から外へ広がり始めた時期です。
神保町と同居生活|2人の関係が現在の漫才へ入り始める
∞ホールで長く最下層にいたエバースにとって、若手の活動拠点が神保町よしもと漫才劇場へ移ったことは大きな環境変化でした。
ここから舞台へ立つ機会や同世代の芸人と競う機会が増え、同じころ私生活でも2人がさらに長い時間を一緒に過ごすようになります。
神保町よしもと漫才劇場へ移り、同世代と競う環境に
神保町では若手芸人が劇場所属をかけて競い、以前より多く舞台へ立ちながら漫才を試せる環境になりました。
オズワルドの伊藤さんも後年、エバースにとって∞ホールから神保町へ環境が変わった影響は大きく、舞台数がかなり増えたことを指摘しています。
何年も結果が出ないまま少ない出番を待つ状態から、実際の客前で漫才を繰り返し、同世代と比べられる日々へ変わっていきました。
そのなかでも2人は急に華やかな人気者になったわけではなく、劇場でネタを続けながら少しずつ名前を知られるようになっていきます。
コロナ禍のUber Eatsをきっかけに佐々木宅で同居
当時、町田さんは神奈川の実家暮らしで、佐々木さんの家は劇場と実家の途中にありました。
そのため町田さんは次第に佐々木さん宅を活動の拠点として使うようになります。
コロナ禍になると町田さんがUber Eatsの配達を都心で行うようになり、佐々木さんの部屋へいる時間はさらに増えました。
そこで佐々木さんから家賃を払うように言われ、コンビでの本格的な同居生活が始まります。
同じ家に住めばいつでもネタ合わせができそうですが、実際は逆で、家ではだらだらしてしまって半日ほとんど進まないこともありました。
そのためネタ合わせをするときは、わざわざ外へ出て「仕事の時間」に切り替えていたそうです。
2024年にQJWebが同居宅を取材した日には、町田さんが担当していた電気代をまだ払っておらず、ちょうど家の電気が止まっていたという出来事もありました。
山田ナビスコの助言で「町田も巻き込む」漫才へ変化
エバースの漫才は、結成当初から現在と同じ形だったわけではありません。
町田さんによると、初期もしゃべくり漫才ではあったものの、今より大喜利的な要素が強く、佐々木さんのボケへ町田さんが強くツッコむ、比較的オーソドックスな形でした。
ところが同居によって一緒にいる時間がさらに長くなると、普段の生活で生まれていたイジり、イジられる関係が漫才へ入り始めます。
さらに佐々木さんが作家の山田ナビスコさんから、町田さん自身もネタへ巻き込んでみてはどうかという助言を受けました。
そこから、佐々木さんが町田さんへ無理な設定を押しつけ、町田さん自身がおかしな状況の当事者になる現在のスタイルへ近づいていきます。
学校時代からの友人ではない2人ですが、NSCで知り合ってから誰にも知られない時期を一緒に過ごし、さらに同じ家で生活した時間まで漫才の会話へ混ざっていきました。
2023年M-1敗者復活「ケンタウロス」から仕事が増え始める
エバースの名前がそれまでとは違う広がり方を始めたのが、M-1グランプリ2023でした。
この年、結成から長く届かなかった準決勝へ初めて進み、敗者復活戦で披露した漫才がその後の仕事量を変えていきます。
初のM-1準決勝と敗者復活で、それまでにない反響
前年2022年までの最高成績は準々決勝でしたが、2023年は準決勝まで進み、決勝最後の1枠を争う敗者復活戦へ出場しました。
そこで選んだネタが「ケンタウロス」です。
佐々木さんは準々決勝では「まだ見たことがない切り口」を意識してネタを選び、敗者復活では、とにかく客席から笑いを積み重ねられるネタとして「ケンタウロス」を選んだと説明しています。
本人たちは敗者復活から決勝へ行けるとはほとんど考えておらず、見ていた人に「今の2人はおもしろかった」と思ってもらえればいいくらいの気持ちで舞台へ出ていました。
ところが放送後、劇場や大きなイベントから呼ばれる機会が増え、それまでとは明らかに仕事の流れが変わりました。
「まさか敗者復活でこんなにも仕事が増えるとは思わなかったです。」
QJWeb
町田さんも、例年とは比べものにならないほどライブ出演が増えたと話しており、2023年の敗者復活がエバースの知名度と仕事量が変わった大きな境目になりました。
ライブ・メディア出演が増え、2024年NHK新人お笑い大賞を受賞
2024年に入ると、舞台だけでなく、それまでほとんどなかったメディアの仕事も増えていきます。
同年は『ツギクル芸人グランプリ』や『ABCお笑いグランプリ』の決勝へ進み、賞レースでもエバースの名前を見る機会が増えました。
それでも、この時点では本人たちは決勝の舞台で「勝たなければ」と考えることで、普段より緊張してしまうこともあったと話しています。
そして2024年10月、NHK新人お笑い大賞で優勝し、結成後初めて全国規模の大きな賞レースタイトルを獲得しました。
ただ、エバースの場合はこの優勝を突然のブレイク地点とするより、その前年のM-1敗者復活からライブやメディアが増え、その流れのなかでタイトルへ届いたという順番になります。
M-1 2024は初決勝4位、翌2025年はファーストラウンド1位から最終3位へ
2024年の年末には、ついにM-1グランプリ決勝へ初進出します。
ファーストラウンドでは848点を獲得し、3位の真空ジェシカは849点だったため、最終決戦までわずか1点差の4位でした。
∞ホールの最下層から抜けられなかったころには、M-1決勝どころか同期から存在を認識されていない感覚さえあったコンビが、8年ほど経って優勝争いのすぐそばまで進みました。
翌2025年6月には、芸歴10年以内が出場できる第46回ABCお笑いグランプリのラストイヤーで優勝します。
「10年目にこの賞レースでまくれたかなと思います。」
第46回ABCお笑いグランプリ公式
町田さんがこの言葉を口にした背景には、同じ東京NSC21期から自分たちより先にテレビへ進み、売れていった芸人たちを長く見てきた時間がありました。
その年末のM-1では2年連続で決勝へ進み、ファーストラウンドで披露した「ルンバ車」の漫才が870点を獲得しました。
ファーストラウンド10組の中で1位となり、初めて最終決戦へ進出します。
最終的な大会順位は3位でしたが、前年の「決勝へ初めて届いたコンビ」から、翌年にはファーストラウンドをトップで通過する立場へ変わりました。
2026年1月には第十一回上方漫才協会大賞の大賞も受賞し、劇場を中心に磨いてきた漫才はさらに評価を広げています。
2026年8月の佐々木さんのインタビューでは、現在目指しているのは「ファミレスで隣の席になった兄ちゃん2人の会話」を聞いているような漫才だと語られており、町田さんを巻き込みながら会話そのものをおもしろくする現在の形は、長く2人で過ごしてきた時間の中で作られてきました。
高校教師の両親のもとで習い事に通っていた少年時代から、高校中退と事故、自動車ディーラーでの会社員生活を経て、町田さんは20代になってからお笑いの世界へ入りました。
バーミヤンで佐々木さんと出会ってからもすぐには結果が出ず、劇場の最下層や同居生活を重ねながら、2人の普段の関係が少しずつ漫才へ入っていきました。
現在もその中心にあるのは、佐々木さんが作った不思議な状況へ町田さんが巻き込まれ、いつもの調子で返していくエバースのしゃべくり漫才です。












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