天才ピアニスト竹内知咲の生い立ちと学歴|元理科教師が芸人になったきっかけとコンビ結成

人物プロフィール

生年月日
1992年1月28日
身長
157cm
血液型
A型
出身地
京都府 京都市
コンビ・グループ名
天才ピアニスト
相方・メンバー
ますみ
結成年
2016年
所属事務所
吉本興業
芸人活動開始年
2016年
養成所・スクール
NSC大阪校 38期

天才ピアニストの竹内知咲さんは、ネタ作りとツッコミを担い、漫才とコントの両方で舞台に立ってきた芸人です。

2021年の「女芸人No.1決定戦 THE W」準優勝をきっかけに仕事が大きく増え、翌2022年にはNHK上方漫才コンテストとTHE Wを制しました。

現在の姿からは意外ですが、竹内さんは子どものころ、人前へ出るより学芸会の照明や小道具を選び、お笑いも自分が演じるものではなく「見る側」のものだと思っていました。

大学卒業後も最初から芸人を目指したわけではなく、母校で理科の非常勤講師として働きながら、「どうすれば人に話を聞いてもらえるのか」と考えた先にNSCがありました。

教師へ戻るつもりで入ったNSCでお笑いに夢中になり、何度もコンビを組み替えた末にますみさんと出会ったという道のりを、京都で過ごした子ども時代から順番にたどります。

竹内知咲の生い立ちと家族|京都市で教師の両親に育つ

竹内知咲さんは京都市で生まれ育ちました。

両親が教師という家庭で育ち、のちに自身も理科の教員免許を取得して母校の教壇に立つことになります。

京都市で生まれ、祖父母もすぐ会える距離にいた子ども時代

竹内さんが本人執筆のコラムで振り返っているのは、京都市の中で家族との距離が近かった子ども時代です。

父方、母方の祖父母も京都市内に住んでおり、実家から比較的近い場所に両方の祖父母宅がありました。

そのため夏休みなどに友達が「田舎のおじいちゃん、おばあちゃんの家へ帰る」と話しているのを聞くと、遠くへ帰省すること自体をうらやましく感じていたそうです。

京都市内で生まれ、両家の祖父母とも近い生活圏で育ったというのが、竹内さんの幼少期の風景でした。

両親は理科教師|家庭で繰り返し聴いた陣内智則のネタ

竹内さんの両親はともに理科教師で、本人も後に理系の大学へ進み、高校理科の教員免許を取得しています。

ただし、教師の家庭で育ったからといって、幼いころから教師一本に進路を決めていたわけではありません。

一方で、家庭の中にはお笑いがあり、竹内さんはブラックマヨネーズの出演番組などをよく見ていました。

特に繰り返していたのが、陣内智則さんのDVD『NETA JIN』でした。

映像を見るだけでは足りず、音声をMDに録音して何度も聴き、家族で乗る車の中でも流していたといいます。

後年、竹内さん自身が自分のツッコミや間合いには陣内さんの影響があると語っており、芸人を志すよりずっと前から、ネタの言葉とテンポを耳で繰り返し味わっていました。

西京中高ではバスケ部|人前に出るより裏方だった学生時代

京都で育った竹内さんは、京都市立西京高等学校・附属中学校へ進みます。

現在の舞台上での姿とは違い、中高生のころは学校行事の中心に立つタイプではありませんでした。

京都市立西京高等学校・附属中学校でバスケットボールに熱中

西京には勉強のできる生徒が多く、竹内さんは後年のインタビューで、自分は勉強にはあまりついていけなかったと振り返っています。

その一方で力を入れていたのがバスケットボール部でした。

負けず嫌いな面もあり、部活動にはかなり熱心に取り組んでいたといいます。

クラスでは目立つグループの中心というわけでも、静かに一人で過ごすタイプでもなく、本人の表現ではその中間にいる「スポーティーなキャラ」でした。

授業や学校行事で率先して前へ出るより、バスケットボールに力を注ぐ学生生活を送っていたことが分かります。

お笑いは好きでも、自分は「見る側」だと思っていた

お笑いへの興味はすでにありましたが、このころの竹内さんに「将来は芸人になる」という発想はありませんでした。

小中学校の学芸会でも、ステージへ出ることを恥ずかしく感じ、照明や小道具などの裏方を担当していたそうです。

テレビではブラックマヨネーズを見て、DVDでは陣内智則さんのほか、東京03やチュートリアルなどのお笑いにも触れていきました。

お笑いは大好きでも、自分がお笑いをする人物になるとは考えていなかったところが、竹内さんの学生時代の大きな特徴です。

高校時代には試験勉強から少し逃げるような感覚で、自分の名前をもとにサインを考えたこともありましたが、そのときも芸能界で使うことを想像して作ったものではありませんでした。

京都府立大学で理科を学び、教員免許を取得

高校を卒業した竹内さんは、京都府立大学の理系学部へ進学しました。

ここでも後の芸人生活を想定していたわけではなく、農業や生物学、化学などを幅広く学んでいます。

農業・生物・化学を学び、森や畑で実習を経験

京都府立大学での授業は座学だけではありませんでした。

昆虫学では森へ入り、実際に虫を捕まえる実習があり、畑では種をまいて1年間かけて作物を育てる授業も経験しています。

教員免許を取るため、理系科目だけでなく心理学や哲学も履修しました。

なかでも本人の記憶に強く残っているのが、鶏を扱い、普段食べている肉がどのような過程を経て食卓へ届くのかを学んだ実習です。

教科書だけではなく、自分で捕まえる、育てる、観察するという実践を重ねた大学生活でした。

大学の外にも出て、アルバイトやインカレ活動を経験

竹内さんは大学内だけで過ごしていたわけではなく、アルバイトや大学をまたいだインカレ活動にも参加していました。

当時は組織の中で働くことが自分に合っているのか疑問を持ち、将来は自分で何か事業をすることも考えていたといいます。

そこでコンサル会社のインターンを経験し、農家や八百屋でも働くなど、大学時代から異なる仕事の現場へ足を運びました。

職種は違っても、人と話し、自分の考えを伝える場面では「しゃべる力」が必要になるという感覚が残っていきます。

教員免許のための教育実習では母校の西京高校にも戻り、この縁が卒業後の仕事へ直接つながることになります。

就活せず卒業|さまざまな仕事を経て母校の理科教師へ

大学卒業が近づいても、竹内さんには「これを仕事にしたい」という職業がまだ定まっていませんでした。

そこで一般的な就職活動をして就職先を決めるのではなく、まず自分が本当にやりたいことを探す時間を持ちます。

コンサル会社、農家、八百屋で見つからなかった「やりたい仕事」

大学時代からコンサル会社、農家、八百屋など異なる環境を経験していましたが、卒業時点でも取り組みたい事業は見つかりませんでした。

本人は、やりたいことではないと自分が中途半端になってしまうと考え、卒業後の約1年間を使って仕事を試す道を選びました。

さまざまな仕事を経験しても残ったのが、「話すことをもっと上達させたい」という課題でした。

そのため卒業後にはMCの養成学校にも通い、結婚式の二次会で司会をするアルバイトを始めています。

MCを学びながら結婚式二次会の司会と高校の非常勤講師を経験

同じころ、教育実習で竹内さんを知っていた母校から連絡が入りました。

西京高校で理科教員に欠員が出たため、非常勤講師として来ないかと声をかけられたのです。

竹内さんは依頼を受け、母校で理科を教える非常勤講師になりました。

担任や部活動を持つ常勤教員ではなく、授業のために学校へ通う形で、半年ほど教壇に立っています。

結婚式二次会のMCと高校講師は、どちらも竹内さんが求めていた「しゃべる仕事」でした。

ただ、司会には進行や時間があり、学校の授業にも決められた内容と時間があります。

そこで竹内さんは、決められた内容を伝えるだけでなく、もっと自由に話せる力を身につけたいと考えるようになりました。

授業を聞いてもらえず「しゃべる力」を考えるようになる

高校の教壇に立ってみると、竹内さんは授業そのものの難しさにも直面します。

生徒たちは問題のある生徒ではないのに、自分が話してもなかなか集中して聞いてもらえませんでした。

「自分の話し方に原因があるのではないか」「どうすれば聞いてもらえるのか」と考えるなかで、話術を学べる場所を探します。

そのとき思いついたのが、お笑い芸人の養成所NSCでした。

芸人としてデビューするためではなく、教師としても役立つ「しゃべる力」を身につけられるのではないかと考えたのが、最初の入口でした。

芸人になるつもりではなかった竹内知咲がNSCへ入ったきっかけ

竹内さんの芸人人生は、「芸人になる」と決断してNSCの門をたたいたところから始まったわけではありません。

教師へ戻ることも想定したまま、話し方を学ぶ場所としてNSC大阪校へ向かいました。

「しゃべる勉強」のためNSC大阪38期へ

「自由にしゃべれるようになりたい」と考えていた竹内さんは、NSCを思いつくと、その日のうちに資料請求をしました。

そしてNSC大阪38期として、お笑いを学び始めます。

「NSCに入ったきっかけは、しゃべる勉強をしようと思ったからなんです。」

コトカレ

芸人になるためではなく、話すことを学ぶためにNSCへ入ったという点は、竹内さんの経歴で特に特徴的な部分です。

母は心配、父は賛成|1年後には教師へ戻る予定だった

娘が教師の仕事からお笑いの養成所へ進むことに、家族の受け止め方は同じではありませんでした。

母親は心配した一方、父親は竹内さんの選択に前向きな反応を見せています。

「俺には出来ん!凄い!」

DOMO+

竹内さん自身も、この時点では教師という仕事を捨てたつもりではありませんでした。

NSCへ1年間通ったら、身につけた話術を持って教師へ戻るつもりだったのです。

NSCでお笑いが楽しくなり、教師から芸人へ進路が変わる

ところがNSCで実際にネタを作り、人前で試す時間が増えるにつれて、当初の計画が変わっていきました。

子どものころから好きだったものの、自分は「見る側」だと思っていたお笑いを、自分で作る立場になったからです。

竹内さんは在学中にお笑いそのものを楽しいと感じるようになり、教師へ戻るより芸人として続けたい気持ちが強くなっていきました。

「しゃべる勉強」のための1年間だったNSCが、竹内知咲さんの職業そのものを変える場所になりました。

ただし、NSCに入ったことと現在のコンビが生まれたことは同じ出来事ではなく、竹内さんはここから何人もの相手とネタを試すことになります。

ますみとの出会い|何度もコンビを組み替えた末に天才ピアニスト結成

天才ピアニストの相方・ますみさんもNSC大阪38期で、2人は養成所の同期でした。

しかし、入学してすぐに意気投合して現在のコンビを組んだわけではありません。

NSC時代はそれぞれ別の相方と活動

竹内さんはNSC時代に複数の相手とコンビを組み、ますみさんによれば、天才ピアニスト結成までに4回の解散を経験していました。

自分で書いたネタを自分の考える形でやりたいという意識が強く、同期の間でもそのこだわりは知られていたそうです。

一方のますみさんも当時はツッコミを担当し、自分でネタを書いていました。

竹内さんから見たますみさんは、同期の中で年上で、飲み会では周囲をまとめる「皆のお姉さん」のような存在でした。

NSCの授業でますみさんを見るうちに、竹内さんはツッコミよりも、役に入り込む表現力を生かしたボケの方が向いていると感じるようになります。

卒業後に食事を重ね、ネタを書く者同士で悩みを共有

2人の距離が大きく縮まったのはNSC卒業後でした。

家が近かったこともあり、食事へ行ったり、飲みに行ったりする機会が増えていきます。

当時の2人には、自分でネタを書き、ツッコミを担当しているという共通点がありました。

自分が考えるネタと相方との関係について、それぞれ別のコンビで抱えていた悩みを理解し合える相手でもありました。

ますみさんは竹内さんから誘われる前から、自分が書くより竹内さんのネタをやった方が面白くなるのではないかと考えていたそうです。

ただしネタを書く竹内さんが主導して決める方がよいと考え、自分からは誘わずにいました。

竹内から「ユニットでやってみる?」と誘い2016年5月に結成

竹内さんの側でも、次にコンビを組むなら女性と考えていました。

以前に男女コンビを経験した際には「男女で組む意味」を求められることがあり、それよりも女性同士で自由に新しいネタを試したいと考えるようになっていたからです。

ますみさんにはネタの中で人物を形にする表現力があり、自分が自由に書いたものも演じてもらえるのではないかと感じていました。

「一度、ユニットでやってみる?」

月刊芸人

最初から重々しく正式コンビを申し込むのではなく、竹内さんはまず一緒にネタをやってみる形で声をかけました。

それまでの竹内さんにとってコンビはビジネスパートナーに近い感覚でしたが、ますみさんとのネタ合わせは、過去に組んだ相手の中で一番楽しかったといいます。

ネタ合わせの際、ますみさんが飲み物を買ってきてくれるような小さなやり取りも、それまでとは違う関係を作っていきました。

最終的に声をかけたのは竹内さんで、2016年5月25日に天才ピアニストを結成しました。

何度も相方を替えた竹内さんが、ネタ合わせを「一番楽しい」と感じられた相手がますみさんでした。

女性芸人らしさに寄せず、漫才とコントの形を探した若手時代

結成したばかりのころから、現在の天才ピアニストのスタイルが完成していたわけではありません。

竹内さんは漫才とコントの両方を書き、自分たちが素直に面白い、くだらなくて楽しいと思えるものを探しました。

当時は周囲から、女性であることをもっとネタに生かした方がよいという趣旨の助言を受けることもありました。

それでも恋愛やコンパなどの「女性あるある」へ無理に寄せるのではなく、2人が面白いと思える設定を舞台で試していきます。

初期には竹内さんが男性役を演じたり、ますみさんが人間以外の役を演じたりするネタも試しながら、舞台での反応を見て、自分たちに合う人物や言葉遣いへ少しずつ変化していきました。

最初から型を決めるのではなく、舞台で試した結果を残しながら漫才とコントの形を絞っていったのです。

人気がなくてもネタを作り続けた若手・下積み時代

コンビを組めばすぐに劇場で人気者になれたわけではありません。

天才ピアニストは若手ライブで結果が出ても客票では苦戦する時期を長く経験しました。

客票が入らず、ライブの昇格と降格を繰り返す

芸歴3年目までの若手が出演する「U-3 BATTLE THEATER」では、ネタで笑いが起きても客票が十分に入らず、上のステージへ進んでは戻ることを繰り返しました。

よしもと漫才劇場の「Kakeru翔チャレンジバトル」でも、合格と降格を繰り返しています。

ますみさんによると、客票が1票しか入らなかった経験もありました。

ライブの結果が良かった日も悪かった日も、2人は行きつけの店へ向かい、そこで時間を過ごしていました。

舞台で受けた感触と人気投票の結果が一致しない時期にも、コンビを止めずにネタを作り続けました。

ライブが少ない時期も1日に何度も集まってネタ合わせ

駆け出しのころは、1週間にライブが1本あるかどうかという時期もありました。

それでもアルバイトの予定が合えば、2人は朝に集まり、昼のアルバイト前にもう一度集まり、さらに仕事を終えた夜にも集まっていました。

「アルバイトのない時は1日3回集まっていました。」

大阪市「咲くやこの花インタビュー」

2人とも芸人になる前に社会人として働いた経験があり、竹内さんの頭には「以前の同僚は朝8時から働いている」という意識が残っていました。

誰かからネタ合わせの時間を決められるわけではなくても、決めた時間に集まり、自分たちで仕事として進めていました。

竹内さんとますみさんに共通していたのは、お笑いに向ける「仕事としての温度」が近かったことでした。

2020年THE Wのリザーブ入りで決勝が現実的な目標になる

長く結果が出ないなかで、賞レースへの向き合い方を変えた出来事が2020年のTHE Wでした。

この年、天才ピアニストは決勝10組には入れなかったものの、11番手にあたるリザーブとして決勝会場へ行っています。

それ以前は賞レースで2回戦、3回戦あたりに敗れることも多く、竹内さん自身、決勝へ届く感覚を持てていませんでした。

ところが2020年は、出場者に何かあれば決勝へ上がれるところまで迫りました。

「あと少しで決勝」という距離を初めて実感できたことで、賞レースを本気で取りに行く対象として考えるようになります。

竹内さんは、あと1年あれば決勝だけでなく優勝も狙えるという感覚を持つようになりました。

毎月5〜6本の新ネタを作る単独ライブを開始

2021年春ごろから、天才ピアニストは毎月単独ライブを開くようになります。

そこで毎月5〜6本ほどの新ネタを下ろし、舞台にかけて反応を確認するサイクルを作りました。

もともとネタをたくさん作るコンビでしたが、「賞レースで勝つ」という目的が具体的になったことで、量と試行回数がさらに増えていきます。

竹内さんは、結果が出ている先輩芸人を楽屋で見て、舞台では軽やかに見える人ほど、その前に大量の準備やネタ合わせをしていることにも気づいていました。

毎月5〜6本の新ネタを作り、舞台で試して修正する生活へ変えたことが、その後の賞レースにつながっていきます。

THE W準優勝で仕事が一変|優勝前に始まっていたブレイク

天才ピアニストが広く知られる転機は、2022年のTHE W優勝だけではありません。

仕事量が大きく変化したのは、その前年のTHE W 2021でした。

2021年THE W準優勝を境にテレビ・仕事が急増

2021年、天才ピアニストはTHE Wの決勝へ初めて進み、最終的に準優勝しました。

優勝には届きませんでしたが、全国ネットの舞台でネタを見てもらったことで、その後の仕事は大きく変わります。

竹内さんは翌年のインタビューで、前年とは比べものにならないほど仕事が増えたと話し、春からはレギュラー番組も始まったと明かしています。

天才ピアニストのブレイクは2022年の優勝から突然始まったのではなく、2021年のTHE W準優勝ですでに大きく動き始めていました。

前年は決勝のすぐ外で待っていた2人が、1年後には最終決戦まで残り、仕事の景色まで変わりました。

2022年NHK上方漫才コンテストとTHE Wで優勝

準優勝で注目された翌2022年には、積み重ねてきた新ネタが結果として表れます。

5月には第52回NHK上方漫才コンテストで優勝しました。

さらに12月には再びTHE Wの決勝へ進み、前年に届かなかった優勝をつかみます。

2021年の準優勝で仕事が増え、2022年の2つの優勝でネタを作り続けてきたコンビとしての評価をさらに広げました。

その後も上方漫才協会大賞、NHK新人お笑い大賞、上方漫才大賞新人賞などを受賞していますが、竹内さんの歩みを見るうえで重要なのは賞の数そのものより、2020年に決勝の一歩手前へ行ったことからネタ作りの方法が変わり、その変化が2021年、2022年と続いたことです。

ネタ作りを「理科の実験」のように続けてきた竹内知咲

大学で生物や化学を学び、高校で理科を教えていた経験は、芸人になった時点で切り離されたわけではありませんでした。

竹内さんは2024年、毎月新ネタを作り続ける姿勢について尋ねられた際、自分のネタ作りを理科になぞらえています。

「理科の実験みたいな感じ。」

スポニチアネックス

条件を変えてさまざまなパターンを試し、良かったものだけを積み上げていくという考え方です。

舞台でも、シュールな設定と王道の設定、強い口調と柔らかな言葉遣い、竹内さんとますみさんの配役などを実際に試し、2人に合うものを残してきました。

大学時代に実験と実習を重ねた竹内さんが、現在は舞台を実験の場のように使ってネタを磨いているというつながりがあります。

教師経験も別の形で残っており、竹内さんは客席が静かな場面でも、高校の授業で生徒がこちらを見て静かに聞いていた感覚があるため、ネタで反応が弱くても必要以上に焦らなくなったと話しています。

結成10周年を迎えても変わらない、ますみとの仕事への熱量

天才ピアニストは2026年5月、結成10周年を記念した1週間の企画を開催しました。

若手時代にはライブが週1本あるかどうかという時期に1日3回集まり、2021年以降は毎月何本もの新ネタを作ってきた2人が、10年後も漫才とコントの両方を続けています。

10周年イベント終了後、お互いの良いところを聞かれた際、ますみさんは竹内さんについてネタを考えてくれるところを挙げました。

竹内さんがますみさんについて挙げたのは、結成前から続く仕事への感覚でした。

「同じ熱意を持って仕事をできるところ」

Lmaga.jp

何度もコンビを組み替えていた竹内さんが、ますみさんとは10年間同じコンビを続けている理由の一つが、仕事に向かう熱量の一致でした。

舞台へ出るより裏方を選んでいた京都の学生時代から、話す力を身につけようと教壇からNSCへ向かった竹内知咲さん。

そこでお笑いを続ける道を選び、何度ものコンビ経験を経て、自分のネタを形にしてくれるますみさんと天才ピアニストを結成しました。

理科の実験のようにネタを試し続ける姿勢と、2人で同じ熱量を持って仕事へ向かう関係は、結成10周年を迎えた現在まで続いています。

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