人物プロフィール
独特な人物設定と、一人芝居のように進んでいくコントで知られる吉住さん。
2020年には「女芸人No.1決定戦 THE W」で優勝し、その後はコントだけでなくテレビ、ラジオ、演技、執筆などにも活動を広げています。
現在はピン芸人として知られていますが、芸人として最初に舞台へ立ったときはコンビでした。
さらに高校卒業後すぐ養成所へ入ったわけではなく、熊本県立大学へ進学し、4年間アルバイトをしながら上京と養成所のためのお金を準備しています。
子どものころから芸人になると決めていたわけでもなく、高校時代に初めて見つけた「自分もやってみたいもの」がコントでした。
吉住の生い立ちと家族|北九州で兄の影響を受けた子ども時代
吉住さんは福岡県北九州市で育ちました。
子ども時代の話には、2歳上の兄がたびたび登場します。
のちに芸人を目指すきっかけとなったお笑いも、代表的なコントにつながった野球も、最初の入口には兄の存在がありました。
2歳上の兄と父がいた家庭で過ごした幼少期
2026年に吉住さん自身が書いたエッセイでは、2歳上の兄との何気ない朝の出来事を振り返っています。
兄が中学生になり、朝に整髪料を使うようになると、父親は吉住さんにも寝ぐせ直しを買ってきました。
兄だけに買うのは違うからという父親なりの気遣いでしたが、当時の吉住さんは髪よりテレビドラマの「ちゅらさん」に夢中で、寝ぐせを直さないまま学校へ行く日もあったそうです。
習い事や進路でも兄が先に歩いた道を選ぶことが多く、幼いころの生活では兄の存在が身近な基準になっていました。
兄について野球観戦へ行き、なぜか「審判」が気になる
小学生になると、兄の影響で福岡ソフトバンクホークスのファンクラブに入り、球場へ試合を見に行くようになりました。
ただ、吉住さんが後年まで覚えていたのは選手だけではありません。
グラウンドにいる「審判」が、なぜか気になる存在だったと本人が明かしています。
当時は、それが将来のネタになるとはもちろん考えていませんでしたが、「審判」という言葉は大人になってからも吉住さんの頭に残り続けることになります。
兄と同じものを選ぶことが多かった子ども時代
スポーツでも兄の影響はあり、同じものを選ぶことが多かった一方、野球については兄から別の競技を勧められ、サッカーをした時期もありました。
テレビではバラエティ番組を見ることはあったものの、このころから熱心にネタ番組を追っていたわけではありません。
兄は漫才が好きでしたが、吉住さんは速いテンポについていけず、むしろ「名探偵コナン」や「金田一少年の事件簿」などのミステリーを好んでいました。
このミステリー好きはJCA時代の初期ネタにも現れ、登場人物が亡くなる設定を頻繁に書いていたため、講師から人を死なせすぎないよう助言されたこともあったそうです。
東筑高校までの学生時代|東京03のコントに出会う
その後、吉住さんは福岡県立東筑高校へ進みます。
高校生活の途中で、それまで自分から何かを強く選ぶことが少なかった吉住さんに、一つだけ「やってみたいもの」が現れました。
学生時代はテニス部でキャプテンも経験
学生時代にはテニス部に入り、キャプテンも経験しています。
ただし、本人の記憶では、自分から強くリーダーを目指したというより、部活動を続けているうちにその役割になったという感覚だったそうです。
東筑高校は進学を目指す生徒も多い環境で、吉住さんの周囲には勉強を難なくこなす同級生もいました。
本人は後年、そうした同級生を見ながら、勉強だけを目標にして進んでいくことには気持ちが乗らなかったと話しています。
高校2年生で東京03を見て、初めてコントを「やってみたい」と思う
転機になったのは、高校2年生のころに見た日本テレビ系「エンタの神様」でした。
出演していたのは、同じ人力舎に所属することになる東京03です。
吉住さんは東京03の「陰口」を題材にしたコントを見て、漫才とは違うテンポや、会話と動きで状況を見せていく面白さに惹かれました。
それまで熱心なお笑いファンだったわけではない吉住さんが、コントだけには自分から興味を持ちました。
「初めて興味を持って『やりたいかも』と思ったのがコントだったんです」
logirl
「見る側」から「自分でもやってみたい」へ変わったのが、高校時代の東京03との出会いでした。
高校卒業前に芸人志望を両親へ伝え、まず大学へ進学
高校卒業が近づくと、吉住さんは両親にお笑いの養成所へ行きたいと伝えました。
それまで人前で目立つようなタイプではなかった娘から突然お笑いの話を聞き、両親は驚いたといいます。
話し合った結果、両親からはまず大学へ進んでほしいと言われ、吉住さんも大学へ進学する道を選びました。
ただし、大学進学によって芸人の話を終わらせたわけではなく、卒業までの4年間を、養成所へ行くための準備期間にすることにしました。
熊本県立大学の4年間|上京とJCAのためにバイトを続ける
高校卒業後は熊本県立大学へ進学しました。
大学へ入っても、吉住さんの生活の中心にあったのは華やかなキャンパス生活ではなく、卒業後に東京へ行くための準備でした。
サークルや学生お笑いには入らず、アルバイト中心の生活へ
大学では建築系の学科で学んでいましたが、サークルには入らず、学生お笑いにも参加していません。
他大学との交流もある学校祭にもほとんど顔を出さず、本人が後年「バイト漬け」と表現するほどアルバイトへ時間を使っていました。
周囲には芸人志望の学生がおらず、友人にも自分が芸人になろうとしていることをほとんど話していなかったそうです。
一方、アルバイト先では年下の女性たちとも交流があり、大学とは別の場所に人間関係ができていました。
養成所の学費と東京への引っ越し資金を4年間かけて準備
アルバイトを続けた目的ははっきりしていました。
スクールJCAへ入るためのお金と、東京へ引っ越すためのお金を自分で準備することです。
東京では生活費もかかると聞いていたため、必要な単位を取りながら、できるだけ貯金へ回す大学生活を送りました。
「4年間死にものぐるいで貯めるべきだな」
マイナビ 学生の窓口
大学へ進んだことで芸人になる時期は4年後になりましたが、その4年間は卒業後の生活まで見据えた準備に使われました。
何度も考え直しても「コントをやりたい」という気持ちは消えなかった
大学時代には、本当に芸人を目指すのかを何度も考えています。
友人からは、仕事をしながら休日にお笑いをする方法もあるのではないかと話されたことがありました。
売れなかった場合の不安もありましたが、それでも吉住さんの中では「コントをやってみたい」という気持ちが残りました。
高校時代に東京03を見てから4年が過ぎても気持ちが変わらなかったため、大学卒業後はいよいよ東京へ向かいます。
スクールJCAへ|好きだったコント師をたどって人力舎を選ぶ
大学を卒業した吉住さんは、2013年4月にスクールJCAへ入りました。
本人が語っている入所時期は2013年4月で、現在のプロダクション人力舎公式プロフィールではJCA23期生と記載されています。
東京03・ラバーガールらが所属する人力舎を選び上京
養成所選びでも、高校時代から見ていたコントが基準になりました。
東京03だけでなく、当時好きだったラバーガールやキングオブコメディについて調べると、いずれもプロダクション人力舎に所属していました。
好きな3組が同じ事務所なら、ここで間違いないだろうとスクールJCAを選んだと本人は語っています。
大学では周囲に芸人志望をほとんど話せなかった吉住さんにとって、JCAは初めて同じ目標を持つ人たちが周囲にいる場所でもありました。
河田祥子との初舞台はメイド姿のコントで下から2番目
JCAで最初に組んだ相手は、のちに「合わせみそ」で活動する河田祥子さんでした。
2013年9月、養成所ライブで初めて一般のお客さんの前に立ちます。
演じたのは吉住さんが書いたコントで、本人の記憶にはメイド服を着ていたことが残っています。
養成所生の前で行ったネタ見せでは反応が悪くなかったため手応えを感じていましたが、本番ではほとんど笑いが起こりませんでした。
観客投票の順位は下から2番目。
同期には普段の二人の姿が分かっているため笑ってもらえても、初めて見る観客には何が面白いのかまで伝えなければならないことを、この舞台で知ることになります。
1年目で所属できず、もう1年JCAに残る
河田さんとのコンビを解消したあとも、吉住さんは何度か相方を替えながらコンビを続けました。
1年目の最後には男性の養成所生と組んでいましたが、卒業時に人力舎への所属をつかむことはできませんでした。
当時の相方からフリーで活動する案も出ましたが、吉住さんは人力舎に入りたいという気持ちを変えませんでした。
「もう1年で所属できなければ辞める」と決め、両親へ電話してJCAに残ることを伝えました。
高校卒業時にも芸人志望を伝えていた両親へ、今度は東京から「もう1年やらせてほしい」と頼むことになりました。
いかちゃんともコンビを組み、新しい相方を探し続ける
JCAでの2年目は、もともと希望していた女性同士のコンビを作ろうと考え、いかちゃんと組みました。
二人で囚人を題材にしたコントを演じたところ、講師から、いかちゃんのキャラクターには合っていないという趣旨の指摘を受けます。
このコンビは短期間で解消し、その後に出会ったのがかわえなつきさんでした。
JCAでは最初の河田さんから一人に固定するのではなく、複数の相手と実際にネタを作りながら組み合わせを試していたことが分かります。
ムテンカナンバー結成|かわえなつきとプロの舞台へ
2年目のJCAでかわえなつきさんと組み、ようやく人力舎所属へ進みます。
現在の吉住さんからは一人コントの印象が強いものの、プロとしての出発点はこの女性コンビでした。
2015年5月に結成し、漫才とコントの両方を試す
吉住さんとかわえなつきさんは2015年5月1日に「ムテンカナンバー」を結成しました。
M-1グランプリ公式サイトにも、ムテンカナンバーの結成日と当時のメンバー情報が残っています。
活動中はコントだけに固定せず、漫才にも取り組みました。
吉住さんが後年覚えている漫才には「ストーカー」や「牛になりきる漫才」などがあり、現在の一人コントとは違う形のネタも作っています。
元相方のかわえさんは後年、コンビ時代について、吉住さんがネタ作りだけでなく活動の方向を決める部分も担っていたと明かしています。
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「バカ爆走!」で先輩芸人との力量差を目の当たりにする
人力舎へ所属してから最初に立った事務所ライブは、5月の「バカ爆走!」でした。
吉住さんたちはJCA時代に最も自信のあったネタを持っていきました。
完全に笑いが起きなかったわけではありませんでしたが、その日に出演していた巨匠、トンツカタン、真空ジェシカら先輩のネタでは、会場が大きく沸いていました。
養成所で「ウケた」と感じていた基準と、プロのライブで印象に残るほど笑わせる基準が違っていたことを、この舞台で実感します。
相方を生かすネタ作りに悩み、2016年に解散
ムテンカナンバーでは約1年半活動しましたが、賞レースなどで思うような結果を残せない時期が続きました。
吉住さん自身が特に悩んでいたのは、相方のキャラクターに合ったネタを書くことでした。
自分で設定やセリフを作っても、その役が相方に合わなければコンビのネタとして成立させるのは難しく、いかちゃんと組んだころから似た問題を経験していました。
2016年8月、ムテンカナンバーは解散します。
ただし、この時点でも吉住さんは「これから一人でやろう」と決めていたわけではありませんでした。
ピン芸人・吉住へ|相方探しの途中で一人ネタがテレビにつながる
ムテンカナンバーが解散したあとも、吉住さんは新しいコンビを作ろうとしていました。
何人かへ声をかけながらネタを考えましたが、再び「相手に合うコントを書けない」という問題にぶつかります。
お抹茶の助言を受け、バカリズムのDVDを見ながら一人ネタを作る
相方を探していたころ、相談相手になったのがトンツカタンのお抹茶さんでした。
急いで相方を決めず、一度自分の気持ちやネタ作りと向き合ってみてはどうかという助言を受け、吉住さんは相方探しをいったん止めます。
ただ、舞台から長く離れると、次に人前へ出ること自体が怖くなるのではないかという心配がありました。
そこでバカリズムさんのDVDなどを見ながら、一人で成立するコントを作り始めます。
新しい相方が見つかるまでの一時的な選択として始めた一人ネタが、その後の活動を変えることになりました。
解散翌月に一人で舞台へ立ち「新しい波24」出演へ
吉住さんはムテンカナンバー解散の翌月には一人で舞台へ立っています。
まだ新しい相方を探していた時期にネタ見せへ一人で参加すると、そのコントを見たディレクターの目に留まりました。
そこからフジテレビ系「新しい波24」への出演が決まり、ピン芸人として初めてテレビ収録へ向かいます。
計画的に「ピンでテレビを目指す」と決めた結果ではなく、舞台勘を失わないために作った一人ネタからテレビの仕事が生まれました。
初テレビでネタが飛び、若手発掘の機会も逃す
2016年12月、「新しい波24」の収録で披露したのはボディービルダーを題材にしたコントでした。
ところが舞台では、吉住さんが想定していなかったところでも笑いが起こります。
まだ作って間もないネタだったこともあり、その笑いによって間がずれ、途中でネタが頭から飛んでしまいました。
収録後には膝から崩れるほど落ち込み、その記憶は数年たっても残っていたといいます。
その後、「新しい波24」から続く番組のレギュラーには選ばれず、「ぐるナイ」の若手発掘企画「おもしろ荘」でも結果を残せませんでした。
テレビ出演が一度決まったあとも、すぐ仕事が増えたわけではありませんでした。
家賃4万5,000円の部屋と節約生活のなかでネタを作り続ける
上京後に最初に住んだのは、東京23区内の西武新宿線沿線にあった家賃4万5,000円のアパートでした。
築年数が古く、すき間風も入る部屋でしたが、仕事が少ない時期だったため固定費の安さを優先して暮らしていました。
食事も菓子パンやカップ麺など安くお腹を満たせるものを選ぶことが多く、サラダや果物は値段を見て控えることもあったそうです。
飲み会などで終電を逃しても、カラオケやタクシーへお金を使わず、新宿から自宅まで歩きました。
「終電を逃したときも、必ず歩いて自宅に帰っていました」
CHANTO WEB
徒歩では2~3時間かかることもありました。
その生活のなかでも舞台へ出て、新しいコントを作り続けていきます。
THE W 2020優勝|子どものころ気になった「審判」が代表ネタに
ピンになってから少しずつ賞レースの決勝へ進むようになりましたが、吉住さんには「決勝までは行けても勝ち切れない」という時期がありました。
その流れを大きく変えたのが、2020年12月14日の「女芸人No.1決定戦 THE W」です。
賞レースであと一歩勝ち切れない時期が続く
吉住さんは2018年にもTHE W決勝へ進出していました。
ほかにも「マイナビ Laughter Night」や「NHK新人お笑い大賞」などで結果を残す機会がありながら、優勝には届かない時期が続きます。
決勝へ行けるところまでは来ているのに最後に勝てないことで、自分は賞レースに向いていないのではないかと考えたこともありました。
それでも、生活の中心からコントがなくなることはありませんでした。
球場で気になっていた審判から「女審判」が生まれる
2020年のTHE Wで披露したネタの一つが「女審判」でした。
発想の種になったのは、北九州で過ごした小学生時代です。
兄の影響でホークスの試合を見に行っていたころから、吉住さんはなぜか審判が気になっていました。
大人になってからも、面白いと思った言葉を記録しているノートを見返すと、何度も「審判」と書いてあったそうです。
球場では大きな動きで判定する審判にも家へ帰れば別の生活があるのではないか、子どもがいたらどんな親なのだろう、と想像を広げていきました。
小学生のころ球場でなんとなく見ていた存在が、十数年後に賞レースの舞台へ持っていくコントになりました。
THE W優勝で仕事が変わり、コントを続ける手応えを得る
2020年12月14日、吉住さんはTHE Wで優勝しました。
優勝後は、それまでのライブとネタ作りを中心とした生活から、テレビ収録やロケなど初めて経験する仕事が一気に増えていきます。
ただ、2026年にTHE Wを振り返った吉住さんが最も大きなこととして挙げたのは、テレビ出演本数や賞金ではありませんでした。
「コントを続けていいんだと思えたことかな」
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高校時代に初めて「やってみたい」と思ったコントで、THE Wの優勝までたどり着きました。
最高の人間から現在へ|ピンのままコントの活動を広げる
THE W優勝後も、吉住さんはピン芸人としてコントを作り続けています。
その一方で、コンビ時代から抱いていたキングオブコントへの思いは、別の形で再び動き出しました。
岡野陽一と「最高の人間」を組みキングオブコント2022決勝へ
2022年には、人力舎の先輩である岡野陽一さんと即席ユニット「最高の人間」を結成します。
吉住さんは2026年のインタビューで、芸人になったころからキングオブコントで優勝したいという気持ちがあったことを明かしています。
ピンとしてTHE Wを制したあと、今度は岡野さんとの二人組でキングオブコントへ挑戦しました。
最高の人間は予選を勝ち進み、キングオブコント2022の決勝10組に選ばれました。
常設コンビへ戻ったわけではなく、吉住さんはその後もピンを軸に活動しています。
単独公演を続けながら俳優・ラジオ・執筆へ活動が広がる
THE W以降はテレビのバラエティだけでなく、俳優、ラジオ、執筆など、コント以外の仕事も増えました。
一方で単独公演を定期的に開催し、ネタを作って舞台に立つ活動は続いています。
2024年には、かつて自分が学んだスクールJCAで特別授業も行いました。
初舞台で観客投票下から2番目になり、1年目には事務所所属を逃した養成所へ、後年は先輩芸人として戻っています。
2026年も第9回単独公演へ向けて活動を続ける
2026年8月現在も、吉住さんの活動の中心にはコントがあります。
プロダクション人力舎は、第9回単独公演「ずっと そこに いれば?」を2026年10月30日・31日に東京・草月ホールで開催すると発表しています。
高校時代に東京03を見て初めて自分から選んだ「コントをやりたい」という道は、現在も単独公演という形で続いています。
北九州で兄について野球場へ通い、高校で初めて自分からやりたいと思ったものがコントでした。
大学4年間の準備、JCAでの複数のコンビ、ムテンカナンバーの解散を経て、一人で舞台へ立ったところから現在の吉住さんの活動が始まりました。
THE W優勝後も舞台を離れず、ピン芸人としてコントを作り続けています。












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