人物プロフィール
ビートたけしさんの相方として、1980年代の漫才ブームを駆け抜けたビートきよしさん。
現在も芸能活動を続ける一方、横浜市中区ではカラオケパブ「スター☆場」に立ち、本人が代表を務めるBKプロダクションも運営しています。
ツービートといえば、たけしさんが猛烈な速さで毒舌を繰り出し、きよしさんが「よしなさい」と止める漫才が知られていますが、きよしさんは最初から漫才師を目指していたわけではありません。
18歳で母親から2万円を受け取り、ボストンバッグ一つで山形を出たことから、芸能界での生活が始まりました。
上京直後の仕事は映画で、その後に浅草のストリップ劇場へ入り、深見千三郎さんのもとでコントを経験し、やがてエレベーターボーイとして働いていた若き北野武さんと出会います。
しかも、後に「世界のキタノ」と呼ばれることになるたけしさんを漫才へ誘ったのは、きよしさんの方でした。
ビートきよしの生い立ちと家族|山形・最上町で育った少年時代
ビートきよしさん、本名・兼子二郎さんは1949年12月31日、山形県最上町に生まれました。
男ばかり3人兄弟の真ん中で育ち、幼いころの家庭には、その後も本人の記憶に強く残る大きな出来事がありました。
生後間もなく母が大けが、義足で3人の息子を育てた
父親は鉱山で働き、発破に使う火薬を扱う資格を持っていたといいます。
きよしさんが生まれて間もないころ、父親が自宅へ持ち帰っていたダイナマイトを母親が誤って踏み、大きな事故が起きました。
父親は無事でしたが、母親は命も危ぶまれるほどのけがを負い、その後は義足で生活することになります。
それでも母親は田んぼや畑へ出て、食べ盛りになっていく3人の息子を育てました。
義足で農作業をしながら3人兄弟を育てた母親の姿は、きよしさんが75歳を過ぎても語る家族の記憶として残っています。
「一生懸命育ててくれた」
スポニチアネックス
2025年にこの話をした時点で母親は95歳で健在で、きよしさんはテレビに出られたことを「親孝行できた」と受け止めていました。
学芸会が好きだった少年と、地元で働き始めるまで
家では農作業をする母親の姿を見て育った一方、学校では学芸会など人前へ出る行事を楽しんでいました。
本人によれば、子どものころから芸事をすること自体が好きだったといいます。
ただ、この時点で「将来は漫才師になる」と決めていたわけではありません。
学校を出た後は地元で自動車修理の仕事をしており、芸能界とは離れた生活を送っていました。
その生活の中で偶然目にした週刊誌が、山形から東京へ向かうきっかけになります。
18歳で山形を出て芸能界へ|自動車修理工から東京宝映へ
自動車修理工として働いていたころ、週刊誌を読んでいたきよしさんは「タレント募集」という広告を見つけました。
子どものころに学芸会を楽しんでいた記憶もあり、広告を眺めるだけでは終わらず、自分で応募します。
週刊誌の「タレント募集」を見つけ、母から2万円を受け取る
一次審査を通過すると、東京で行われる二次審査の案内が届きました。
東京へ行くため、きよしさんは母親に2万円を頼みます。
母親は芸能界を目指すことに反対したものの、最終的には息子へそのお金を渡しました。
きよしさんはボストンバッグ一つを持ち、夜行列車に乗って18歳で東京へ向かいました。
大きな芸能事務所から声を掛けられて上京したのではなく、自分で見つけた小さな募集広告から始まった東京行きでした。
ボストンバッグ一つで夜行列車に乗り、標準語を練習して面接へ
応募先は東京宝映の養成所でした。
面接ではさまざまなセリフを読まされましたが、そこで面接官から「山形出身なのになまりがない」と驚かれたといいます。
偶然ではなく、きよしさんは東京へ行くことを意識し、山形にいるころから標準語を練習していました。
上京する前から標準語を覚えようとしていたほど、東京の芸能界へ出ることを具体的に考えていたのです。
面接に合格すると、そのまま東京宝映の養成所へ入ることになりました。
最初の芸能仕事は漫才ではなく映画だった
養成所へ入ると、間もなく「映画の仕事がある」と現場へ行くよう指示されました。
田舎から出てきたばかりの18歳にとって、いきなり映画へ出演できるという話は大きな出来事でしたが、現場へ着いて初めて、それが当時のピンク映画だったと知ります。
女性と手をつないだ経験さえほとんどなかったころで、裸の女性を前に本当に体が震えてしまったところ、その反応が役柄に合い、一発でOKが出たというエピソードを本人が語っています。
その後も同じ種類の仕事が続きましたが、本人は裸の出る映画に抵抗があり、別の場所へ目を向けるようになりました。
浅草ロック座でお笑いへ|深見千三郎のもとでツッコミを学ぶ
映画の仕事から離れたいと考えていたころ、養成所の先輩から声を掛けられ、浅草のロック座へ足を運びました。
ここから、俳優として始まった芸能生活がお笑いへ動き始めます。
養成所の先輩を頼ってロック座へ、売れる前の萩本欽一にも出会う
先輩から「入りたければ入れてあげる」と言われたロック座はストリップ劇場でしたが、踊りの合間をつなぐために芸人がコントを披露する場所でもありました。
きよしさんは、長門勇さん、渥美清さん、東八郎さんら浅草から世に出ていった芸人の名前を聞き、この世界へ入ります。
当時、楽屋にはまだ全国的な大スターになる前の萩本欽一さんも出入りしていました。
最初は楽屋口から入ってくる萩本さんを見て「何だこの人は」と思っていたそうですが、コント55号の舞台を実際に見に行くと、その面白さに驚きました。
間もなくコント55号は大きく売れ、きよしさんは浅草の舞台から、芸人が世間へ知られていく様子を間近で見ることになります。
深見千三郎とフランス座へ移り、幕間コントを続ける
ロック座の経営が変わると、きよしさんは深見千三郎さんとともにフランス座へ移りました。
深見さんは舞台で芸を細かく説明して教えるタイプではなく、本番中でも気に入らなければその場で芸人を怒鳴るような人物だったと、きよしさんは後年話しています。
若手は芸だけをやっていればいいわけでもなく、きよしさんは修業時代、師匠の犬小屋の掃除、車での送り迎え、外出先で戻ってくるまで待つことなども経験していました。
夜遅くまで送迎した翌朝も再び用事が始まる生活の中で、舞台では深見さんの動きや間を見て覚えていきました。
深見さんからツッコミを学びながら幕間コントへ立っていた時期が、きよしさんがお笑いを仕事にしていく最初の時間でした。
フランス座でビートたけしと出会う|漫才を選んだ理由
フランス座へ移った後、劇場に新しく入ってきた若者がいました。
後のビートたけしさん、北野武さんです。
エレベーターボーイだった北野武を「変わったやつ」と見ていた
当時のたけしさんは20歳そこそこで、最初はフランス座のエレベーターボーイとして働いていました。
きよしさんが最初に抱いた印象は、後のスターを予感するようなものではなく、「変わっているやつがいる」という程度だったといいます。
ただ、たけしさんは次第に幕間の舞台へ出るようになり、深見さんにも遠慮なく冗談をぶつけていました。
怖い存在だった深見さんを相手に平然と笑いへ変えていく姿を、きよしさんはすぐ近くで見ることになります。
深見・きよし・たけしの3人コントから2人だけの舞台へ
やがて深見千三郎さん、きよしさん、たけしさんの3人でコントを演じるようになりました。
あるとき深見さんから2人だけで舞台をやるよう指示され、その翌日から深見さん自身は舞台へ出なくなったと、きよしさんは語っています。
「明日から俺、出ないから、お前ら2人でやれ」
スポニチアネックス
この時点では、まだ2人はツービートではありません。
フランス座の舞台でコントをしながら、それぞれ次にどこへ進むかを探していました。
Wけんじを見て「漫才ならテレビへ近づける」と考える
劇場でコントを続けるうち、きよしさんには「このままここにいて、どうやって世に出るのだろう」という思いが生まれます。
そんな時に松竹演芸場へ行くと、テレビでも人気だった漫才コンビ・Wけんじが舞台に立っていました。
テレビで活躍している芸人が同じ演芸場へ出ているのを見て、漫才をすればテレビへの距離が近くなるのではないかと考えます。
「芸能人になりたい」と山形を出た青年が、浅草で映画からコントを経験し、ここで初めて漫才を進む道として選びました。
最初の相方との別れからツービート結成へ
漫才へ進むことを決めても、そのままたけしさんとコンビになったわけではありません。
きよしさんはまず、別の人物とコンビを組んで漫才を始めました。
別の相方との漫才が終わり、フランス座時代のたけしを思い出す
最初に組んだ相方は、レオナルド熊さんの弟子だった人物でした。
しかし、そのコンビは長く続かず、再び相方を探すことになります。
そこで頭に浮かんだのが、フランス座で一緒にコントをしていた北野武さんでした。
舞台では予定どおりに進まないことも多かったものの、きよしさんには、たけしさんを「何だか面白い」と感じた記憶が残っていました。
また、山形で育った自分と東京で育ったたけしさんでは、話すテンポも経験してきたことも違うため、あえて違うタイプと組む方がいいと考えたといいます。
きよしが約3カ月口説き、1972年にコンビを結成
きよしさんから「漫才をやろう」と声を掛けられたたけしさんは、すぐには乗り気になりませんでした。
フランス座でコントを続ける方がよかったこともあり、返事を渋っていたといいます。
それでも、きよしさんは諦めませんでした。
「3カ月ぐらい口説いて」
スポニチアネックス
何度も誘い続けた末、1972年に2人は漫才コンビとして歩き始めます。
ツービート誕生の入口を作ったのは、たけしさんの面白さを舞台で知っていたきよしさんからの誘いでした。
喫茶店で3時間考え、「ツービート」の名前が決まる
2人は一時期、「空たかし・きよし」の名前でも活動していました。
きよしさんが2024年にニッポン放送で語った記憶では、2人で喫茶店に入り、新しいコンビ名を約3時間考えています。
そこで、かつてジャズ喫茶で働いた経験のあるたけしさんが、音楽のリズムには「2ビート」「4ビート」「16ビート」があると話しました。
2人で活動していることと、たけしさんのしゃべりが速いことから、きよしさんが「ツービートでいいのでは」と提案し、その名前に決まったと説明しています。
一方、ツービートと関わった松鶴家千とせさんは、生前のインタビューで「ザ・ビート」を提案したところからツービートになったという別の記憶を語っており、命名の細部には証言の違いも残っています。
少なくとも1970年代前半には、2人は「ツービート」の名で漫才を続けるようになりました。
売れない若手時代|キャバレーを回り、一度はコンビを解散
1972年にコンビを組んでも、すぐにテレビの人気者になったわけではありません。
2人は演芸場やキャバレーなどへ出演しながら、漫才を続けました。
正統派の漫才ではなかなか結果が出なかった
初期のツービートは、後年の高速毒舌漫才とは違い、先輩たちを参考にしたストーリーを追う形の漫才をしていました。
ところが、舞台では思うように笑いが取れませんでした。
きよしさんはツッコミ、たけしさんはボケという大まかな位置関係はあっても、後に知られる短い「よしなさい」が完成していたわけでもありません。
舞台を重ねながら、自分たちに合う漫才を探していた時期でした。
キャバレーの舞台で頭を下げ続け、きよしから解散を告げる
若手時代にはキャバレーの舞台へ出演することもありましたが、そこでの仕事も順調とは限りませんでした。
たけしさんが酒を飲んでから舞台へ出て、客とやり合うこともあり、そのたびにきよしさんが周囲へ頭を下げて収めることがあったといいます。
同じことが続くうち、きよしさんはコンビを続けることが難しいと考えるようになりました。
そして一度、きよしさんの方からコンビを解散しています。
結成後ずっと順調に続いてきたコンビではなく、全国に知られる前に一度途切れていたのです。
たけしからの電話で再び組み、漫才をやり直す
解散後、今度はたけしさんから連絡が入りました。
もう一度一緒にやろうという話になり、きよしさんは、今度はきちんと舞台をやることを条件にコンビへ戻ります。
きよしさんが最初にたけしさんを誘い、一度離れた後はたけしさんから声を掛けて再び組んだことで、ツービートは続いていきました。
再始動した2人には、その後の漫才を大きく変える台本との出会いが待っていました。
「よしなさい」の高速漫才へ|テレビ出演から漫才ブームまで
ツービートの名前を全国へ広げたのは、結成当初とは違う速いテンポの毒舌漫才でした。
その形が固まっていくきっかけの一つが、松竹演芸場で渡された漫才台本でした。
松竹演芸場で出会った台本から毒舌漫才へ変化
松竹演芸場にいた2人へ、ある作家が「よかったらやってみて」と台本を渡しました。
その内容が、たけしさんのしゃべり方に合いました。
たけしさんがそれまで以上の速さで次々としゃべるようになると、きよしさんが長く言葉を挟もうとすれば、2人の声が重なって客に聞き取れなくなります。
そこで間へ入れられる言葉は自然と短くなり、「よしなさい」「やめなさい」「いい加減にしなさい」といったツッコミが使われるようになりました。
きよしさん自身、若いころのたけしさんは現在以上に息をつく間もないほど速くしゃべっていたと回想しています。
たけしさんの猛烈なしゃべりを邪魔せず、短い言葉で止める形が、ツービートを象徴する「よしなさい」へつながっていきました。
テレビの公開収録で大受けし、翌週から仕事が動き始める
演芸場で評判が広がると、1975年10月、テレビ東京系で始まった「爆笑パニック!体当たり60分」から声が掛かりました。
局へ呼び出された2人は、公開収録の舞台へ立つことになります。
先に出演した人気コンビのコメディNo.1が思うように受けていなかったため、2人は「自分たちもやるだけやって帰ろう」という気持ちで舞台へ出ました。
ところがツービートの漫才は客席で大きく受け、収録後には翌週からのレギュラー出演を告げられます。
長い浅草と演芸場での時間を経て、初期のテレビ出演が仕事の流れを一気に変えました。
「テレビ出演1度で人生が変わりました」
ENCOUNT
レギュラーが決まると太田プロダクションから声が掛かり、ツービートの活動場所は演芸場だけではなくテレビへ広がっていきました。
1980年代の漫才ブームでツービートが全国区へ
1970年代後半からテレビ出演を増やしたツービートは、1980年代に入ると漫才ブームの中心に立つコンビの一つになります。
「THE MANZAI」などで、たけしさんが常識や権威を次々と茶化し、きよしさんが短いツッコミで止める漫才が全国へ広がりました。
最盛期にはテレビ収録が朝まで続き、毎週複数の台本が届き、睡眠時間が3時間ほどになる日々だったときよしさんは語っています。
山形から東京へ来て、映画、ロック座、フランス座、キャバレー、演芸場を通ってきた生活は、ここで大きく変わりました。
結成しただけで売れたのではなく、浅草時代から何年も舞台を重ねた末に、ツービートは漫才ブームを代表する存在になりました。
漫才ブーム後は別々の道へ|俳優として仕事を広げたビートきよし
漫才ブームが落ち着くと、2人の仕事は少しずつ別々の方向へ進んでいきました。
たけしさんはテレビ番組の司会やタレント活動を広げ、後には映画監督としても活動するようになります。
お笑い番組が減るなか、久世光彦作品から俳優業へ
テレビで漫才をする機会が減っていく中、きよしさんは俳優業へ仕事を広げました。
事務所が取ってきたTBSドラマへ出演した際、演出家・プロデューサーとして知られる久世光彦さんに気に入られ、その後も久世さんの作品へ出演するようになります。
きよしさんは役者らしく芝居を作り込むのではなく、久世さんの現場で自然に振る舞うことを考えていたといいます。
「俺はいなくなりたくなかった」
ENCOUNT
相方の活動が大きく広がる一方で、きよしさんは久世作品を入口に、自分の出演場所を俳優の世界へ増やしました。
その後はNHK大河ドラマ「秀吉」や映画「吉原炎上」「釣りバカ日誌」シリーズなどにも出演し、漫才以外の仕事が続いていきます。
2014年に再びたけしと同じ事務所へ、現在もツービートは解散せず
コンビでの活動がほとんどなくなっても、ツービートは正式には解散しませんでした。
2014年には、ゴルフを一緒にした際の会話をきっかけに、きよしさんがオフィス北野へ所属し、約28年ぶりにたけしさんと同じ事務所に所属します。
2018年にたけしさんがオフィス北野を離れた後、きよしさんも同社を退所しましたが、コンビそのものはそのまま残りました。
2025年の番組でも、きよしさんは「別々の仕事をしているなら解散してもいいと思うが、相方が解散しない」という趣旨の話をしています。
「今もツービート」
スポニチアネックス
舞台へ一緒に立つ機会が減っても、1972年に始まったツービートというコンビ名は現在まで続いています。
「格差」を聞かれても劣等感を否定する現在の関係
たけしさんが映画監督として海外でも評価されるようになると、2人の知名度や仕事量の違いが話題にされることも増えました。
しかし2026年、ABEMAの密着取材で相方と比較されることへの劣等感を聞かれたきよしさんは、すぐに否定しています。
「劣等感はない」
日刊スポーツ
相方とは個性が違い、自分が同じことをできるわけではないと話したうえで、たけしさんが成功していくことを喜んできたと語っています。
2025年の番組では、笑福亭鶴瓶さんもツービートについて、きよしさんが横にいることでたけしさんがやりやすかったのではないかと話しました。
「お兄さんでやりやすいから」
スポニチアネックス
現在のビートきよし|横浜の店と芸能活動、そして再び浅草へ
漫才ブームから40年以上が過ぎた現在も、ビートきよしさんは芸能界を離れていません。
芸能活動に加えて、横浜で自分の店と事務所を持ち、体調と付き合いながら仕事を続けています。
BKプロダクションを立ち上げ、「スター☆場」に立つ日々
2023年7月にはBKプロダクションを立ち上げ、自ら代表を務めています。
現在はキャストパワーとも業務提携し、芸能活動を続けています。
同じ2023年には、横浜市中区でカラオケパブ「スター☆場」をオープンしました。
2026年のABEMA密着では、芸能の仕事がない日はほぼ店へ出ており、マネージャーと2人で切り盛りする様子が紹介されています。
きよしさん自身は酒を飲まないものの、横浜に長く住み、客同士が自然に会話を始める街の雰囲気を気に入っているといいます。
「居場所を作ってるだけ」
ABEMA TIMES
かつて浅草の舞台で客を前にしていた芸人が、現在は横浜の小さな店で客と直接顔を合わせています。
2021年のネフローゼ症候群から現在は週3回の人工透析
一方、現在の生活には腎臓の病気も大きく関わっています。
2021年ごろにネフローゼ症候群を発症し、体に強いむくみが出るようになりました。
症状が悪化した時期には体重が一時25キロほど増え、仕事先で自分で着替えることも難しい状態になったといいます。
入院後に透析治療が始まり、2026年時点では週3回の人工透析を受けています。
透析へ通う日と芸能活動を続けながら、仕事がなければ夜は「スター☆場」に立つ生活を送っています。
BKプロダクションの公式サイトでは、現在も芸能プロダクションと「スター☆場」の営業情報が掲載されています。
2026年、若手時代の舞台でビートたけしと再び並ぶ
2026年2月、2人が若手時代にも立った浅草の東洋館で、長く別々に活動してきたツービートが再び同じ舞台へ立ちました。
「ビートたけし杯」の会場へきよしさんが足を運び、楽屋にいることを知ったたけしさんがステージへ呼び込んだのです。
2人が横に並ぶと、たけしさんは漫才をしていたころの立ち位置が違うだけでも話しにくいと口にしました。
「2人で立つと、やっぱりそっちじゃなくて、こっちなんだよな」
テレビ朝日
きよしさんが「こうやってたまには2人で立つのもいい」という趣旨の話をすると、たけしさんはすぐに笑いへ変え、客席も沸きました。
山形から東京へ出た18歳の青年が浅草で出会った相方と、70代になって再び同じ浅草の舞台へ並びました。
結成から半世紀を超えても、2人は「元ツービート」ではなく、現在もツービートのままです。
義足で働く母親のもとで育ち、学芸会を楽しんでいた少年は、18歳で山形を離れ、映画と浅草のコントを経て漫才へたどり着きました。
フランス座で出会った北野武さんを自分から誘い、一度の解散も挟みながらツービートを続け、その後は俳優や店の経営へと活動する場所を変えてきました。
そして2026年、若いころに立った浅草の舞台には、再びビートたけしさんの横にビートきよしさんが立っていました。





コメントを残す