人物プロフィール
お笑いトリオ「ロバート」のメンバーでありながら、現在は料理の腕を生かした仕事でも広く知られている馬場裕之さん。
YouTube「馬場ごはん〈ロバート〉Baba’s Kitchen」では家庭で作りやすい料理を紹介し、テレビやレシピ本、飲食店など活動の幅も広がっています。
ところが昔へさかのぼると、料理は芸人として売れた後に始めた趣味ではなく、小学生のころから身近な材料を使って試行錯誤していたものでした。
その一方で、芸人への道は本人が早くから目標にしていたものではなく、幼稚園時代からの友人・秋山竜次さんに東京へ呼ばれたことから思いがけない方向へ動き出します。
北九州市門司区で過ごした子ども時代から、秋山さんとの学生生活、東京NSC、山本博さんとのロバート結成、若手時代、そして料理が仕事になっていくまでを順番にたどります。
馬場裕之の生い立ちと家族|北九州市門司区で育った少年時代
馬場裕之さんは福岡県北九州市出身で、北九州市も門司区出身の著名人として紹介しています。
現在の料理活動を知ってから幼少期を見ると、家の台所や庭で目にしていたものが、後の馬場さんの料理と重なる場面がいくつもあります。
家庭菜園と手作りの食べ物が身近にあった家で育つ
馬場さんの幼少期には、母親や祖母が料理をし、家庭菜園の野菜を食べる環境がありました。
後年のインタビューでは、汁物に使う三つ葉が必要になれば裏庭へ取りに行き、そうめんには庭のみょうがを使うような暮らしだったと話しています。
祖母は畑で野菜を育て、祖父は釣り船を持っていて、釣った魚が食卓へ上ることもありました。
家ではぬか漬けや梅干し、らっきょうなどを手作りすることもあり、「食べるものを自分たちで作る」ことが特別ではない家庭で育っています。
豪華な食材を使うというより、家にある野菜や調味料をどう食べるかを考える日常がありました。
小学生で料理を始め、原材料を見てタバスコまで自作
馬場さんが自分で料理を始めたのは、小学校高学年ごろだったといいます。
きっかけの一つとして本人が何度も語っているのが、家族でピザトーストを食べていた日の出来事です。
使っていたタバスコがなくなると、空き瓶に書かれていた原材料を見て、唐辛子や塩、酢など身近な材料から自分で作ろうとしました。
「一番初めはタバスコを自分で作ってみようと思って。」
おうちごはん
袋入りのインスタントラーメンにも、片栗粉や卵、酢、レモンなどを加えて味や食感を変えていたそうです。
本人にとって料理は「理科の実験」に近い遊びで、用意されたレシピを再現するより、目の前にある材料で変化を試すことに面白さを感じていました。
現在の馬場さんが少ない材料で作れるレシピや身近な食材のアレンジを数多く紹介していることを考えると、そのスタイル自体はかなり早い時期から見えていました。
幼稚園から一緒だった秋山竜次と遊んだ子ども時代
馬場さんの少年時代を語るうえで欠かせないのが、後にロバートのメンバーとなる秋山竜次さんです。
二人の関係は芸人になってから始まったものではなく、幼稚園時代から同じ地域で過ごしてきた幼なじみでした。
まだコンビやトリオという言葉が人生に入ってくるずっと前から同じ友人グループで遊び、その関係は小学校、中学校、高校へ進んでも続きます。
その長さが、数年後に秋山さんが「東京へ呼ぶなら馬場」と考える背景になります。
馬場裕之の学生時代|秋山竜次と高校まで一緒だった
馬場さんと秋山さんは、成長して別々の学校へ進むこともなく、高校卒業まで同じ地域で学生生活を送りました。
北九州市の資料では、馬場さんが旧・早鞆中学校の卒業生であることも確認されています。
秋山とは幼稚園から高校まで同じ学校へ
二人の関係の長さについて、馬場さん自身がテレビ出演時にはっきり説明しています。
「幼稚園と小学校と中学校と高校が全部同じだったんです」
スポニチアネックス
「昔から知っていた」という程度ではなく、子どもから高校生になるまで同じ土地で過ごしてきた相手でした。
後にロバートのネタを作る秋山さんにとっても、馬場さんは自分が学生時代にどんなことで笑っていたかを知る存在です。
芸人になった後に築いた仕事上の関係より先に、長い友人関係があったことが二人の特徴でした。
秋山とバドミントンをして過ごした中高時代
学生時代には二人でバドミントン部に入り、ダブルスを組んだことも後年のテレビ番組で語られています。
秋山さんの回想では、部活動だけで学生生活が埋まっていたわけではなく、夏には友人たちと海へ出かける時間もありました。
馬場さん自身が前へ出て周囲を笑わせ続けるタイプだったというより、秋山さんのそばで一緒に遊び、秋山さんのおかしな行動を見て笑っている側だったことも、後の二人の話から伝わってきます。
このころの馬場さんに、将来プロのお笑い芸人になるという明確な計画はありませんでした。
高校卒業後は地元でフリーターに
高校を卒業した馬場さんは大学へ進むのではなく、地元に残ってガソリンスタンドなどでアルバイトをする生活に入ります。
一方の秋山さんは先に東京へ出ており、ビル清掃の仕事などをしながら生活していました。
ここで長く同じ道を歩いてきた二人が初めて離れましたが、その期間は長く続きませんでした。
秋山さんから北九州にいる馬場さんへ、東京へ遊びに来るよう連絡が入ります。
馬場裕之が芸人になったきっかけ|秋山の「東京観光」で人生が変わる
馬場さんの芸人人生は、養成所の募集要項を見て自分から応募したところから始まったわけではありません。
本人は東京へ観光に行くつもりで、秋山さんのもとへ向かいました。
先に上京した秋山から「東京観光に来いよ」と誘われる
東京で暮らしていた秋山さんは、芸人の養成所であるNSCの存在を知り、一人ではなく誰かと一緒に入りたいと考えます。
そこで思い浮かんだのが、北九州にいる幼なじみの馬場さんでした。
ただし、最初から「芸人になろう」と誘えば断られると思ったため、秋山さんは養成所の話を伏せたまま東京へ呼んだと後に明かしています。
「人前で何かやるタイプじゃないんですけど、仲いいっていうだけで呼んでるんで」
スポニチアネックス
馬場さんはその言葉どおり、秋山さんと東京観光ができると思って上京しました。
東京で働いて貯めたお金をNSCの入学金へ
東京で過ごしているうちに馬場さんの手持ちのお金が減ると、秋山さんは仕事を紹介しました。
馬場さんは秋山さんとともにビル清掃のアルバイトをし、しばらく東京で働くことになります。
このときに働いた期間や貯めた金額は、後年の番組によって秋山さんの説明に違いがありますが、その資金がNSC入学へ使われたという流れは共通しています。
十分な資金ができたところで秋山さんは馬場さんを郵便局へ連れて行き、そこで初めて養成所へ入る計画を伝えました。
観光のつもりだった東京滞在が、知らないうちに芸人になる準備期間へ変わっていたことになります。
「もう少し秋山といられるなら」と東京NSC4期生になる
突然NSCの話を聞かされた馬場さんでしたが、その場で北九州へ帰ることは選びませんでした。
「もうちょっと秋山といれるんだったらいいか」
スポニチアネックス
こうして馬場さんは1998年、東京NSC4期生としてお笑いの世界へ入ります。
吉本興業の公式プロフィールでも、馬場さんの出身・入門は「1998年 NSC東京校4期生」とされています。
「芸人になりたい」から始まったのではなく、秋山さんともう少し一緒にいたいという選択が芸人人生の入口になりました。
NSC時代からロバート結成へ|板倉俊之を経て山本博が加入
NSCへ入った時点でも、現在のロバート3人がそろっていたわけではありません。
秋山さんと馬場さんの二人から始まり、途中で現在のインパルス・板倉俊之さんが加わり、さらにメンバーが入れ替わって山本博さんへたどり着きます。
最初は秋山と馬場の2人で活動
NSCに入った秋山さんと馬場さんは、まず二人でネタを始めました。
ところが人前で何かを演じることに慣れていなかった馬場さんは、当時を「恥ずかしくてしょうがなかった」と振り返っています。
秋山さんが作るものを二人だけで形にしても思うように笑いが起きず、ツッコミを担当できる人物が必要になりました。
養成所時代に公園でネタを練習していた際には、後年、秋山さんから馬場さんが鳩と遊んでいたという話まで明かされています。
お笑いへの熱量も経験も同じ二人が組んだというより、芸人を目指して上京した秋山さんの横に、幼なじみの馬場さんがいたというスタートでした。
ツッコミを求めて板倉俊之を加えた時期
二人のネタを見ていた板倉俊之さんが、ツッコミ役として入ることを申し出たことで、一時は3人で活動するようになります。
板倉さんが加わったトリオはNSC内でも評価され、舞台へ出る機会も生まれました。
しかし板倉さんは、自分もボケを担当するコンビを作りたいと考え、秋山さんと馬場さんのもとを離れます。
その後、板倉さんは堤下敦さんとインパルスを結成しました。
ツッコミを失った秋山さんと馬場さんは再びメンバーを探すことになります。
板倉が抜けたあと山本博が加わり、現在の3人へ
そこで候補になったのが、同じ東京NSC4期生の山本博さんでした。
山本さんは群馬県から友人とNSCへ入ったものの、その友人が途中で辞めたため相方を失い、複数の同期と組みながら卒業まで活動を続けようとしていました。
板倉さんが抜けたタイミングで秋山さん、馬場さん、山本さんの3人がネタを試すと、思いのほか手応えがありました。
秋山さんが強く前へ出るコントに対して、山本さんの普通の人らしい反応がうまくはまり、3人で活動を続けることになります。
1998年、秋山竜次さん、馬場裕之さん、山本博さんによる「ロバート」が結成されました。
幼稚園から続く秋山さんと馬場さんの関係へ、養成所で相方を失っていた山本さんが加わったことで、現在まで続く3人の形ができました。
ロバートの若手時代|コントでテレビへ出る一方、馬場は自信を持てなかった
ロバートは結成後、長い無名期間を経てからテレビへ出たトリオではありませんでした。
比較的早い時期からテレビへ進んだ一方で、馬場さん自身には「芸人として何をすればいいのか」という迷いが残っていました。
『新しい波8』から『はねるのトびら』へ
ロバートは2000年にフジテレビ系『新しい波8』へ出演し、その流れから2001年に始まった『はねるのトびら』のレギュラーメンバーになります。
結成から数年で全国放送の番組へ進み、ロバートの名前は若い視聴者を中心に知られるようになりました。
仕事が増えるにつれてタクシーチケットを渡されるようになっても、馬場さんは「このタクシーで帰っていいのかな」と戸惑ったことを後年語っています。
テレビに出る速さと、馬場さん自身がお笑いに手応えを持つ速さは同じではありませんでした。
緑髪などで「変わっている人」を演出していた若い頃
若いころの馬場さんといえば、鮮やかな緑色の髪を思い浮かべる人も多いかもしれません。
本人によると、ネタを書いたり自分のギャグを作ったりしてこなかったため、髪を緑色にし、ボディピアスを付けるなどして外見から個性を作ろうとしていた時期がありました。
「向いてないなと思ってずーっと過ごして来たんで」
スポニチアネックス
2023年の番組でも、お笑いにほとんど興味がない状態から芸人になり、人前へ出るのも得意ではなかったと振り返っています。
売れ始めても「もっと面白くなるには何をすればいいか」が本人の中で明確だったわけではなく、テレビの現場へ出ながら自分の立ち位置を探していました。
ロバートのネタは「学生時代の放課後の延長」
ロバートのコントは秋山さんが中心になって作り、山本さんが相手役となりながら形を整えることが多く、馬場さんは完成に近づいた段階でネタを見ることもあると3人が話しています。
それでも馬場さんにとってロバートでネタをする空気は、仕事だけの関係とは少し違っていました。
「ネタに関しては学生時代の放課後の延長でずっとやってます(笑)」
ORICON NEWS
学生時代から秋山さんのふざけ方を知っている馬場さんが同じトリオにいることは、ロバート特有の空気にもなっていました。
幼なじみの遊びの感覚を完全に仕事用へ切り替えず、そのままコントへ持ち込んでいたという説明です。
若手時代にも自炊を続けていた
お笑いへの迷いがあった時期にも、子どものころから好きだった料理は続いていました。
まだ収入が多くなかった若手時代には、外食するより自分で食べたいものを安く作れることもあり、自炊が日常になっていきます。
ロバート3人のインタビューでは、秋山さんがネタを考える一方、馬場さんのノートには料理の食材ばかり書かれていたという話まで出ています。
この時点では料理が現在のような大きな仕事になるとは決まっていませんでしたが、芸人として活動しながら料理を続ける生活はすでに始まっていました。
キングオブコント優勝まで|ロバートがコント師として評価される
『はねるのトびら』などでテレビでの知名度を高めた後も、ロバートはコントを続けました。
その中で大きな節目になったのが、コント日本一を決めるキングオブコントです。
2008年の決勝を経て2011年に完全優勝
ロバートは第1回となるキングオブコント2008で決勝へ進み3位となりました。
そして2011年、再び決勝へ進出します。
大会公式記録では、ロバートはファーストステージと最終ステージの両方でトップとなり、合計1876点で優勝しました。
2本のコントをそろえて首位となる「完全優勝」で、キングオブコント2011王者になりました。
テレビのバラエティーで見慣れた3人が、コントを競う大会でも結果を残した瞬間でした。
優勝しても仕事が突然変わったわけではなかった
ただし、馬場さんの経歴ではキングオブコント優勝だけを「ブレイクの瞬間」とするのは実際の流れと合いません。
ロバートはその約10年前から『はねるのトびら』に出演しており、すでに全国的な知名度を得ていました。
キングオブコントは、無名だった3人を一夜で有名にした大会というより、テレビで知られていたロバートがコントでも大きなタイトルを獲得した出来事でした。
そして馬場さん個人の仕事が大きく変わるきっかけは、お笑いとは別に長年続けていた料理の側から訪れます。
馬場裕之が料理芸人になるまで|実家のぬか漬けが仕事へ変わる
小学生から料理を続けてきた馬場さんでしたが、当初はそれを芸能活動の中心にしようとは考えていませんでした。
テレビで料理を披露するようになる入口には、子どものころから家庭にあったぬか漬けがありました。
母がやめたぬか漬けを自分で引き継ぐ
馬場さんの実家では以前から母親がぬか漬けを作っていました。
ところが母親がぬか漬けをやめることになり、馬場さんは作り方を教えてもらって、自分でもぬか床を扱うようになります。
家で食べていたものを自分で再現するという行動は、小学生時代にタバスコを自作したときとも重なります。
家族の食卓にあったぬか漬けを、芸人になった後も自分で作り続けていました。
今田耕司が明石家さんまへぬか漬けを紹介
そのぬか漬けを食べる機会があったのが今田耕司さんでした。
今田さんが馬場さんのぬか漬けを気に入り、明石家さんまさんにも紹介したことで、趣味だった料理がテレビの仕事と接触します。
さんまさんにも食べてもらうと「うまい」と評価され、料理を番組内で扱う流れが生まれました。
ネタやギャグについては自信を持てずにいた馬場さんにとって、自分が普段作っていた料理で出演者が反応してくれることは、それまでとは違う経験でした。
さんまの一言から料理をテレビで見せるようになる
馬場さんは後年、料理を仕事として見せてもよいと思えた当時の感覚を次のように語っています。
「さんまさんが笑ってくれるんだったら芸人が料理をやってもいいのかな」
ENCOUNT
その後、『さんまのSUPERからくりTV』でも料理を扱う機会が生まれ、馬場さんの「料理ができる」という一面がテレビの仕事として表へ出るようになります。
料理のキャラクターを後から作ったのではなく、門司で過ごした小学生時代から続けていたことを、芸人になって十数年後に仕事として見せる場ができた形でした。
小学生から続いた料理が現在の仕事へ
料理の仕事が増えた後も、馬場さんはロバートを離れて料理家へ転身したわけではありません。
ロバートのメンバーとして活動しながら、料理をもう一つの大きな活動軸へ育てていきました。
YouTube「馬場ごはん」で料理を発信
2020年にはYouTubeチャンネル「馬場ごはん〈ロバート〉Baba’s Kitchen」を開設しました。
動画では高価な食材や複雑な技術を前面に出すより、身近な材料を使い、家庭で試しやすい料理を数多く紹介しています。
少ない材料を組み合わせて「どうしたらもっとおいしくなるか」を試す姿は、小学生のころの料理実験と同じ方向です。
同じ2020年には、ロバート公式チャンネルで秋山さんと馬場さんの地元・北九州を題材にした「NORTH 9 RESORT MY LOVE」も公開されました。
飲食店や食に関する活動へ広がる
YouTubeだけでなく、馬場さんの料理はレシピ本、商品開発、食に関するイベントなどへ広がりました。
2022年には沖縄県宮古島で「宮古冷麺」を手がけ、2024年には東京・目黒で飲食店「マツミサカバ」を展開するなど、実際の店舗にも活動を広げています。
2023年にはASCジャパンの企画で、認証水産物を使ったサステナブル・シーフード料理も紹介しました。
料理がテレビ番組の一企画にとどまらず、食材、店、地域と関わる仕事へ少しずつ広がっていきました。
故郷・早鞆中学校跡地でこぶみかんを育てる現在
さらに料理を通じた活動は、馬場さんが育った北九州市門司区にも戻ってきています。
馬場さんは母校である旧・早鞆中学校の跡地を利用し、東南アジア料理などで使われるこぶみかんを育てるプロジェクトに取り組んでいます。
かつて自分が通った学校の跡地を見たことが、地元で新しい取り組みを始めるきっかけになりました。
「自分が通った中学校の跡地から地元に何か還元できないか?」
FANY Crowdfunding
2025年には旧早鞆中学校跡地で、地域の人たちとこぶみかんの植樹も行われました。
庭の野菜や家のぬか漬けが身近だった門司の少年時代から、食材そのものを故郷で育てるところまで活動が広がっています。
馬場裕之さんの出発点には、北九州市門司区の家庭で食べた手作りの料理と、幼稚園から隣にいた秋山竜次さんとの日々がありました。
高校卒業後、東京観光のつもりで秋山さんを訪ねたことからNSCへ入り、山本博さんを加えたロバートとして芸人人生を歩き始めます。
そして小学生のころから続けていた料理は、テレビやYouTube、飲食店へ広がり、今では再び故郷・門司で食に関わる活動へ向かっています。












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