人物プロフィール
黒いハットに黒いパンツ、勢いよく繰り出される「誇張しすぎたものまね」で知られるハリウッドザコシショウさん。
本名は中澤滋紀(なかざわ・しげき)といい、現在の芸名から受ける印象とはかなり違う名前です。
2016年には42歳で「R-1ぐらんぷり」を制し、その後は賞レースの審査員やテレビ、ライブ、YouTubeなど活動の幅を広げてきました。
ところが、芸人になろうと決めた時期はR-1優勝よりはるか昔で、本人によれば小学2年生のころには、すでに芸人になると決めていました。
小学校低学年までは内気だった少年が、教室で先生のものまねをするようになり、高校では後の相方と出会い、卒業すると静岡を離れて大阪へ向かいます。
G★MENSとして始まった芸人人生は、同期には面白がられても客にはなかなか伝わらず、コンビ活動停止後には一度お笑い以外の道まで試しました。
芸歴24年目でつかんだR-1優勝までには、20年以上にわたってネタを作り、舞台に立ち、アルバイトを続けた時間がありました。
ハリウッドザコシショウの生い立ちと家族|2歳で父を亡くし母に育てられる
ハリウッドザコシショウさんは1974年2月13日、静岡県に生まれ、高校卒業まで現在の静岡市清水区にあたる地域で過ごしました。
家では母親と暮らし、幼いころからテレビのお笑い番組を見る生活が始まっています。
2歳で父を亡くし、百貨店で働く母との生活
父親は、ザコシショウさんが2歳のころに亡くなりました。
そのため父との記憶はほとんどなく、その後は母親が一人で育てています。
母親は当時、静岡市にあった西武百貨店のネクタイ売り場で働いていました。
「俺が2歳の時に亡くなっているから。母親は我慢強い人」
東京すくすく
後に派手な芸風で知られることになる人物ですが、子どものころから人前へ出続けるタイプだったわけではありません。
幼稚園からお笑い番組を見て、小学2年で芸人を志す
お笑い番組を見るようになったのは、本人の記憶では幼稚園のころからです。
小学生になると『オレたちひょうきん族』などを見て、特にビートたけしさんに惹かれました。
たけしさんが一言発するだけで周囲が笑い、その場の空気まで変わる様子を子どもながらに強く意識していたといいます。
小学2年生になるころには、「芸人になる」という将来をすでに自分の中で決めていました。
当時はいじめられることもあったと本人は後年語っていますが、そこで人生の中心が学校内の人間関係だけになっていたわけではなく、視線の先にはすでにテレビの世界がありました。
内気だった少年が小学3年で先生のものまねを始める
現在の姿から意外なのは、小学校1、2年生ごろまでの本人が内気でおとなしい子どもだったことです。
女の子と遊ぶことも多く、自分から教室の中心へ出て笑いを取るようなタイプではありませんでした。
変化したのは小学3年生です。
「教室の前に出て、学校の先生のモノマネとかをするようになったんです」
双葉社 THE CHANGE
テレビの中の芸人に憧れるだけだった少年が、自分の周囲にいる人物を題材にして、人前で笑いを取る側へ回り始めました。
中学・高校時代|たけしから竹中直人へ、笑いの好みが固まっていく
小学校で始めたものまねは、中学生になるとテレビで見る笑いの好みにも変化が出てきます。
誰にでも分かりやすい笑いだけでなく、説明しづらいキャラクターやシュールな世界へ興味を持つようになりました。
清水二中時代に『東京イエローページ』の竹中直人へ夢中に
中学校は本人が2026年のラジオでも明かしている清水二中です。
アンタッチャブルの柴田英嗣さんも同じ中学校の2学年下でしたが、在学中に2人の交流はありませんでした。
この中学生時代に大きな影響を受けたのが、深夜番組『東京イエローページ』で見た竹中直人さんでした。
竹中さんが演じる、意味を簡単には説明できないキャラクターやシュールなコントに夢中になります。
「僕の今の芸風は、完全に竹中さんの影響です」
双葉社 THE CHANGE
小学生ではビートたけし、中学生では竹中直人という二つの異なる笑いに惹かれた時期でした。
清水工業高校で静岡茶っぱと同級生になる
中学卒業後は静岡県立清水工業高校へ進学しました。
ここで、後にG★MENSの相方となる静岡茶っぱさんと出会います。
2人は高校1年生のときに同じクラスになりました。
2025年に一夜限りでG★MENSが再結成された際、茶っぱさんは高校時代のザコシショウさんについて、大江千里さんの『おねがい天国』をものまねしていた姿を覚えていると明かしています。
茶っぱさんは、そのときのリズム感が印象に残っていたそうです。
高校3年で芸人への進路を譲らず、母が親戚へ相談
高校3年生になり、卒業後の進路を現実に決める時期がやってきても、小学2年から持ち続けてきた芸人志望は変わりませんでした。
一方、母親は簡単には賛成していません。
芸能界で生きていく難しさを考え、続かないのではないかと心配していました。
母親は親戚にも相談し、その中で本人に一度挑戦させてみてはどうかという意見が出ます。
最終的に母から大阪行きを認められ、高校卒業後に芸人を目指す進路が決まりました。
映画学校と大阪NSCを比較し、静岡を離れる決断へ
進学先として考えたのは、一つだけではありませんでした。
ウッチャンナンチャンが通った学校と、ダウンタウンを輩出した大阪NSCが候補にありました。
東京方面の学校のほうが静岡からは近かったものの、当時は学費に大きな差があり、費用面でも大阪NSCが現実的でした。
高校を卒業すると、静岡茶っぱさんとともに静岡を離れます。
1992年、2人は大阪NSC11期生として、お笑いの世界へ入っていきました。
高校卒業後に大阪NSC11期へ|G★MENSとして始まった芸人人生
大阪へ移った2人を待っていたのは、静岡で思い描いていたお笑いとは少し違う環境でした。
同期には後にテレビの第一線で活躍する芸人が何人もいましたが、G★MENSの笑いはすぐには観客へ届きませんでした。
静岡茶っぱと大阪へ行き、陣内智則・中川家・ケンコバらと同期に
大阪NSC11期の同期には、陣内智則さん、中川家、ケンドーコバヤシさんらがいました。
ザコシショウさんはもともと漫才が好きで、G★MENSでは自分がボケ、静岡茶っぱさんがツッコミを担当する形から始めています。
1993年にはG★MENSとしてデビューしました。
当時の芸名は現在の「ハリウッドザコシショウ」ではなく、ザコシショウでした。
1993年にG★MENSとしてデビュー、静岡弁が大阪で壁になる
最初の壁になったのは、ネタの内容だけではなく言葉でした。
大阪では関西弁の漫才が当たり前のように舞台へ並んでいた時代です。
静岡出身の2人が関西弁を無理に使っても自然にはならず、静岡の言葉でツッコむと客にはうまく伝わりません。
そこで通常の言葉によるツッコミから離れ、茶っぱさんが大声でわめくような形を試すようになります。
ザコシショウさんが変わったボケを繰り出し、茶っぱさんが言葉よりも勢いで返すスタイルです。
大阪で方言が壁になったことが、結果的にG★MENS独特のハイテンションでシュールな方向へつながっていきました。
芸人仲間には受けるのに客には届かない「2丁目劇場」時代
活動の中心となったのは心斎橋筋2丁目劇場でした。
ただし、G★MENSが舞台へ出れば常に観客を沸かせていたわけではありません。
竹中直人さんから影響を受けたシュールな笑いは、当時の大阪で強かった正統派漫才とはかなり方向が違いました。
客席では滑っても、同期の芸人たちはG★MENSの変わったネタを面白がりました。
「お客さんより先に、芸人仲間が受け入れてくれたんです」
双葉社 THE CHANGE
陣内智則さん、中川家、ケンドーコバヤシさんら同期との関係は、その後も長く続いていきます。
難波の部屋に同期が集まった、本人が後に振り返る大阪での長い時間
大阪時代、ザコシショウさんは静岡茶っぱさんと難波で一緒に暮らしていました。
2丁目劇場で出番を終えた同期たちが、その部屋へ毎日のように遊びに来る生活だったといいます。
麻雀をして騒ぎすぎ、保証人になっていた母親のところへ苦情が入り、母から注意されたこともありました。
舞台では売れていなくても、本人にとって同期と過ごす毎日は楽しいものでした。
その楽しさが、ネタを変えなければならないという危機感を薄くしていたとも後年振り返っています。
「東京に出るまでの10年間はなんにも進歩しなかったな」
双葉社 THE CHANGE
「自分たちがやりたい変なこと」と「客にどう伝えるか」の間にある問題に、本格的に向き合うのはもう少し先でした。
2丁目劇場閉館を機に東京へ|吉本離脱からG★MENS活動停止まで
1990年代の終わり、長く続いた大阪での生活を動かす出来事が起こります。
G★MENSが主な活動場所としていた2丁目劇場の閉館でした。
劇場再編のリーグ戦で下位となり、1999年に吉本を離れる
1999年、心斎橋筋2丁目劇場が閉館します。
新しい劇場へ移行する過程で芸人を選抜するリーグ戦が行われ、G★MENSは下位となりました。
その後、一般参加者も出るオーディション側から再び上がらなければならない立場となり、2人は別の場所で活動することを考えます。
G★MENSは吉本興業を離れ、大阪から東京へ活動拠点を移しました。
ケンドーコバヤシに引き留められながら東京へ
吉本を離れる決断をした際、同期のケンドーコバヤシさんはザコシショウさんを引き留めています。
本人は後年、吉本を辞めると電話で伝えたあと、ケンドーコバヤシさんが泣いていたと聞いたことも明かしました。
大阪でG★MENSを面白がってくれた同期との関係を残したまま、東京へ向かうことになります。
ワタナベ所属後にテレビの仕事を経験するも、再び仕事が減少
東京ではワタナベエンターテインメントにも所属しました。
大阪時代とは違い、テレビの仕事が続く時期もあり、『本能のハイキック!』にはレギュラーとして出演しています。
番組にはキングコング、おぎやはぎ、劇団ひとりさんらも出演していました。
しかし番組が終わると、ほかの番組からも次第に声がかからなくなっていきます。
2002年にG★MENSが活動停止、一人の舞台で体が震えたピン転向
2002年、静岡茶っぱさんが芸人を離れることになり、G★MENSは活動を停止しました。
高校時代から一緒だった相方がいなくなり、ザコシショウさんはピンで舞台へ立つことになります。
現在は一人で舞台を支配する姿が定着していますが、最初からピン芸が得意だったわけではありません。
一人でステージへ上がると手足が震え、言葉まで出てこなくなったと本人は話しています。
コンビ活動停止の時期には、本気で芸人そのものを辞めることまで考えました。
芸人を辞めかけたピン時代|漫画家への挑戦からSMAへ
G★MENSが止まり、ワタナベも離れたころ、芸人として先へ進む道は見えなくなっていました。
そこで一度、お笑いとは別の表現へ進もうとします。
漫画を出版社へ持ち込み、お笑い以外の道を試す
挑戦したのは漫画家でした。
芸人仲間から漫画の描き方を教えてもらい、4コマ漫画を制作して出版社へ持ち込みます。
持ち込んだ際には自分が芸人であることを伏せていました。
ところが担当者から作品を厳しく評価され、さらに4コマ漫画の「フリ」と「オチ」について説明されることになります。
長く芸人をしてきた自分がお笑いそのものを教えられる形になり、その悔しさもあって再びお笑いへ戻りました。
一度お笑いを離れようとして別の表現を試した末、結局いちばん経験を積んできたお笑いを続ける道を選びました。
芸人へ戻り、「ハリウッド」を付けてヒールへキャラクター変更
ピンになる際には、名前と見た目も変えています。
コンビ時代の「ザコシショウ」に加えたのが「ハリウッド」でした。
由来は、プロレスラーのハルク・ホーガンが悪役へ転向した際に名乗った「ハリウッド・ハルク・ホーガン」です。
自分もコンビからピンへ変わるなら、それまでと同じではなくキャラクターごと変えようと考えました。
「ガラリとヒールになりたかった」
MANTANWEB
髪型や衣装も変え、現在につながるピン芸人としての見せ方を作っていきます。
SMAのお笑い部門へ入り、もう一度ライブから始める
転機となったのが、立ち上がったばかりのソニー・ミュージックアーティスツのお笑い部門との出会いでした。
SMAのお笑い部門は2004年ごろに始まったばかりで、既存のお笑い事務所のような長い伝統や先輩後輩の体系がまだありませんでした。
ザコシショウさんは2005年からSMAに所属し、ライブを中心にもう一度ピン芸人として活動していきます。
同じ時期のSMAには、バイきんぐ、コウメ太夫ら、ほかの場所で思うようにいかなかった芸人たちも集まっていました。
一度芸人を辞めようとした時期のすぐ後に、新しくできたお笑い部門へ入ったことで、再び舞台へ立つ場所が生まれました。
バイきんぐとの「やんべえ」第1回は観客9人
SMAへ移ったころ、ザコシショウさんは自主ライブをやりたいと考え、バイきんぐへ声をかけました。
始めたユニットライブが「やんべえ」です。
会場は下北沢のファインホールで、銭湯が入った建物の2階にある小さなスペースでした。
満を持して開いた第1回に来た観客は、9人。
「1回目にしてはまずまずだと思ってた(笑)」
お笑いナタリー
一緒に当時を振り返った小峠英二さんは、現在なら9人は怖いと笑っています。
後にキングオブコント王者となるバイきんぐと、後のR-1王者が立っていたライブの出発点は、その規模でした。
『あらびき団』からR-1を狙うまで|売れる前の長いピン芸人時代
SMAで舞台へ立ちながら、ピン芸人としての形を探す時間が続きました。
そこで、テレビでザコシショウさんの芸と相性のよい場所が現れます。
2007年『あらびき団』初回から出演し、ピン芸人として名前が広がる
2007年に始まったTBS系『あらびき団』です。
ザコシショウさんは初回から出演し、その後も番組を代表する出演者の一人となりました。
コンビ時代から続けてきたシュールで説明のつきにくいネタや、プロレス、漫画、ものまねなどを混ぜた芸が番組の空気にはまりました。
ケンドーコバヤシさんと以前ユニットで行っていたアシュラマンとサンシャインの漫才を一人用に作り替え、そのネタで『あらびき団』のオーディションを通過したことも本人が明かしています。
テレビに出ても他の仕事は増えず、「伝わるネタ」を考え始める
『あらびき団』への出演で、ザコシショウという名前を知る人は増えていきました。
ただし、番組へ出ればそのまま一般的なバラエティ番組の仕事が次々に増える状態ではありませんでした。
大阪時代から抱えていた「自分の好きなことを、どうすれば客へ伝えられるのか」という問題がここでも残ります。
そこで、自分のやりたい笑いを変えるのではなく、最初に分かりやすい入口を置いてから変な方向へ持っていく形を意識するようになりました。
その考え方は、後の「誇張しすぎたものまね」にも表れます。
2009年から毎日動画を投稿、ネタを作り続ける生活へ
テレビ以外でも、かなり早い時期から自分で作品を発表する場所を作っていました。
2009年3月、自身のブログに当時用意されていた動画機能を使い、動画投稿を始めます。
サービス終了後はYouTubeへ移り、短いネタや映像を作り続けました。
「1日1個、メディアにネタを出すことが大事」
Cocotame
R-1で売れた後にYouTubeへ参入したのではなく、R-1優勝の7年前から日々ネタを作って動画として外へ出していました。
2011年に結婚後も水道検針を続けながら舞台へ
私生活では2011年に結婚しています。
ただ、結婚した時点でも芸人だけの収入で生活できる状態ではありませんでした。
売れる前に続けていた仕事の一つが、水道メーターの検針です。
妻も働き、本人もアルバイトをしながら舞台やテレビ、動画制作を続けました。
この生活は、R-1で優勝する2016年まで続いています。
「ものまね30連発」を短く磨き、誇張しすぎたものまねへ
R-1で勝つために、ザコシショウさんは自分の芸を別物へ変えたわけではありません。
得意としていた人物やキャラクターのものまねを、より短く、次々に見せていく方向へ磨いていきました。
本人は、ものまねが完全に似ていることより、少し似ている部分をつかんで大きく膨らませる方法を選んでいます。
2015年のR-1では客席の反応が良かったものの3回戦で敗退しました。
当時は白いブリーフでネタをしていましたが、周囲からネタ以外に直すところがあるなら衣装ではないかと言われ、翌年に向けて見た目も調整します。
スーツや全身タイツも考えた末、プロレスを思わせる黒いパンツを選びました。
現在おなじみの黒いパンツ姿も、長いピン芸歴の途中でR-1に向けて調整されたものでした。
2016年R-1優勝|芸歴24年目、42歳で仕事が一変
2016年、ザコシショウさんはそれまで何度も跳ね返されてきたR-1で初めて決勝へ進みます。
決勝の舞台で見せたのも、長年続けてきた人物ものまねを短く誇張したネタでした。
初の決勝で3,786人の頂点へ
「R-1ぐらんぷり2016」には、当時過去最多となる3,786人がエントリーしていました。
ザコシショウさんは決勝で勝ち上がり、その頂点に立ちます。
1992年のNSC入学から数えて芸歴24年目、42歳でR-1王者になりました。
SMA公式プロフィールでも、42歳での優勝は当時の史上最年長王者として紹介されています。
R-1公式は後年、歴代王者企画でザコシショウさん本人に優勝当時を振り返るインタビューも行っています。
決勝直前まで水道メーターを検針していた生活
R-1の決勝へ進んだ時点でも、生活のすべてが芸人の仕事へ切り替わっていたわけではありません。
優勝当時の報道でも、本人が水道検針などのアルバイトを続けていたことが伝えられています。
妻も仕事をしていました。
R-1のステージに立ったのは、長いアルバイト生活を完全に抜けた後ではなく、その生活の延長線上でした。
R-1王者になって初めて「売れた」と実感した仕事の変化
『あらびき団』で知られるようになった時期と、R-1優勝後では、本人が感じた変化にも違いがありました。
R-1を取るとテレビだけでなく営業の仕事も増えます。
以前は営業先でネタをしても客がなかなか笑わなかったのに、王者になった後は最初から「面白い人が来た」と観客が構えてくれるようになったといいます。
「そこは如実に体感があった。売れたっていうね」
日刊スポーツ
賞レースのタイトルだけでなく、客の反応や仕事量まで変わったことで、本人自身も初めて「売れた」と実感しました。
R-1後もライブと動画を続ける現在|学生時代の「冠番組」の夢まで
R-1を取ったあとも、ザコシショウさんはテレビ出演だけへ活動を寄せてはいません。
若手時代から続けてきたライブ、自分で作る動画、そして学生時代から思い描いていたテレビ番組へ活動が広がっていきます。
R-1を境にテレビで求められる場面が増えていく
R-1優勝後はバラエティ番組への出演が大きく増えました。
ただ、テレビ向けにそれまでの笑いを全面的に変えたわけではありません。
大阪時代にできていなかった「どうすれば自分の変なボケがお客さんに伝わるか」を意識しながら、誇張ものまねや短いフレーズなど、入り口を分かりやすくする形を使っています。
また、R-1王者となった後には同大会の審査員も担当するようになりました。
長く予選で敗れていた大会で、後には出場者を評価する側へ回っています。
学生時代から望んでいた冠番組を持つまで
もう一つ、昔から持ち続けていた目標が自分の冠番組でした。
学生時代には、とんねるずやウッチャンナンチャンが自分たちの名前を冠した番組で自由に企画をする姿を見ていました。
芸人になれば数年で自分もそこへ行けると思っていたものの、実際には長い時間がかかります。
2023年にはテレビ神奈川で『提供ハリウッドザコシショウ』を制作しました。
番組枠と制作費を自分で負担し、自分がやりたい内容を地上波で放送する方法を選んでいます。
2024年には、高校卒業まで過ごした静岡で『冠ザコシの冠冠大冠』もスタートしました。
本人は地元で冠番組を持つまでについて、子どものころから数えれば40年ほどかかったと話しています。
小学2年で芸人を決めた静岡へ、今度は自分の冠番組を持つ芸人として戻ることになりました。
客9人の自主ライブから、2026年も続く単独ライブツアーへ
テレビの仕事が増えても、ライブから離れてはいません。
SMAへ移ったころにはバイきんぐと開いた自主ライブへ9人しか来なかった時期がありましたが、その後は自身の単独ライブを長く継続しています。
2026年もミニ単独ライブシリーズSEASON⑰「嫌な気持ちにさせツアー」を開催し、各地の会場を回っています。
現在も本人は、ライブへ出なくなると感覚が鈍るとして、客の生の反応を見ることを重視しています。
テレビで知られるようになってからも、客の前でネタを試す場所そのものは手放していません。
2009年から続く動画制作を現在も継続
YouTubeについても同じです。
2009年に始めた動画投稿は、テレビで売れるためだけの短期的な企画ではありませんでした。
短いネタを考え、撮影し、編集して発表する作業を、自分のメディアとして続けています。
SMAの公式プロフィールでも現在まで本人のYouTube動画が継続的に紹介されており、2026年の単独ライブに関連した動画も公開されています。
小学校3年で教室の前に出て先生のものまねを始めた少年は、高校の同級生と大阪へ向かい、G★MENSの活動停止後も一人でネタを作り続けました。
芸人を辞めようとして漫画を持ち込んだ時期を経ても舞台へ戻り、客9人のライブや水道検針の仕事を続けながら、42歳でR-1の頂点に立っています。
その後もライブと動画を続け、学生時代から思い描いていた冠番組を実現した現在まで、やっていることの中心には自分でネタを作って人前へ出す時間が残っています。












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