人物プロフィール
元「和牛」の川西賢志郎さんは、M-1グランプリで3年連続準優勝を果たした漫才師として広く知られる一方、和牛解散後は一人での舞台やコント、ドラマ、執筆へ活動を広げています。
2026年になっても舞台に立ち続けていますが、現在の活動だけを見ると、年間数百回もの劇場に立って漫才を磨いていた和牛時代とはかなり違った姿に見えます。
その歩みをさかのぼると、川西さんは子どものころから大勢の前で目立っていたタイプではなく、仲の良い友人たちとふざけ合っていた東大阪の少年でした。
高校卒業後には大学へ進学したものの、お笑いへの気持ちを捨てきれず、自分でお金を貯めてNSC大阪校26期へ入り直しています。
のちの相方となる水田信二さんとはNSC同期だったにもかかわらず、養成所時代にはほとんど接点がなく、卒業後の相方探しを経てようやく出会いました。
大学からNSCへ進路を変えたこと、水田さんとの出会い、和牛として漫才を磨いた17年以上、そして解散後の現在までを時間の流れに沿って見ていきます。
川西賢志郎の生い立ちと家族|東大阪で育った子ども時代
川西賢志郎さんは1984年1月29日、大阪府東大阪市出身で、現在の吉本興業公式プロフィールにも東大阪市出身と記載されています。
東大阪はその後も川西さんとの縁が続く土地で、芸人として知られるようになってからは東大阪魅力PR大使も務めています。
実家では父親が作業服店を営んでいた
川西さんの家族について本人の言葉から具体的に確認できるエピソードの一つが、父親が営んでいた作業服店の話です。
2017年に出演した番組では、実家の作業服店の売り上げにつながればと考え、FUJIWARAの藤本敏史さんに店のCMを作ってほしいと依頼していました。
売れた後に突然地元との関係が生まれたわけではなく、家族が営む店までテレビの企画へ持ち込んでいたところにも、東大阪で育った生活がそのまま残っています。
クラスの中心ではなく、仲のいい友達とボケ合っていた
テレビで見せる落ち着いたツッコミから、子どものころも人前で笑いを取る人気者だったと想像しやすいものの、本人が語っている姿は少し違います。
NSC時代を振り返ったインタビューで、川西さんは仲の良い友達とはずっとふざけていた一方、大勢の前へ積極的に出ていくタイプではなかったと話しました。
「表立って何かをやるというタイプではなかったです。」
お笑いナタリー
「クラスの中心人物」ではなく、気心の知れた友人同士でボケ合う時間の中に笑いがあったというのが、川西さん自身が振り返る少年時代です。
池島小学校と地元の祭りに残る子ども時代の記憶
2021年に水田さんとの共著として出版された『和牛の一歩ずつ、一歩ずつ。』では、川西さんの文章に「池島小学校」や「故郷の祭り」といった題材が登場します。
吉本興業の公式プロフィールにも特技として「地元の祭りの青年団ものまね」と記されており、地元の祭りは大人になってからも記憶に残り続けている存在です。
後年、全国区の芸人になってからも東大阪のPR活動やラグビー関連の仕事へ戻ってくることになりますが、その前には地元で学校生活を送り、友人たちとふざけながら過ごした時間がありました。
学生時代|ラグビーを続けながらお笑いが進路に入ってくる
小学校時代を経て中学、高校へ進むと、川西さんの学生生活にはラグビーと、のちに進路そのものを変えることになるお笑いが入ってきます。
ただし、このころから一直線にプロの漫才師を目指していたわけではありません。
高校ではラグビー部へ、東大阪で過ごした学生生活
川西さんは大阪府立清水谷高校へ進み、高校時代にはラグビー部で活動していました。
東大阪市も魅力PR大使として川西さんを紹介する際、高校時代にラグビー部へ所属していたことを紹介しており、現在の公式プロフィールでもラグビーは趣味の一つに挙げられています。
芸人になった後もラグビーに関するイベントへ出演しているため、高校時代に取り組んだ競技は仕事とは別のところで途切れずに続きました。
幼なじみと「大学に落ちたらNSCへ」と話していた
高校卒業が近づくころ、川西さんの進路に初めて具体的な形で「芸人」が現れます。
川西さんには幼なじみがおり、2人は受験について話す中で、大学に落ちたら一緒にNSCへ行こうという話をしていました。
この時点では、すべてを捨ててお笑い一本に決めていたというより、大学受験という現実的な進路の横にNSCという選択肢が置かれていた状態でした。
大学には合格、お笑いの話はいったん白紙になった
受験の結果、川西さんは大学に合格し、幼なじみは音楽系の専門学校へ進むことになります。
龍谷大学の公式サイトにも後年、川西さんを「元龍谷大学学生」として紹介した記録があり、実際に大学生活へ進んだことが確認できます。
「2人でNSCへ」という計画はここでいったん消え、川西さんは大学生として生活を始めました。
ところが、この大学進学がそのまま卒業や就職へつながることはありませんでした。
大学1年で進路変更|アルバイトで資金を貯めNSC大阪26期へ
大学へ進んでからの1年間は、川西さんの人生で最初の大きな進路変更が起きた時期です。
友人と一緒に行くはずだったNSCではなく、最終的には自分一人でお笑いの世界へ向かうことになります。
大学生活が始まっても消えなかった「お笑いをやりたい」気持ち
大学へ入った川西さんは、そのまま学生生活へなじんでいくのではなく、しばらくすると改めて「お笑いをやりたい」と考えるようになりました。
NSCへ進まなかった理由はお笑いへの興味がなくなったからではなく、一緒に行く予定だった友人との進路が分かれたことによって計画が一度止まったためです。
大学という別の道へ実際に入ったことで、逆に自分が進みたい方向がはっきりしていきました。
ほとんど大学へ行かず、1年間アルバイトをしてNSC資金を貯める
芸人になると決めてすぐ養成所へ飛び込んだわけではなく、川西さんは大学へほとんど通わなくなった時期にアルバイトを続け、NSCへ入るためのお金を貯めました。
「1年間ほぼバイトに費やして、お金を貯めて1人でNSCに入りました。」
お笑いナタリー
幼なじみに付いていったのではなく、大学へ一度進んだあと、自分で資金を用意して一人でNSCへ入ったというところが、川西さんが芸人になった直接の経緯です。
NSC26期へ一人で入学、かまいたち・天竺鼠・BKBらと同期に
川西さんが入ったのはNSC大阪校26期で、同期にはかまいたち、天竺鼠、藤崎マーケット、アキナの山名文和さん、アインシュタインの河井ゆずるさん、バイク川崎バイクさんらがいました。
後にテレビや賞レースで名前を知られる芸人が多く、26期は華やかな世代として語られることもありますが、入学当時の川西さんが同期の中心にいたわけではありません。
同期が集まっていた通称「天竺ハウス」の思い出を語った座談会では、水田さんと川西さんは当時その輪にほとんど入っておらず、川西さんは水田さんについて「面識もない」ほどだったと振り返っています。
人見知りだった川西賢志郎がお笑いを通して人と話すようになる
川西さん自身はNSCに入ったころの自分について人見知りだったと話しており、知らない人ばかりの養成所で最初から器用に人脈を広げたタイプではありませんでした。
一方で、ネタや相方探しという共通の目的ができたことで、人と話すための入口がお笑いになっていきます。
人前へ出るのが得意だったから芸人になったのではなく、お笑いという目的があったことで人と関われるようになったという順番でした。
NSC卒業後から和牛結成へ|水田信二とは同期なのに面識がなかった
NSC大阪26期という共通点を持つ川西さんと水田さんですが、養成所を卒業した時点で現在知られる「和牛」ができていたわけではありません。
2人が同じコンビへたどり着くまでには、それぞれ別の相方と活動した時期と、相方を探していた時間がありました。
コンビ解散後、なかなか相方が見つからなかった時期
NSC卒業後の川西さんは一度コンビを組んだものの、そのコンビは解散し、新しい相方を探すことになります。
当時の様子を具体的に覚えているのが、NSC同期のバイク川崎バイクさんです。
「解散してしまって相方探したいけど、なかなか見つからへん」
文春オンライン
現在の和牛から振り返ると水田さんと組むことが最初から決まっていたようにも見えますが、川西さんには相方が定まらない期間がありました。
BKBのライブへ足を運んでいた川西賢志郎
BKBさんは相方を探していた川西さんに、自分が出演していたインディーズライブを見に来ないかと声をかけました。
川西さんは誘いを受けて手売りのチケットを買い、実際にライブ会場へ足を運んでいます。
華やかな賞レースの舞台へ進むよりずっと前、小さなライブを見ながら次に組む相手を探していた時期がありました。
BKBが水田信二を紹介、なんばの家電量販店前で初対面
その後、今度は水田さんからBKBさんへ「誰か相方はいないか」という相談がありました。
BKBさんが思い浮かべたのが、以前から相方を探していると相談していた川西さんでした。
紹介を受けた2人は、大阪・なんばのビックカメラ前で待ち合わせをして顔を合わせます。
NSCの同期として入学しながらほとんど知らない者同士だった2人が、卒業後にBKBさんを介してようやく出会ったことになります。
和牛の始まりには、同じ養成所の教室ではなく、同期芸人による相方探しの仲介がありました。
2006年に和牛を結成、現在につながる漫才が始まる
川西さんと水田さんは2006年に和牛を結成し、ここから長いコンビ活動へ入ります。
川西さんがツッコミ、水田さんがボケという形が知られるようになりますが、結成した瞬間から後年の完成された漫才ができていたわけではありません。
2人は大阪の劇場でネタを重ねながら、自分たちに合う会話の形を長い時間をかけて探していきました。
和牛の若手時代|劇場で「自分たちの漫才」を探した日々
和牛の漫才は後に、日常の会話から少しずつズレていく水田さんの理屈と、それを受け止めながら修正していく川西さんのツッコミが特徴として知られるようになります。
しかし若手時代には、その形へたどり着くまで試行錯誤が続きました。
baseよしもとを拠点に活動、同期が先へ進む中で漫才を続ける
結成後の和牛は大阪の劇場やライブを中心に舞台経験を積み、若手芸人がしのぎを削っていたbaseよしもとの時代も通っていきます。
NSC26期にはかまいたちや天竺鼠など早い段階から注目を集める同期もいましたが、和牛が全国区で知られるまでにはその後も長い時間が必要でした。
賞レースへ挑みながら劇場で漫才を続け、自分たちにしかできない会話を探すことが若手時代の大きな仕事になっていきます。
一字一句まで細かく作った初期の漫才
和牛のネタ作りでは水田さんが台本を作り、初期には「てにをは」に至るまで川西さんへ台本通りに言ってほしいと求めるほど細部を決めていた時期がありました。
川西さんも最初はその形に合わせていましたが、舞台経験を積むにつれ、自分の言葉でツッコミを入れたほうが自然になる部分も生まれていきます。
水田さんが組み立てた世界と、川西さんが舞台上で発する言葉が少しずつ混ざり、台本を読むだけではない和牛の会話になっていきました。
水田信二の理屈っぽさを笑いに変え「和牛らしい漫才」へ
なかなか結果が出ない時期、川西さんが面白いと感じたのが、舞台の外で同期と話している水田さんの姿でした。
水田さんが正論を使いながら相手を理屈で追い込んでいく様子を見て、その本人らしさをネタへ入れればいいのではないかと考えます。
日常にある水田さんの理屈っぽさを、そのまま漫才の人物像として生かす方向へ進んだことで、後に知られる「へりくつ漫才」の形が見えてきました。
川西さん自身も、2人らしい会話や漫才のキャラクターを見つけるまでには苦労したと振り返っています。
2009年の新人賞から2014年NHK上方漫才コンテスト初優勝へ
和牛は2009年と2010年にABCお笑い新人グランプリ新人賞を受賞し、少しずつ賞レースでも名前を残すようになりました。
そして2014年、第44回NHK上方漫才コンテストで優勝します。
「漫才で一等賞を獲ったことがなかった」
ORICON NEWS
結成からすでに数年が経っており、漫才そのもので初めて大きなタイトルを取った2014年は、その後M-1へ進む前の重要な節目になりました。
M-1で全国へ|初決勝から3年連続準優勝まで
2015年にM-1グランプリが復活すると、和牛は決勝常連のコンビとして全国から注目を集めるようになります。
ただし、テレビで名前が広がった後も、2人の活動の中心から劇場が消えることはありませんでした。
2015年にM-1初決勝、翌2016年は準優勝
和牛は2015年のM-1グランプリで初めて決勝へ進み、最終順位は6位でした。
翌2016年には最終決戦まで進み、銀シャリに次ぐ準優勝となります。
大阪の劇場で長く漫才を続けてきた2人の名前が、一気に全国の視聴者へ届くようになった時期です。
2017・2018年も準優勝、それでも漫才の作り方を変え続けた
2017年、2018年も和牛はM-1で準優勝し、3年連続2位という結果になりました。
2018年はファーストラウンドで656点を獲得し、最終決戦では霜降り明星と優勝を争っています。
M-1で結果を残した後も、完成した一本を使い続けるのではなく、新しい漫才を舞台へかけ続けていました。
2019年も決勝へ進んで4位となり、2015年から5年連続でM-1決勝の舞台に立っています。
月1回の新ネタライブと年間500ステージ
和牛は月に1回の新ネタライブを行い、そのたびに新しい漫才を作る時期がありました。
開演の2〜3時間前になってもネタが6割ほどしかできておらず、実際の舞台で客の反応を受けながら肉付けすることもあったと2人は語っています。
テレビやラジオの仕事が増えた後も、2021年の『情熱大陸』では年間約500ステージに立つ姿が紹介されました。
本番前にはその日の客層を確認し、複数のネタからどれを出すか考え、舞台が終わればすぐ内容を振り返るという日々が続いていました。
M-1で全国に知られた後も、和牛にとって漫才を作る場所はテレビではなく劇場にあり続けました。
仕事は一気にではなく徐々に増え、全国区のコンビへ
M-1で準優勝した翌日からすべてが変わったという単純な流れでもありません。
川西さんは2018年のインタビューで、仕事量が大きく増えた時期について、東京での活動が本格化した2017年半ばごろを挙げています。
「お仕事の量がパッと増えたのは、東京に移った2017年半ばですね。」
WEBザテレビジョン
水田さんも仕事は徐々に増えていったという趣旨で話しており、賞レースの一夜だけで売れたのではなく、M-1への連続出場と劇場での評価が重なりながら仕事が広がったと見るほうが実際の流れに合っています。
舞台を突き詰めた先で和牛は解散へ
M-1への挑戦を終えた後も、和牛は舞台に立ち続けました。
一方で、2人が漫才へ向き合う方法には少しずつ違いが生まれ、その差が最終的にコンビを続けるかどうかという問題へつながっていきます。
舞台をもっと重視したい思いと、2人の漫才への姿勢の違い
2023年12月に和牛の解散が発表された際、川西さんは数年前からより舞台に力を入れたいという思いが強くなっていたことを自ら説明しました。
その中で、水田さんの劇場出番への遅刻が続いたことをきっかけとして、漫才への取り組み方について自分との違いを感じるようになったことも明かしています。
ここで重要なのは、外部から語られた不仲説ではなく、川西さん本人が「漫才への姿勢の違い」として説明したことです。
年間数百回の舞台へ立ち、新ネタを繰り返し作ってきた川西さんにとって、劇場と漫才にどのように向き合うかはコンビ活動の根本に関わる部分でした。
2023年に解散を決め、2024年3月末で17年以上の活動に区切り
和牛の解散が公に発表されたのは2023年12月ですが、川西さんは後のインタビューで、解散自体は2023年5月に決まっていたと明かしています。
発表後も残っていた仕事を行い、和牛は2024年3月末をもって正式に解散しました。
2006年の結成から17年以上続いたコンビ活動はここで終了し、川西さんと水田さんはそれぞれ吉本興業に所属したまま個人で活動することになります。
「今後も芸人活動は続けてまいります。」
ORICON NEWS
和牛を解散することと、川西賢志郎が芸人を辞めることは最初から別の話でした。
漫才師としての時間を一冊の本に残した理由
解散後の2025年2月、川西さんは自伝的エッセイ『はじまりと おわりと はじまりと ―まだ見ぬままになった弟子へ―』を出版しました。
本ではM-1、年間500ステージに及んだ舞台、漫才への考え方、和牛が終わった後の時間までを自分の言葉で振り返っています。
解散が決まった後、17年以上続けた漫才の時間を文章として整理することは、次に何をするのかを考える作業の一つにもなりました。
川西賢志郎の現在|漫才を終え、一人の芸人として新しい舞台へ
和牛解散後の川西さんを見ると、「テレビで見かける回数が減った」と感じる人がいる一方で、実際には活動そのものを止めたわけではありません。
2026年現在は、一人でのトークライブ、コント、ドラマなど、和牛時代とは違う形で芸人としての活動を続けています。
一人で始めたワンマントークショー
2025年には解散後初となるワンマントークショーを行い、一人で舞台へ立つ活動を本格的に始めました。
2026年には「What’s in the Box?」と題したワンマントークショーを東京、大阪、石川、愛知、北海道、福岡の6都市で開催しています。
相方との掛け合いによって作っていた漫才とは異なり、一人で長い時間を担う舞台では、自分自身の経験や日常から話を組み立てる必要があります。
解散後も「舞台に立って笑いを作る」という部分は変えず、漫才とは別の方法を探しています。
コントで培った表現をドラマ・俳優活動へ
和牛時代から川西さんはNHKのコント番組『LIFE!~人生に捧げるコント~』へ参加しており、2020年2月から『LIFE!』のメンバーとしてコントにも取り組んできました。
『LIFE! ON STAGE』の公式プロフィールでは、メンバー唯一の漫才出身者として紹介され、ツッコミを生かしながらさまざまな役を演じています。
さらにドラマにも出演し、2026年には日本テレビ系『ファーストクライ 母子救命救急班』で磯崎修一役を演じました。
漫才の中でも川西さんは長年、会話の間や感情の変化、相手へのリアクションを細かく調整してきたため、演じる仕事へ移ってもまったく別世界から始めたわけではありません。
英国で海外コメディに触れ、舞台で新しい芸を探す
2025年には仕事を一時的に休み、約2か月間イギリスへ語学留学しています。
目的の一つには海外のコメディを自分で理解して見たいという思いがあり、現地の語学学校へ通いながらコメディの舞台を見て、人とも交流しました。
そこで経験した出来事は帰国後の一人ライブでも題材となり、17年間続けた漫才の型から離れた後、新しく話せるものを自分で増やす時間になっています。
若手時代に大阪の小さなライブや劇場で漫才を試していたころとは方法が違っても、舞台へ出して反応を確かめ、次へ直す作業は続いています。
2026年現在も「芸人」として舞台に立ち続けている
川西さんは2026年3月、漫才については自分の中で区切りを付けていると話しています。
それは再び別の相方を探して漫才を始めることを現在の目標にしている、という状態ではありません。
「新しく、別の芸を磨いて行こうと思っています」
スポニチアネックス
和牛を解散して漫才に区切りを付けても、「芸人」という仕事から離れたわけではありません。
2026年には6都市で一人のトークショーを行い、『LIFE! ON STAGE』でコントの舞台に立ち、ドラマにも出演するなど、活動する場所そのものが増えています。
東大阪で仲の良い友人とふざけていた少年は、大学へ進んだあと自分で進路を選び直し、NSCで相方を探しながら水田信二さんと出会いました。
和牛として17年以上かけて漫才を磨いた時間に区切りを付けた現在は、一人の芸人として、もう一度新しい舞台の形を作るところから始めています。
大学を離れて一人でNSCへ向かったころと同じように、決まった次の形が先にあったのではなく、新しい場所へ実際に出ながら次の芸を探しているのが現在の川西賢志郎さんです。












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