人物プロフィール
テレビの司会席に座り、ゲストの言葉を拾って次々と笑いへ変えていく明石家さんまさん。
長く「しゃべり」の人として知られていますが、芸人人生の出発点は、テレビの司会者でも漫才師でもなく、笑福亭松之助さんに弟子入りした落語家でした。
しかも、高校生だった杉本高文少年が芸人を職業として考える大きなきっかけになったのは、授業中に教師から突然かけられた「お前吉本行け」という一言でした。
そこから松之助さんへの弟子入り、一度修業を離れて暮らした東京・小岩での半年間、落語から形態模写や漫談への変化を経て、やがて『オレたちひょうきん族』で全国へ知られていきます。
明石家さんまの生い立ちと家族|和歌山に生まれ奈良で育った少年時代
現在の公式プロフィールでは出身地を和歌山県としていますが、幼いころからの生活の舞台は奈良でした。
さんまさんの少年時代をたどると、家族の中で笑いが自分の居場所になっていく過程が見えてきます。
和歌山・古座町で生まれ、生後半年ほどで奈良へ
本名は杉本高文さんで、1955年7月1日、和歌山県東牟婁郡古座町、現在の串本町で杉本家の次男として生まれました。
生後半年ほどで一家は奈良県奈良市へ移り、父と母はサンマなどの干物を扱う水産加工業を営みながら家族を支えていました。
「和歌山県出身」と「奈良育ち」の両方が語られるのはこのためで、出生地と、その後長く育った場所が異なります。
2歳10か月で実母と死別し、父の再婚後は兄・弟と暮らす
高文少年が2歳10か月のとき、実母が亡くなりました。
まだ幼かったため母親の顔そのものの記憶はほとんど残っておらず、葬儀のころに飼い犬にかまれてできた腕の傷が、母親の時代と結びついた記憶として残ったと後年語っています。
「顔も覚えてないからね。母の思い出は、この傷だけやねん」
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その後、父が再婚し、高文少年は4歳上の兄と8歳下の弟がいる家庭で育ちました。
近所の野山を走り回り、昆虫を捕まえたり、ベーゴマやメンコで遊んだりする一方、家族の中では兄や幼い弟へ関心が集まることを強く意識していた時期もあったとされています。
親戚をものまねで笑わせた10歳ごろ、笑いが特別なものになる
転機になったのは10歳ごろでした。
夏休みに和歌山の親戚宅へ行った際、有名人のものまねを披露すると周囲が大笑いし、自分へ一気に視線が集まりました。
兄よりも自分が注目されたことがうれしく、その後は親戚や家族を笑わせることへますます夢中になっていきます。
小学4年生ごろには同級生とコンビを組み、自分たちで考えた漫才を友人の誕生日会などで披露したという記録もあります。
「面白いことをすると、自分へ人が集まってくる」ことを子どものころから実体験していたのが、さんまさんのお笑いとの最初の接点でした。
東大寺のそばの小学校|鹿が教室へ入ってくる奈良の日常
奈良での少年時代を物語る、さんまさんらしい記憶も残っています。
2026年の『MBSヤングタウン土曜日』では、通っていた小学校が東大寺の近くにあり、授業中に鹿が教室へ入ってきたことを振り返りました。
鹿が教科書を食べ始めても乱暴には追い払えず、教師も子どもたちも少しずつ外へ誘導していたそうです。
自宅のインターホン付近にまで鹿が現れたことがあったといい、奈良公園周辺で育った少年にとって、鹿がそばにいる景色は特別なものではありませんでした。
三笠中学校から奈良商業高校へ|人前で笑いを取っていた学生時代
小学生のころに人を笑わせる楽しさを知った高文少年は、中学、高校へ進むにつれて学校でも存在感を強めていきました。
ただ、この時点では芸能活動を始めていたわけではなく、部活動や友人との時間を楽しむ普通の学生生活の中に笑いがありました。
親友3人で作った「基本部」、大会もないのに練習を続ける
奈良市立三笠中学校では、複数の部活動を経験しています。
テニス部では強豪校を破ったあとに辞めたという本人談があり、教師の勧めで短期間所属した相撲部では奈良市の大会で個人2位になったことも後年明かしています。
なかでも本人が楽しそうに振り返っているのが、親友2人と活動した「基本部」です。
特定の競技をするのではなく、腕立て伏せなどスポーツの基本練習を続ける部で、出場する大会さえありませんでした。
大雨でほかの生徒が帰る日にも3人で廊下を使って練習し、教師から帰るよう注意されたことまで、2024年に母校を訪れた際に親友たちと笑いながら振り返っています。
奈良商業高校ではサッカー部、教室では毎日のように人を笑わせる
中学卒業後は奈良県立奈良商業高校へ進学し、サッカー部に入りました。
さんまさんは現在までサッカー好きを公言していますが、その付き合いは芸能界へ入る前から続いています。
一方、教室での役割はすでにはっきりしていました。
本人によれば、高校では毎日のように教室で同級生を笑わせていたといいます。
2024年には「何歳に戻りたいか」と聞かれて17歳と答え、当時はサッカーをし、文化祭では独演会も開いていた高校生活を振り返っています。
文化祭で約2時間の独演会|高校教師から「お前吉本行け!」
高校時代には文化祭で約2時間もの独演会を任されるまでになりました。
まだ芸人ではない高校生が、同級生を相手に長時間ひとりでしゃべり続けていたことになります。
そして高校2年生の英語の授業中、坂本先生という教師が突然授業を止めました。
「杉本、お前吉本行け!」
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さんまさんは後年、この一言を聞いて「あ、お笑いか」と初めて職業として意識し、高校在学中にお笑いの道へ進むことを決めたと語っています。
高校生で笑福亭松之助と出会い、落語家になると決める
教師から吉本入りを勧められても、入ればすぐ芸人になれる時代ではありませんでした。
当時は師匠へ直接弟子入りし、身の回りの世話をしながら芸を学ぶルートが一般的で、さんまさんも自分が弟子入りする相手を探していきます。
松之助の芸だけは素直に笑えた高校時代
高校時代の高文少年は、関西の寄席や劇場へ足を運ぶ中で二代目笑福亭松之助さんの高座を見ました。
古典落語だけに収まらず、新作落語やコント、テレビにも活動を広げていた松之助さんの芸に強く惹かれます。
「憧れたのは、うちの師匠、笑福亭松之助だけです」
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多くの人気芸人の中から有名な師匠を選んだのではなく、実際に舞台を見て、自分が強く反応した人物のもとへ向かいました。
京都花月の楽屋口で直接「弟子にしてほしい」と申し出る
1973年秋、高校3年生だった高文少年は、松之助さんが出演していた京都花月へ向かいます。
劇場の裏で待ち、やって来た本人へ直接声をかけて弟子入りを申し出ました。
松之助さんは後年、後ろから高校生に呼び止められ、「弟子になりたい」と言われた当時の場面を証言しています。
なぜ自分なのかと尋ねられた高文少年は、松之助さんには「センスがある」という意味の答えを返しました。
弟子入りを頼む高校生が師匠を評価するような言い方になり、松之助さんはその返答にも笑ったと伝えられています。
父は猛反対、親族会議を経て1974年に弟子入り
問題は家族でした。
父親は、高校卒業後は家業へ入るものと考えていたため、落語家になるという息子の進路に強く反対しました。
その後は親戚も集まる話し合いになり、親戚たちは高文少年ならやれるのではないかと背中を押したと、さんまさん本人が後年語っています。
こうして1974年2月、高校卒業を目前にして二代目笑福亭松之助への本格的な弟子修業が始まりました。
吉本興業の公式プロフィールでも、芸歴の起点は「1974年 入門 二代目 笑福亭松之助」とされています。
「笑福亭さんま」の名前と落語家として始まった芸人人生
最初に与えられた芸名は「笑福亭さんま」でした。
「さんま」は、実家がサンマを扱う水産加工業だったことにちなんだ名前です。
まだNSCが開校する以前の時代で、同期とされる芸人たちもそれぞれ別の師匠へ弟子入りしていました。
同じ1974年に芸人の世界へ入った人物には、島田紳助さんやオール巨人さんらがおり、後に長い付き合いとなります。
19歳で東京へ|修業を離れた半年間と大阪への帰還
弟子入りした後、そのまま一直線に落語家として歩んだわけではありません。
修業を始めてまだ若かった時期に、さんまさんは一度、師匠のもとを離れています。
交際女性と東京・小岩へ行き、パチンコや喫茶店で生活
19歳のころ、当時交際していた女性と大阪を離れ、東京・小岩で半年ほど暮らしました。
芸人として東京で仕事を得ようと演芸場にも足を運びましたが、大阪に師匠がいることなどから簡単には舞台へ上がれませんでした。
生活費は一時期パチンコで稼ぎ、その後は小岩の喫茶店「ホープ」でウェイターとして働きます。
その店では閉店時間になると、さんまさんが大阪弁で面白い話を交えながら客へ案内するようになり、その閉店前のしゃべりを聞くために客が残るようになったと本人が2025年に振り返っています。
店内の2階席まで客が入るようになり、時給も上がり、最後にはホール主任を任されたそうです。
正式な芸人の仕事ではありませんでしたが、人前でしゃべると人が集まるという現象は、この小岩の喫茶店でも起きていました。
大阪へ戻ったさんまを松之助が再び受け入れる
東京で芸人としての道を開くことはできず、交際相手とも別れ、さんまさんは大阪へ戻りました。
一度修業を放り出した弟子ですから、破門されても不思議ではありませんでした。
ところが松之助さんは戻ってきた弟子を受け入れ、芸人として再び歩ける場所を用意しました。
一度芸の道を離れた19歳の青年は、ここからもう一度大阪で芸人を始めます。
「笑福亭」から「明石家」へ|テレビへ向かう再出発
再出発したさんまさんは、やがて「笑福亭」ではなく「明石家」を名乗るようになります。
松之助さんの本名は明石徳三で、師匠がその「明石」から新しい亭号を与えました。
当時は「笑福亭」を名乗りながら落語をせず、テレビやラジオへ出ることに周囲から厳しい目を向けられることもあったと、さんまさん自身が説明しています。
「お前がテレビとか劇場で漫談をするってなったら笑福亭は邪魔になるから明石家にせぇ」
スポニチアネックス
師匠は弟子を落語だけに縛らず、テレビや漫談へ進みやすい名前を渡しました。
若手時代の明石家さんま|落語から形態模写としゃべりへ
大阪へ戻った後のさんまさんは、花月の舞台に立ちながら、自分がどの芸で生きるのかを探していきます。
落語、漫才、漫談、ものまねを試す中で、少しずつ現在まで続くスタイルが形になっていきました。
1976年『11PM』テレビ初出演、師匠に勧められた赤いスーツ
大きな出来事の一つが、1976年1月の『11PM』への出演です。
若い上方落語家が出演する企画でしたが、松之助さんは弟子に着物ではなく真っ赤なスーツを着て行くよう勧めました。
周囲が落語家らしい服装をする中で赤いスーツ姿のさんまさんはしゃべり続け、司会の藤本義一さんから番組内で注意されるほど目立ちます。
一方で横山やすしさんには気に入られ、テレビの現場で存在を残すことになりました。
松之助さんは後年、このテレビ出演を家で応援しながら見ていたことを振り返っています。
小林繁の形態模写を桂三枝が見つける
当時の吉本興業は漫才が強く、ピンで活動していたさんまさんも、兄弟子の明石家小禄さんと短期間漫才をしたことがあります。
それでも本人が強みを見つけたのは別のところでした。
1976年、『爆笑三段跳び!』の前説を担当した際、司会の笑福亭仁鶴さんの到着が遅れ、長時間客席をつなぐことになります。
用意していた話を使い切ったさんまさんは、高校時代にもやっていたプロ野球選手の形態模写を始め、最後に巨人の投手だった小林繁さんの投球フォームを披露しました。
この形態模写が客席に受け、さんまさん自身もピンでやっていく手応えを強めていきます。
当時『MBSヤングタウン』などで大きな人気を得ていた桂三枝さん、現在の桂文枝さんも、後年なんば花月で小林繁のものまねをしていたころから「面白い」と感じていたと振り返っています。
同じアパートの芸人仲間と過ごし、600円にも困った時代
テレビへ出始めても、すぐに生活が豊かになったわけではありません。
若手時代にはオール阪神・巨人と同じアパートの別の階で暮らしていた時期がありました。
オール阪神さんによれば、さんまさんが毎日放送の千里丘の施設へ行かなければならない日に交通費がなく、阪神さんが持っていた600円を借りようとしたこともあったそうです。
阪神さんも同じ場所へ向かう予定だったため、さんまさんが先に600円を借りて移動し、到着後に桂三枝さんからお金を借り、それで後から来る阪神さんのタクシー代を払うという話になりました。
後に全国で冠番組を持つ人たちが、交通費を工面しながら同じ現場へ通っていた時代です。
短期の漫才・ユニットを経てピン芸人として方向を定める
1976年から1977年ごろには小禄さんとの漫才のほか、「アトム・スリム」や「ビールス7」など、現在ではあまり知られていない組み合わせも経験しています。
ただし、固定コンビの漫才師として長く進んだわけではありません。
花月の舞台、形態模写、漫談、テレビの前説などを経験する中で、一人でしゃべりながら周囲を巻き込む方向へ活動の軸が固まっていきました。
『ヤングおー!おー!』と『MBSヤングタウン』で人気が広がる
1970年代後半になると、舞台で名前を知られ始めたさんまさんが、テレビとラジオの若者向け番組へ進出していきます。
この時期に重要な存在となったのが、桂三枝さんでした。
1977年『ヤングおー!おー!』へ、花月の若手からテレビへ
1977年、さんまさんは念願だった毎日放送の『ヤングおー!おー!』へ出演します。
花月の楽屋や舞台だけで知られていた若手が、若者向けテレビ番組でまとまった露出を得るようになりました。
漫才ブームが本格化する少し前で、さんまさん自身も漫才師ではなくピン芸人としてどこへ向かうかを模索していた時期です。
1978年『MBSヤングタウン』で「しゃべり」が大きな武器になる
翌1978年には『MBSヤングタウン』へ進みました。
桂三枝さんは後年、さんまさんを番組へ推薦したことを振り返っています。
「レギュラーにはなれないなと思っていたら次の週からレギュラー」
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これは、三枝さんから推薦されたさんまさん自身が、当時を振り返って語った言葉です。
完成した落語や漫才だけではなく、出演者同士でやり取りしながら瞬間的に笑いを作るラジオは、さんまさんのしゃべりが長く生きる場所になっていきました。
1979年には冠番組と単独ライブ、落語から距離を置く
1979年には初の冠番組や単独ライブを経験し、ニッポン放送の『オールナイトニッポン』にも進出しました。
テレビ、ラジオ、舞台の仕事が急速に増える中で、活動の中心は落語から漫談やフリートークへ移っていきます。
1980年の漫才ブームではコンビ芸人が全国的な人気を集めましたが、さんまさんはその中でピン芸人として仕事を広げていきました。
落語家として入門した青年が、数年かけて「しゃべり」を中心とする明石家さんまへ変わっていった時期でした。
1981年『オレたちひょうきん族』へ|全国区になるまで
1980年までに関西では大きな人気を得ていましたが、全国区の存在へ変わるうえで外せないのが『オレたちひょうきん族』です。
ただ、番組が始まった瞬間に無名の芸人が突然売れたわけではなく、それまで数年間にわたってテレビとラジオで積み上げたうえに、新しい役が重なりました。
漫才ブームの中で、ピン芸人として東京へ進出
1980年前後には『ヤングおー!おー!』や『MBSヤングタウン』で中心的な存在になり、東京でも『笑ってる場合ですよ!』などへの出演が増えていました。
漫才コンビが次々とスターになる中、さんまさんは漫才ブームそのものへ乗るのではなく、ピンのタレントとして東京で仕事を増やします。
1981年の『ひょうきん族』で東京での存在感が大きく変わる
1981年5月、『オレたちひょうきん族』がまず特番として始まり、秋からレギュラー番組になりました。
ビートたけしさん、島田紳助さん、西川のりおさんらが出演する中、さんまさんも番組に参加します。
新潮社の『明石家さんまヒストリー』では、1955年から1981年までを描いた第1巻の終盤を、この番組の開始と東京進出に置いています。
関西で人気を得ていた明石家さんまが、全国の視聴者へ一気に届く場所ができました。
高田純次の代役からブラックデビルへ
『ひょうきん族』を代表するさんまさんの役の一つが、ビートたけしさん演じるタケちゃんマンの敵「ブラックデビル」です。
もともとブラックデビルを演じていたのは高田純次さんでした。
ところが高田さんがおたふく風邪で収録を休むことになり、現場にいたさんまさんへ急きょ代役が回ってきます。
本人は2025年にも、制作スタッフから1日だけ頼まれて代役を務めたところ反応が良く、その後も続けることになったと振り返っています。
テレビプロデューサーの三宅恵介さんによれば、さんまさんは初登場前にブラックデビルの鳴き声を何種類も録音し、どれがいいかスタッフへ意見を求めていたそうです。
偶然回ってきた役にも、細かな準備をして収録へ入っていました。
1983年、人気上昇期に起きた弟との別れ
全国で仕事が増えていた1983年4月、奈良の実家で大きな出来事が起きました。
水産加工工場を兼ねた実家が火災で全焼し、当時19歳だった弟が亡くなりました。
これは後年作られた噂ではなく、1983年4月3日付のデイリースポーツ紙面にも当時の火災として記録されています。
幼いころ、兄や弟へ集まる家族の視線を意識しながら笑いを覚えたさんまさんにとって、家族の出来事は芸能界へ入る前から続く人生の一部でした。
漫談から「雑談」へ|トーク中心の明石家さんまが形になる
『ひょうきん族』で全国へ知られたあとも、さんまさんは花月の舞台へ立ち、漫談を続けていました。
一方、そのころ芸人仲間やスタッフが特に面白がっていたのは、本番用に作られたネタだけではありませんでした。
楽屋での雑談を番組スタッフが評価した理由
若手時代からさんまさんは、花月の楽屋でも島田紳助さんやオール巨人さんらと延々としゃべっていました。
テレビのカメラが回っていない場所で繰り広げられる恋愛話、失敗談、仲間同士の話まで、周囲を巻き込んで笑いへ変えていたと同時代の関係者が証言しています。
師匠の松之助さんからも、さんまさんはこんな言葉を聞いていました。
「さんま、雑談を芸に出来たらすごいぞ」
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完成されたネタだけを見せるのではなく、出演者同士の会話そのものを笑いにしていくスタイルが、1980年代に入って強く表へ出ていきます。
『ひょうきん族』でさんまさんと仕事をした三宅恵介さんも、初対面のころから、その場の空気を読んで返すボケや笑いへの熱心さが印象に残っていたと語っています。
『さんまのまんま』で一対一のトークが番組になる
1985年には『さんまのまんま』がスタートします。
ゲストを迎えて会話を広げる形式は、さんまさんが若手時代から続けてきた「人としゃべり、その場で笑いを作る」仕事とよく重なります。
事前に完成されたネタを一方的に見せるのではなく、相手の返答によって話が思わぬ方向へ進むこと自体が番組の中心になりました。
『さんまのまんま』は2026年にも特番が放送され、2026年7月17日の「真夏のおしゃべり祭り」でもさんまさんがゲストを迎えています。
司会・ラジオ・舞台へ広がっても「しゃべり」が活動の中心に
その後、司会、トーク番組、ラジオ、ドラマなど活動範囲は大きく広がりました。
それでも、現在の仕事から過去を振り返ると、突然テレビ司会者になったわけではありません。
親戚の前でものまねをした小学生、高校文化祭で2時間しゃべった17歳、喫茶店の閉店時刻に客を残した19歳、花月の楽屋で芸人仲間としゃべり続けた若手時代が、その前にあります。
70代の現在も続くテレビとラジオ|若手時代から変わらない現在地
1955年生まれのさんまさんは70代に入った現在も、テレビとラジオで活動を続けています。
現在の番組を並べるより興味深いのは、若手時代に見つけた仕事の形が、何十年後にも残っていることです。
現在も続く『MBSヤングタウン』、若手時代からつながるラジオ
1978年から縁が続く『MBSヤングタウン』では、2026年8月現在も土曜日のパーソナリティーを務めています。
MBSラジオの公式ページには明石家さんまさん、村上ショージさんらが現在の出演者として掲載され、土曜夜の放送が続いています。
2026年には番組内で小学校へ鹿が入ってきた話や、19歳の喫茶店アルバイトなど、半世紀以上前の出来事も本人の口から新たに語られています。
若手だった1970年代に力を発揮したラジオのフリートークを、今も同じMBSで続けています。
テレビのトーク番組と『さんまのまんま』で続く活動
テレビでも『踊る!さんま御殿!!』や『さんまのお笑い向上委員会』など、出演者とのやり取りそのものが番組を動かす仕事が続いています。
2026年7月には『さんまのまんま 真夏のおしゃべり祭り』が放送され、スポーツ選手、俳優、作家、芸人とジャンルの異なるゲストを迎えました。
高校教師の一言をきっかけに芸人を意識し、松之助さんの門をたたいたのは18歳のころでした。
その前には奈良で親戚や友人を笑わせていた杉本高文少年がおり、その後には東京・小岩の喫茶店、花月の楽屋、小林繁さんの形態模写、ラジオ、そして『ひょうきん族』があります。
落語家として始まった青年がさまざまな場所で「しゃべる」経験を重ね、その仕事を70代になった現在まで続けています。




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